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似て非なるもの

家族は「いる」と言う。

家庭は「ある」と言う。

この違い。

一つ屋根の下に家族がいながら、家庭のない人の孤独は深い。
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ひとりはみんなのために

19日は町内で交通安全教室があった。
今年で三度目で、主に子どもとお年寄り中心なのだが、今回は全世帯にチラシを配布した。
防犯と防災のためには常日頃からの地域全体の交流を深めておくことが大切だと
自治会役員は考えており、会長や地域研究会の方達も事あるごとにそう話されている。
チラシには先日の台風などの自然災害も起こりうることなので、
住民相互の協力体制を整えておきたいというような一文も添えられていた。

しかし、集まったのは老人会と主だった役員だけ。
子どもは、うちの子3人だけだった。
集まりが良いとは思わなかったが誰も来ないとも予想していなかった。
勝手な期待をしてはいけないのだが、なんだかガックリだ。

昨日、そんな話をしていたら次男が「俺、来年は行かないから」と言いだした。
「他の人も行かないし、役にも立たない」と言う。
暮らしやすい町にしていくには、顔をあわせて見知っておく機会はなるべく多い方がいいし、
何かあったときにはお世話になるのだから、と説明しても、
「どうせ誰も助けてはくれんよ」と返してくる。
「何かなんてないよ」「そんな考えは甘い」
「一度や二度顔をあわせても覚えないし、老人は力が弱いから何もできないじゃないか」と理屈をこねる。
自分が人を助けるという発想はまったくないらしい。

挙句に「自分の身は自分で守れる」なんて事も言い出すので、
黙って聞いていた夫はついに怒り出した。
「一人で生きているとでも思っているのか!」と。
しかし息子に真意が伝わったかどうか・・・。


確かに息子と同じ考えの人はたぶんとても多いだろうと思われる。
交通安全教室には人は集まらないが、
飲み食いしたりプレゼントがある楽しみ事のイベントには大勢が詰め掛けるわけだから。
どちらも住民相互の理解と結束を深める同じ目的だというのに。

また、イベントに出ない人は同じ自治会費を払ってるのに不公平だと文句を言う。
予算を見て「子どもばかり大切にして、老人はそっちのけだ」という声もあがったりする。
そしてある人は、自分の家の周りには雑草や雑木がないのだから、
大掃除の時にゴミの収集に回るトラックは、必要な人が自己負担すべきだと主張する。

そうかと思えば、自分の家の前に砂が流れてくるのを処理してくれ、
街灯を増やせ、カーブミラーを付けろ、
近くの農園の牛糞の匂いが臭くて寝られないからどうにかしろと、
自治会に問題は山のように持ち込まれる。

我が事は人任せでありながら、人の事はひとごと。
「これをしたら、何がかえってくる?」
「見返りがないことはすると損」
義務を負わず自分の権利ばかりを求める人がとても多い。

このような誰かの為、皆の為が自分の為だと思えない社会にあって、
そうではない生き方をしようとするのは、理想主義にしかすぎないのだろうか。

けれど私は思うのだ。
「なぜ人の役に立たなければいけないのか」がわからない大人と、
「なぜ人を殺してはいけないのか」の質問をする馬鹿な子どもとは、実は差違はないのではないかと。

他人にすることは、自分にするのと同じ。
他人の痛みも喜びも、自分に返ってくる。
いつかではなく、その瞬間瞬間に。
自分を全体の中の一部に置く意識は、逆に全体を自分自身として捉えるという大きなものだ。

それを子ども達に伝えるには自分がいかにあったらいいのか。
クリアしなければならない課題は大きい。
しかし、その部分こそが人間の「生きる力」の根源だと私は確信している。

許すための罪

ミャンマー人には、泥棒に入られても泥棒を責めない人が多いという話を聞いた。
敬虔な仏教徒である彼らは、自分が泥棒に入られたのも前世で何か悪い行いをしたため、
その清算がこのような形になって現れたと考え、泥棒を恨まないのだそうだ。

同じ被害に遭わないように、防犯体制を強化するのはもちろん大切だが、
怒りや憎しみの感情を持ち続けることは次の被害の抑止には関係はない。
許した方が、よほど自分の心を健全に回復できるというものだ。
その許しの方便として「罪が清算された」という意味を与えるなら
ある種、生活の知恵的な気もしてくる。

天災にしろ人災・犯罪にしろ、どれだけ注意を払っても100%防げるものではない。
「まさか」の事態は起こりうるし、犯罪の根絶も現実的には無理だ。
回避策を講じても災厄は、起こるときには起こるもので、
それを人間の力ですべて制する事などできはしない。

すべてを支配できる自分でありたいと思っていれば、
不都合を自分の非と感じないためには、
それを否定する事に躍起にならなければならないだろう。
他を責める事によって。
しかし本来はそんな必要はないはず。
自分が責任をとれるのは、自分自身に対してのみだからだ。

他への許しは、自分への許しでもある。
他に働きかけても、思いどおりになるとは限らないが、自分は自分で変えられる。

不都合は罪の清算とだから、むしろ「ありがとう」と感謝すべきものなのかもしれない。

PTA競技大会優勝!!

大変な事になった。
市のPTA競技大会で、我が校のペタンクチーム優勝した。

競技種目はインディアカとペタンク。
うちはインディアカチーム1つとペタンクチーム2つが出場し、すべて予選突破。
最終的には「優勝?よう言うわ」に引っ掛けたネーミングで、
まったく予想もしていなかった「YOH!YUWA」チームが勝ち抜いた。

私は運動神経0なので、まったく何も関係ないわけだが、そこは大のお祭り好き。
勝手に押しかけ応援団長として朝から出場者に混じってバスに乗って会場に行き、
ボンボンをふりふり応援をし、合間合間に趣味の写真を撮りまくり、
感動の瞬間もバッチリカメラにおさめた。

ペタンクとは、1チーム3人でそれぞれボールを2個持って、
最初に投げた黄色い球めがけて交互に投げ、
近い方のチームの他の玉がもう一つのチームの投げた一番近い玉よりも
何個内側に入っているかで点を競うという、
決して激しくはないが集中力を非常に要するスポーツだ。
見ている私も息詰まり手に汗握ったが、やってる方はもっと大変。
みんな胃が痛くなったと言っていた。

この賑やかしのにわか応援団長はもちろん打ち上げにも二次会にもついて行ったわけで、
最高に美味しい勝利の美酒を味わえたのだった。
いや~、よく頑張って応援したよ。私。
なんてネ(笑)。

Teddy-loveさんもみんなも、おめでとう!!!

元サヤのおさまり方

今日発売の婦人公論を買い物のついでに立ち読みしてきた。

今月の特集は「もう一度、夫婦」。
その中の読者体験手記「こうして元のサヤへ」に二つの記事があった。

●「目には目を、浮気には浮気を」これで相殺と自分に言い聞かせる (会社員・38歳)
  内容はざっとこう。
  夫が浮気、咎める事も別れる事もできずに苦しんでいたときに
  自分の方にも浮気のチャンスがあったので、ついしてしまった。
  おかげで夫を責める気持ちがおさまって、夫婦を続けられている。

●愚かな恋愛ごっこから私を救った口ベタ亭主の涙 (会社員・34歳)
  彼氏ができた。本気なので夫と別れようと切り出すと、日頃口下手な彼の目に涙。
  心が揺れて彼氏に報告すると「俺の勝ち」と笑い「出るなら金を持って来いよ」と言われた。
  どちらが自分を愛してくれていたかに気付いて戻った。

こんなのブログに書いたら、袋叩きだろう。
上品な雑誌にこのハードでドロドロな内容とは恐れ入る。

女の幸不幸は男次第という考え方は依然根強いのかもしれない。
愛されたがってばかり。
その上、離婚するよりマシ、金目当ての男よりマシといった基準で生き方を選んでいる。

