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第82回「武禅一の行」10─情熱を燃やすコトがありますか?

20歳の女子大生は、自分の生活の中で熱を持てるものがないということに気づき、
どうやったら情熱を燃やせるものが見つかるのかを探すということも武禅の目的の一つにして来たと言う。

「ぽあんさんは、何かに熱を持ったことがありますか?」と問われて、
「あるよ」と即答。
私が情熱を傾けるものといったら一つしかない。
恋愛だ。
好きになったら全身全霊、なりふりかまわず突っ走る。それが私。
ただ、好かれた人は大迷惑かもしれないけど。
死ぬの生きるので大騒ぎ。
「私を心から好きになれ!」と追い掛け回し、「私のものにならないのなら殺す!」と脅す。
自己中心極まれり。
これを性質の悪いストーカーと言わずしてなんとする、というぐらいの狂いっぷり。
後で思えばなぜあの時、「この人しかいない」と拘ったのかわからないが、
それが恋愛というものだし、それが情熱を燃やすということ。
気違いのエネルギーに勝るものはない。
と、私は思っている。
まあ、あまり誇れることではないが、結果良ければすべて良しだ。

「うーん、そうなんですか。私にはまだよくわからないです」という女子大生。
それはそうだろうと思う。
自分が経験してないことを理解できるはずもない。
「そのうち時期が来たら何らかの出会いがあるだろうし、焦ることはないんじゃない」
と言ってその場は終わった。

夜、お風呂の後のお楽しみタイム。
さあ、飲むぞ! さあ、喋くり倒すぞ!
稽古の間は疲れて眠気に襲われてダラダラになったとしても、この時間は元気が復活する。
ふと見回すと、あれ?彼女がいない。
女子大生と同室の人に聞くと、疲れたので先に寝たとのこと。
武禅のセクションではないので強制参加ではないし、体調が優れないのなら仕方がないが、
勿体ない。
非常に勿体ない。
と思ってしまう。
熱を持ちたいんじゃなかったの?
今、情熱を燃やさなくていつ燃やすの?
もしかしたら彼女は、「自分が情熱を燃やせるもの」というのがどこかにあって、
いつかそれが目の前に現われたら熱が持てるようになると思っているのだろうか。
情熱を燃やす主体は誰?
そんなふうに考えたが、ここに居ないんじゃ伝えようもない。
どうせ彼女の人生だ。
私のじゃない。
情熱を燃やせるものを探し続ける一生ってのも、悪くはないのかもしれないし。
それにしても、決して安くはないお金を払って、はるばる遠くまでやってきて、
先生と仲間達と密に過ごせる今しかない貴重な時間を過ごさないなんて、勿体ない事なのに。

