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スピリチュアルカウンセラーが死んだ

ひとりの心霊スピリチュアルカウンセラーが亡くなった。
どうも自死したらしい。

友人の紹介で知り合って一度ネットラジオの配信に一緒に出ただけで、
Facebookでは繋がっていても、直接のやりとりはしていなかったぐらいの浅い関係。
霊感持ちでスピリチュアルな知識も多く占いもしてて、友人やファンが沢山いて、
テレビ出演、雑誌取材、イベントなどでいつも飛び回っては、
弾けるような明るさを周囲にまき散らしてた。
特異体質を周囲に理解されず孤独だった幼少期の経験をバネに、人の心に寄り添い、
癒しと導きを与える仕事をしていた人だった。

「自分の使命をはっきりと自覚して、神に守護されながら活躍できるなんて、
 凄いなぁ、ちょっと羨ましいかも」
なんて思いながら、時々流れてくるタイムラインを見ていた。

ただ少々気になったのは、ずっと不運が続いていた事。

出かけると頻繁に財布を落とす。スマホを壊す。
海外に行けば、その人だけ荷物が行方不明。
相手が100%悪い事故に遭い後遺症が長引く。
トラブルになっても弁護士が仕事しない。
好きな人に裏切られる。
家族の仲が悪い。 等々・・・

ピンクムーンの浄化のエネルギーとか、一粒万倍日とか、天赦日とか、
星の巡りによる運気の流れとか、光の天使からのメッセージとかの
優しく美しい文章の合間合間に、パーティで交流した有名人の話題、
素敵な仲間たちとのキラキラした毎日の写真。
それと共に、上記の失敗談や弱音も混じってて、
それがまた親しみが持てるという人もいるんだろうと思っていたのだけれど、
今になって思えば、いつも人を慰め相談に乗ってあげる立場だっただけに、
本音で助けを求められる人はいなかったのかも知れない。

とても残念なことだけれども、私は深い付き合いがなかったからか、
悲しみよりも怒りが強い。

何やってんだ!  と思うよ。

霊感あるなら引っ張られるなよ!
スピリチュアルを信じてるならなぜ闇に呑まれる?
神は? 天使は? 光は? ハイヤーセルフは? 精霊は?
そんなもの何の役にも立たないって自分で証明してどうするんだ?!

ファンやお友達は優しい人ばかりなので、「あっちでまた会おうね」とか
コメント残しているけれど、会えるわけないよって私は思ってる。言わないけど。
現実はおとぎ話じゃないんだから。

霊もあの世も前世も来世も信じていない私は、
ますますスピリチュアル界隈への嫌悪感を募らせるのであった。

AIと戯れる

今日は一日中、AIで遊んだ。

AIお絵描き、AI作曲、AIチャット。

課金は、去年1ヶ月だけMed journeyを使い倒したけどすぐ飽きて解約して、今は無料の物のみと決めている。
それでも動画背景に使えるくらいのクオリティは出来るので、ついでに写真素材サイトの契約も辞めたくらい。
本当に良い時代だ。

しかし、作曲はまだ全然使えない。
似たようなパターン、似たようなビートで、どこにテキストイメージが反映されているのか全くわからない。
だがこれもこれから進化して使えるようになるのだろう。
人の心を揺さぶる曲になるかは、打ち込む人のセンスによるかな?
だいたい作曲という作業自体、持ってるカードをどうアレンジするか組み合わせるかなので。

そして、chatGPT。
翻訳や要約は文句なしだけど、小説書くのはやはり人間の仕事。

今日はちょっと遊んで、カウンセリングをしてもらった。
「私に自信をつけさせて」と。
そのためのアドバイスは、さすがに理路整然として的確に見えるのだが、そこでムクムクと天邪鬼的な性格が顔を出してしまうのが私。
あーでもないこーでもないと難癖をつけてみる。
1秒もしないうちに返事が来て、こちらはさらにそんなのダメだと打ち込む。
結果、こちらの質問はネガティブな言葉のオンパレードとなって来るのだが、そうすると、AIが元気付ける言葉を吐き出せば吐き出すほど、腹立たしくなり気分が悪くなるという事が起こった。
心のない物とは会話はできないんだなぁと、つくづく感じた。
そして人間の心は外から与えられる言葉ではなく、自分が表現する言葉が一番影響するのだとも。
面白い感触だった。

