沖縄WS最終日
沖縄WSの最終日は、予想していた通りというかそれ以上に駆け足で時間が流れて行った。
さっき始まったばかりと思ったら、あっという間に身体塾が終わり、質問が休憩時間に半分食い込み、表現塾はもっと加速。
何かが出来るようになるわけではないとわかってはいるけど、少しぐらいは進歩できるんじゃないかという期待はいつもあっさりと裏切られる。クー・・・。
最終日の身体塾は、人の身体の不思議あれこれを実感して驚きの声があちこちから上がった。
筋肉を使って力で動かそうとすると、抵抗がかかるし衝突を生む。
力めば自分も痛いし疲れるし、相手も力ませ「なにくそ」と感情を刺激する事もある。
しかし、身体の自然の流れに任せれば、何も力を入れずどこも無理をせずに大きな力が出る。
「ねじれ」を力を抜いて戻すだけで。
そこには作為的なものは一切ないので、相手は動かされながらも「えっ?」とあっけにとられる。
「今、何が起こったの?」と呆然とし、見事な手品で騙された時のように、「うわー、やられたー。面白い〜」と喜びさえ湧いて来る。
タネもシカケもあるのだけれど、それはなぜかはわからない。
ただ、そういうふうにできている。
人の身体はほんの少しの微細な変化も見事にキャッチし、反応する。
身体は天才。だけど頭は馬鹿なので何も感じない。
ここの差はあまりにも大きい。
馬鹿な頭は賢ぶり「わからないこと」を一所懸命考える。理屈を探す。答えを求める。
「なぜか」「なぜか」「なぜか」
一生やっとけや。ということになる。
「そういうふうにできている」ものをいかに多く見つけるかが、自分をより深く知ること。
すでにあるものを受け入れて「それならどうする?」を考える人だけが、自分の取り扱い方法を獲得して行けるのだ。
「なぜか」を考える頭人間は多い。
自分なりに組み立てた理論に身体を当てはめるような動きをやって、本来の稽古の意味から外れてしまう人もいる。
「これはこうなるべきだ!」という頑なさもまた、自覚なくやる癖のうち。
そういう人を見るたびに、「こんな所にも私がいる」と可笑しくなる。
自然な身体の反応が許せなくて、動きに抵抗を試みる人もいる。
踏ん張って絶対に動くまいとする、又は、相手を動かすまいと力を込める。
そんなことをやっているのではないという事がわからない。
「絶対に頑張ったらダメや。踏ん張ったらあかん」先生は言われる。
「それは、死にます」
動きを止めようと力んだ身体はもう動けない。
容易く屠られ、息の根を止められる。
先生から指摘を受ける人を見て、私の胸がズキズキ痛い。
「あー、私もやりましたぁ」
はい、頑張っちゃう人です。自我の塊です。すぐ殺されます。
強い力は実は弱く、相手に従う無力さこそが強いというパラドックス。
だから武道は面白い。だから、人間は面白い。
そして、表現塾の方でも、私を発見。
正面を合わせて「どうぞ〜」の誘導をやっていた時。
直前まで向かい合って「なまむぎ」の様々なパターンをやった人と組んで、なんとなくはできているような感じにはなっていたのだが、シビアに言えば違うというのを感じてきていた。
先生が何度も「ガッチリ合わせなければいけない」「ほんの微細な動きでも崩れる」と強調されているほどに、本当に合っているのかといえば決してそうではないのには気付いてる。
このままなごやかな雰囲気を保てば互いに気持良いし、楽。
しかし、それは本当ではない。
自分と相手を大事にしているか?
我々の時間とお金とチャンスは、ぬるい心地よさと引き換えになどできないものだ。
感じたこと、気づいた事を口にするようになると、相手は困惑し次第に表情を曇らせていく。
私も何がマズい、どこをどうしたらとかの指摘が的を射てるとは言えなくて、ただ、違うのだけは感じているという状態だから、工夫がすべてから回り。
努力してもうまくいかない状態は辛い。
周囲は皆できていて楽しく笑い合っているというのに。
ついにペアの彼女の口からこんな言葉が出た。
「私が何をやっても受け止めてもらえてない、拒絶されているような感じを受けます」
彼女の気持ちはとてもよくわかった。
それは時々私が感じてしまうことだから。
他の優しい人と組めばきっと上手くいくはずなのに、この相手だから出来なくされているという苛立ち。
何を求めているかがあいまいだと湧いて来る思いなのかもしれない。
この場で成功したいのか、本当に出来る自分になりたいのか。
出来る事を出来る範囲内で無理なくやっていたのでは稽古にならない。
限界を超え、出来ない事をやろうとするから進歩がある。
試行錯誤をすることがないのなら、それは何もやってはいないのだ。
今回は曖昧で態度を決め切れなかった私が悪い。
けれど、お陰で私の表にはっきり出てきていなかった思い違いと歪みに気付くことができた。
他人というのはどんなときでも、鏡であり、最高の師としてそこにいてくれる。
ありがとうございます。
先生、一緒に稽古した皆さん、充実した三日間をどうもありがとうございました。
次に来る時には、もっと肩と目の力を抜いて(笑)、もっとエネルギッシュになって来ますね。
沖縄、大好き!
みんな、最高!!
お元気で。
また会いましょう!!!

さっき始まったばかりと思ったら、あっという間に身体塾が終わり、質問が休憩時間に半分食い込み、表現塾はもっと加速。
何かが出来るようになるわけではないとわかってはいるけど、少しぐらいは進歩できるんじゃないかという期待はいつもあっさりと裏切られる。クー・・・。
最終日の身体塾は、人の身体の不思議あれこれを実感して驚きの声があちこちから上がった。
筋肉を使って力で動かそうとすると、抵抗がかかるし衝突を生む。
力めば自分も痛いし疲れるし、相手も力ませ「なにくそ」と感情を刺激する事もある。
しかし、身体の自然の流れに任せれば、何も力を入れずどこも無理をせずに大きな力が出る。
「ねじれ」を力を抜いて戻すだけで。
そこには作為的なものは一切ないので、相手は動かされながらも「えっ?」とあっけにとられる。
「今、何が起こったの?」と呆然とし、見事な手品で騙された時のように、「うわー、やられたー。面白い〜」と喜びさえ湧いて来る。
タネもシカケもあるのだけれど、それはなぜかはわからない。
ただ、そういうふうにできている。
人の身体はほんの少しの微細な変化も見事にキャッチし、反応する。
身体は天才。だけど頭は馬鹿なので何も感じない。
ここの差はあまりにも大きい。
馬鹿な頭は賢ぶり「わからないこと」を一所懸命考える。理屈を探す。答えを求める。
「なぜか」「なぜか」「なぜか」
一生やっとけや。ということになる。
「そういうふうにできている」ものをいかに多く見つけるかが、自分をより深く知ること。
すでにあるものを受け入れて「それならどうする?」を考える人だけが、自分の取り扱い方法を獲得して行けるのだ。
「なぜか」を考える頭人間は多い。
自分なりに組み立てた理論に身体を当てはめるような動きをやって、本来の稽古の意味から外れてしまう人もいる。
「これはこうなるべきだ!」という頑なさもまた、自覚なくやる癖のうち。
そういう人を見るたびに、「こんな所にも私がいる」と可笑しくなる。
自然な身体の反応が許せなくて、動きに抵抗を試みる人もいる。
踏ん張って絶対に動くまいとする、又は、相手を動かすまいと力を込める。
そんなことをやっているのではないという事がわからない。
「絶対に頑張ったらダメや。踏ん張ったらあかん」先生は言われる。
「それは、死にます」
動きを止めようと力んだ身体はもう動けない。
容易く屠られ、息の根を止められる。
先生から指摘を受ける人を見て、私の胸がズキズキ痛い。
「あー、私もやりましたぁ」
はい、頑張っちゃう人です。自我の塊です。すぐ殺されます。
強い力は実は弱く、相手に従う無力さこそが強いというパラドックス。
だから武道は面白い。だから、人間は面白い。
そして、表現塾の方でも、私を発見。
正面を合わせて「どうぞ〜」の誘導をやっていた時。
直前まで向かい合って「なまむぎ」の様々なパターンをやった人と組んで、なんとなくはできているような感じにはなっていたのだが、シビアに言えば違うというのを感じてきていた。
先生が何度も「ガッチリ合わせなければいけない」「ほんの微細な動きでも崩れる」と強調されているほどに、本当に合っているのかといえば決してそうではないのには気付いてる。
このままなごやかな雰囲気を保てば互いに気持良いし、楽。
しかし、それは本当ではない。
自分と相手を大事にしているか?
