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トラバスパムに天誅を

記事の内容に関係ないエロサイトへのトラックバックが
頻繁に貼り付けられるのに辟易している。
気付けばすぐに削除するが、いつもネット環境にあるわけではないので、
知らない数時間でも、私のブログがそんな場所と
リンクしてしまってるかも知れないと思うと気持ちが悪い。
他はどうなのかと調べてみると、これはトラバスパムと呼ばれて
問題になっているようだ。
キーワードに対してスクリプトで自動にリンクを貼る無差別テロ。
ムッカ~~~。なんとかならないの?(怒)

と思っていたら、あるパワーの強い気功師さんのブログで
「そういう輩に呪術的攻撃すること何とも思ってないですよ」
と書かれているのを見かけた。
何でも邪気は送らずに大量のエネルギーを一気に送りつけるそうだ。
「運が良ければ癒されますが、多くの場合は・・・・」とは、
はて、どうなるんでしょ?

好みとしては、悪いエロサイト管理人が癒されて
改心するというのがいいんだけどな。

だけど、もし効果がなくて逆に大量のエネルギーをも取り込んで
更にパワーアップしたエロエロ星人が、全ブログ住人を
恐怖のどん底に落とし入れる攻撃をはじめるなんて事になったら・・・・
全国の気功師・ヒーラー・チャネラー・能力者達、エネ使いによって
大呪術軍団が結成されたりして。
全世界を巻き込む激しい攻防戦を繰り広げるなんて事態に
発展しちゃったりなんかして。
それ面白そーう。ワクワク。
あら?(笑)
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広島昭和20年8月6日

TBSテレビ、涙そうそうプロジェクト「広島昭和20年8月6日」は、
今は失われた町に生きる人達の暮らしとドラマを描いた大作だった。
ただ、セットが手の込んだリアルな作りの割には、
CGとの合成の宿命か、生活感までは再現できなかったのが惜しまれる。
それでも当時の風俗が偲ばれる見所は多かった。

人間ドラマ自体にはメッセージ性は多くないが、厳しい状況の中でも
精一杯生きようとする姉妹の明日に繋がるかと思われた日常が
一つの爆弾によってあっけなく断ち切られるという部分に
悲惨さの焦点が向けられる狙いとなっていた。
全体で何万人が被害にあったとかの漠としたものでは伝わりにくい物が、
一つの家族にピントを絞る事によって、
その命と共に夢や希望が永遠に失われる悲しみとして胸に迫ってくる。

しかし、エンディングはその余韻に浸らせてはくれなかった・・・・。
「涙そうそう」の曲は沖縄風なので広島とは少し違和感はあったものの、
昔を回顧し生きていた人達を想う気持ちはそう的外れでもなかったのだが、
原爆被爆直後の傷ついた人々の写真をそこに持ってくるのは
あまりにも趣味が悪い。
一緒に見ていた子供たちは目を背けてしまった。
黒焦げの死体、耳のそげた人、目の玉が破裂した人、
光線で服の模様に皮膚が焼けた人・・・
穏やかなメロディーの中で次々に見せられる惨たらしい写真。
原爆の真実を知らねばならないとしても、
なぜここに、と思わずにおれない。私は怒りすら覚えた。

今残っている語り部は、どなたももう高齢。
ここに町があったこと、人が暮らしていたことを実際に知る人達は、
もうすぐ誰もいなくなる。
今回のこういったドラマによって私たちが知って覚えておかねばならないのは、
ここに生きていた人がいたという事の方ではないのだろうか。

中国新聞には、少し前に
この度のCGによって町並みが再現された件と関連して、
そこに住んでいた人々の現存する限りの顔写真と名前が掲載された事がある。
昔風の生真面目そうな顔、軍人の家の人らしい顔、活発そうな顔、
しとやかそうな顔、ほがらかな顔、今風の顔、苦労してきた顔、
あどけない顔・・・
この人達は生きていた。
そして一瞬でいなくなった。
何の為に生きていたのだろう?
ひとりひとりは、今生きているひとりひとりと何も変わらない命であるのに。
私はしばらくそんな感慨にふけってしまったものだった。

ドラマのエンディングに、
同じ時代にそこで本当に生きていた人達の生きていた証として、
その顔写真が流されたなら、多くの人にもっと今に繋がる現実感を
持ってもらえたのではないかと残念に思う。

シャドウ

昨日の自分に負けている気がして振り向いた。

けれどそこで見たものは、

小さな小さな足跡だった。
前のめりなだけで、ヨタヨタとおぼつかない足取りの。

「そんなはずでは」とあちこち探しても、
思ってたような大きさの足跡はない。

こんなものだったのか。
しっかり歩いて来たはずなのに。

私を追い立てていた昨日の自分。
それは理想をかさねた幻影だった。

自身にさえも良い恰好を見せかける。

プライドって奴は本当にロクでもない。

見えない私を見てる人

子供を持つことに何のためらいも迷いもなかった私だが、
イザ生まれる直前には不安がドッと押し寄せた。

子供を持つ資格などなかったのでは。
愛を知らない私が子供を愛せるのだろうか。
感情で子供を傷つけるかもしれない。
虐待するようになったらどうしよう。
子供を幸せにする自信がない。

そんなこんなの不安を全部、夫に話してみたものの、
夫は「あんたなら大丈夫」と、まったくもって能天気。
なぜ?