しかしそれも夫婦の“カタチ”なのだから仕方ない。

元のサヤにおさまったのは、真剣ではなく“竹光”だ。

ひとごと

ニート問題、「ひとごとでない」が6割・母親に不安感

学校に行かず仕事もしないニートを自分にとってひとごとではないと感じる母親が58.3%に達していることが、ヤフーと民間調査会社インテージ(東京)が21日発表したインターネット調査で分かった。

 ニートを深刻な問題ととらえているかとの質問にも、「非常に深刻」と「まあ深刻」を合わせると94.6%。「将来を真剣に考えているようには思えない」「受験を控えているのに志望校がない」と自分の子どもへの不安を抱えるなど、母親はニートを身近で深刻な問題と受け止めていることが浮き彫りとなった。

 誰がニート対策をすべきかとの質問には、親、家族など肉親を挙げる答えが多かった。しかし、ニートは「ひとごとではない」と感じる母親は、「ひとごと」と感じる母親に比べ、学校(52.9%)や国(52.1%)、企業(46.3%)にも対策を求める声が10ポイント程度高かった。

 調査は、15―24歳の未就業の子を持つ30―60代の母親441人を対象に、今月8―12日に実施した。〔共同〕 (22:24)



疑問がうかぶ。

母親は6割が不安を抱いている。
それで、父親は何割なのだろう?
調査したのか? してないのか?
子どもの問題は父親には「ひとごと」なのか?

また、母親が「深刻な問題」と感じているのは、
我が子がニートになるのではないかという心配と
我が子を取り巻く環境をも含めての不安とが入り混じっているようで、
何を問題に感じているかが明確になっていないように感じる。

働かない社会のお荷物が増えた際の負担は、一所懸命に生活する人にかかってくる。
生活レベルの格差はますます酷くなるだろうし、
精神を病む人も増える、犯罪発生件数も増加する可能性は高い。
大切に慈しんで育てた子供がいい加減な人達の犠牲になるような社会であってもらっては困る。
それも考え合わせての学校・国・企業への対策を求める声なら、あって当然ではないか。

そしてそれは、15~24歳の子どもとその家族だけが考えればいいというものではない。

「ひとごとと思っているかどうか」の統計をひとごとのようにとった今回の調査には、
引きこもりやニートの責任を各家庭の母親だけの責任だと印象付けようとする
意図が見える気がするのは考えすぎだろうか。

若者が学ばず働かない(=生きる力がない)のは、
同じ社会に暮らす誰にとっても「ひとごと」ではないはずだ。

川を見つめる

心が重く沈む時、頭に熱がたまる時、
目の前に小川を思い浮かべて土手に座る。
静かにただそこにいるだけで澱は軽くなってゆき、
内で逆巻く濁流が川に沿って流れ出す。

水は命の源。
流れは常にとどまらない。
この世のありようは水の流れによく似ている。

穏やかな日には緩やかに
荒れ狂う日には激流となって
そして時にはこの身も沈めて、流れ続ける。

時も、思いも、感情も、
流れ来て、流れ去る。

流れの只中、流れと私はひとつとなり
流れ来て、流れ行く。

さきまわりの癖

人は答えを既に決めているのに、悩んでみせることがある。

味方をたくさん付けておいて
後押しして欲しがるのは自己責任を回避する為。

失敗した時の「いいわけ」作りを先にしておく。

「こうなると本当はわかってた」
「だからやめようと思ったのに」
「でもやらないわけにはいかない雰囲気だった」
「あの人が勧めなければこうはなかったのに」

私が悪いんじゃない。馬鹿なんじゃない。
だから恥ずかしさを感じなくてもいい。
そうやって、プライドを守るための準備。


答えを既に決めているから、反対意見には耳を貸さない。
妨害者は敵。
「でも」「だって」「そんなこと言うけど」
否定型接続詞のオンパレードで理由付けをする。
これも「いいわけ」。

そして、相手への人格攻撃。
「そんなことを言うあなたはどうなの?」
「私の人生に責任を取ってくれるの?」
無意味な過剰反応。


人にはそんな癖があるのだと知っておけば、
自分で自分を客観視できているかどうかを知る事ができる。

主観のみの判断は大抵の場合、間違っている。


真の「正解」は同調者を必要としない。

転ばぬ先の杖もいらない。敵も存在しない。

ただ、自分のみを信じ、自分のみを拠り所として進む道には。

いい子病のワクチン

下の「好きになってもらう努力」の内容とも連動するのだけれど、
昨日の新聞に現代人を表すのにピッタリの記事が載っていたので転載したい。

「いい子病」にならないで 那須正幹
 最近香山リカさんという精神科のお医者さんが書いた「<いい子>じゃなきゃあいけないの?」(筑摩書房)という本を読んでびっくりしたのだが、近ごろ親や先生のいいつけをきちんと守る「いい子」がふえてきているそうだ。そのくせ、自分のことがきらいでしょうがないし、自分が他人に好かれていないんじゃないかと、つねに不安をかかえているというのだ。
 これって、けっこう深刻な問題かもしれない。
 ほんらい人類の進歩というのは前の時代と違うことをすることだ。原始時代親のいいつけを守らないで、火のついた木の枝で遊んでいた子どもが火を使うようになったし、殿様や親に反抗した若者たちが明治維新の原動力になった。
 そこまでおおげさに考えなくても、子どもというのは親の思いどおりに育たないのが普通で、育たないからこそ親を乗り越えられるのだ。
 ところが最近の親たちの中には、自分の思いどおりにならないわが子を嫌う人がいる。いうことを聞かない子は嫌いだと、平気でわが子の前で言う。
 子どもはなんとか親に好かれようと、いい子を演じ続けることになる。
 これでは子どももたまったもんじゃない。いつかそのストレスが爆発する。
 きみたちは「いい子病」にならないでほしい。たとえ親や先生から悪い子だと言われても気にすることはないし、友人から嫌われてもくよくよすることはない。人間というのは万人から好かれることもないかわりに、万人からきわられるということもないのだ。きみ自身、自分のことを好いていれば、胸を張って生きていけるはずだ。
 「いい子」なんか、さっさとやめて、きみ自身のいいつけをまもるこどもになってほしい。


「いい子病」。色々見聞きした事を当てはめると、本当にその通りだと思う。
懇談会で子どもが側にいるにもかかわらず「産まなきゃよかった」という発言をする人、
部屋の片づけを促す前に、子どもの物を外に投げて「お前が悪いからこうなる」と言う人、
習い事のサボりを咎められるのを怖れて深夜まで親から逃げ隠れする子ども。
家ではいい子が、学校で信じられない虐めを繰り返し、親は「学校が悪い」の一点張り。
悪いことはばれなきゃないと同じなんて平気で言う大人たち。
失敗を恐れ、何もやろうとしない人は多く、
事が起これば、誰も自己弁護ばかりで問題解決には至らない。
自分は悪くない、他の人が悪い。
自分の不幸も誰かのせい。
そんな風潮はすべて、「いい子病」からきているのではないだろうか。

大人自身が「いい子病」であれば、子どもに「悪い子」を許せるわけもない。
素直な正直さは、嫌われるのを怖れる人間を脅かす。
好かれるための仮面とは、ある種の暗黙の了解でもあるのだ。
それを剥ぎ取ろうとはしないという。
その下に必死で隠し通してきた、嫌われるはずの本来の姿を平気でさらけ出せる人は、
自分自身の「あるべき姿」の仮面の存続を危うくする。
言い換えれば、こうすれば「いい人に見える」「好きになってもらえる」が
通じなくなるのが恐怖なのだ。

私ももちろん「いい子病」だ。
だが私は時に「わるい子」であるのも怖れない。
私が私でなくなるよりもいつもそちらを選んできた。
それはなぜなのかと考えたときに、やはり母の影響が強いことに思い当たった。