AIとは今後もいろいろ使えそうだ。

アポトーシス

子供達がいなくなって夫婦二人だけの生活の中で、あうんの呼吸のように会話に織り交ぜられる一つの意識がある。
それは「死」に臨んでいるという事。
別に重い病気で余命宣告をされたわけではないが、残り時間はどうしても考える。
私たちの人生は季節に例えれば、もう晩秋。
これから先、今より若くなったり元気になったり、バリバリと新しいチャレンジをしながら未来を描くなんて事はない。
驚くほど体力は落ちてるし、夜目はきかない、ちょっと無理をすると何日も後を引く。
自由に動けるのはあと10年だろうか20年は行かないだろうかなどと考えながら、
思い残すことのないようにやりたいことはやり尽くし、残る人たちが困らないように始末も考えなければと思う。
不思議な事に、死に対しての恐怖はなかったりする。
昔知っていたご老人は、知人たちが次々召されていくのを見て怖れて念仏や写経を一所懸命にしていたので、
私も年をとったら自然とそうなるのかと思っていたが、今になってもそんな気持ちは一切湧いてこない。
死後の世界での裁きなんてものを信じていないからだろうか。
怖れても抵抗しても何の意味もない。
楽しく生きられるはずの今を負の感情で無駄にするのがむしろ勿体ないと感じる。
神も仏もあの世も、生きている人間が作った概念であり実在しないのだから。
私の家には仏壇も神棚もあり、神社仏閣に行くのは好きで、お札も祀っている。
しかしそれは自分の内面と対話するためのものであり、自分の心を映す鏡としてのものだ。
不思議な事に、これまで宗教観をあれこれ話し合う事はなかった夫と、
先日そういう話をしてみたら、結局二人ともが同じ考えに至っていたというのが何か面白い。
とは言え、いざ病院のベッドでただ弱っていくのを待つだけになったら、
そうそう穏やかな気持ちではいられなくなるのかもしれないけれど。
どんな死に方でも、この美しい世界に感謝して旅立っていければ人生が丸ごと幸せだったって事だろう。

若さに妬く

「若い」とは年齢ではない。
「大人」も年齢ではない。
それはわかっているはずなのに、どこか心の中に変な判断基準があったりする。
「いい歳をして」と。
まあ流石に口に出す事はしないが、
他人のやる事やあり方に、痛々しいなんて感じてしまうのは
大きなお世話だろうか。

例えば、知り合いに40代50代のカップルがいる。
その人たちが長年付き合って半同棲しているにも関わらず結婚しない事に
モヤモヤとした苛立ちを感じてしまう。
二人とも、非正規雇用の職を転々としていたり、仕事より趣味を優先していたりで、
もちろんお金はない。
困った時には親に借金。
そのまま有耶無耶になる事も多いのか、親は二人の付き合いに渋い顔。
家に入り浸るのを嫌うので、肩身が狭いなんて愚痴を言う。
料理とかしない。ほとんど外食。時々総菜やレトルト。
お風呂は銭湯。
年齢的に当然もう子供は持てない。

だが本人たちはいたって幸せで、毎日楽しそうにしている。
時間が取れれば近場の名所に出かけたり、
興味のある個展やコンサートをめぐっては、面白い写真をインスタにアップ。


そんな彼らを見るにつけ、将来どうするの?
とこれまた余計な心配をしてしまう。

それは、もし自分だったら耐えられないから。
20代前半であれば、何の問題もない幸福の真っ只中と感じるだろう。
しかし私はそんな時期でも、人生設計みたいなものを持っていて、
「こうあるべき」というものがあった気がする。

定職に就き安定した収入を得て、先のために貯めておきたかった。
20代で結婚し、30までに最初の子を産まないと機能は衰えるし、体力も持たない。
子育ての環境を考え郊外に家を持ち、
地域コミュニティやPTA活動を通じて社会的な基盤を作るのも当然と思っていた。

その通りの生き方をして今があり、これで良かったと思っている。
だからといって、そうでない人に対して否定的になる必要はないはずなのに、
余計な事を言いたくて仕方なくなるのはなぜなんだろう?
相談されたわけでもないのに。

永遠に20代でいられるのなら、私だっていろんなしがらみなしに楽な仕事だけして、
結婚せずにずっと恋人気分で、何かの役目も担わずに、
面白おかしく、その日暮らししたいよ!
というヤッカミなのかな。