赤ん坊が産まれて、授乳や世話の仕方を担当の看護婦さんに習っているとき、
「赤ちゃんの目を見て、時々話しかけてあげてくださいね」と教えられたが、、
彼女は笑って「って言わなくても、ぽあんさんなら大丈夫ですね」と付け加えた。
なぜ?

いつも不安で不安でたまらない私なのに、周囲の誰にもそう見えない。

今、私の子供たちは
「お母さんが何か悩むなんて事あるはずがない」と平気で言う。

なぜ私を信じられるの?
なぜ私は信じられないの?

わからないまま、何とかなってる。

モテない男の魅力

オタクと付き合いたい女性が増えているらしい?
という記事を以前書いたのだが、
先日EZTVの「オタクに恋する乙女たち」という特集では
イケメンばかりと付き合ってきた女性がその理由を、
「オタクなら浮気の心配がないから」と答えていた。

三年目の浮気でヒロシはキーボーに
「モテない男が好きなら俺も考え直すぜ~♪」と歌っていたが、
考え直してもらわなければならないようだ。

他の女性が鼻も引っ掛けない男性に
アニメに夢中になるがごとく萌え~的に愛される。
どうよ?これ。
でも意外と、このある種、倒錯的ですらある関係は
恋愛のいいスパイスになったりして。
昔から「男は上恋、女は下恋」と言うものだから。

しかし、女のオタクはまったく話題にならないのは何故だ。
元アニメ研副部長の私の時代はまだか?(笑)

みんなの集まるリビング

息子達は夜遅くまで夏休みの宿題をやっている。
「だからあれほど早くやっておきなさいってお母さんが言ったでしょ」
というのはこの時期の決めゼリフ。
リビングのテーブルの上には色々なノートやプリントが散らかし放題。
子供部屋にちゃんとそれぞれの勉強机があるのに、この頃は一切使ってない。
夫が「自分の机でやれ」と言うと、
長男は「そうなんだけど、なんかここの方が落ち着く」と答える。
次男も「ウンウン」。
ちゃぶ台で宿題。
昔の子供のようだ。

そして寝るときも、ちゃんと子供部屋に二段ベッドがあるのに、
なぜか肌布団を持ってきてリビングの床で寝る。
私と娘達が寝ている和室のすぐ隣。
真夏は二階が寝苦しかったからだが、今は寒そうにしているのに。

子供部屋はただの物置。
自分の部屋がないので娘の部屋にベッドを置かせてもらってる夫は
恨めしそうだ。

迷子のみちしるべ

「ACは子供を持つべきではない」という意見についてどう思うか
夫に聞いてみた。
夫は「いいんじゃないの」と言う。
本人が子供を持たない選択を受け入れて楽になれるなら正しいと。
迷いは苦しい。
そんな時、誰かが「こうだ」と決めて導いてくれる方向に進むのも本人次第。

そんな考えに同意できない私はさらに質問する。
「子供を持ちたいけれど、持ってもいいのだろうか」という
不安を抱えている人には、
「持つな」というのはもっと苦しみを深める事にならないだろうか。
子供を持つ持たないは、自分がどうしたいかが一番大切で、
他の人に「こうすべき」と決められる問題ではないはず、と。

夫の答えは明確だった。
「自分がどうしたいかがはっきりとわかる人は、ACではないよ」
納得した。

ACの連鎖は断ち切れる!

アダルトチルドレン関連のサイトの中に「心の部屋」という所がある。
ここの管理人さんはご自身もAC。
そしてACは必ず連鎖するという考えに基いて、
その連鎖を断ち切るためには「ACは子供を持たぬこと」と主張されている。

それはある意味、間違ってはいないかもしれないが、
しかし、私ははたしてこの現代において
ACの傾向を持たない人など存在するのだろうかという疑問を持つ。
自覚していないにしても、病的ではないにしてもだ。

世間が認める成功者で誰が見ても幸福な人であっても、
その家庭に問題を抱えているなんてよくある。
そしてそういう人は自分が原因だとは断じて認めはしない。
また、何も問題が表面化しないままでいても、
中高年で心の拠り所を失ったと自殺する人だっている。
それはあるべき姿であろうと本心を偽ってきた目的が喪失し、
自我が崩壊してしまうからだ。
自分以外に価値基準を預けず真に自立している人というのは、とても少ない。