2009年11月26日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

第82回「武禅一の行」9─こちらへどうぞ

武禅には、「従う」というセクションがある。
やり方はその時によっていろいろ。
2人ペアになり、1人が腕を振り、もう1人がその腕の行きたい方向へスッと誘導するというものもある。
タイミングが合わなかったり、力で引っ張ったりの違和感を感じさせたら、相手は動かない。
初めての人同士だと上手くいくこともある。
違和感を感じるレベルが低いのと、頑張っている相手に合わせてあげたいとの思いが働くからだ。
しかし、回を重ねるごとに、また経験者と組んだりすることによって精度は増していき、
「できない」ということを思い知る。
「そもそも誰にも絶対にできないんじゃないの?」という疑念が頭をもたげてきても、
それはすぐに打ち消される。
先生は出来るからだ。
誰とやっても、何度やっても何の抵抗もなく連れて行かれ、それが面白く気持ち良い。
今回の「従う」はこの方法ではなく、歩いている人に「どうぞ」と手で示して、
行かせたい方向へ連れて行くという稽古をした。
身体に触れる触れないの違いはあっても基本的なことは同じ。
「どうぞ」に相手が自然に気持ちよく付いていけるようにしてあげなければならない。
普通にスタスタ歩いている人の前で「どうぞ」とやる。
「ん、何?」と見てもそれだけ。大抵は無視。中には「邪魔だ」と感じる人もいる。
先生が「どうぞ」とやると、何が何だかわからないけど「あれ?あれ?」と思いながら足が付いていく。
なのに、他の誰もできないのはなぜなのだろう。
「出来ない、出来ない」で皆が深刻な顔になってくると、先生はちょっと変わったやり方を見せてくれた。
手を繋いで歩いている三人に対しての「どうぞ」なのだが、それがただの「どうぞ」ではない。
パンパンと手を叩きながら、「にいさん、若い子いまっせ、わっかい子!」と呼び込みだ。
道場の中は、一瞬にしてネオンきらめく繁華街。
会社帰りに一杯やりに来たサラリーマン達は、この調子のいい呼び込みに連れられて店に入っていく。
あまりに意外な展開に皆、ドッと沸く。
そして、「これならできそうかも」と思ってやってみるのだが、そうは甘くない。
呼び込みの真似事をしても、どうも気持ち悪いのだ。
誰がやっても先生みたいにネオンきらめく繁華街にはならない。
さまになっていないというか。
当然、それに従う人もいないし、
それどころか小ざかしい手を使って人を思い通りに動かそうとされることに腹が立ってくるほどだ。
照れとか、探るような目とか、迷いとか、媚とか、そんなものを押し付けてこられる不快。
ある男性が先生と同じように「若い子、若い子」とやっても、
される方は「若い子がどうした?」で、全然「どうぞ」になっていない。
20歳の女性が男性三人が歩いている前で、顔を覗きこんで「いらっしゃい、いらっしゃーい」とやる。
すごく不自然。そんなキャラではないはずなのに、無理しているようで。
と、他人の事はわかっても、自分もまったく同じ事をしてしまい、それをどうしていいのかわからない。
「喋る言葉なんかどないでもいいんや」と先生は、
次々と「ヘネシー、ごっひゃくえん!!」とか、「ババア、ババア」とやって見せてくれる。
興味を惹きつけるというのだろうか、「面白いことがありそうだ」とそっちに行きたくさせてくれる。
というのが正確かどうかわからないが、そんな気持ち。言葉にすると、ちょっとズレる。
見回してみても、ぎこちない人が多い中で、スーパーの店長をやっている男性の
「本日特売!お買い得ですよ〜」は店の雰囲気が感じられるようで、結構いい線いっているような。
釣られそうになったのは、私が主婦だからだろうか。
誰かが「先生、全員に『どうぞ』できますか?」と聞き、それじゃあやってみようかということになった。
13人が横に並んで手を繋ぎ歩き、右端に先生が立って呼び込み。
さすがにこれは、道場の長さが足りず、半分が呼ばれる方に向いた所で壁に突き当たってしまったのだが。

私は前々から不思議に思っていたことがある。
どうしてこのセクションが「従う」なのだろうか、と。
腕振りの場合は、腕を振っている相手の力の方向や早さに「従う」ことで、
行きたい方向へ行かせてあげるのだからわかるとして、「どうぞ」は違う。
「どうぞ」とされる方が従う側なのだから、
働きかける方は「従わせる」稽古をしていることにならないだろうかと。
だが、本当にそうだろうか。
「対立しない」「自分はいらない」を基本信条とする日野武道で、
「思い通りに他人を動かすにはどうしたらいいのか」ということを教えるだろうか?
その疑問の答えが、今回の稽古でほんの少し見えはじめてきたような気がする。
「どうぞ」をするとき、私は相手をきちんと見ていただろうか。
誰に、何をということを明確に伝えただろうか。
自分の演技にばかり没頭し、妄想で作った相手の反応を恐れるという表現をしていなかっただろうか。
間違いなく言えるのは、私は相手にとって違和感バリバリの気持ち悪い人でしかないということ。
やはりこれは相手に「従う」稽古なのだ。

どのセクションでも何度も何度も同じ過ちを犯してしまう。
いつも「一緒に」ということを忘れて、「“私が”出来るようになる」を頑張ってしまう。
とことん寂しい人間だなぁ。私は。

2009年11月26日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

奈良、駆け足の旅

asyura.jpg
日曜日、武禅仲間のsakikoさんと、runumo(S)さんと一緒に奈良に行った。
目的は興福寺。
人気者の阿修羅像が全国ツアーを終えて戻ってきたので、現在「お堂で見る阿修羅」展をやっている。
それともう一つの目玉は日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいといわれている北円堂。
普段は一般公開されていないが、春と秋だけ期間限定で開扉される。
以前入ったsakikoさんがお堂の中全体が「正面」の感覚だったと言っていたので、
それは是非体験せねばなるまいと楽しみにして出かけた。