母はハチャメチャな人間だった。
男に依存し、子どもに依存し、酒とギャンブルに溺れ、挙句身を滅ぼした人。
愛情の表現も歪みに歪んでいた。
しかし、動物としての本能的な母性だけは理屈ぬきで強かった。

母は常々言っていた、
「もしもあんたが泥棒や人殺しをして平気な人になったとしたら、
 あんたを殺して私も一緒に死ぬ」と。
若くして私を産み、離婚し周囲の協力を得られない中での子育てで、
母はひどく不安を抱えていてこの言葉になったのだろう。
母子分離できない強烈な一体感の是非は別として、そこに彼女の覚悟が見て取れる。
母にとって最悪な事態は、私が凶悪な人間になる事。
しかしもしそうなったとしても、最後まで見捨てることはないというメッセージなのだ。
「どんなに悪い子でも、かわいいかわいい自分の子だから、
 他人の手で死刑になるぐらいなら私が殺して一緒に行ってあげる」
子どもに善悪を教えるのに、これほど強いインパクトがあるだろうか。
言われた当時はもの凄く怖かったのだけど。(笑)


私が子供たちに「いい子」である事を強いていないかどうかは、自分ではよくわからない。
そうしていないつもりではあるけれど。
だが、子どもの悪さ、ズルさは知っている。
悪い事をすればもちろん叱る。たまにいけないと思いつつも感情的に怒る事もある。
だけど、決して嫌いになる事はない。
子どもが親を試す「ここまでは大丈夫、ここからはヤバイ」の綱引きも楽しんでいる。

『「いい子病」にならないで』の那須正幹さんは、
ネット研究室「子ども未来研究室」の代表の宮崎さんに対してこう問われた。
「宮崎さんは詰まるところ、素晴らしい子どもを育てたいのか、
 素晴らしい大人を育てたいのか、どちらなんですか」と。
宮崎さんはそのひと言で、
「子育てとは、子どもの「今」ではなく、子どもの「将来」を育てること、
 すなわち「大人育て」なんだ」と気付かれたのだそうだ。

これは私が以前書いた「親を育てよ」の記事とも合致すると思う。

そう。
「いい子」などいらない。
わるい子、いう事を聞かない子、勝手なことばかりする子、
親を困らす子、はみだす子、落ちこぼれ、どんな子どもであってもいい。
ちゃんとした「大人」になって、自分の生き方を自分で選べるようになりさえすれば。
それこそが、親冥利に尽きるというものだ。

好きになってもらう努力

好きな人が自分を好きでいてくれる。
人にとってこれほど幸せなことはない。
だが、それが努力によって得られるものだとしたら、
いつか疲れてしまうに違いない。

相手から自分はどう見られているか。
何を考えているのか。
どうあって欲しいのか。
希望に添えてるのだろうか。
顔色を見て、言葉の裏側を探って、
大丈夫だろうか、間違ってないだろうか、
嫌われてないだろうか、怒らせてないだろうか。
いつもビクビクと窺う中に何がしたいという自由意思はない。

好きだから、好きでいて欲しい。
それが愛だとしたら、
自分が示した愛と同等の物が相手から返って来なければ報われない。

努力と犠牲と我慢で、笑顔と優しさとぬくもりを買う。
これだけ払ったのだから、見合うだけよこせとばかりに。
それはギブ&テイクの物々交換でこそあれ、暖かい心の交流とは程遠いもの。

望みどおりにならない相手に怒りがわくのはなぜだろう?
相手に束縛され、自分を自分でなくすほど追い詰めてまで得たいものとは何だろう?

いつしか、自分ひとりが損をしている気分になってはいないだろうか。

失ったものは奪われたのではなく、自分自身が捨てたもの。
誰のせいにもできはしない。

傷つけているのは相手ではなく、媚びへつらって歓心を乞う自分自身の惨めさだ。
誰かにそうさせられたのではない。

偽りこそが人を苦しめる。

「好き」とはただ好きなだけ。
「愛」とはただ愛するだけ。

好きになってもらう為にしなければならない事など何もない。
愛を認めさせる努力も必要ない。

愛は、愛されることを求めない。
「この人のために、自分には何ができるだろうか」ただそれだけ。
どう見えるか、どう受け取るかは相手の自由。

他人の自由を認めていればこそ、自分も限りなく自由でいられるのだ。
誰の責任も自分のみにしか負えないのだから。


    トラバってます→好きでいる好きでいてもらう

インディペンデント

事務所を構えた時の話を書いていて、もう一つエピソードを思い出した。
独立は絶対に上手く行くという保証などない一種の賭けのようなものなので、
当時私は、とにかくいろんな事が心配でたまらなかった。
ある程度まとまった事業資金があるなら別だが、元手などまったくありはしない。
それでありながら、仕事のしやすい市の中心地にワンルームマンションを借り、
仕事でどうしても必要なコピー機とファックスをリースした。
電話を引き、イエローページに載せ、名刺と封筒も印刷。
最初に出て行く金は大きい。
とりあえず、すぐに稼がなくては3ヶ月も持たない。
しかし本当に仕事はそんなに来るものだろうかとの不安が日増しに強くなる。

そんな中、つい同業者の学生時代からの友人が事務所を見に来たときに、
ポロッと弱音をこぼしてしまった。
「一緒にやれたらいいのにね」と。
思いがけず友人は俄然、乗り気になった。
家賃やリース代、電話代は半分持つ。
仕事もあてがあるとの話に私の負担は軽減されるかと喜んだ。
が、
翌日、冷静になって考えた私は断りの電話をかけた。
「事務所は私が一人で立ち上げる。軌道に乗る保証がないのに人を巻き込めない」と。
友人は、
「自分の食い扶持は自分でちゃんと稼ぐ。絶対に迷惑はかけないし、
 失敗しても責任を取れなんて言わない」と私をなんとか説得しようとしてきた。
無理もない。私が迂闊な事を言って夢を見させてしまったのだ。
だが、私の不安は半端ではなく、後がないという追い詰められたものなのだ。
もしもの時には、私の方が彼女を恨むようにならないとも限らない。
何を言われても私は突っぱねた。ただ「ごめんなさい」と言い続けて。
そして「私はうまくやっていける自信がある!」と彼女が言った時に私が返した
「では、あなたも一人で事務所を持てばいい」の言葉で怒って電話は切れ、
2年ほど連絡は途絶えた。

彼女が独立した時にまた付き合いが再開し、事務所に遊びに行くようになった。
だが独立といっても、事務所の家賃の半分は知り合いの男性コピーライターが出していたのだった。
その人は夫婦で別に事務所を構えているのだが、何かと手狭なので、
資料置き場と、一人で仕事をしたい時用に一部屋を使わせてもらうという条件で。
そして彼に仕事を回してもらったり、相談に乗ってもらったりもしていた。
どうしても一人では事務所を持てなかったというわけだ。

不思議なことに客は私から見るとどうも横柄な人が多くて、
打ち合わせや資料探しに事務所を空けていると怒るような人もいた。
アポをとってもいないのに「来た時にいないとはどういうことだ」なんて言って。
また、用もないのに立ち寄ってはお茶やジュースを飲んで居座る人などもいて
仕事がやりづらいとも言っていた。
私も優柔不断だし「NO]がハッキリ言えるタイプではないが、そんなお客は一人もいない。
何かおかしいな、と思っていたら半年ほどで会社はなくなった。
後で聞くところによると、家賃を半額負担していたライターの奥さんが勘ぐって一騒動あったらしい。

当然といえば当然かもしれない。
若い女性が一人で仕事をしているマンションの家賃を旦那が半分払ってて、
しかも合鍵まで持ってるなんて。(それは後で聞くまで知らなかった)
友人は真面目なので何かがあったとは私は思わないけれど、非常識ではある。