ACは連鎖する。
なぜならACとは一人の人間の精神的な病ではなく、
家庭全体、更に言えば社会全体が病んでいるからだ。
症状が強く出た個人だけが連鎖のリングから外れても、
それは自分の病を認めぬ人達によって差別という形で分離され、
病理をもっと深刻化させてゆくだろう。

自分の身は自分が責任を持つ。それは当然の事だ。
だからこそ言う。
本当の自分でいられないからACなのに、
暖かい家庭を持ちたい、子供を愛して育てたいという気持ちを、
連鎖の恐怖で抑え付けようとするのは、
この上さらに自分を偽り、そして見限っていることになりはしないだろうかと。

もちろん子供を自分がACから脱する為の道具にしてはならない。
そうではなく、自分が帰りたかった家を作り、
自分が注がれたかった愛情を注ぐのだ。
育てたい子供を育てるのではなく、
なりたかった人間を作ろうとするのでもなく、
愛されたかったように子供を愛する。

自分の子供を自分にはせず、
自分を自分の親とする時、
ACの連鎖は断ち切られる。

私はそう信じている。

ツクツクボウシ

ツクツクボウシが鳴くと夏もそろそろ終わり。
この声を聞くと、私は子供時代の夏休みに
母の従姉妹の家に泊りに行っていた事を思い出す。

そこは今の我が家から近いのだが、もう開けていて面影もない。
昔は山にチラホラと田んぼと民家があるだけというのどかな田舎で、
縁側から瀬戸内海が遠く見渡せていた。

母の従姉妹はそこに中風で寝たきりの父親と二人で暮らしていた。
手先が器用で家のミニチュアを作っていた弟は病気で亡くなり、
庭にアトリエだけが残っていた。
彼女は和裁で生計を立てていたのだと思う。
私も正月に着るアンサンブルの着物を縫ってもらった。
多趣味で、風景などをよく絵に描いていたり、琴をたしなんでいたりしていた。
書棚には歴史や思想についての本が並んでいたようだ。
独身の女性の家には子供の遊ぶような物は何もなかったのだが、
私は結構楽しかった。
蝉の抜け殻を見つけたり、散歩して色々な野菜ができているのを見たり、
海に浮かぶ船がゆっくり行き交うのを眺めているのも好きだった。
いつもフルーツカルピスがいろいろあったのは
私用に用意していてくれたのかも。。。
お風呂は五右衛門風呂で、一人で入ると蓋が浮かぶので怖かったっけ。
民話を聞いたり、歌を教えてもらったり
ゆったりとした時が流れていたように思う。

いつも一週間ぐらいいて、
ツクツクボーシの声がしてくると母が迎えに来るのだった。

母はその頃、女手一つで私を育てる為に水商売をしていた。
きれいな着物や服を着て化粧をした母はとても美しく、憧れだったのだが、
「私もお母ちゃんのようになりたい」と言った時だけは、
おばちゃんの表情がいつもと違っていた。
「それはダメ。お母さんのようになってはダメよ!」
その意味はもう少し大きくならないとわからなかったけれど。

私が最後に行ったのは、10歳の頃。
それからしばらくして寝たきりの父親が亡くなり、
縁あって東京神田の本屋に嫁いだと聞いて、それっきり会っていない。

今思うと、私は彼女からの影響をとても受けていたような気がする。

今年もツクツクボウシが鳴いている。。。

ゆかたと占い師

夏もそろそろ終わり。
ということで今日は、もう出番もなさそうな浴衣をお洗濯して干している。

先日、たまたまつけた番組で細木数子が浴衣の話をしていた。
彼女は浴衣のたたみ方、和室での美しい動作について若い子達に
ひとしきり指導してからこう言っていた。

「最近の人は浴衣にアイロンをかけるのも難しいでしょうから、
 どうぞクリーニングに出してください」

あ、そうなの?
今は浴衣もクリーニングの時代だったとは知らなかった。

浴衣は元々は湯上りに着るものが寝巻きにもできる夏の室内着となり、
段々と外出時に着られる様になったもの。
私はずっとTシャツや、サマードレスと同じ扱いと捉えていた。
綿の単の着物など、何の気を使わず、
私はいつも洗濯機の手洗いモードに放り込んでいる。
(本当はちゃんと手で揉み洗いが正しいんだけど)

それにしても不思議なのは、
着物は直線縫いで平面的だからアイロンがけが難しい所などないのにという点。
この人、本当に着物や浴衣に日頃から親しんでいるのだろうか?