我々の時間とお金とチャンスは、ぬるい心地よさと引き換えになどできないものだ。
感じたこと、気づいた事を口にするようになると、相手は困惑し次第に表情を曇らせていく。
私も何がマズい、どこをどうしたらとかの指摘が的を射てるとは言えなくて、ただ、違うのだけは感じているという状態だから、工夫がすべてから回り。
努力してもうまくいかない状態は辛い。
周囲は皆できていて楽しく笑い合っているというのに。
ついにペアの彼女の口からこんな言葉が出た。
「私が何をやっても受け止めてもらえてない、拒絶されているような感じを受けます」
彼女の気持ちはとてもよくわかった。
それは時々私が感じてしまうことだから。
他の優しい人と組めばきっと上手くいくはずなのに、この相手だから出来なくされているという苛立ち。
何を求めているかがあいまいだと湧いて来る思いなのかもしれない。
この場で成功したいのか、本当に出来る自分になりたいのか。
出来る事を出来る範囲内で無理なくやっていたのでは稽古にならない。
限界を超え、出来ない事をやろうとするから進歩がある。
試行錯誤をすることがないのなら、それは何もやってはいないのだ。
今回は曖昧で態度を決め切れなかった私が悪い。
けれど、お陰で私の表にはっきり出てきていなかった思い違いと歪みに気付くことができた。
他人というのはどんなときでも、鏡であり、最高の師としてそこにいてくれる。
ありがとうございます。
先生、一緒に稽古した皆さん、充実した三日間をどうもありがとうございました。
次に来る時には、もっと肩と目の力を抜いて(笑)、もっとエネルギッシュになって来ますね。
沖縄、大好き!
みんな、最高!!
お元気で。
また会いましょう!!!

沖縄2日目
2日目身体塾は、昨日組んだ人の後輩の方と組んだ。
やはり同じ仕事をされていて、「こうしますよ」「ここの力を抜いてください」という言葉が身についているので、「なんだか頼れる〜」という印象を受ける。
腕ふり運動の応用から、ねじれ、ねじれを逃がす、全身のねじれ等をやった。
身体に興味がある人はいろいろと工夫をする。
うまくいかない理由を考え、どうやったらと自分で試し、相手への力の伝わり方を確認し、同じ方法で逆の立場をとってみることによって検証する。
人へのアドバイスは、実は自分の動きを分析しているのと同じだから、自分が「こうしたら上手くいった」と思っている事が通用しない時は、何かが間違っていると気づける。
もしかしたら、上手くいっていないのかもしれない。
もしかしたら、注意して変えてみた部分ではない所が鍵かもしれない。
やっていると、自分が常日頃いかに自分の身体に無自覚であるかを思い知る。
それを自覚させてくれる他人の有り難さ。
表現塾では、「こんにちは」から「なまむぎ」へ。
大きな声を出せばいいわけではないが、とにかくテンションを上げるため、大声を張り上げ、オーバーアクションを心がけた。
初めて見て「ええっ、そんなにも?」と引いたり笑ったりしていた人も、やってるうちに「楽しくなってきた」と表情がどんどん明るくなってくる。
「もう、これ以上の声は出ない」はずだった人がいつの間にか、「あれ?出るね」
休憩を挟んで、次に組んだ人はまた前のメンバーとは違う人で、私が調子に乗って大声を出していると今度は怖がられてしまった。
「目が怖いです」「大声が怖いです」
目は日野先生からもよく注意をされる。それこそ無自覚に力の入ってしまう場所。
人の嫌がる事をしながら「私の声を聞け!」もないもんだ。
目をあまり見開かないように、声も抑え目にして、それでエネルギーだけ届けるにはどうしたらいいか。
これもまた工夫。
相手の方は、声が小さくて表情も硬いのだけれど、切実な真剣さをまっすぐ向けてくる人。
怖くない目にするにはと私が悩んでいると、「ちょっと目をつぶってやってみてくれませんか」と言われ、その通りにしてみる。
相手の目を見ないと、どこに向けているのかわからなくて私は不安でまったく自信はないのだけれど、それでも強いものは伝わってくると言われるので、しばらく続ける。
あちらからの「こんにちは」には、声をすべて包み込んで全身で受け止める気持ちを表しながら。
そのうち彼女の顔が柔らかくなり、笑顔がこぼれだした。
「なんだか、楽しくなってきました」
その顔を見て「私も楽しいです」
そして「目をあけて言ってみてもいいですよ」と言われ、そうしてみると、「この目は怖くないです」。
先ほどの力を抜いてやってみて駄目だった目と今の目と、どう違うのか私にはわからない。
だけど、「今は柔らかい目です」と言われる。
私からすると、表情が柔らかくなったのはあちらだと思うのだけれど。
正面を合わせるうちに、互いにほぐれて、互いに柔らかく、互いに楽しくなったのかなと笑いあう。
嬉しくてくすぐったい気分。
正面合わせての「どうぞ〜」も、引き続きその彼女との稽古。
「ホンマかいな」と思うぐらい、スムーズにできる。
それを見ていた周囲の人が「お願いします」と次々にやってきては試してみる。
先ほど「なまむぎ」の応酬をやった人たちからは「ぽあんさんにパワーをもらいましたよ」と言ってもらうしで、「こちらこそ、こんな中途半端な私に対してそんなにも素直に受け止めてもらって」と、どうしていいのかわからなくなる。
純粋な心の人たちが私に教えてくれた事は今ここには書かないのだけれど、沖縄に来て良かった。
この人たちと接する事ができて良かったと思う。
沖縄ワークショップもあと一日。
きっといつものように、あっという間に終わるだろうと私は知っている。
どれだけ濃密な時間にするかが勝負。
よろしくお願いします!