9時半に新大阪で待ち合わせ、sakikoさんの車で奈良に着いたのが10時半。
興福寺にはすでに長蛇の列が出来ていた。
現在の待ち時間「仮金堂 約210分」「北円堂 約30分」。
並んだらお堂に入れるのが2時半、見て出て食事して一日が終わる事になる。
「他に回って夕方来た方が早いかも」とも考えたが、もう今日はここだけでもいいやということで並ぶ。
 
待ち時間も退屈しない。
sakikoさんrunumoさんといると話は尽きない。
他愛のない四方山話に花を咲かせているうちに、徐々にお堂が近くなる。
結局、夕方に来ようと列を離れた人が多かったのか昼過ぎには入れて見ることができた。

まずは阿修羅立像のある仮金堂。
長蛇の列はもちろんお堂の中まで続いていて、押すな押すなの大混雑の様相。
注意のアナウンスが繰り返しされる。
「立ち止まらないでください」「上の段からお堂の中全体が見渡せます」
「ゆっくり見たい方は後ろからご覧ください」「近くで見られる方は歩きながら流れてください」
ムードもへったくれもない。
それでも、外気との温度差もあるのかもしれないが、スウッと吹き抜ける特別な空気。
背中から熱いような冷たいような不思議な物が走り、全身があわ立つ感覚がする。
力強く荘厳な顔、穏やかで救いを感じさせる姿など、
歴史ある素晴らしい像たちが立ち並ぶ中を流されながらも
それぞれの像たちと出来るだけ正面を合わせていき、そしてやっと中央の阿修羅像の前。
美しい。
憂いを帯びた表情も、姿勢も腕の形もすべてが完璧な美の調和。
さほど大きくないは像ではあるが、間近にすると静かな気迫に息を呑む。
さあ、正面に立ち手を合わせ心静かに・・・・・・・・、
としようとした所ですかさず「立ち止まらないでください」と声がかかり列に押される。
ああ・・・・
わずか3秒も許してもらえないなんて、どこの上野のパンダかモナリザかっちゅうの!
「せめて見たい。まだ見たい。お願い、見せて。見るだけでいい」と視線と後ろ髪を引かれながらも、
そのまま出口までズズズイッと押し出され、仮金堂を後にした。
あああ、あしゅらおう!!(←わかる人いる?:笑)

そして今度は北円堂。
仮金堂に比べて少ないとはいえ、それでもウネウネと長い列。
「お腹すいたね」と、runumoさんの持ってきてくれた豆腐屋さんのおからスナックをかじりながら
炎天下待つ。暑い。
 
いよいよお堂と思っても、グルリと周ってから中に入るようになっている。
1210年に再建されたままの姿を残す興福寺で一番古いお堂なので
手を触れないようにとの注意書きがあり、また係員からのアナウンスも再々される。
確かに古い。太い柱などは縦の木の目が深くえぐれているが、それでもドッシリと風格ある佇まい。
みとれながら進んでいると、次第にジーンと強いエネルギーを感じる場所が近づいてきた。
しかしそこには特に何もない。
目の前の太い古木の柱から発するいにしえの生命力?
そう思い、確かめようと手のひらをかざしゆっくりと動かしてみる。
木ではなく、これはもっと違う・・・・何だろう?
わからないのだが、ふと気付くと手から発している私のオーラが凄いことになっていた。
「ええっ、どうして?」
私のオーラは普段は薄ぼんやりとしたしょぼい物なのだが、
それがまるで和子先生のみたいにビカーッとしている。
すぐ隣のsakikoさんにも言って一緒に手をかざすと、sakikoさんの手もビカーッ。
オオッ、スゴイ!!!なんで?なんで?
よくわからないが、そうこうしているうちに列は進み、ようやくお堂の中に。
真ん中の大きな弥勒如来の左、法苑林菩薩像の方が入り口となっている。
先ほど私たちが強いエネルギーをビンビンに感じていた所は、ちょうど弥勒如来の真後ろ。
お堂の中に入った時には、先ほど仮金堂に入った瞬間のような特別な感動も感覚もなかったのだが、
やはり後ろに回ると来る。
全身をジーンとしびれさせながらも後光の裏から「正面」をとると、
強烈な何かを受け足からフルフルと震えがくる。
ここって・・・・
しかし、横に回ると急に雑音にかき消されるかのように何もなくなるのがまた不思議。
それでも前に来た時、「後ろであれなら真正面ならさぞかし」と期待して正面を合わせてみたが、
微細なエネルギーは感じるものの、とても弱いのでガッカリする。
なぜ? 私が荒くて雑だからかなぁ。
後でsakikoさんに聞くと、
前回、お堂の中ぐるり全部が「正面」でずっと見られているような感じを受けた時は、
弥勒如来の正面から入ることができたそうだ。
そして、人も少なかったので静寂の中で向き合うことができたとのこと。
なるほどね。
場は人によって影響されるもの。
また今度は人の少ない時期に来ることにしよう。