独立する時に、一人でやったのはやはり正解だった。
私は依存体質なので、過度に人に期待したことだろうし、
彼女もこの結果から見て明らかに依存体質だったと思われる。

一人で立って歩ける人が二人で組めばそれは何倍もの力になるだろうけれど、
一人で歩けない者が何人集まってもまともに歩けはしないのだ。

忘れかけていた大切な事、今一度しっかりと胸に刻もうと思う。

アンゼラスの鐘

「NAGASAKI・1945~アンゼラスの鐘~」というアニメ映画を子供と一緒に見てきた。
長崎の原爆の話だ。
原作は秋月辰一郎さんの「死の同心円」を元にしてあって、主人公はこの人。
鑑賞対象は子供なので、やけどの部分は皮膚を赤っぽく描かれているだけで、
さほどグロテスクではないものの、
路上の黒焦げの死体、一瞬前まで元気に遊んでいた子ども達の変わり果てた姿、
屋根の下敷きになって手だけの母親が「子供を頼みます」と言って火に包まれていくシーン、
子供を助けるために素手で家を壊して手を血だらけにする人、等々の描写があり、
悲惨な状況に自分が立ち会っているかのような視点で見れる作りとなっていた。
原爆の破壊力が恐ろしいのはもちろんの事ながら、
この映画では、もう一つの遅れてくる恐怖について重点的に描かれていた。
ピカドンから逃れて、大きな怪我もせずに割りと元気だった人が日を置いてバタバタと死んでいく。
髪が抜け、体がだるく、歯茎から血が出て、紫斑が現れる。
原因も治療法もわからないまま、亡くなる。
終戦になった後も、何日に何人、昨日は誰と誰、今日はこの人、明日は自分か・・・と、
常に死と隣あわせの恐怖。それが日常であるという無力感。
しかし、そんな中でさえ逞しく生きる人々の希望の力が、
素朴なアニメの表情を通して伝わってくる、そんな映画だった。

私は長崎には一度行った事がある。
平和公園は広島のと比べると小さく地味な雰囲気で、人もまばら。
原爆資料館に展示してある物も少なく、
広島のを見慣れた私からすると、特に新たな衝撃や発見は何もなかった。
国内外においても、原爆=ヒロシマというイメージは強いが、
ナガサキの被害についてはあまり知られていないのではないだろうか。
規模の大きさや、どちらが最初の被爆であるかとの違いと、
大勢の人の命が奪われた事実に何の関係があるのだろうか。
もちろんそれを言えば、原爆を受けた人と通常の空襲を受けた人との変りもないわけだが。

戦争被害は日本国中にその爪あとを残している。
限られた一部の地域の人の問題ではない。
その事を再考するためにも今回完成した、もう一つの被爆地の映画はとても重要だと思う。
そして思うのは、語り部は広島だけにいるのではないという事。
あらゆる場所が火の海となって、あらゆる場所で不自由な思いや理不尽な目に会った人達がいたはずだ。
忘れ去られる前に、できるだけ各地での記憶を刻んで残して欲しい。
戦争による喪失体験もまた、現代の礎である事に間違いはないのだから。

男と女と秋の空

【女心と秋の空】女心は秋の空のように変わり易い。(専ら男性が使う)
  ↑
 反意語
  ↓
【男心と秋の空】男心は秋の空のように変わり易い。(専ら女性が使う)


男性からすると女性は頭で考えるのではなく子宮で考えると言われるぐらい感情的で、
今笑っていたかと思えば、次の瞬間には怒っていたりと、
クルクルと表情が変るところが可愛くもあり、疲れもする。
何とも捉えどころのない不思議な生き物に見えるようだ。

女性からするとロマンチックなデート、頻繁なメールや電話での甘い言葉、
高価なプレゼントなどの情熱的な愛に心打たれてこちらが本気になった途端に、
釣った魚に餌はやらない状態に豹変する男性が信じられない。
「愛してるよ。君だけだよ」と言いながら、他の女と遊べる心理もわからない。

本当に愛されてるのだろうか。
考えるときりがない。

そんな相手を自分の方は本当に愛してるのだろうか。
・・・・・・?

秋晴れに遊び、雨が降れば傘をさし、茜雲に感動し、星降る夜に詩を詠う。

あなたの空の下の私。
私の空の下のあなた。
二つの空はどこまでも決して交わることはない。
雲の上は晴天なれど。。。

秋は空がどこまでも高く、高く、そして切ない季節。

にわかランナー

またまたやってきました。マラソンシーズン。
去年初めて広島国際平和マラソンに出て面白かったので今年も、と思っていたら、
事務局から申し込み用紙が送られてきた。
今年は11月3日。あと二ヶ月ない。
早速参加料を振り込んで申し込み用紙も郵送した。
そして今日からトレーニング開始!
去年から続けてれば今度は10Kコース出場も夢ではなかったが、
冬は寒い、春は眠い、夏は暑い、で、直前まで何もせずにきてしまった。
なのでまた5Kにエントリーして最初から基礎体力作りだ。
本当に走るの好きなのか?私?

とりあえずスポーツ公園でストレッチをした後、グランド2周してみた。
タイムは5分10秒。一周目は軽かったが、二周目で後悔。
ゼイゼイ、ハアハア。
無理せずぼちぼち、走るカラダにしていこう。。。

迷いの森

「してあげる」 が 「させてもらう」になるまでに、
どれだけ時間がかかるのだろう。
どれだけ迷えばいいのだろう。

くるりと裏返る。
それは極まりまで達してはじめて出来ることなのだろうか。

頭ではわかってるつもり。
自分はそう出来ているつもり。
「つもり」は信じる第一歩で大切ではあるけれど、
客観を欠けば、独りよがりの思い込みなだけ。

他人の目での客観視をまだ必要としている私。
捨てられない自分の殻。

それでは本当に生きることもできはしない。

見るたびに苛立ち、反発を感じて働きかけたくなる人がいる。
あれは、
たぶん私自身。
鏡に反対映しになってるだけで、している事は同じなのだ。

「正しい私を理解しろ!」と訴え、しがみついている姿。
わかりすぎるからこその嫌悪。
そして哀しい。
自分と向き合う恐怖から逃れようとする気持ちが。

どうか変わって欲しいと願ってしまう。
それもエゴ。
この想いすら手放せるようになった時、ひとつ自由になれるのかもしれない。

どれだけ時間がかかるのだろう。
どれだけ迷えばいいのだろう。

やる気なしの母を見せる

中学生を対象にした総合学力診断テストをする会社がある。
先日、人の良さそうなセールスマンが来て説明パンフレットを置いていったのだが、
その時に「うちの子は勉強が嫌いですからやりませんよ」と言っておいたし、
実際、右から左に子供に渡したパンフはちらっと目を通しただけで即ゴミ箱行きだった。

今日、またそのセールスの人が来た。
中にあったアンケートを回収したいと言うので、捨てたのは悪かったかなという思いから
アンケートだけは協力してあげようとしたのが失敗だった。
子供も答えるところがあるので長男を呼び、玄関先で質問に答えていった。
私は夕食を作り途中だったので場を離れようとしたのだけれど、
子供に質問する場合は必ず保護者にいてもらわなければならない決まりがあるとかで
引き止められてしまう。

何か嫌な感じはしてた。
子供に親しげに話しかけ、握手を求めたりするのは。
アンケートが終わると一年からの成績が内申書につくという話、絶対評価の話、
家から通える範囲の高校のレベルの話などとうとうとし始め、
結局は商品の説明に結びついていく。時間が取られて私はイライラ。
「ご飯作ってるところだ」と言ったり、立ち上がって腕組みして時計ばかり見たりしても、
相手は「もう少しですから」と説明をやめない。