やはり同じ仕事をされていて、「こうしますよ」「ここの力を抜いてください」という言葉が身についているので、「なんだか頼れる〜」という印象を受ける。
腕ふり運動の応用から、ねじれ、ねじれを逃がす、全身のねじれ等をやった。
身体に興味がある人はいろいろと工夫をする。
うまくいかない理由を考え、どうやったらと自分で試し、相手への力の伝わり方を確認し、同じ方法で逆の立場をとってみることによって検証する。
人へのアドバイスは、実は自分の動きを分析しているのと同じだから、自分が「こうしたら上手くいった」と思っている事が通用しない時は、何かが間違っていると気づける。
もしかしたら、上手くいっていないのかもしれない。
もしかしたら、注意して変えてみた部分ではない所が鍵かもしれない。
やっていると、自分が常日頃いかに自分の身体に無自覚であるかを思い知る。
それを自覚させてくれる他人の有り難さ。
表現塾では、「こんにちは」から「なまむぎ」へ。
大きな声を出せばいいわけではないが、とにかくテンションを上げるため、大声を張り上げ、オーバーアクションを心がけた。
初めて見て「ええっ、そんなにも?」と引いたり笑ったりしていた人も、やってるうちに「楽しくなってきた」と表情がどんどん明るくなってくる。
「もう、これ以上の声は出ない」はずだった人がいつの間にか、「あれ?出るね」
休憩を挟んで、次に組んだ人はまた前のメンバーとは違う人で、私が調子に乗って大声を出していると今度は怖がられてしまった。
「目が怖いです」「大声が怖いです」
目は日野先生からもよく注意をされる。それこそ無自覚に力の入ってしまう場所。
人の嫌がる事をしながら「私の声を聞け!」もないもんだ。
目をあまり見開かないように、声も抑え目にして、それでエネルギーだけ届けるにはどうしたらいいか。
これもまた工夫。
相手の方は、声が小さくて表情も硬いのだけれど、切実な真剣さをまっすぐ向けてくる人。
怖くない目にするにはと私が悩んでいると、「ちょっと目をつぶってやってみてくれませんか」と言われ、その通りにしてみる。
相手の目を見ないと、どこに向けているのかわからなくて私は不安でまったく自信はないのだけれど、それでも強いものは伝わってくると言われるので、しばらく続ける。
あちらからの「こんにちは」には、声をすべて包み込んで全身で受け止める気持ちを表しながら。
そのうち彼女の顔が柔らかくなり、笑顔がこぼれだした。
「なんだか、楽しくなってきました」
その顔を見て「私も楽しいです」
そして「目をあけて言ってみてもいいですよ」と言われ、そうしてみると、「この目は怖くないです」。
先ほどの力を抜いてやってみて駄目だった目と今の目と、どう違うのか私にはわからない。
だけど、「今は柔らかい目です」と言われる。
私からすると、表情が柔らかくなったのはあちらだと思うのだけれど。
正面を合わせるうちに、互いにほぐれて、互いに柔らかく、互いに楽しくなったのかなと笑いあう。
嬉しくてくすぐったい気分。
正面合わせての「どうぞ〜」も、引き続きその彼女との稽古。
「ホンマかいな」と思うぐらい、スムーズにできる。
それを見ていた周囲の人が「お願いします」と次々にやってきては試してみる。
先ほど「なまむぎ」の応酬をやった人たちからは「ぽあんさんにパワーをもらいましたよ」と言ってもらうしで、「こちらこそ、こんな中途半端な私に対してそんなにも素直に受け止めてもらって」と、どうしていいのかわからなくなる。
純粋な心の人たちが私に教えてくれた事は今ここには書かないのだけれど、沖縄に来て良かった。
この人たちと接する事ができて良かったと思う。
沖縄ワークショップもあと一日。
きっといつものように、あっという間に終わるだろうと私は知っている。
どれだけ濃密な時間にするかが勝負。
よろしくお願いします!
沖縄初日
19日、キジムナーフェスタ開幕。
身体塾は13:00から。
会場のコザ運動公園までは私のホテルから少し歩くようなので1時間前に出発。
暑い。が、日中の温度は広島とあまり変わらないように感じる。
いつも強い風が吹いているので、かえって気持ちがいいぐらいだ。
・・・・・・・・と思ったのは最初だけ。
地図で見るのより運動公園ははるかに遠く、沖縄の日差しはあまりにも強かった。
武道館に着くころには、真っ赤っかの塩茹でタコの一丁上がり。
早く日野先生に挨拶に行きたいのに、汗がひかなくて参った。
初日の身体塾の参加者は80数人。
午前からのバレエワークショップから続けて受講する人も多いらしい。
また、当日かけこみでの参加者も10人ぐらい。
一般の人で何も知らなくても、とにかく「身体の動かし方を教えてくれる」というので興味を持って来たという話をされてる方がちらほら。
うん、確かにここでは「身体の動かし方」をやる。
だけどそれは普通に言われるところの体操とかテクニックとかではないんだよなぁ、と、ニカニカしてしまう。
初参加の人が自分が自分で思うような動き方ができていないという事を知った時の驚きを思うと、つい。
はたしてワークショップは、日野先生の「どうして身体は動く?」という問いかけから始まった。
日野身体理論の基本は姿勢。
まずは、背骨を伸ばす胸骨の引き上げから入る。
ペアを組み、片方に胃の後ろあたりからグーっと持ち上げてもらうと感覚がつかめる。
私は組んだ人が100キロ以上の人だったので、ちょっと無理がある(笑)。
そして、その背中に手を当てたままで歩くということをやった。
触れて歩く。
ただそれだけのことでも、触れられてる人には、その手の相手が自分を感じてくれているか、余所見をして自分勝手にしているかがはっきり伝わってしまうという実験。
私の組んだ人は大男ではあるけれど、人に触れる仕事をされているだけあって手はとても繊細で、緊張している部分をすぐ見つけてくれる。
こういう駄目出しをしてくれる人と組むと、「じゃあこうしてみようか、いや違った、こうか?」といろいろ工夫ができるので面白い。
ただ、行き過ぎると、とんでもない方向にそれて、ほかの人とぜんぜん違う事をやってしまっていたなんて事にもなりかねないので、気をつけなければならないのだけれど。(今までの経験上)
その後、いつもの腕ふり運動。
運動自体はこれまでと同じ動きだけれど、その時々において、先生の細かな指示に違いがあるのがこの運動の特徴。
いや、運動に限らず、すべてその時の相手に合わせて変えていくからそうなのだろうが。
関係は生き物で常に変化しており、こうしてただ皆で腕を振っている時でも関係をし続けているのだから。
先生からの指示の差は、「ここを感じて」「こんなイメージで」といった小さな所なのだが、何度かやっている私にはその都度新たな発見があり、また混乱もする。
休憩時間にその点について、和子先生に質問してみた。
「以前はこう言われていたのに、今回言われた事と矛盾するんじゃないですか」
「それは工夫せんとな。どうやったらそれができるようになるのか」
とにかく数をこなすしかないということだ。
やってやってやり続けたら、「あっ」とわかる時がくる。
先生方は、この腕ふり体操を徹底して4年間やり続けたそうだ。
先生方の「やる」は半端じゃないわけで、ぬるい私には20年30年してもたどり着けない所だろうと思う。
「腕ふりだけで一生仕事ですね・・・」と遠い目になってしまった私に和子先生は、
「この体操は奥が深いで」と、目をキラキラさせて言われる。
「これには大切なものが全部入っていると言ってもいいかもしれない。これさえできたら、あと、全部わかる」
ええええええ!!!!そんなにスゴイの?