興福寺を出て昼食の後は、ぶらぶら歩いてたまたま開催中のフードフェスタを見て、
公園でrunumoさんが切ってきてくれたフルーツを食べて、そして東大寺。
私は奈良の大仏様ははじめて。
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南大門をくぐり境内に入るとsakikoさんが大仏殿に続く参道の中央を歩いていくので、私もそれに続く。
やっぱり何でも「正面、正面」ってやるのがいいのかな、とか思いながら歩いていると、
確かに来る、来る。
ビンビンと、正面の感覚!
すると前を歩いていたsakikoさんがクルッと振り返って、「あのな・・・」と教えてくれた。
以前、日野先生がここを訪れた際、参道を歩いていて「ここだ!」というポイントを見つけられたそうだ。
それで探そうと歩いていたのだけれど、どうも少し行き過ぎたみたいとのこと。
ということは、「ここ?」
もっと先まで行っていたrunumoさんもやはり同じように感じたらしくて戻ってきて、
三人でその場にしばし佇む。
観光客や修学旅行の高校生とかが沢山いる場所で少々邪魔だったかもしれないが、
どうしても「ここ」なんだもの。

大仏殿の中に入ると、ドワッと巨大な大仏に圧倒される。
大きさというのは、やはり凄い。
人の多さに負けていない。
人の気など問題にならないぐらいの、そこにある存在感の絶対的パワーというか。
P1050448.jpg
下から見上げて、「あの手のひらに乗ってコロコロ転がされてみた〜い」と考えてしまってクスリと笑う。
「世界のすべてが仏様の手のひらでの出来事なんだから、もう乗っかってるのに」と思いなおして。
中をいろいろ見て回っていると、木でできた精巧な東大寺の模型があった。
これの面白かったのは、上の窓が開いていて
外からちょうど中の大仏様のお顔が見えるようになっているところ。
実物は閉じられていて開くとも思っていなかったのだが、
もしかして「正面」を感じた所は本当に大仏様の視線の焦点だった、とか?
この窓は観相窓といって、年に2回だけ開くのだということを後で知った。
これもまた、いつか行かねばなるまいか。

東大寺を後にしたのは午後4時ぐらい。
夕食の支度をしてきてなかったので早めに帰りたいと送ってもらったのだが大渋滞で、
結局駅に着いたのは6時過ぎ。
来る時とはえらい違いだけど、それもそのはず。
阿修羅像を一目見ようと並んでいたあれだけの人が帰るのだから、道路もやはり長蛇の列になる。

というわけで、今回の
「秋の行楽シーズン・駆け足で回る人いきれムンムン奈良の旅スペシャル日帰りコース」は、
これにておしまい。
予想していた雰囲気とはちょっと違ったけれど、結構、充実した旅行を楽しめて大満足。
だけど、次は「静かにのんびり仏と語らう滞在型コース」がいいかな。
sakikoさん、runumoさん、ありがとう。また行こうね。 というか、連れてってねー。
めっちゃ、おもろかったよー!