そして最後には、
「どうですかお母さん、もし子どもさんがやりたいと言われるなら応援して上げてみてくださいよ」と
説明と同じ口調で自然に言い、すぐに子供に「じゃあ、頑張ってみようか」と話しかける。
息子は馬鹿だから流れに飲まれて、私が賛成するならとやる気になって「はあ」と頷いてしまう。
何だ、コリャ?
いつ、誰がやりたいなんて言ったよ?
まあ、見事なテクニックだ。

「ダメです。やりません!」
子供と握手しようとするセールスマンをさえぎって私は睨みつける。
「アンケートに答えてくれと言われたから協力しました。契約はするつもりはありません!」
セールスマンは焦る。
「何かご不満な点でも?」
「必要ありません」
「どこで必要ないと思われたのですか?」
「最初からやらせるつもりはありません」
「お子さんがやる気になってるのにですか?」
「子供がやりたがっても、私がやらせません!」
「どういう理由があって?」
「必要ないからです」
「その必要ないと言う根拠は?」
「必要なものであれば、私のほうから求めます。
 押しかけてきたものだから必要になるような事はありません」
「警戒しているんじゃないですか?」
「警戒ではなく、いらない物をいらないと断っているだけです」

実際はもっと長く激しいやりとりがあった後、あきらめてセールスマンは帰った。
息子は「お母さん、言いすぎ・・・」としょぼくれて、
「俺、やるって言わない方がよかった?」と聞いてくる。
大人のプロのセールスマンに口説かれてキッパリ断れる中一がいたら、
それはよほどのこまっしゃくれだろう。
勉強嫌いの子供の心をくすぐる薄いテスト集。
しかも「わかるところだけやろう」という優しい指導。
それで各教科の各単元のどこの理解力が弱いかや、学年別偏差値、
エリア内の高校の合格率予想、学習で注意すべき点など事細かに判断され、
おまけに性格診断、適性診断、相性診断までついているという充実振り。
それでたった2900円なのだから「ま、とりあえずやってみてもいいかな」という気にさせられる。
が、いらないものはいらない。
後々、他の教材販売が押し寄せるかどうかはわからないが、
気分だけでのせられた子供が真面目に取り組むはずはないし、
出た結果が自主学習に活かせるとも考えられない。
なにしろ、勉強が嫌いなんだから。

やる気がないならやらなくてもいい。
困るならとことん困ればいい。自分の事だ。
高校にも、行けないならいかなくてもいい。

必要なものは自分から求める。

その気持ちが情熱になる。
鼻先に水を持っていって飲め飲めとやるのは、親切でも愛情でもない。
誰か人が「あなたの為に」やってくれる事は、本当には「私の為」にはならないのだ。

・・・ということを、私とセールスマンとのやり取りで息子が感じてくれてれば、
いい「勉強」になったと言えるだろうが、どうかな?(笑)

こころの休息場所

中学校には「カウンセリングルーム」と「心の相談室」がある。

カウンセリングルームは週に一日だけスクールカウンセラー(心理相談員)が来て、
人間関係や不登校、心の問題などに対して生徒・保護者の相談を受け付ける。

心の相談室には女性の心の教室相談員が応対してくれる。
この方は別の学校のPTA会長で、市P連の交流委員長さんでもあり、
私も会合などで時々お見かけする。
こちらは週に二日開いているが、一人当たり相談時間は一時間で、個人利用は週一に限られている。

平日はもちろん授業があり、その時間を抜けての相談になるので、どちらも前もっての予約制。
本人が利用する事は保護者と担任の知るところとなる。
ちょっとした愚痴や、思春期特有のモヤモヤを気軽に吐き出せるような場所ではなさそうだが、
実際、利用者はどれくらいいるものなのだろうか。

息子に聞いてみたところ、授業時間にどれだけの人が出入りしているものかは把握できないものの、
休憩時間の自由相談には誰も行ってはいないようだとのことだった。
敷居が高いというか見えない壁があるわけで、
自分の方からそれを乗り越えて心を開きに行くような生徒はいないのだ。

しかし、息子は教えてくれた。
皆が何でも相談できる場所がある事を。
学校でのちょっとしたトラブル、家庭の事情から恋の悩みまで、
男の子も女の子も話をしに行く人がいると言う。

それは、
ただの給食のおばちゃんの中の一人。
「お母さんも知った人だよ」と名前を言われて驚いた。
同じ町内で私の前の一昨年の子ども会会長をしていた人だった。
普通の人。
小柄で、チャキチャキしたしっかり者っぽいけれど、特に目立つ人ではない。
その彼女が大人気なのだそうだ。

いつも人が集まってて、好きな人へのプレゼントは何がいいかとか聞いたり、
親や先生の悪口とかも好き放題言い合える雰囲気。
日頃から接しているから、もちろん個人的な悩みもコッソリ打ち明けたりできるようで、
教室には顔を出さない生徒が、おばちゃんのところでは見かけられるという事もあるらしい。

カウンセラーでもなく、心の相談員でもなく、
給食のおばちゃんが生徒達の心のオアシスになっている。
悩みを解決するアドバイスを仕事にしている人と、
仕事とは別に、コミュニケーションを楽しむ人との差がそこにある。

学校側は、「カウンセリングルーム」と「心の相談室」を置いて、
子ども達の心のケアに力を入れているという形を作ってはいるけれど、
実際の「心たすけ、心そだて」は形ではないのだと気付いた出来事だった。

親のない子と子のない親と

  時には 母のない子のように 黙って 海を見つめていたい
  時には 母のない子のように 一人で 旅に出てみたい
  だけど心は すぐ変わる
  母のない子に なったなら 誰にも愛を 話せない

  時には 母のない子のように 長い手紙を書いてみたい
  時には 母のない子のように 大きな声で叫んでみたい
  だけど心は すぐ変わる
  母のない子に なったなら 誰にも愛を 話せない

    「時には母のない子のように」寺山修司作詞・田中未知作曲

古い唄を口ずさみながら考えていた。

親のいない子供は大勢いる。
親の病気、虐待、経済的理由、その他の離別によって、
子供の当然の権利である親による養育が受けられすにいる。
厚生労働省では里親の掘り起こしの為に、
全国の児童相談所に専門スタッフを配置するのだそうだ。

一方では、不妊に悩む夫婦も多く、全体の15%だとも言われている。
評判の不妊治療専門医には、連日多くのカップルが予約を入れている。
人工授精、体外受精、果ては海外での代理出産まで、
経済的にも肉体的にも負担が多いにも関わらず、皆、必死だ。
少子化時代と言われるけれど、子供が欲しい人の執念は凄まじいものがある。

だが、なぜ自分の遺伝子を持つ子供にこだわらなければならないのだろう?
女として、自分の体内で命を育む経験をしてみたいというのは私はよくわかるが、
それが望めない、あるいは非常に困難であるのなら、
わざわざ不自然な体外受精や代理母で子供を「作る」ような事をしなくても、
親を必要としている子供と家族になるという事は考えられないものだろうか。
わずかでも可能性に賭けたいのならそれはそれでいいけれど、
辛い思いをして悩み続けるより、ちょっと目線を他に向ければ、
夢を叶えるのは案外容易いかもしれないのに。

日本人は欧米に比べて地の繋がりに重きを置くように考えられているが、
跡取りを他所から養子にもらうとか、捨て子を我が子同様に育てるとかはよくあり、
意外と昔の方が抵抗がなかったようだ。
名のある家柄でもそうなのだから、
姓を持たない庶民はの家がどうだったのかは押して知るべし。

自分の血、自分の遺伝子を残すのがそんなに重要な事だろうか。
それよりもどんな家庭を作り、どう子供を育み、
自分達のこれまでの人生で掴んだ物を未来に繋げていくかの方が
よほど大きな意味を持つと思う。