何でも知っていなければならない立場の人は大変そうだ。(笑)

夏の大詰め

土曜は忙しかった。

妹の勤めるボクシングジムで試合の映像が入ったDVDの
コピーのやり方がわからないと言うので朝から行った。
パソコンは東芝製のノートで他人のモノでもあり、わかり難かったが、
とりあえずアプリを見つけてやり方を指示。

その後、昼から子ども達を引き連れて映画鑑賞。
夏休みには必ず一本は映画館で見ると決めている。
今回は「宇宙戦争」。
5人で並んで見れる席は前から3列目しかなく、首は疲れたが、
その分、視界いっぱいの大迫力が楽しめた。
突然の稲妻、地下から出てくる巨大ロボット、
建造物を破壊し人間を消滅させるビーム、タコ足で連れ去られる人々。
スリル満点。
しかし、ラストシーンは拍子抜けだったけど。

ファミリーレストランで食事、娘達の靴を買い、夕食用買い物をして一旦帰宅。

夕方から、家で一人不機嫌そうにしていた酔っ払いも引っ張り出して、
スポーツ公園のイベントに出かける。
日没から野外上映があるのだ。
映画は「ミスターインクレディブル」。
野球グラウンドの芝生のにおいと心地よい風。
買っておいたケンタフラチキを食べビールを飲みながら見る。

クタクタにくたびれたけど、私は大満足。

夜、息子達は、24時間テレビを見ながら徹夜で宿題をしていた。

視力回復のクスリ

長女が左目の視力が落ちてきたと言うので、眼科に行った。
下の町にできた新しい所にはじめて行ってみたのだが、驚いた。
まず建物が美しい。レンガ色系で植物ととても合う。
小さなイングリッシュガーデンが入口付近にあり、和みの空間を作っている。
そういえば病院の名前も植物の名だ。
敷地にはアレルギー科と調剤薬局が並んでいて、駐車場も広い。
そして何より感じがいいと感じたのは、
働いている人達が全員、美しく優しそうな若い女性という所。
お医者さんまで、可愛らしい若い女性なのだ。
隅々までぴかぴかに磨き上げられた床。穏やかな音楽。
待合室横にちょっとしたサンルーム。
淡い暖色系で統一された室内。全員着用の白衣も薄いピンク。
ひとりひとりに親切丁寧に接してくれる看護婦さんや薬剤師さん。
私も娘もいちいち「うわ~」と感心する。

検査をすると娘の視力は落ちていた。仮性近視の状態だ。
お盆に夫の弟嫁から、そこの娘の仮性近視が
目薬で治ったという話を聞いていたのだが、
お医者さんからは「回復するかどうかは個人差があります」という
説明だったので、娘は少しガッカリしたようだった。
とりあえず2週間分の薬をもらって、再検査してみる事になった。
普通は病院通いは嫌なものだが、
ここはきれいで気持ちの良いので苦ではない。
冬になって次女のアトピーがぶり返したら
今度はここのアレルギー科に行ってみよう♪
・・・なんて事まで楽しみにするのはやはり変か。(笑)

目薬は朝と夕の毎日二回。
娘は夕方から点しはじめて、
今朝にはもうなんだかよく見えるようになってきたと言う。
私はこの子のこんな素直な所が好きだ。
「まあ、すごいね。よく効く薬なんだ!」と私は大袈裟に喜んでみせる。
薬は効くと思えば効くものだから。
きっと良くなる。

死にたくなった時(ネガティブ編)

私はひどく怒っていた。

なぜ私だけがこんな目にあうのかと。

幸せそうな人が憎い。何も知らない人が憎い。

世界で一番の貧乏くじを引いた私は、

このまま一人でひっそりなんて死ぬなんてできるものか。

私の不幸、私の悲しみ、私の苦しさを思い知らせてやる。

世界中に。

私が死ぬ時は地球ごと滅ぼしてやる。

だから、それまでは死ねない。

・・・・・・・

そうして死ぬまで恨み続けるはずだった世界は、

私と一緒に生きることになった。

死にたくなった時(ポジティブ編)

私が死ななかったのは、

死ぬ気で一日生きてみたから。

どんな惨めなことでもできた。やりたい事をやってみた。

最後の朝と最後の昼と最後の夕と最後の夜。

なんだこんなものか。

と、

まだだめだ。

が、

次の朝を持って来た。

大人の描く子供の絵

生活体験の不足と親の過干渉が原因で、
チビッコのお絵描き嫌いが増えているらしい。

「好きな絵を描こう」と言っても、何を描いていいのかわからない。
最初から「絵は描けない」とやろうとしない子もいたりする。
そして絵を描いたとしても、記号や人形のようなキャラクターだけという。
親の口出し手出しに従うやり方に慣れた子ども達に、
自由な発想や表現は芽生えない。
専門家は、親や保育所の先生が「自由に描きなさい」と言うだけではだめで、
発達段階に応じた指導が必要だと言う。
絵の上手下手ではなく、
絵に込められた心を受け止めて共感してやるのが伸ばすコツだと。
(中国新聞「いっしょに!子育て」増えるお絵描き嫌い──干渉だめ、体験を自由に より要約)