FC2トラックバックテーマ  第847回「お寺、神社へは行きますか?」

2009年11月11日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:2

第82回「武禅一の行」8─苦手

「人付き合いが苦手」と言う人は結構多い。
もちろん私もその一人。
口下手で気が利かないので、他人と何を話していいのかわからなくて疲れる。
まあそれも馬鹿みたいな自意識が過剰だからなのは承知しているが、
理由がわかったところで苦手なものは苦手。
本当は一人で居るのが楽だし好き。
とはいえ、それでいいとは思っていないから苦しむ。
人付き合いが上手な人が羨ましくて、自分もそうなりたいとどうしたって思ってしまうから。
人を好きになりたい。関心を持ちたい。
互いに心から楽しんで気持ちの良い自然な会話ができたらどんなにいいだろう。
その欲求は振り払おうとしても消せるものではない。
人が人と繋がりたいのは、根源的なものだ。
だから、私は武禅に行っている。

初めて武禅に行った時、私はその後何度も行く事になるとは思っていなかった。
遠いし、そうそう家を空けられないし、お金もかかることだから
一生に一度の大冒険になるだろうと思っていた。
この際、知りたいことは全部聞こうと思ったし、
できるだけ欲張って何でもチャレンジしなくては勿体ないとガツガツしていたと思う。
結局、一度や二度で何かをつかめると考えていたのが大間違いで、常連化しつつあるのだが、
その気持ちは今も変わってはいないどころか、より強まるばかり。

その私から見ると、せっかく武禅に来ているのに消極的な人がいるのが不思議だ。
もっと先生のそばに寄って他の人を押しのける勢いででも前に出ようって気はないのかな、と。
強く求めるものがあるからこそ、わざわざ来ているはずなのに質問が出ない。
食い下がらない。突っ込み入れない。意見を言わない。
それって無口でおとなしい性格だから?

ある人が、仕事での人間関係で悩んでいるという話をしていた。
彼は会社の飲み会には出ないのだそうだ。
「苦手」ということで。
もう40代も半ばだけれど若い頃からずっとそうしてきたのだとしたら、それは悩むだろうと思う。
好き嫌い、得手不得手が許されるのはガキのうちだけ。
仕事の場では求められている人間にならなければならない。
自分の「苦手」は相手にはどうでもいい、こっちの都合。
どうしたらいいかは既に見えている。
どうするかは自由。

2009年11月06日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

第82回「武禅一の行」7─反省しない

行きの車の中でどういう話の流れだったか、「先生は反省をしないから」という話になった。
先生は失敗しても、不備があっても、絶対に反省しないらしい。
それは何となく「らしい」感じがする。
「あの時ああだったら」「こうしておけば」なんて言葉が先生の口から出るところを想像できない。
たとえ「お前ああいう時はこうするもんやで」と他人に反省を促すようなことは、
容赦なくジャンジャン言ったとしても。だ。

リビングに集まって雑談をしていると、これまたどういう流れだったか
先生から「オレは反省なんかせんで」という言葉が飛び出したので、車組、一斉に笑う。
「出た〜」「やっぱり〜」って感じで。
特にSさん。これでスイッチ入ったから今回笑いっぱなしだったんじゃないかな。

だけどこの「反省しない」というのは、本当に大切なことを的確に表していると最近つくづく思う。

世の中にはいろんな言葉がある。
「自己肯定力を高める」「自己受容」「過去からの開放」「自分との和解」etc. 
そんな小難しい言葉で心理を分析するカウンセリングがもてはやされてもいるけれど、
そんなもの、「反省しない」の一言で塵と消えるぐらいのどうでもいいあやふやなものだ。
なんてったって、過去は全肯定なんだから。

世の中、「反省」ほど無駄なものはない。
「反省だけなら猿でもできる」というコピーが昔あったが、まさにその通り。
「反省してます」「ごめんなさい」など、
気持ちがなくても、理解してなくても口先だけでいくらだって言える。
皆、形や言葉が一番大切だと勘違いしているから、それがあると安心するだけ。
だからマスコミの前で謝罪する人の多いこと。
芸能人の涙のお詫び会見や、会社役員全員勢ぞろいで頭を下げて“けじめ”のつもりの
クソ白々しい三文芝居につきあわされるだけ時間の無駄だろうに。
責任追及の土下座コールにいったい何の意味があるというのか。
大人が子どもに「悪いことをしたら『ごめんなさい』でしょ」とやみくもに教えるもんだから、
子どもが謝っても許してくれない人を、「なぜ許さないんだ!」と攻撃するなんてこともある時代。