出会いはいつも必然。
それは夫婦の間に授かった命であろうと、
児童相談所を通しての縁であろうと同じ事。

他の人を通してこの世に生を受けた子供が、
本当のお父さん、お母さんが迎えに来るのを待っている。
そう思える人達が増えたら、
きっと世の中の色々な所が大きく変わって行くことだろう。

原因不明の原因

友人の登校拒否の息子は夏休み明けてもやはり学校へ行けない状態が続いている。
教室に入りにくい生徒の為の部屋もあるのだが、
時間が限られていて、一日中いるわけにはいかないので困っている。

学校に行けない理由はいまだはっきりしない。

このように本人にもわからないという事例が増えてきていると専門家は言うのだそうだ。

親もどうしていいかわからない。

彼女は他の不登校の子の親たちともいろいろ話をしてみたらしい。
そして「父親はどこも同じね」と言う。
子供の様子を知っていながら何も動かない父親に業を煮やして「ちゃんと話をして欲しい」と頼んでも、
「何て言えばいいのかわからない」と答えるのだとか。

どこも同じじゃないけどね。

わからない子に、わからない親。
何がわからないかわからないのは、わかろうとしないからってわからない?

腫れ物に触るかのような人間関係は、一つをつつくと全体に響くから難しい。

無責任な未来予想図

金曜日の夜、食器を洗っている時に、子ども達がたまたま細木数子の番組を見ていて
「お母さん、この人ひどいよ」と呼びにきた。

悩み相談のコーナーに出ていたのは母子家庭の14歳の少女で、
母親の彼氏からの性的いやがらせを受けているが、母の幸せの為に我慢すべきかどうかという内容だった。
母に訴えても取り合わないという。

子供が親の身勝手さの被害に遭うなんて話は聞き捨てならない。
そこで、天下の大占い師がどんなアドバイスをするのかと見ていると、
「お嬢ちゃん、あなたが選ぶ道は三つあるの。」と言う。
「一つ目は、あなたのお母さんは鬱病だから病院に連れて行って入院させなさい。
 それが出来ないなら、二つ目。あなたが施設に入って、そこから卒業まで中学へ通いなさい。
 三つ目、祖父母を頼って行って、「何でもするから」と置いてくれるように頼む方法。」
この中から彼女自身が自分で方法を選んで動けと言うのだ。

我慢しなさいと言わなかった事だけは評価できるが、これのどこが占いなのだろう。
霊感も何もまったく関係なく、親身な相談とも言えない、
他人事として誰でもがとりあえず思い浮かべるような選択肢を出しただけで終了とは。
これで大人の都合に翻弄される無力な少女の悩みは解決したと言えるのだろうか。

納得できない気持ちと、番組への怒りがフツフツとわいてきて仕方なかった。
番組はビジネスだし細木は占いだけが仕事で人助けのボランティアではないのは百も承知だが、
未成年者が不健全な家庭の問題を抱えていて追い詰められていると知った大人達が大勢いて、
誰も手を差し伸べてはくれないとは。
14歳の少女に自分の身の振りかたは自分でどうにかしろと突き放すのが大人のやる事?

みのもんたの番組に未成年者が出たときには、
「後でちゃんとした専門の人が責任持って一緒に考えてくれるからね。もう大丈夫!」と
言ってもらえてて安心できたものだが、今回は後味の悪さだけが残ってしまった。
こんなの、やらせでないなら酷すぎる。


その後、番組内でゲストとの対談中に細木は、
「私には全能観世音菩薩がついていて、すべて頭に浮かんでくる」などと言いだした。
ついに神がかり。
いや、仏がかりとでも言うのかな?

どいつもこいつも、幼稚なオカルト思想を安易な無責任さで垂れ流す恐ろしさに
どうしてこうも鈍感でいられるのだろう?

細木の占いと麻原の予言は、根拠のなさにおいて何ら変りはないというのに。

イッツ・ア・スモール・ワールド

めずらしく息子達が大喧嘩をした。
きっかけは些細なことだが、今回はそれがちょっと行き過ぎた。

腹を立てた次男が部屋に駆け込んで、兄に「入ってくるな」と怒鳴る。
長男が怒って「お前の方が出て行け」とつかみかかると
加減なしのパンチを顔面に喰らい、日頃温厚な彼もさすがにスイッチが入ってしまった。
「お前、いい気になってふざけるなや!」言いながら次男を廊下に引きずり出す。
暴れる次男。殴る蹴るの長男。
しかし私は止めない。知らん顔。

ただ、チビがオロオロして近くに寄ろうとするのは慌てて止めようとした。
すると長男が振り返り「危ないからあっちに行ってね」と促す。
そう。
この子は、腹を立てたとしても決してキレて我を忘れることはないのだった。
だから当然、殴る蹴るも力を加減するし場所を考える。
怒りが向う場所も間違えない。

そんな長男とは対照的に、次男は感情が先走るタイプ。
カッとすると何もわからなくなる。
後先なしに手が出たり、物に当たって壊したりする事もあり、
それを長男は持て余して、ごくたまにこんな喧嘩になる。

私が割って入ればすぐにおさまるのはわかっているが、私はあえてやらない。
日頃から弟君は長男を舐めてかかってる所があるので、
この際、兄の威信を示すいい機会だろうと思っての事だ。
それに隣の部屋には夫がいて聞いているはずだ。その辺の判断は彼に任せておけば間違いはない。

喧嘩は、次男が泣いて戦意を喪失し終わったようだ。

翌日、たまたま長男と二人になった時に尋ねてみた。
「ああいう場合、お母さんが止めた方がいい?放っておいた方がいい?」
息子は「止めて欲しかった」と言う。
「もう終わりにしたいのに、あいつがきかんから困るんだ」と。
長男は怒りの持続時間も短いようだ。
それで私は、あえて止めなかった理由と、
「君なら無茶はしない」と信頼している事を話してやり、
今度、対処に困っているようなら助け舟を出すと約束をした。

一方、次男の方には、
「お兄ちゃんは手加減してくれてるんだよ」と言って聞かせておいた。

長男はこうも言っていた。
「あいつ、おかしいよ。あれだけ派手に暴れておいてすぐに普通に話しかけてくるんだから。
 無視しようかとも思ったけど、可哀想だから返事してやったんだけど」

それが兄弟。それが家族のいい所。


一番小さな単位の社会である家庭は、
摩擦、衝突、解決、和解を学ぶ為の最良なステージと言われる。
いろんな個性、年齢差、性差、それぞれの立場・役割の調和を、
互いが歩み寄って作る、完全に利害の一致したグループ。

もちろんいつも安定した居心地のよい場所であるのが好ましいのだが、
事なかれ主義の我慢などは必要ない。
バーンと派手に爆発しても関係が揺るぐことはないという安心感が、
自分を信じ、世界を信じられる軸になっていくのだと思う。

子ども達が年をとった時、帰りたい場所として今の家が心に浮かぶようであって欲しい。
そんな思いのもと、今日もドタバタな日常は繰り返されていくのだった。

ひがみ被害者の言い分

不倫妻を批判するサイトには連日、いやがらせメールやコメントが送られるようだ。
同じ人が送るわけではないだろうが、決まって使われる固定フレーズ的セリフがある。

「私は最高に幸せだから、心配なんかいらないわ」
「人の事がそんなに気になるのかしら。暇で寂しい人ね」
「男性に優しくされたことのないブスのひがみなの?」
「女として愛されない家政婦はお気の毒」
「欲求不満のヒステリーとしか見えないわね」
愛に満たされてハッピーなモテモテ奥様がこんな言葉を発するのだから笑える。