そうだろうか? とこんな話を聞くと私の天邪鬼気質が顔を出す。
幼児が絵を描くのに指導なんかいるのだろうか。

保育園のような集団生活の中で絵の楽しさを共有する為に、
同じテーマや手法を与えてやるというのはあってもいいが、
別にそれからはみ出て関係ないものを描く子がいたっていいし、
ずっと同じ色にこだわる子、どうしても小さくまとまる子がいたっていい。
だいたい絵なんか、描きたければ描けばいいというものだ。

上手い下手を取り沙汰する以前に、
自由にノビノビと描かなければならないというのがもう押し付けのように思える。
指導して伸びるように見えるのは、大人の好む描き方を覚えるというだけの話。
そんなもので子供の心の健康さを計ることはできない。

子供が絵を描くのが嫌い、絵を描きたくないというのは
確かに異常だとは私も思う。
子供とは、たとえ禁止したって描くものだから。
私が2歳から4歳まで暮らしていた祖父母の家は、
壁もふすまも柱も私の落書きだらけだった。
子供向けのクレヨンや色鉛筆などなくて、鉛筆やボールペンでガリガリと
教わったばかりの自分の名前を書きまくり、
そのうち人物も描いてみたくなって、
祖母に人の顔の描き方を教えてくれと自分から頼んだのを覚えている。
今考えれば、複雑に見える物を線に置き換える情報処理は
幼児の頭では無理だったのだろうと思う。
しかし、描きたいという気持ちだけは強くあって、
祖母が書いてくれた顔を真似して今度はそればかりを描き続けた。
それは今も描ける。
発達段階に応じた指導とはそういう事ではないだろうか。
先に用意せずに求めに応じる姿勢。
けれど、教育関係者にしても親にしてもそうは考えてないようだ。

うちの子供たちは静かにしていると思ったら大抵、絵を描いている事が多い。
どの子も1・2歳で壁やふすまや柱や床に落書きをして
怒られるという体験をしている。
太いマジックでやった子もいる。石でえぐり刻み付けた子もいる。(泣)
もちろんその都度、叱り飛ばすがまた別の方法でやらかす。
見えない部分に描いていたり。家は大被害。共感しようなんて考えた事もない。
私が絵を誉めようがけなそうが、見ようが見まいが関係なく描く描く。
子供とはそういうものだと思っていたのだが、違うのだろうか。

我が家では毎朝、新聞の折込チラシの裏が白い紙をめぐって
大争奪戦が繰り広げられる。
早いもの勝ち、ジャンケン勝負、何等分かに切り分けるなど。

そんなふうに毎日絵を描いている子供たちだが、決して上手くはない。(笑)

不法投棄

ネット自殺が半年で70人。
「誰か一緒に死にませんか」とは簡単なものだ。

「誰か一緒にやりませんか」ってなセフレと同じく。

生と性。
どちらも神聖なものなのに、今は軽い。

それでいて異常に重い心なんかを、後生大事に守ってる。
そんなのこそ捨てっちまえ!

だけど命は誰の所有物でもない。
そこを間違えてはいけない。

マイナスの転換

負とかマイナスって言葉はイメージが悪いけれど、
そうとばかりは言えないんじゃないかな。

例えばマイナスイオン。
森や滝に多く発生してとてもすがすがしい気にしてくれるし、
リラックスや生体の治癒効果もある。
逆にプラスイオンが多い環境だと、
イライラの元の交感神経が過剰に反応して
自律神経のバランスが乱れてしまうとか言うし。
(こんなにマイナスイオンがありがたがられてるのは日本だけらしいですけどね:笑)

そして、心のあり方については、
大抵の場合、本当に必要で大切なものは、
いくら足し算をしても見つからなかったりする。
これさえあれば、あれさえあればで集めたガラクタに埋もれて
身動きが取れなくなったら、
思い切っていらない物を捨てて、捨てて、大掃除。
引き算に引き算を重ねていって最後に残ったのが求める解。

だから、
心がマイナス発想ばかりで落ち込んで淀んでる状態って、
過剰に詰め込まれてゴチャゴチャになった物を整理する時期だって
知らせてくれてるのかもしれないね。

トラバってます→マイナス

天国の門

天国への入口には、扉が二つある。

一つは、天国に行く資格があるかどうか問うもの。

生きている間に愛に満ちた行いをした人は難なく通れ、

人を苦しめてきた人にはまぶしくて近づけない。

もう一つの門は、自分で入るかどうか決めるもの。

その先は永遠の魂の平安が約束された楽園。誰もが願う理想郷。

美しい音楽と芳香が外にまで漏れ伝わってくる。

引き寄せられるような足取りで近付いて取っ手に手をかけた時、

今、通ってきた後ろの扉から聞こえる声。

悲嘆にくれる泣き声。苦悩にあえぐうめき声。助けを求める声、声、声。

二つの扉。

どちらを選ぶかは本人が決める。




そして、

永遠の魂の平安を得られた人は、これまでに誰一人としていないのだった。

天神様のお祭り

昼過ぎに夫から電話がかかった。
「事務所の近くの天満宮が今日祭りなので来るか?」と。
お祭り好きの私たちは早速お出かけの仕度。
夕方早いうちにシャワーを浴びて浴衣に着替えてGO!