そう聞いて「よーし、頑張るぞ!」とがぜんやる気になる私。
「意味があるからやる」という所からいまだ抜けられず。(自爆)
一時間休憩をはさんで、16:00から表現塾。
こちらでは人との関係性がより重視される内容となっている。
まず、相手に従うという事から入る。
腕を持って引く。それに従う。ほんの少しの抵抗も違和感もあってはいけない。
「難しい」「できない」という声があちこちから上がる。
「当たり前や。難しい事をやってんのや。そんなんできるか。できんで当然や」と、これもまたいつものように先生は言われる。
すると、ちょっと今までに無い反応をする人がいた。
「あ、そうか。これはできないってことがわかればいいんですね。うん。だったらそれはもうわかりました」
と終わってしまう人。
「は?」 だ。
いや、やってもできないんだけどさ、少しでもできるように稽古しようや。
というか、私はしたいんだけど、それは無視?
そうかと思うと、軽々とできてしまう人もいる。
「できてる」「わー本当だ」「一体感がある」「軽〜い」
本当にそうかなぁ?
さてさて、いよいよ正面向かい合い。
「正面が合ったら、センターのラインに何か感じるから」
という先生からの指示だけで、まずやってみる。
またしても「わかる」「わからない」「そうです」「ちがいます」がすぐ始まる。
あれ?と、私は奇妙な感じがした。
人と正面が合った時のセンターの感覚、これって、皆、初めてじゃないのかな?と思ったのだ。
「うわ〜〜〜、なにこれ!」「ええっ、本当?」との驚きが聞こえてこない。
「ふんふん」「こんな感じか」と、淡々としてるというか。
淡々としているわりに、疲れてしまうという人もいる。
「やろう」と声をかけても、「今は無理。休ませて」と。
面白くて「もっと、もっと」とならない人もいるのだなと、それもまた新しい発見ではあるのだけれど。
沖縄の人には強かで逞しくて生命力にあふれたラテンのイメージも持っていたのだけれど、どうもテンションが低いような気がする。
きっと内に秘めた情熱はものすごいのだろうけれど、それがバーンと外に出てきてないような。
10人が輪になって、次々に正面をあわせていくのをやった時、私は全員からOKをもらった。
皆が言うのには私は「目力が強い」のだそうだ。
そう言われる事は嬉しくはあるのだけれど、武禅の仲間や日野武道を続けている人が見たらどうだろうなと思うと、とても手放しで喜べない。
彼らには私がそう見えるぐらいまだわかっていないし、エネルギーを出すことに慣れていないだけなのだから。
明日の声を出す稽古では、全員が殻を破りはじけて会場がエネルギーの渦となることを期待しよう。
そして私も、もっと盛り上げなくては。
ここでの私の役割は、何だ?!
身体塾は13:00から。
会場のコザ運動公園までは私のホテルから少し歩くようなので1時間前に出発。
暑い。が、日中の温度は広島とあまり変わらないように感じる。
いつも強い風が吹いているので、かえって気持ちがいいぐらいだ。
・・・・・・・・と思ったのは最初だけ。
地図で見るのより運動公園ははるかに遠く、沖縄の日差しはあまりにも強かった。
武道館に着くころには、真っ赤っかの塩茹でタコの一丁上がり。
早く日野先生に挨拶に行きたいのに、汗がひかなくて参った。
初日の身体塾の参加者は80数人。
午前からのバレエワークショップから続けて受講する人も多いらしい。
また、当日かけこみでの参加者も10人ぐらい。
一般の人で何も知らなくても、とにかく「身体の動かし方を教えてくれる」というので興味を持って来たという話をされてる方がちらほら。
うん、確かにここでは「身体の動かし方」をやる。
だけどそれは普通に言われるところの体操とかテクニックとかではないんだよなぁ、と、ニカニカしてしまう。
初参加の人が自分が自分で思うような動き方ができていないという事を知った時の驚きを思うと、つい。
はたしてワークショップは、日野先生の「どうして身体は動く?」という問いかけから始まった。
日野身体理論の基本は姿勢。
まずは、背骨を伸ばす胸骨の引き上げから入る。
ペアを組み、片方に胃の後ろあたりからグーっと持ち上げてもらうと感覚がつかめる。
私は組んだ人が100キロ以上の人だったので、ちょっと無理がある(笑)。
そして、その背中に手を当てたままで歩くということをやった。
触れて歩く。
ただそれだけのことでも、触れられてる人には、その手の相手が自分を感じてくれているか、余所見をして自分勝手にしているかがはっきり伝わってしまうという実験。
私の組んだ人は大男ではあるけれど、人に触れる仕事をされているだけあって手はとても繊細で、緊張している部分をすぐ見つけてくれる。
こういう駄目出しをしてくれる人と組むと、「じゃあこうしてみようか、いや違った、こうか?」といろいろ工夫ができるので面白い。
ただ、行き過ぎると、とんでもない方向にそれて、ほかの人とぜんぜん違う事をやってしまっていたなんて事にもなりかねないので、気をつけなければならないのだけれど。(今までの経験上)
その後、いつもの腕ふり運動。
運動自体はこれまでと同じ動きだけれど、その時々において、先生の細かな指示に違いがあるのがこの運動の特徴。
いや、運動に限らず、すべてその時の相手に合わせて変えていくからそうなのだろうが。
関係は生き物で常に変化しており、こうしてただ皆で腕を振っている時でも関係をし続けているのだから。
先生からの指示の差は、「ここを感じて」「こんなイメージで」といった小さな所なのだが、何度かやっている私にはその都度新たな発見があり、また混乱もする。
休憩時間にその点について、和子先生に質問してみた。
「以前はこう言われていたのに、今回言われた事と矛盾するんじゃないですか」
「それは工夫せんとな。どうやったらそれができるようになるのか」
とにかく数をこなすしかないということだ。
やってやってやり続けたら、「あっ」とわかる時がくる。
先生方は、この腕ふり体操を徹底して4年間やり続けたそうだ。
先生方の「やる」は半端じゃないわけで、ぬるい私には20年30年してもたどり着けない所だろうと思う。
「腕ふりだけで一生仕事ですね・・・」と遠い目になってしまった私に和子先生は、
「この体操は奥が深いで」と、目をキラキラさせて言われる。
「これには大切なものが全部入っていると言ってもいいかもしれない。これさえできたら、あと、全部わかる」
ええええええ!!!!そんなにスゴイの?