ぜんぶ反省さえすれば済む、と思われているのが間違いの元。
反省も謝罪も何の役にも立ちはしない。
過ちは消えてなくなりはしないし、やってしまったことが許されるはずもない。
本当に反省の気持ちがあるのなら、
クヨクヨ悩んだり、相手に気持ちを押し付けるよりすることがある。
なにしろ人生は短い、死んだら終わり。振り返って悩んでいる時間がもったいない。

済んだことはしゃあないやんけ。
そうなってるならしゃあないやんけ。
過去も現状も受け入れた上で、なら次はどうする?だ。

人の心と社会が健全に保つためにこれほどシンプルで的を得ている思想があるだろうか。

全国の学校の道徳の授業に取り入れてくれたらいいのに。
そうしたら、「うつ」なんて無駄なことやる人、ぐーんと減るだろうから。

2009年10月29日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

第82回「武禅一の行」6─向き合わない人への怒り

ムカつく人はどこにでもいる。

日常では、それをうまくカムフラージュして相手にも周囲にも悟られないようにしながら
距離を置いて付き合うということをしている。

距離を置くということは、仲良くはしないということだ。
大切な事は任せないし相談もしない。
面白い得になる情報があってもわざわざ教えない。
その人がいる場所にはなるべく近づかない。
どうしても避けられない用事がある時だけ、当たり障りなく無難に最小限度接するのみ。

誰もどうでもいい人間のために自分の気分を害したくはないから。

しかし、武禅では感情をストレートに表現しあうことも稽古の内。
だから、
「あなたのその顔、ムカつく!」というようなことを言われたりする。


今回も休憩時間、部屋の隅の数人が集まっているところからそんな声が漏れ聴こえてきた。
「おっ、なんだ?」
私のトラブル大好き野次馬アンテナが敏感に反応してすっ飛んで行く。

言われていたのは前々回の時も一緒した男性だった。
線が細くて気弱そうな彼は、確かにいつもオドオドして見えるという所がある。
長年の癖なのだろうが顔色をうかがうように相手を見るので、そこが他人の癇に障るのだ。
「ちゃんと向かい合ってくれない態度をされると腹が立つ!」ということで、
「その顔がムカつく」と言われていた。

私もその怒りはよくわかる。
以前、他の人にだが同じようなことを言ったこともある。
オドオドする人のオドオドがまず不快なのだが、それ以上に腹立たせてくれるのが、
こちらの反応にまったく無頓着なところ。
顔色をうかがっているのなら、その顔色に反応して機嫌を取るぐらいしてもよさそうなのだが、
そうはならない。
単にそれはポーズだけの、自分を守る“ガード”のつもりをやっているだけだからだ。
「私は弱者です」「私はこんなに頑張っています」の見せつけ。
それは逆の「私はこんなに強いんだ」「私はこんなに偉いんだ」「私こそが正しい」をやる人とも
まったく同じ。どちらも人をムカつかせるだけ。
作った顔と声でこちらに「こう思ってもらいたい」をやられると、ウンザリする。
何を要求してやがんだ!と。

・・・とまあ、そういうことなんだよね。


以前から私は「声を届ける」の時、先生に再々、「目をむくな」と注意を受けている。
それも実は同じことなのだ。
目が大きいからとか、つい力が入るといった事ではない。
今回もペアの人に「目が怖い」と言われてしまった。
そのまま鏡を見て、そこにあった演技過剰な自分の顔にガーン。
アーア、可哀想なぐらいよく頑張っちゃってるよ。「私を認めて〜」って。

確かにムカつくわ、この顔。
だけど自分だから距離を置くってわけにはいかないからね。
なんとかしてやんないと。

2009年10月29日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

第82回「武禅一の行」5─激しすぎるナマムギ合戦

声を届かせたいのに届かない。
いろいろと工夫して、変化させて、思いつく限りいろいろやるのに伝わらない。
煮詰まってくると、深刻さが増して雰囲気が重く暗くなってくる。
そうなるとエネルギーは弱まり、出るものも出ないという悪循環。