批判 = 嫉妬
としか考えられないというより、
そういう事に無理やりにでもしておかなければ何かと都合が悪いのだろう。

この構図は何も不倫妻だけに見られるものではない。

美人だからブスに妬まれる。
仕事が出来るから敵が多い。
頭がいいから理解されない。
モテモテだから同性に嫌われる。

自分に批判的な人は皆、妬いていると思いこんでいるわけだが、
大抵の場合、人に嫌な感情を与えるのは本人に原因があるものなのだ。

自然に考えれは、
美しい人は誰が見ても美しく、見るだけで気持ちの良いものだ。
仕事が出来る人がいてくれれば効率は上がるし、活気が出る。
頭の良い人は、新しい発想を次々に繰り出して周囲には刺激剤となる。
モテモテの人からは異性を楽しませるコツを学べばいい。

人より優れているからというだけで反感を買うなんてことは、まずない。

よく観察すると反感は、優越感を露骨に表す配慮のなさと、
より自分を高く評価させようと人を見下す言動から生じているとわかるだろう。

実際、こういう人は他人を否定する話を好んでする。
あれはダメ。この人はわかってない。最近の若者は話にならない。
「それに比べて、私は・・・」というわけだ。

自分より下の人がいて成り立つ自慢話に不快感を持つ人は、
むしろ精神的に健康な証拠。

自分を認める人だけが本物を見分ける目を持つというレトリックで集まるのは、
価値のわかる人間として認めてもらいたいタイプか、もしくは別の企みを持った人。
人が人を利用する形で成り立つ関係は、共依存と何ら変わりはない。

虐められっ子が虐められ体質なのと同じで、
反感を買いやすい人は、自分自身が頑なであるからなのだ。
人を値踏みし、利用価値のないモノを切捨てて拒絶する人が、
結局は自分も同じ目にあっているだけ。

悪意も中傷も妨害も工作も、自分が人に発したのと同等同質の物が返ってくるに過ぎない。
女性に嫌われる美人、足を引っ張られるエリートは、なるべくしてそうなっている。
人を平気で踏みつけているから。

それは、カルト宗教が批判を「法難」とすりかえるのとも同じ。

嫉妬する人が悪いと言って自分を省みないうちは、
自分が生んだ妄想の被害者であり続けるしかないのだ。

あなたの悪口教えてあげる

人のやる行動で私が一番不快に感じるのは、
「あなたの悪口を聞いたよ」との告げ口。

「あの人があそこであなたの事こう言ってたよ。ひどいねー」と言う人を私は信用しない。
噂をしていた人達よりも、わざわざ教えに来る人に怒りを感じる。

この人のその場での反応はどうだったのだろうか?
そこで噂を否定して終わったなら、私に教える意図はどこにあるのだろう?
そう疑問を持てば見えてくる物がある。

告げ口をしてくる人は、
誰かに悪く思われてる、嫌われてると教えて、私が傷つくのを望んでいる。
自分が嫌いな人を、私に一緒に嫌って欲しいと思ってる。
敵を教える自分は味方だと一生懸命アピールしている。

良い人の自分を好きになって欲しいという、隠れた思惑が言葉の端々に表情にチラチラ。
それのどこが「あなたのため」なのか。

私は何度かそんな経験がある。また、似たような事をあちこちで見聞きする。
だから私は「あの人がああ言ったらしい」「この人はこんな人と聞いた」という情報を得ても、
参考の一つとして聞くけれど、自分で確かめたのではない物は信用しないことにしている。
人から人へ伝える言葉には、間に入った人の思念も共に伝わってしまい、
また事実であっても、全体の流れの中から一部だけを取り出せば、
まったく違う意味を持たせられるという事は往々にしてあるからだ。
そんな例は、テレビでも見られる。
ある人の話した言葉が部分的に切り取られ、アナウンサーの脚色や勝手な思い込みでの批評によって、
元の発言とは逆の内容として視聴者に届いてしまったなんて事は頻繁に起きているではないか。

もし、私が知り合いの悪口を聞いた場合、自分の知っている範囲での否定はする。
人を100%知り尽くせはしないから、把握してない面もあって不思議はないけれど、
それでも人づてに聞く話より、自分にとって本人がどう見えるかを信じる。
内容をわざわざ本人に教えたりはしない。
親しげに近付いては得た情報をあることないこと加えて面白おかしく言いふらす人の餌食になってるようなら、
それとなく注意はするけれど、その人への評価の判断も、本人が直に接した中ですればいいと思うからだ。
接点もないほどの人であるなら尚更、気分の悪い話を耳に入れる必要もない。
違法であるとか、自分に実害が及びそうというものでない限り、特に真相を確かめもしないだろう。

ということで、
私に悪口の告げ口をする人は、たいてい私の反応にガッカリするようだ。
怒らせて、相手の悪口で盛り上がる事によって連携を図りたいのだろうが、
人づての話で感情を乱されるほど私は青くはない。
人が二人いて話をした内容を、どうして片方だけの情報で判断できるだろう。
悪意が介在するしない関係なしに、人は自分の都合の良い事しか口にしないものだとも知っている。

私が不快に感じるのは、そこにいない人ではない。
「人があなたをこう思っている」
「皆が嫌っている」
それが何?

あの人が好きだの嫌いだの、
あの人は良い人だの悪い人だの。
そんな事はどうだっていい。

知りたいのはただひとつ。
そんな話をする、あなたはどうなの?

私はいつも目の前の人とだけ向き合っている。
それだけだ。

「お手つないでブログの輪」依存症

ブログ依存症、アクセス依存症というのをあちこちで耳に(目に?)するようになった。
ブログには常習性があるようだ。
チェックリストをお遊びでチェックしてみると・・・当てはまる物多し。
ブログ依存度チェック
ブ中ロ毒グ -プロファイル-
ムムム。
お気に入りに「Blog」のフォルダを作ってる。
日常で何をしても「これ、ブログのネタに使える!」とか考える。
今日はまだ更新してないから何か書かなくちゃと思ったりする。
暇だとついアクセス数を気にしてしまう。
内容も読まずにタイトルだけでトラバしちゃった事もある。

人はなぜかくも簡単に中毒に陥るものか。

普段から生真面目な人なら、
「ブログを始めた以上は責任を持って、日々更新しなければならないっ!」
と不退転の決意で歯を食いしばりの更新を続けるということあるかもしれないけど、
このいい加減でチャランポランの私がパソに張り付いてるのって、やっぱり変。
それにこのところ、肩が張るような気がする。
なで肩のくせに肩こりまったくなしを誇る私が。

私はブログというものを、自分の中の雑多な情報をアウトプットする過程において
整理していく為のツールとして使っているつもりだったのだが、
上機嫌の作法の齋藤孝先生が「孤独のチカラ」でこう言われていた。
「ブログは文章を書く練習、文章修行としては一つのいい手だと思う。」
が、人の目を意識して書く物であるからには、
「エンターテイメントの要素が相当強く入るわけで、これは孤独の作業とはやや意味が違う。」と。
「一見すると本心をさらけ出すべく書ける機会は増えているのに、
 実際は本来ぶつけたいものをまったくぶつけずに書くしかない。」
それでは自分の為に自分とのみ向かい合い、信念のマグマを作り上げる事にはならないのだ。

一人でパソコンに向っていながら、常に自分がどう見られているか人目を気にしている不自然さ。
携帯メール依存症の若者を笑ってはいられないではないか。

なるほど、だから自分のブログを気に入らない人が見ているだの、
どこかで噂されてるだのを異様に気にしている人もいたりするのか。
足跡をいちいちチェックして、誰かが何か言ってやしないかわざわざ巡回してでもいるのだろうか。
気持ちの悪い自意識過剰。
ネット社会であっても現実社会のクセはよく現れているものだ。
昔からゴシップにはまったく疎く、連れション、井戸端会議不参加率100%の私には
少し羨ましくもあるけどね。そこまで赤の他人に関心を持てると言うのは。