そう聞いて「よーし、頑張るぞ!」とがぜんやる気になる私。
「意味があるからやる」という所からいまだ抜けられず。(自爆)
一時間休憩をはさんで、16:00から表現塾。
こちらでは人との関係性がより重視される内容となっている。
まず、相手に従うという事から入る。
腕を持って引く。それに従う。ほんの少しの抵抗も違和感もあってはいけない。
「難しい」「できない」という声があちこちから上がる。
「当たり前や。難しい事をやってんのや。そんなんできるか。できんで当然や」と、これもまたいつものように先生は言われる。
すると、ちょっと今までに無い反応をする人がいた。
「あ、そうか。これはできないってことがわかればいいんですね。うん。だったらそれはもうわかりました」
と終わってしまう人。
「は?」 だ。
いや、やってもできないんだけどさ、少しでもできるように稽古しようや。
というか、私はしたいんだけど、それは無視?
そうかと思うと、軽々とできてしまう人もいる。
「できてる」「わー本当だ」「一体感がある」「軽〜い」
本当にそうかなぁ?
さてさて、いよいよ正面向かい合い。
「正面が合ったら、センターのラインに何か感じるから」
という先生からの指示だけで、まずやってみる。
またしても「わかる」「わからない」「そうです」「ちがいます」がすぐ始まる。
あれ?と、私は奇妙な感じがした。
人と正面が合った時のセンターの感覚、これって、皆、初めてじゃないのかな?と思ったのだ。
「うわ〜〜〜、なにこれ!」「ええっ、本当?」との驚きが聞こえてこない。
「ふんふん」「こんな感じか」と、淡々としてるというか。
淡々としているわりに、疲れてしまうという人もいる。
「やろう」と声をかけても、「今は無理。休ませて」と。
面白くて「もっと、もっと」とならない人もいるのだなと、それもまた新しい発見ではあるのだけれど。
沖縄の人には強かで逞しくて生命力にあふれたラテンのイメージも持っていたのだけれど、どうもテンションが低いような気がする。
きっと内に秘めた情熱はものすごいのだろうけれど、それがバーンと外に出てきてないような。
10人が輪になって、次々に正面をあわせていくのをやった時、私は全員からOKをもらった。
皆が言うのには私は「目力が強い」のだそうだ。
そう言われる事は嬉しくはあるのだけれど、武禅の仲間や日野武道を続けている人が見たらどうだろうなと思うと、とても手放しで喜べない。
彼らには私がそう見えるぐらいまだわかっていないし、エネルギーを出すことに慣れていないだけなのだから。
明日の声を出す稽古では、全員が殻を破りはじけて会場がエネルギーの渦となることを期待しよう。
そして私も、もっと盛り上げなくては。
ここでの私の役割は、何だ?!
寺門孝之さんのデッサン
部屋の中の武禅
武禅での三日と私の日常は落差が大きい。
帰った数日は「よーし、頑張るぞ!」と気合が入っていても、
水が高きより低きに、行いが難きより易きに流れる世の常に違わず、
いつしか楽に楽にダラリ〜ンとゆるみっぱなしになってしまう。
別段、何をするということもないのだけれど、
いつも正面向かい合ってるか?
声を届けているか? 聞いているか?
自分は何をしているかが明確か?
と自問すると、「あや〜、うっかり〜」となっている。
それはそれで注意し続けていくしかないのだが、
少しでも生活の中に武禅の雰囲気を持ち込めればと思い、
4月に行った時に写した建物内の写真を、今部屋に貼ってある。
そのフレームの中には、大きめにプリントした数子先生の写真も。
食事の後の片付け中にいきなりキッチンに押しかけて
「写真撮らせてください」とやったにも関わらず、
先生は「はい」と振り返って「こう?」と即座に自然なポーズ。
さすがいつでもどこでも隙がない。
その上、出来上がった写真がまたスッゴクいいんだわ。
生活感ある明るいキッチンをバックにした輝く笑顔。
娘たちに「ほら、この人、先生の奥さんよ。きれいでしょ」と見せたら、
「この人、お母さんより若いんでしょ?」ときた。
やっぱりそう見えますか。
なので、
「日野武道やってると年を取らないんだろうね。お母さんも頑張らないと」
ということにしておいた。
これで次の武禅には少しは行きやすくなった、かな?(笑)
部屋には他に、ドラムソロコンサートの大ポスターと、
数子先生撮影の日野先生と私のツーショット写真、
そして、毎回の武禅の集合写真が飾ってある。
ポスターは以前、数子先生が冗談で「いくらで売ろうかな?」と言われていた時に、
「壺までは無理だけど、印鑑セットぐらいの値なら
買う大ファンはいるんじゃないですか? σ(゚∀゚ 」
と半ば本気で言ったことがあるのだが、なんと、タダ!でいただいてきた。
しかも、日野先生の直筆サイン入り!!私の名前も書き添えて。キャッホーイ!!!
SOLD OUTのものと2枚を並べて
玄関真正面にドーンと飾ろうと思っていたのだけれど、
一人暮らしではないというのはなかなかに不自由な面もあり、
仕方なく、超強力魔よけポスターは自室でにらみを利かせることになった。
壁には武禅の写真ビッシリ、本箱には日野先生の本ズラリ、かけるCDは「狂い咲き」。
どこからどう見ても立派なフリークだ。
だけど一つ心配なのは、
どうも、コレクションで満足して本来の目的はどこに?って事になりそうな。
何をどうやっても、この私だもんな。

帰った数日は「よーし、頑張るぞ!」と気合が入っていても、
水が高きより低きに、行いが難きより易きに流れる世の常に違わず、
いつしか楽に楽にダラリ〜ンとゆるみっぱなしになってしまう。
別段、何をするということもないのだけれど、
いつも正面向かい合ってるか?
声を届けているか? 聞いているか?
自分は何をしているかが明確か?
と自問すると、「あや〜、うっかり〜」となっている。
それはそれで注意し続けていくしかないのだが、
少しでも生活の中に武禅の雰囲気を持ち込めればと思い、
4月に行った時に写した建物内の写真を、今部屋に貼ってある。
そのフレームの中には、大きめにプリントした数子先生の写真も。
食事の後の片付け中にいきなりキッチンに押しかけて
「写真撮らせてください」とやったにも関わらず、
先生は「はい」と振り返って「こう?」と即座に自然なポーズ。
さすがいつでもどこでも隙がない。
その上、出来上がった写真がまたスッゴクいいんだわ。
生活感ある明るいキッチンをバックにした輝く笑顔。
娘たちに「ほら、この人、先生の奥さんよ。きれいでしょ」と見せたら、
「この人、お母さんより若いんでしょ?」ときた。
やっぱりそう見えますか。
なので、
「日野武道やってると年を取らないんだろうね。お母さんも頑張らないと」
ということにしておいた。
これで次の武禅には少しは行きやすくなった、かな?(笑)
部屋には他に、ドラムソロコンサートの大ポスターと、
数子先生撮影の日野先生と私のツーショット写真、
そして、毎回の武禅の集合写真が飾ってある。
ポスターは以前、数子先生が冗談で「いくらで売ろうかな?」と言われていた時に、
「壺までは無理だけど、印鑑セットぐらいの値なら
買う大ファンはいるんじゃないですか? σ(゚∀゚ 」
と半ば本気で言ったことがあるのだが、なんと、タダ!でいただいてきた。
しかも、日野先生の直筆サイン入り!!私の名前も書き添えて。キャッホーイ!!!