自分基準で常識をあてはめてはいけないけれど、
もしこれが私の子供だったら、今の快楽だけじゃなく、
これから先のより良い幸せの形を作って行け!って叱り飛ばすだろう。絶対。

もしかして、この腹立ちみたいなものは、本人たちにではなく、
その親に対して感じているのだろうか。

動けないでいる

現在私は、親に虐待されている子供の命を救う活動に、ほんの少しばかり関わらせてもらっている。
といっても、本当に端っこの方でほんの少しだけ。
このブログを頻繁に書いていた頃には、いずれ自身の経験を生かして積極的にそういった活動に加わりたいという意思があったが、現在は遠ざかっているというか、むしろ避けているぐらいかもしれない。
きっかけは、毒親の元で苦しんで育った人と、保護された施設で虐待を受けた人の諍いを目にしたため。
どちらも辛かった。
そしてどちらも今も辛い。
「あなたの方がまし」なんて比べる事などできないはずだけど、そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。
だって、振り返ると私もそうだったからと。
両親そろってて裕福な家庭で衣食住に困らず生活環境学習環境整っている中で育っていながら、親にすべて支配されていた事の辛さを訴えていた人に、「贅沢な悩みだ」と思っていたわけで。
人は、不幸なら不幸なりに優越に浸りたいものなのかも知れないね。
そして、そうやって考えると、まあこのブログでも好き勝手な事を書いて来たけれど、たまたま通りすがりに目にした人を傷つける事は多々あったと思う。
直接コメントやメールをくれた人には対応したけれど、黙って泣いてた人もいるかも知れない。

そして今、現実的に何かできる立場にはなれたわけだけど、10年前だったらやったであろう事が今はできないでいる。
私が動くと誰かを傷つけそうな気がして。
正直に言うと、今、私は幸せではあるけれど、それは自分が幸せである選択をし続けている結果で、美しいものを見て心地良い事だけをしているからこそそれは成り立つのであって、残酷な現実を直視し、悲痛な叫びを聞き、泥水に飛び込んで溺れている人を救おうとすると「幸せ」ではなくなってしまうというジレンマに悩んでいる。
きっと元から性格が悪いんだろうね。
自分が苦しいとすぐ、自分の苦しみをわかれ!って思考になりがち。
もう長年付き合ってきたから、自分の性格だいたいわかる。
隠したって辛さ倍増するだけだし、言動の端々にそれは漏れるでしょう。

てわけで、今、私は動けないでいる。
いずれ時が来たらこれも動き出すかもしれないけれど、気長に待つよ。

少しでも誰かを救えればと使命感に駆られて動いている人は、本当に尊敬する。

過去の幸せ

過去を思い出しては辛くなる。
以前は辛い過去を思い出しては辛くなっていたが、
今は幸せだった過去を思い出して辛くなっている。
共通しているのは
「なぜ?どうして?」というところ。
過ぎていった悲しみを喜べず、
持っていた大好きだった人との
楽しかった時間も喜べず。
「あの頃は幸せだったなぁ」なんてことばかり。
それじゃ今が幸せではないのかと言うと、そんなことはない。
自分の選択の実りを受け取っているのだから。
いったいどうであれば私は満足なのか?

暇なんだな、きっと。(笑)

やった方がいいことリスト

幸せになるとか成長するとかは、
すごく頑張って何かを成し遂げないといけないものではなくて、
日々の小さな積み重ね。
何か物足りない気がするのなら、やってないことがあるからじゃないかな?と思う。
なので、取りあえず「やった方がいいことリスト」を作ってみよう。
やらなくちゃならないことリストじゃなくて、
あくまでも、やってもやらなくてもいいけど、
出来ればやった方がいいんじゃないかなぁーな事を
ちょっとしたものまで書き出してみる。
そして始めてみる。
一回だけ、三日坊主、一週間、もう一週間、1ヶ月、
そろそろ習慣?では、もう1ヶ月・・・
何かが変わるかもしれないよ。

貯める生き方を終わらせる

いらない物を捨てて、数少ないお気に入りのものだけで
スッキリとシンプルに暮らす。
いわゆる「断捨離」と言われるライフスタイル。

そうできればいいなと思いつつ、どこかで抵抗したい自分もいた。
ゴチャゴチャ雑然とした物たちはどれも過去の時々の思い入れと結びついていて、
たとえ今は使わなくても、失うと後で困ったり、懐かしんで寂しくなり後悔するんじゃないかという
心配があって、なかなか手放せないからだ。