そんな時、先生は「ナマムギや!」と言われる。

「ナマムギ ナマゴメ ナマタマゴ!」「となりの客は・・・」「1.2.3.4.5.・・・」
間髪入れずに交代で大声をただただ相手にぶつける。
ワーッと熱気が湧き上がってきて、頭の中は真っ白。
「もっと」と言われれば、「もっとやったろかい!」な気になって、
もう届くとか届かないとか、どんな表情とか、どんな格好とかどうでもいい。
とにかくなにがなんでも「ナマムギ ナマゴメ ナマタマゴ!」。

その後に、また正面を合わせるとわかりやすくなったり、
「こんにちは」もどうしてあんなに悩んでいたのかと思うぐらい
雰囲気がガラッと変わって届きやすくなる。
やはり、何でも良いからエネルギーを「出す」ということが大切だ。

武禅で一番盛り上がるのは、なんといっても全員でやる「ナマムギ」だろう。
円座に椅子に座って一人ずつ誰でもいいから指差しで「ナマムギ ナマゴメ・・・」。
言われた人はまた別の人に今度は「となりの・・・」、またその人が「1.2.3.4・・・」。
これの面白いのは、言われた人に言い返してもいいところ。
「ナマムギ・・・」と言われたら「ナマムギ・・・」と返す。
だから気が弱い人は、何人にも言い返されてずっとオニをやり続けることになる。
別に勝ち負けを競うわけではないのだが、それは何となく悔しくてどうにかして押し切りたい。
そうしてドンドン激化していく、という仕組みだ。

これまでも相当激しくて、噛み付かんばかりの形相の顔を突き合わせたり、
興奮してきたら大声だけじゃなく、肩でグイグイ押してひっくり返りそうになったりとかあったのだが、
今回はそれに輪をかけての大乱戦で、かつてないほどの壮絶なものとなった。
「ナマムギ」がランダムに飛び交ううちに皆が熱を帯びてピークの中、
一人が「絶対に引かない!」との闘志をむき出しにしてぶつけてきた「ナマムギ」は、
そのまま相手の意地を掻き立て、まさに修羅場と化したのだ。
もう、声を届けるとかじゃないから。
エネルギーを出すとか伝わるとかそんな問題じゃなく、力ずくの荒業勝負。
それも、一人は長く日野武道を続けている武禅の大先輩の男性だが、もう一人は初参加の女性なのに。
その女性が押して押して追い掛け回して飛びついて首をひっつかまえて倒した上に馬乗りになって押さえ込んでこれでもかこれでもかの「ナマムギ」(この時は「隣の客は・・・」)なんだから。
スッゴイよ。
凶器が転げまわってるような中、もちろん見ているほうも巻きこまれてエキサーイティング。
ずっと笑いすぎてお腹が痛いわ涙は出るわで、もう最高。
こんなことになろうとは。

いつの間にか私は、これはこういうものなんて限界を決めていたのかもしれないなと思う。
場や関係は生き物だから、人が違えば全然違うものになってしまうってことを
こんなにもありありと見せてもらって気付く。

それにしても「ナマムギ」は奥が深いよ。

2009年10月29日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

第82回「武禅一の行」4─私は虐めっ子?

「気持ちの悪い人ですね」

「嫌われますよ」

「あなた、モテないでしょ。そんな顔してるもんね」

「ヤダー、絶対、周囲の人達に陰で悪口言われて笑われてるって」


日常の生活の中で大っぴらに他人にこんなことを言う人はあまりいない。
もしも言えば、それはイジメってことになるだろう。

だけど、私は武禅でこんな言葉をポンポン言いまくっている。
それは、
本当にそう感じるんだもの。

死んだような目をして、何をどうしたいのかはっきりしないくせに、
こっちに「わかってヨ」みたいな同情を求めてくる演技過剰の“察してちゃん”を見せられると、
気色悪いし、滑稽過ぎてナンジャラホイ、だ。

「『こんにちは』は、『こんにちは』でしょ!余計な物はいらない!」

「いちいち『どう?』ってな目をしないで!」

「そんな『ナマムギ』に悲壮感漂わせてどうすんの?」

好き放題、他人に言う。突っ込みまくる。見えるままを。

もちろん、私がそれをクリアしてるから上から言えるというわけではない。
私も言われる。
同じことを。
だって、まんま同じ事をしているのだから。

他人のことはよく見える。
自分のことはわからない。
だから、教え合わなくてはね。

問答無用で真剣で後ろからバッサリ斬られる社会よりずっと安全な、ここ稽古場で。

2009年10月29日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

マイバイブル完成!