SOLD OUTのものと2枚を並べて
玄関真正面にドーンと飾ろうと思っていたのだけれど、
一人暮らしではないというのはなかなかに不自由な面もあり、
仕方なく、超強力魔よけポスターは自室でにらみを利かせることになった。
壁には武禅の写真ビッシリ、本箱には日野先生の本ズラリ、かけるCDは「狂い咲き」。
どこからどう見ても立派なフリークだ。
だけど一つ心配なのは、
どうも、コレクションで満足して本来の目的はどこに?って事になりそうな。
何をどうやっても、この私だもんな。

何をやってる?
今日、日野先生からの武禅の写真とアドバイスが届いた。
A4用紙に、個人宛ての気付きと注意と今後の方向。
これを何度も読み返し、噛み締めている。
先生の文章はいつもシンプルで平易だからとても読みやすい。
しかし、中身はとてつもなく濃い。
難しい言葉などいっそ使われていない短い文面に、
的確で深い内容が綴られ、強い力で迫ってくる。
問題を、欠点を目の前に突きつけられるのは、
何度味わっても、いくら覚悟してても痛い。
「私は一体何をやってるんだろう・・・」
ため息、なみだ目。
ズーンと地の底まで落ち込む落ち込む。。。
いろんな感情が湧いてきて、心がクルクルと様変わり。
もう、やめちゃおうかな・・・
だって、別に困ってないし・・・変われないし・・・
ダメさにトドメさされるばっかで、いい事ないし・・・
やっぱ私には無理っぽい・・・
鈍感で愚図で臆病で孤独でも、もういいよ・・・
弱っちい弱っちい私の頭に、ウダウダと後ろ向きな事が浮かぶ。
もちろん本気ではない。
自分で自分に愚痴をこぼし、自分で自分を慰め励ます一種の儀式のようなものかな。
なんたる無意味。なんて低レベル。ああ、アホくさい!
本当に「何をやっているか」をまったくわかってないじゃないか!!
どこまでいっても“自分だけ”かい!!!!
今夜は布団を頭からかぶってもう寝よう。
そして明日は「では どうするか」で飛び起きるんだ!
A4用紙に、個人宛ての気付きと注意と今後の方向。
これを何度も読み返し、噛み締めている。
先生の文章はいつもシンプルで平易だからとても読みやすい。
しかし、中身はとてつもなく濃い。
難しい言葉などいっそ使われていない短い文面に、
的確で深い内容が綴られ、強い力で迫ってくる。
問題を、欠点を目の前に突きつけられるのは、
何度味わっても、いくら覚悟してても痛い。
「私は一体何をやってるんだろう・・・」
ため息、なみだ目。
ズーンと地の底まで落ち込む落ち込む。。。
いろんな感情が湧いてきて、心がクルクルと様変わり。
もう、やめちゃおうかな・・・
だって、別に困ってないし・・・変われないし・・・
ダメさにトドメさされるばっかで、いい事ないし・・・
やっぱ私には無理っぽい・・・
鈍感で愚図で臆病で孤独でも、もういいよ・・・
弱っちい弱っちい私の頭に、ウダウダと後ろ向きな事が浮かぶ。
もちろん本気ではない。
自分で自分に愚痴をこぼし、自分で自分を慰め励ます一種の儀式のようなものかな。
なんたる無意味。なんて低レベル。ああ、アホくさい!
本当に「何をやっているか」をまったくわかってないじゃないか!!
どこまでいっても“自分だけ”かい!!!!
今夜は布団を頭からかぶってもう寝よう。
そして明日は「では どうするか」で飛び起きるんだ!
第79回「武禅一の行行会」2─ほどける場所
日野武道研究所の前にあるしだれ桜はまだ咲いていた。
前々から、これが見たいと思っていた。
もう葉も出て終わりかけだが、春の風情を残す色が
始まる前の気負いや恐れを和らげてくれる。

「こんにちは」 「お世話になりますっ!」
玄関に足を踏み入れると、懐かしい空気に包まれ、
「ああっ、帰って来た」という気になる。
私はいつもそう思うのだ。なぜか始めて来た時から。
中に入った途端に身体の感覚が変わるのに気付く。
前々日のバスツアーで凝り気味だった首、
前日の靴擦れした足で歩いた筋肉痛などは感じていたのだが、
心地良さに、ふうっと力が抜けるとそれらは薄れ、
むしろ背中の筋肉が突っ張っているのを感じた。
雑多なストレスに慣れていた大雑把な感覚が、
隅々まで気を配られた清浄な空間の中でほどけ、
身体センサーの感度がアップでもするかのごとく。
見るもの、聞くもの、触れるもの、その全てのほんのちょっとしたことに、
我々に自覚がなくても、身体は自然に違和感を察知しストレスを受けるもの。
しかし、慢性化すると変化を変化として感じられなくなる。
雑の中では神経も雑になってゆく。
ここはそれをリセットしてくれる場所。そんな気がする。
これが私にとって非日常ではなく日常にできれば
どんなにか心静かにして鋭敏でいられるだろうか。
訪れるたびに自宅を少しでも近づけたいと決意を新たにするのだけれど、
気がつくと散らかっている。
頭の中も心も身体も乱雑だからそうなり、
その環境がまた自分に影響してくるといった具合に、切り離せない。

住まいを見ると、その人がわかる。
この建物は、そのまま日野先生と数子先生お2人のカタチ。
その中での二泊三日だ。
全身をスポンジのようにあらゆることを吸収しないと勿体ない。
前々から、これが見たいと思っていた。
もう葉も出て終わりかけだが、春の風情を残す色が
始まる前の気負いや恐れを和らげてくれる。

「こんにちは」 「お世話になりますっ!」
玄関に足を踏み入れると、懐かしい空気に包まれ、
「ああっ、帰って来た」という気になる。
私はいつもそう思うのだ。なぜか始めて来た時から。
中に入った途端に身体の感覚が変わるのに気付く。
前々日のバスツアーで凝り気味だった首、
前日の靴擦れした足で歩いた筋肉痛などは感じていたのだが、
心地良さに、ふうっと力が抜けるとそれらは薄れ、
むしろ背中の筋肉が突っ張っているのを感じた。
雑多なストレスに慣れていた大雑把な感覚が、
隅々まで気を配られた清浄な空間の中でほどけ、
身体センサーの感度がアップでもするかのごとく。
見るもの、聞くもの、触れるもの、その全てのほんのちょっとしたことに、
我々に自覚がなくても、身体は自然に違和感を察知しストレスを受けるもの。
しかし、慢性化すると変化を変化として感じられなくなる。
雑の中では神経も雑になってゆく。
ここはそれをリセットしてくれる場所。そんな気がする。
これが私にとって非日常ではなく日常にできれば
どんなにか心静かにして鋭敏でいられるだろうか。
訪れるたびに自宅を少しでも近づけたいと決意を新たにするのだけれど、
気がつくと散らかっている。
頭の中も心も身体も乱雑だからそうなり、
その環境がまた自分に影響してくるといった具合に、切り離せない。

住まいを見ると、その人がわかる。
この建物は、そのまま日野先生と数子先生お2人のカタチ。
その中での二泊三日だ。
全身をスポンジのようにあらゆることを吸収しないと勿体ない。
第79回「武禅一の行行会」1─やらないことリスト
私が武禅に参加するのはこれが4回目。
これまで毎回、自分の中で「これをクリアしたい」「ここをわかるようになりたい」とのテーマを持って行って行くようにしていたのだが、この度からそれはやめた。
その代わり、「これだけはしないでおこう」と決めていたものはいくつか。
・こうあるべきとの思い込みはしない。
・過去の体験を再現しようとしない。
・出来ない理由を探さない。
・出来た事を否定しない。
・自分に求められる役目から逃げない。
それら全部がこれまでの苦い失敗を踏まえての上。
とにかく今、今の生の体験をしなければ意味がない。
頭空っぽ。
目指す方向はなし。
立ち位置ニュートラル。
そんでもって、おもろければなんでも有り!