お祭りは路上で踊りながら太鼓を叩くパフォーマンスをしていたり、
公園で神楽があったりで人がとても多く賑わっていた。
さまざまな屋台もズラリと並んで、おいしそうな匂いは漂うし、
面白そうな物も数多く目に付くのだが、何しろ高い。
せっかくなので子供に何かを買ってやりたくても、×4で計算すると買う気が失せる。
スーパーで買えば1つ分で4つとか思うと。
なので「屋台の祭りじゃなくて、神様のお祭りだからね」とわき目もふらずに
子ども達を神社に急かすケチな母なのであった。

神社の境内も押しあいへしあいになっていて、お賽銭を子ども達に渡していると、
次男は面倒になったようで「俺はいいよ」と言いだす。
「何言ってるの。ここは学業の神様で頭が良くなるんだから、
 あんたはしっかりお願いしとかなきゃ」と言うと、
「去年も来たけど、頭良くなってないじゃん」などと口答え。
「去年お願いしたから、この程度の馬鹿ですんでるのよ!さ」と促して参拝をさせる。
「それはあんまり失礼な言い方じゃない?」とかブツクサ言いながらも手を合わせてお参りをする次男。
学業とご縁がありますようにと、お賽銭も5円。ここでも私はケチなのだ。

しかし、反抗期なので神社に入ろうともしない長男は困った奴だ。
一番お願いしなきゃいけないのに。
受験前には必死にすがって来ると思いますので、神様、どうかお見捨てなく。
パン! パン!( ̄人 ̄)

親を育てよ

「親を大切にする子供を育てる会」というのがあると知った。
この名前がどうにもあまりよい感じがしない。
「子供を大切に育てる親の会」ではなくて、
なぜ「親を大切にする子供を育てる会」なのか。

親は子に親孝行を望んで育てるものだろうか。
自分を大切にしてもらうために?
親の恩を押し付ければ、育ててもらったお礼を
親孝行で返してチャラという感覚になりはしないだろうか。
見返りを求める条件付の愛のようで虚しい。

親の恩は自分が親として育っていく過程で実感できるものだ。
「子供とはこんなにも可愛いものなのか」と感動する時、
かつて親が自分を見つめていた眼差しの真の意味を知る事ができる。
親と子が向かい合うだけの閉じた関係の間では決して見つけることの出来ない、
大きな流れの中にそれはある。

だから、「子育ては親育て」と言われるわけだし、
私はその言葉の中に二つの見方が含まれていると思っている。
一つは、子供を通して自分自身が親として成長してゆけるという事。
そしてもう一つは、次の世代の親を育てるという意味。

親は子を「大きな自分の子供」に育てるのではない。
親が子をしっかりと我が子を愛せる親に育てられた時、
親となった子は我が親を大切にせずにはおれないはずだ。意図せずとも。


調べると「親を大切にする子供を育てる会」の会長は
真言宗蓮華院誕生寺貫主の川原英照さんという方だった。
実は私もここのメルマガ「幸福ニュース」の愛読者だったりする。
なのでたぶん言葉の受け取り方の些細なニュアンスだけの問題とは思うが、
やはりこのネーミングは何とかならないかと思ってしまうところだ。

くすぐり

子ども達が私をくすぐる。
わきの下、わき腹、首、小さな手でコリョコチョと。
一人やりだすと、みんな寄ってくる。
同時にあちこちワシャワシャされる。
だけどぜんぜんくすぐったくない。

私が子供をくすぐると、身をよじって笑い転げる。
涙を流してキャーキャーと。

私の母もそうだった。
母が私をくすぐると、どこを触られてもくすぐったいのに、
私が母をくすぐってもちっとも何も感じなかった。

大島弓子のマンガには、
子供のうち特に可愛がっている息子がくすぐった時だけケロッとしている
笑い上戸の母親という設定のものがあり、どうしてかなと皆が首をかしげる中で、
「きっと、この子と私は繋がってるのよ」というセリフを言っていた。

私は4人の子ども達全員と繋がってるからくすぐったくないのかな。
どの子も私の一部だから私はくすぐったくなくて、
私は子供の一部ではないから、子ども達はくすぐったい?