買った時高かった、とか
今は縁遠くなった人から貰った物だから、とか
希少だから後でまた入手したいと思っても無理だから、とか
一時期情熱を持っていた事なのに粗末にできない、とか
本などは時間できたら読むんだから!なんて、ね。(笑)

もう過ぎ去った“あの時”こうだったからの固執、
あるかどうかわからない“いつか”への期待と言う名の不安が、
ゴチャゴチャの原因。

身の回りの状況は、本当に今の頭の中そのままの投影になっている。

片付かないから、あれもしなきゃ、これもしなきゃと思うばかりで身動きとれない。
だからいつまでたっても片付かない。
時間が出来たらやると思っていることの出来る時間は永遠に来ない。
やるなら今、やらないなら要らない物として捨てる。
当たり前の取捨選択ができないのは、結構なエネルギーのロスになっているのだった。

言うまでもないことだが、最高にパワフルに活動できるのは、
集中して物事に取り組めている時。
「あれもしなきゃな~」とよそ見していると、今という好機を逃し、何をしているかわからなくなる。

そういった意味で、過去というものは常に捨て続けなければならないものなのだろう。
・・・いや、捨てるという言い方はおかしいか。
未来から過去へと流れていく時間の中に存在する自分なのだから、
今の新鮮な流れの水を素直に100%味わう生き方をする、とそれだけでいい。
過去流れた水を一生懸命「まだ十分に味わってないから」とせき止めていたら、
今目の前にサラサラと流れている清らかな水を受ける場所すらない。
それで「また後で」ともっと大きな貯水池を作って溜めておく必要がでてくる。
常に後で味わうためのストックを作り続ける方にエネルギーは消費されて、そのうち死ぬ。
まさに骨折り損のくたびれ儲け。

そういうことをしてきたんだなと、片付かない本の山を前に笑うしかない、今、ここ。(笑)

テーマ : 断捨離
ジャンル : ライフ

夢も希望もない毎日

夢も希望も目指す方向もない。

ただ、やりたい事と
やってる事だけがある。

過去も未来もなく、今だけ。

この生き方が気に入っている。

他人の土俵で相撲を取るということ

このブログでも以前あったが、よく、他人のブログのコメントで持論を展開する人を見る。

議論好きのための問題提起的なブログというのもあるだろうから、
そういった所で
「あなたはこうこう言われるが、それは違うのではないか。その根拠は・・・」とやるのはいいとして、
だいたいはそういった場ではない所で、記事の書き手に反論して自分の優位性を示すという目的で
為されていることが多い。

どのようなバックボーンをもつとも、普段どのような考え方をしているとかも不明の
どこの誰ともつかない者が「通りすがり」とか名乗りながら、
「普通はこう考える」とか「みんなが不快に思ってる」と世の中の代弁者を気取る事が多い。

あるいは、自分のほうが知識があるとか経験があるとか、何の根拠にもならない御託で着飾っては
とうとうと反論を述べ立てたりもする。

意見を持つのはいい。反論を述べるのもいい。
だが、それは他人のスペースに邪魔してやることではない。
もしやるとするなら、「違う意見を持つので読んで欲しい」と、
自分の立場考え方を明らかにした場所に該当記事を書き、リンクを貼るのが筋ってものではないだろうか。

気に食わないと思うなら読まなきゃいいだけなのに、粘着して記事をアップするごとに
「訂正しろ」「謝罪しろ」「こういったことは書くな」とやってくるのは、
脳みそも根性も腐ってるド低能であることを晒してるに過ぎず、
誰も「このコメントの人すごく賢くて正しくて清らか優しい人だ!」
なーんて思ってくれる人はいないのだが、本人だけが気づかない。

相手にされてないだけなのに、「論破!正義は勝つ!」とドヤ顔で鼻の穴を膨らますイタイ奴。
で、だいたい、言い負かすことができそうな真面目て優しげな人とか、
正義感強い女性とか、個人的な悩みを書いている若者とか、そういった相手を狙う。
これで「世直し」を気取るんだから、笑わせる。

他にやることはいくらでもあるだろうが、自分のストレス発散が第一で何も見えないのが、
ド低能がド低能である所以。

という目で、あちこちの炎上ブログを見て回ると面白いよ。 というお話でした。(笑)

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

プロフィール

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Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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