さあ、真剣に遊ぼうやないか!
これまで毎回、自分の中で「これをクリアしたい」「ここをわかるようになりたい」とのテーマを持って行って行くようにしていたのだが、この度からそれはやめた。
その代わり、「これだけはしないでおこう」と決めていたものはいくつか。
・こうあるべきとの思い込みはしない。
・過去の体験を再現しようとしない。
・出来ない理由を探さない。
・出来た事を否定しない。
・自分に求められる役目から逃げない。
それら全部がこれまでの苦い失敗を踏まえての上。
とにかく今、今の生の体験をしなければ意味がない。
頭空っぽ。
目指す方向はなし。
立ち位置ニュートラル。
そんでもって、おもろければなんでも有り!
さあ、真剣に遊ぼうやないか!
生徒の責任
なんだか急にアクセス数が増えてる?と思ったら、なんと、日野先生の日記「サムライなこころ」からリンクを貼っていただいてました。
山の手事情社さん、青山繁晴さん、息子の一輝さんのページの中に、ここの武禅体験記が並べていただけるとは、感激至極!!
だけど、責任重大!!
小躍りしつつも、胃が痛い・・・、と。(笑)
ドラムソロコンサートのお手伝いに行かれた大阪と東京の武道塾の生徒さんたちも、自分達の一挙手一投足が「日野武道」の評価に繋がるとの誇りと責任を持って任に当たったと聞いていますが、それに近い感じかもしれません。
緊張してガチガチになっても仕方ないから、私の場合、このまま等身大で行くしかないのだけれど、自分のあり方の「型」を持てるのは人として幸せなことだなと思います。
山の手事情社さん、青山繁晴さん、息子の一輝さんのページの中に、ここの武禅体験記が並べていただけるとは、感激至極!!
だけど、責任重大!!
小躍りしつつも、胃が痛い・・・、と。(笑)
ドラムソロコンサートのお手伝いに行かれた大阪と東京の武道塾の生徒さんたちも、自分達の一挙手一投足が「日野武道」の評価に繋がるとの誇りと責任を持って任に当たったと聞いていますが、それに近い感じかもしれません。
緊張してガチガチになっても仕方ないから、私の場合、このまま等身大で行くしかないのだけれど、自分のあり方の「型」を持てるのは人として幸せなことだなと思います。
「武道・JAZZ・禅」
遅まきながら、4月26日のCD発売記念コンサート、
精神と音の対談「武道・JAZZ・禅」の感想をば、ざっと。
この日私は朝7時半に家を出て、11時に大阪駅に到着。
迎えに来てくれていたさきこさんや他の人と合流して会場が着いたのが12時半前。
13時半開場、14時開演で、
用意は全部レコード会社の人がやるから手伝いは要らないと聞いてはいたものの、
何かできるのではと早めに行ってみたが、どうやら大丈夫のよう。
それどころか、日野先生もまだ入られていないという。
場所は介護用品のショップで、会場は二階のホール。
一階入り口横には、ゆっくりとお茶を飲める小さな寛ぎの喫茶スペースが設けてあり、
そこでしばし待つ事に。
ちらほらと客が増えて席がうまった頃、ようやく先生が到着。
リハーサルは?と、皆で顔を見合わせる。
しばらくして調整のためらしいドラムの音が少し響いたが、どうやらぶっつけ本番らしい。
開場時間となり、二階ホールに上がり席を探す。
大体こんなとき、真ん中あたりから後ろに向けて埋まっていくもので、
日本人は真ん前が苦手っぽい。
だけど、先生のドラムは前の方がより面白いのを
前回の東京コンサートで体験済の私は迷わず最前列の中ほどに座り、
真正面に「ここ、ここ」とさきこさんを呼んだ。
第一部は、海会寺住職の安保紹隆氏との対談。
私は安保さんという方がどのような方なのか存じ上げなかったのだが、
どうやら安保さんも日野先生の事をあまりご存知ないようで、
書いてあるプロフィールを読み上げると、いきなり質問コーナーに突入。
こんなのアリですか?というこの展開は、
「何も決めない」方が面白いのではないかとの打ち合わせで唯一決まったことという。
これぞ、禅と武道との双方に共通する本質的精神の体現ということか。
うむうむ、海よりも深い計らいがあるわけだ。なるほどな〜。
僧侶の視点、武道家の視点。
交わるところもあれば、微妙にすれ違いが見えるところもある。
ただ、どちらも対立はしないという根本姿勢は同じ。
話の内容もさることながら、掛け合いの部分がなんとも面白い一時間だった。

そして第二部。
お待ちかねの、ドラムソロ。
日野先生はTシャツに着替えて颯爽と登場したかと思ったら、ドラムに座って
軽くブラシで撫ぜ次第に強く、いきなり演奏が始まった。
今回は演出も何もなし。ライトも普通に点きっぱなし。
直前にさきこさんは野生の本能でエネルギー中りの危険を察知し後ろに回避し、
むろん私もちょっと怖いので、結局真ん前ど真ん中は空席になってしまった。
演奏は、会場が狭いので大阪や青山よりも軽く、
時間も30分と短かった(といっても、普通のドラマーでは有り得ない)のだが、
スピードと切れはますます増している。先生はどこまでも限界知らずだ。
後で聞いたのだが、この日使ったドラムは先生のではなく主催者が用意した借り物で、
本当に前日とかにもリハーサルはされていない一発勝負。
きちんと調整していないから、演奏中に楽器が緩んだりずれたりして難儀されたらしい。
その場で聞いている時にはまったく気がつきもしなかったのだが、
撮影していた映像を見ると、確かに再々、スティックを口にくわえて
シンバルのネジをしめたり、強く叩いて動いたのを引き寄せたりをされていた。
また、グラつく部分には、どうもうまく加減をして力を逃がしているかのような感じも。
それだけ気を使いながらも、あの音を出しているのだから、
これを凄いと言わずしてなんと言う。
終わってのパーティは、興奮の余韻に酔いしれながらのとても楽しい時間だった。
それぞれが思い思いに自分の感激を伝え合い、共有する。
空いた真ん中の席を挟んでの隣には、さきこさんの会社の同僚の方がいたのだが、
彼女はバッチリ強烈エネルギーの洗礼を受けてしまったようで、
左腕がビリビリ痺れておさまらないと言われていた。
正面ビームに触れたのか、右脳アタックを受けたのかわからないけど。
また、たまたま通りすがりに知り合いに会って誘われ立ち寄ったという方も、
目をキラキラさせて、
「こんなのを聞いたの始めただ。感動した!」と感激を語っておられた。
大手の建設会社の部長クラスのこの方は、ジャズにはどうも造詣が深いよう。
その喋り方はあまりに素直で嬉しくてたまらないといった感じで、
聞いてる私も嬉しくなる。
まっすぐに人を見る澄んだ瞳が印象的。
やはりこういう人には響くのだ。
あちらでもこちらでも笑顔、笑顔。
そこにいる皆がより元気によりパワフルになる、
日野先生のドラムにはそんな力がある。
翌日、武禅に向かう車の中、さきこさんが携帯で
日野武道研究所の掲示板の書き込みを見せてくれた。
コンサートに来ていた妊婦さんに、コンサートの後、陣痛がはじまったという。
命の音が命に働きかけたのか。
きっと元気な赤ちゃんが誕生したことだろう。
カーオーディオでCD「狂い咲き」を聞きながら、
私も出産の時のバックミュージックにこれを聞きながら産みたかったなと思う。
癒し系の波の音とか小鳥のさえずりよりも、きっとファイトが湧いて来るはずだから。
命を産むのも育てるのも、命がけ。
人生は、闘いだ!