自他とも認める日野晃フリークの私。
日野先生のものなら何でも集めたいのだけれど、唯一入手できなかった本がある。
「常識を打ち破れ、行動を起こせ!」(日新報道 :1996/08)
これだけが古本でもオークションでも、どうしても手に入らない。
ちょっと前はアマゾンで中古本が15,000円で出ていて、迷っているうちに売れてしまった。
それからどこにも出回らない。(今はまた9,600円で出ていた)
読めないとなると、メチャクチャ読みたいもの。
武禅に行った時、リビングにある本箱にお目当ての本を発見したので
「貸してください!」と頼み込んだところ、先生が快くお貸しくださった。
この本は、先生が一番最初に出版された本で、「とてもいい本だ」とのこと。
本からテキスト起こして自分用にプリントしようと思っていたら、なんとなんと、
執筆された時のテキストデータのフロッピーまで貸していただけるとは。
うゎ〜い、うゎ〜い! 嬉しいったらない。
大事に大事に持って帰ってフロッピーを開けて本と比べてみると、「あれっ?」と思うことが。
本の方は11章からなっているのに、データでは14章になっている。
先生のHPにあった目次通り? おおっ、これはラッキーかも。
ということで、
折角なので「恋愛」と「勉強」と「子育て」の章も含めてきちんと本にしてみた。
それがこれ。ジャーン。 (後ろのはお借りしている先生の本)
常識を打ち破れ もくじ
表紙に「完全版」なんて入れたりしたけど、実は私のミスでちょっとばかし不完全かも・・・
でも、一冊3650円。アマゾンで買うより安くついちゃった。
本当にこれは「いい本」だと思う。日野先生の哲学の基本がほとんどここにある、って感じで。
ずっと手元に置いて、何度も読み返すんだ〜。バンザーイ!!!

本が手に入らない人にも朗報。
「常識を打ち破れ、行動を起こせ!」は、加筆して新しく出版の予定もあるそうです。
もちろん私はそれも絶対に買う。

2009年10月28日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:4

第82回「武禅一の行」3─感じたことが言葉にできない

武禅恒例、★★★★★。
今回は、夕方の行のレポートを書き終えた後。
それぞれの手のひらに先生自ら少しずつ配っていただいた。

「武禅初参加の人は知らんかもしれんから言っておくけど、
 これが1日目の夕食だから、よーく味わって食べるように」
「えーーーっ」
というのは冗談なのだが、とにかくしっかり味わうのがポイント。
そして思ったとおりの感想を言う。
ただそれだけ。

何を求められているかは、以前参加したことがある人は皆知っている。
特に難しいことでもないと。

しかし、今回ちょっと私には難しかった。
何と言っていいかわからなくて。
他の人が答えている間中、「どう言おう、どう言おう」とドキドキしてしまった。

「いつもより・・・・」(過去との比較してどうすんの)
「甘さが少なくて・・・・」(だから?)
「歯ごたえと舌触りが・・・・」(誰も批評なんぞ聞いてないぞ)
「私の好みでは・・・・・」(好みとかどうでもいい)

こんな問答がババババッと頭の中を駆け巡るばかりで、焦る焦る。

ええー?
自分が何を感じているかわからないのか、私。

いや、本当はわかっているから、結局はそのまんまの答えを言ったんだけどね。

ただ、本当のことって私にとってこんなに言いにくいものなんだということを改めて実感。
嘘ばっかりついてるんだな、いつも。
そして思い込みの中で生きてるから、勝手にタブーを作ってる。
自分で思っていた以上に重症のようだ。

同じことをやっても同じことを感じるとは限らない。
正解を知ってるからといって正解を答えられるとは限らない。
わかっているはずのことをわかっているとは限らない。
当たり前のこと。

シンプルなことが一番難しい。

ゴチャゴチャ頭は、どうしてもクドくなる。

2009年10月24日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0