夫は私がキッチンに立ってると時々後ろからくすぐってくる。
「包丁を持ってるから危ない」と言っても、手が使えないのをいい事に。
これはくすぐったい。
彼は私の一部ではないからか。
そして更に言えば痛い。力強すぎ。
わき腹や押さえつけられた腕に痣ができる。私はとてもヤワなのだ。
愛の印というより、悪ふざけの印が付いてしまうのは、
ちっともロマンチックじゃないなー。

信心の矛盾

自分自身を馬鹿にされても罵られても心静かな人が、
信じているモノや人を批判されると烈火のごとく怒る事がある。
何とも不思議。

「今にわかる」か。
ヤレヤレ。

社会勉強の思い出

私が社会に出たばかりの頃、
上司にかかってきた電話を、先方が名乗ったので取り次いだら先物取引だった事がある。
電話口で上司は「親父の遺言で先物取引と株には手を出してはいけないと言われている」と断ったのだが、
向うは更にしつこく勧誘してくるらしくて、段々と親父の遺言の中身がバージョンアップしてきて、
とうとう「先祖代々の家訓」にまで話が及んでしまっていた。
「これを私の代で破ったら、ご先祖様に申し訳が立たない」とまで言って、ようやく諦めてもらったようだ。
上司は「まったくしつこくて困ったもんだよ。ハッハッハ」と笑っていた。
ちなみにその会社は一族経営で、上司の父親は社長で健在だった。

私は今でもまだその域まで達する事ができない。

大切なもの

「子は宝」
それが合言葉になっている島がある。沖縄に。

誰もがどの子も大切にするから、
子供同士も皆兄弟のように仲が良い。
大きな子は自然に小さな子の面倒を見て、
小さな子は親が付いていなくても安心して無邪気に奔放に遊びまわれる。
そうやって育った子が大人になればまた、どこの子も大切にする。
縦にも横にも広がる暖かい繋がり。
子供を大切にするとは、人間を大切にすること。
他人を大切にできるのは、自分も大切にされているからなのだ。

とても羨ましく思う。
どこでも皆そうだったらいいのに。

子供好きな老人、
世話焼きなオバちゃん、
ガキ大将、
みんな、どこへ行ったのだろう?

老人は子どもが嫌いだし、
大人は他所の子の面倒は見たくないし、
子供は行き場の無いストレスをためてる。

何かにつけ出てくる不満。
どの人もいろいろな言葉、言い方をするけれど、
すべて同じ気持ちから出ていると気付いた。

「何で私が他の人の為に動かなきゃならないんだ?」

人のために何かをする事は犠牲を払う損と感じているから。

だったら何が「宝」なのだろう?
不幸せそうな顔をして、みんな何を守っているの?

「宝は、他から」
誰かが言っていたっけ。。。

奪われた心

何かに心を奪われて、家庭が壊れるとはどういう状態なのだろう。

家族と話が通じない。
家族のことなど気にもとめない。
自分の世界に入り込んでしまう。
秘密を持つ。
干渉を嫌う。
思い通りにならないと感情的になる。

こんな人ではなかったのにと、家族は悲しむ。
心を奪ったモノが悪いと。
どうにかして元の心を取り戻したいと。

そのモノと出会いさえしなければ、良い人だったのに。
幸福な家庭だったのに。

本当にそう?

その人とはちゃんと話ができてた?
向き合って心通わせていた?
秘密は無く、何でも受け入れて、感情的にならなかった?

「今ほどはひどくはなかった」ってどういう意味?

このモノがなければ、
別のモノに心を奪われてたってどうしてわからない。

学校であった怖い話

私が中学の頃、こっくりさんが流行った。
やりたがる女の子が聞きたいのは大抵、たあいもない、
「○○君は誰が好きですか?」「私は何歳で結婚しますか」みたいな事。
そしていつも指を動かしているのは、情報通のお喋りな子なのだった。
あまりにスイスイと10円玉が動くので怪しいと思った私が指に力を入れてみた所、
その子の指先がクッと白くなったので確信した。
だが、当の本人は自分が動かしていると言う自覚がないのが不思議なところだ。

ある雨の日の夕方は、いつもと雰囲気が違っていた。
古い木造校舎は変に薄暗く不気味な雰囲気で、こっくりさんもなかなか動かない。
やっと動くようになったと思うと、質問の答えとは関係なくグルグル回る。
そして、
「ピシッ!」と部屋の隅から大きな音が鳴った。ラップ音?
一瞬皆が顔を見合わせて、「キャーーーー」と逃げる。
おいおい、こっくりさんが帰るまで手を離しちゃいけないんじゃなかったのか?
10円玉に指を置いているのは私だけだ。
皆は怖がってもう近付こうともしない。
「どうする?」「どうしよう」どうしようもない。
私一人で「お帰りください」とかやるのも馬鹿らしいので、その場はそれでお終い。
こっくりさんの紙と10円玉は私が持って帰った。「お祓いしとく」と言って。

学校ではもう二度と誰もこっくりさんをしようと言い出す人はいなかった。

10円で帰りにアイスを買って、紙をそのままゴミ箱に捨てた私は、
以来、30年近くこっくりさんに呪われたままだ。
忘れてたけど。(笑)