そんな覚悟を刺激し呼び覚ます音だと、私は感じる。
精神と音の対談「武道・JAZZ・禅」の感想をば、ざっと。
この日私は朝7時半に家を出て、11時に大阪駅に到着。
迎えに来てくれていたさきこさんや他の人と合流して会場が着いたのが12時半前。
13時半開場、14時開演で、
用意は全部レコード会社の人がやるから手伝いは要らないと聞いてはいたものの、
何かできるのではと早めに行ってみたが、どうやら大丈夫のよう。
それどころか、日野先生もまだ入られていないという。
場所は介護用品のショップで、会場は二階のホール。
一階入り口横には、ゆっくりとお茶を飲める小さな寛ぎの喫茶スペースが設けてあり、
そこでしばし待つ事に。
ちらほらと客が増えて席がうまった頃、ようやく先生が到着。
リハーサルは?と、皆で顔を見合わせる。
しばらくして調整のためらしいドラムの音が少し響いたが、どうやらぶっつけ本番らしい。
開場時間となり、二階ホールに上がり席を探す。
大体こんなとき、真ん中あたりから後ろに向けて埋まっていくもので、
日本人は真ん前が苦手っぽい。
だけど、先生のドラムは前の方がより面白いのを
前回の東京コンサートで体験済の私は迷わず最前列の中ほどに座り、
真正面に「ここ、ここ」とさきこさんを呼んだ。
第一部は、海会寺住職の安保紹隆氏との対談。
私は安保さんという方がどのような方なのか存じ上げなかったのだが、
どうやら安保さんも日野先生の事をあまりご存知ないようで、
書いてあるプロフィールを読み上げると、いきなり質問コーナーに突入。
こんなのアリですか?というこの展開は、
「何も決めない」方が面白いのではないかとの打ち合わせで唯一決まったことという。
これぞ、禅と武道との双方に共通する本質的精神の体現ということか。
うむうむ、海よりも深い計らいがあるわけだ。なるほどな〜。
僧侶の視点、武道家の視点。
交わるところもあれば、微妙にすれ違いが見えるところもある。
ただ、どちらも対立はしないという根本姿勢は同じ。
話の内容もさることながら、掛け合いの部分がなんとも面白い一時間だった。

そして第二部。
お待ちかねの、ドラムソロ。
日野先生はTシャツに着替えて颯爽と登場したかと思ったら、ドラムに座って
軽くブラシで撫ぜ次第に強く、いきなり演奏が始まった。
今回は演出も何もなし。ライトも普通に点きっぱなし。
直前にさきこさんは野生の本能でエネルギー中りの危険を察知し後ろに回避し、
むろん私もちょっと怖いので、結局真ん前ど真ん中は空席になってしまった。
演奏は、会場が狭いので大阪や青山よりも軽く、
時間も30分と短かった(といっても、普通のドラマーでは有り得ない)のだが、
スピードと切れはますます増している。先生はどこまでも限界知らずだ。
後で聞いたのだが、この日使ったドラムは先生のではなく主催者が用意した借り物で、
本当に前日とかにもリハーサルはされていない一発勝負。
きちんと調整していないから、演奏中に楽器が緩んだりずれたりして難儀されたらしい。
その場で聞いている時にはまったく気がつきもしなかったのだが、
撮影していた映像を見ると、確かに再々、スティックを口にくわえて
シンバルのネジをしめたり、強く叩いて動いたのを引き寄せたりをされていた。
また、グラつく部分には、どうもうまく加減をして力を逃がしているかのような感じも。
それだけ気を使いながらも、あの音を出しているのだから、
これを凄いと言わずしてなんと言う。
終わってのパーティは、興奮の余韻に酔いしれながらのとても楽しい時間だった。
それぞれが思い思いに自分の感激を伝え合い、共有する。
空いた真ん中の席を挟んでの隣には、さきこさんの会社の同僚の方がいたのだが、
彼女はバッチリ強烈エネルギーの洗礼を受けてしまったようで、
左腕がビリビリ痺れておさまらないと言われていた。
正面ビームに触れたのか、右脳アタックを受けたのかわからないけど。
また、たまたま通りすがりに知り合いに会って誘われ立ち寄ったという方も、
目をキラキラさせて、
「こんなのを聞いたの始めただ。感動した!」と感激を語っておられた。
大手の建設会社の部長クラスのこの方は、ジャズにはどうも造詣が深いよう。
その喋り方はあまりに素直で嬉しくてたまらないといった感じで、
聞いてる私も嬉しくなる。
まっすぐに人を見る澄んだ瞳が印象的。
やはりこういう人には響くのだ。
あちらでもこちらでも笑顔、笑顔。
そこにいる皆がより元気によりパワフルになる、
日野先生のドラムにはそんな力がある。
翌日、武禅に向かう車の中、さきこさんが携帯で
日野武道研究所の掲示板の書き込みを見せてくれた。
コンサートに来ていた妊婦さんに、コンサートの後、陣痛がはじまったという。
命の音が命に働きかけたのか。
きっと元気な赤ちゃんが誕生したことだろう。
カーオーディオでCD「狂い咲き」を聞きながら、
私も出産の時のバックミュージックにこれを聞きながら産みたかったなと思う。
癒し系の波の音とか小鳥のさえずりよりも、きっとファイトが湧いて来るはずだから。
命を産むのも育てるのも、命がけ。
人生は、闘いだ!
そんな覚悟を刺激し呼び覚ます音だと、私は感じる。