いまさら東京タワー

やっと映画「東京タワー」を見た。
ストーリーはだいたい知っていたが、実際の黒木瞳の演技を見てみたかったのでDVDを借りて。
感想。たーいくつ。
お金持ちの世界のきれいな物ばかりが出てくるキラキラしたおとぎ話は
全然感情移入できなくて途中で大あくび。
私はまだ、もう一組の女としてバージョンアップしていくオバサンと打算的なワルの
激しい泥沼化恋愛の方が面白そうに思った。ちっとはリアリティあるからか。

年下の男の子と不倫することを東京タワーと言うのが流行ってるって言うから、
もっと切なさが胸に迫るようなのを期待したのにガッカリ。
恋愛はもっとドロドログチョグチョの、殺るか殺られるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
得意げな顔して何が、東京タワーする、だ。
お前はホントに東京タワーをしたいのか問いたい。問い詰めたい。小一時間といつめたい。
お前、東京タワーするって言いたいだけちゃうんかと。
しかしこれをすると破滅、一家離散という危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
なんて「吉野家コピペ」にも応用できそうだねこれ。

絵としては東京タワーだからサマになるけど、通天閣だったらまた違う話になりそ、とオモタよ。

超バチ当たり

20日の爆笑問題の超バチ当たり心霊SPは、笑った。
富士樹海の落し物でゲイのノリノリお宝鑑定。
いわくつきの廃屋で深夜に友近が歌う「あなた」。
貞子が出てきそうな古井戸に肘をついて首をかしげるなんて、
度胸のすわりっぷりはカッコいい。

だけど一つ笑えないのがあった。
髪の毛の伸びる人形をふかわヘアにするという企画。
もちろん本物を使ったわけではなくて、ふかわを引っ掛けるイタズラだったわけだが、
ふかわは本物だと思って人形の髪にハサミを入れたという所が気にくわない。

髪の伸びる人形とは、幼くして亡くなった女の子の大事にしていたもので、
この世に心を残して髪が伸び続けるのを親御さんが哀れに思い、供養する為に寺に預けられたと聞く。
生き続けたかった女の子の気持ち、人形への愛着、親御さんの悲しみと祈りがそこにある。
それをなぜお笑いバラエティの道具に使えるのだろうか。
ふかわは一応は「洒落にならないですよ」「いけませんよ」と抵抗してはいたものの、
スタッフに強引に促されて、結局は人形を弄った。
断ったら次から仕事を干されるという計算なのか、
面白ければ何でもして見せるという芸人魂なのか知らないが、
そこは人間としては、絶対に断らなければならないことだったのではないだろうか。

とは言え、こういうテレビはすべてやらせが原則なので、
ふかわも最初から知っていてシナリオ通りに演技して見せたと考えるのが妥当なのだろう。
そうでなければ、撮影を許可したお寺も許せない所だ。

それにしても、こういった部分を誰も問題視しないのだろうか?

私はオカルト否定派なので、人形に霊がとり付いて髪の毛が伸びるなんて信じてはいない。
ただ、人の気持ちがそこにあるという事は軽視してはいけないと感じるだけだ。

祟りや呪いなどなくても、やってはいけない事はある。

まじないと書いて呪い

人の悪口を言う<<人の不幸を喜ぶ<<<人の不幸を願う


「あんた、悪いことがおこるよ」と予言する人が、
それが外れるのを望んでいるなんて、あるだろうか?

勧善懲悪のドラマ好きに悪人はいないなら、私は悪人でいい。

さあ、滅ぼしてみろ!

と思うな。私なら。

禁忌

私は何種類かの宗教・宗派の象徴的なモノを踏みつけた事がある。
どれも押し付けられて「粗末にしたら天罰が下る」と脅されたものだ。
人間に。
酷い事故にあって後遺症が残っただの、
苦しんで死んだだの、離婚しただの、病気になった、
借金まみれになった、奇形児が生まれた、等々、
負の証をいくらでも出してくる。

やるならやってみろ!
そんな話を聞くと、がぜん私の怒りは燃え上がる。
人を脅かそうとするものは許せない。

罰を恐れて従うのなら、それは家畜同様。
「叩くよ!」と振り上げられた手の下で言う事を聞く被虐待児。

人を善に導く為とは言え「不幸になる」などと使っていいはずはない。
当人にとって何が善で何が悪か、誰が判断できると言うのだろう。
人の身で。
何が幸で何が不幸かも他人が決める事ではない。
ましてや、先の不安で今を変えさせようなどとは、
支配の構造に巻き込む手段に他ならない。

他から与えられる幸や不幸など、ただのカラの箱。
他から押し付けられる神仏など、ただの偶像だ。

当然、バチなど当たっていない。
プロフィール

ぽあん

Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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