まあ、何にしろ依存はよくない。
とりあえずアクセスカウンターは外して、中途半端な文章は削除した。
ブログは人目を気にして書くところ、と割り切ればむしろサッパリする。
そしてそれとは別に、ひとりの時間を充実させる方向によりエネルギーを注ぎたいと思っている。

嵐の後

朝からせわしなかった。
6時過ぎに小学校の連絡網が回ってきた。
「断水と通学路の確保が困難な為、休校です」と。

防災無線はひっきりなしにお知らせを流す。
道路の通行止めのお知らせ、断水のお知らせ、小中学校休校のお知らせ。
小学校前他、あちらこちらの道路が通行止めになっているようだ。
幼稚園からも連絡網で休園の知らせが入る。

夫はとりあえず行ってみると一旦家を出たものの、
やはり道路がどこも通行止めで帰ってきた。
「小学校の前の道路が陥没したらしい」という話を仕入れて。

つい先週の金曜のPTA役員会で会長が、
市に要望を出してもすぐの事にならなかった学校前の道路の舗装の修理を、
なんとか個人的に担当の人にかけあって工事してもらい、
「これで雨の多い台風シーズンを迎えても一安心。
これもひとえに僕の手柄ですから。(*^_^*)>」なんてジョークも飛ばされて、
皆でワー、パチパチ(拍手)、と喜んでいたばかりだったのに、とショック。。。

お昼から日が射してきたので、その陥没現場を見に出かけた。チビを連れて。
幼稚園で少し話して、下におりていくと、
ちょうど町内の井戸端会議奥様達が視察を終えて帰って来る所にも出くわした。
「近くまで寄れた?」「うん、すぐそこまで行ける。凄かったよ」という会話の後、
さらに歩いて広い道路に出ると道路交通課の人だろうか、
ようやく通れるようになった道を一台一台に指示している。
すぐに夫に電話して報告するも「今、ビールを開けたトコ」と言う。今日は休みに決めたよう。


ガードレールがちぎれて、道路の跡もない

全面 通行止め


交差点を過ぎての小学校方面は道路は封鎖され、人がまばらに歩いているだけ。
近付いてみると、何かヘン。あるべきものがない。???


向うに見える家と同じ並びで建物があったはず・・・

川の反対側から見たところ


小学校の前の道路に穴があいたのではなかった。
道路の半分が流れてなくなってしまっている。
その横に建っていた集会所と民家二件も丸々、地面ごと。


アスファルト道路が泥で埋まっている

橋に流れた家の建材や流木が

新聞社の人が写真を撮っていた。上空にはヘリコプターが飛び回る。
学校に行くと、校長先生がどこかの記者に取材を受けていた。
教頭先生もお疲れの様子。
前日から避難していた人を受け入れて学校で夜を明かしてらっしゃるから。
学校は明日も明後日も休校。月曜については日曜に連絡するとの事。
道路が復旧するには、相当長くかかりそうだ。
18日には運動会の予定で、駐車場の券を配布したばかりだったのだが、
これもどうなるかわからない。
トラックが乗り入れられないとなると、育成会のテント張りも無理。

どうなるのだろう・・・。
台風シーズンはまだ始まったばかり。

嵐の前

昨日、午後二時頃に夫から電話。
「市内のスーパーは水もパンもカップ麺も売り切れているが、そっちは準備はいいのか?
 こっちはもう電車も止まってるぞ」

私は前日に買い物は済ませていたが、そういわれると急に不安になってくる。
何か忘れてるかもしれない。
困ったことになるかもしれない。どうしよう、どうしよう。
私はこんな時、やたらと心配性。
風雨が本格的に酷くなる前に動いておかねば身動きが取れなくなると思うと尚の事、
じっとしてはいられないで飛び出す。

しかし、スーパーに行って買ってきたものは・・・、
カップ麺6個一食分、単一単二乾電池、お菓子類、と、ビール。
「こんな時に何を買ってきてるの!」と子ども達にも言われる始末。
何かやってないと落ち着かないから、
とりあえず手軽なエネルギー源を仕入れてきたといった所だ。

不安とワクワク感はよく似てる。

夕方、夫が「雨で前が見えない」なんて電話で言いながらもなんとか無事帰宅。
懐中電灯四つのうち、二つが壊れていたので修理してもらって台風の準備万端。
一時停電にはなってもすぐに復旧。
雨も風もさほど強くは感じられないのだが、防災無線では、
近隣地域に川の決壊の恐れがあるため公民館と小学校に避難するように呼びかけている。
台風の最大接近は午後11時から午前2時までとの予報が出ており、
土砂崩れの可能性を考え山からなるべく遠い部屋で寝るつもりではあったが、
寝る頃には、家の前の山の下の空き地でのんびりとコオロギが鳴きはじめていたので、
安心していつも通りに和室で寝る事にした。
虫は危険に敏感なはずだと信じて。

私達はそのまま、夜間に風の音で起こされることもなく朝までぐっすりと眠ったのだった。

探し物は何ですか

どうにも避けようがなかった被害への慰めの言葉として、
「野良犬に噛まれたようなもの」
「交通事故に遭ったようなもの」という言い方をする事がある。

「私がもっと気をつけてさえいれば・・・」
「あの時こうしていれば・・・」との後悔の念に囚われていては、
いつまでも前を向いて歩き出すことはできないからだ。
起こってしまったことは仕方ないと、どこかで折り合いをつけなければならない。

しかしそれと、
不倫したり、サラ金に手を出したり、
カルト宗教にはまったりするのは、まったく違う。

「そんなつもりじゃなかった」と言っても、それは通らない。
「どうしようもなかった」と言うのは自分だけで、誰もそうは見ない。

普通に道を歩いていて襲いかかられたのではない。
自分から好んで出向いているではないか。
欲に駆られて。
心の飢えを満たす為に。

自らが危険に近付く蛮行を犯しながら、
「野良犬に噛まれた」「交通事故にあった」としか捉えていないとするなら、
それはその人がいかに自分の居場所をわかっていないかの証拠。

彼らは野犬のうろつく危険地域を遊び場にし、高速道路を散歩道だと思っている。
スリルを楽しみ、一般人の踏み込まない領域にいる優越感に浸って、
他人に「悔しかったらあなた達もやればいい」などと言ってみたりもする。

痛い目を見ても「運が悪かった」「相手が悪い」と言ってるうちは、
何度も繰り返すことだろう。
よく躾された可愛い野良犬集団も、歩行者優先高速道路もありはしないというのに。

欲しいのは、
愛情に満ちた生活か。豊かな暮らしか。心の安定なのか。

それはアンモラルな関係がもたらす刺激的なセックスで得られるものだろうか?
自分の分を越えた高価な物で身の回りを埋め尽くしてご満悦?
パワーグッズやまじないで運や縁を思いのままに操れる特別な人間になれば嬉しいのか?

そんなものをいくら追っても求めても満足できる日は来はしない。
まやかしはまやかし。

「今度は本物」
何度その言葉を使っただろうか。
そうしてまた「騙された」「ツイてなかった」とボロボロに傷ついて、泣くのか怒るのか。

繰り返しているうちに、短い人生はすぐに終わってしまう。

空飛ぶ会話の行き先は

脳を一番使うのは人との会話なのだとか。
しかし人に配慮しない会話は、頭を使わない。

唐突に出る固有名詞。
自分勝手な前提。
めまぐるしく変化する内容。

相手も状況も見てはいない。

上二つは、俺様的男性に多く、
下のは、お喋りな女性に多いような気がすると夫に言うと、
「そうか?」と少し考えてから、
「そうだな。話してて『何の話や?』と俺はよく聞くよな。
 お前、話、飛びあげるから」とのたまう。

すまんことです。(汗)

三つとも当てはまるのは、子供たち。
自分が見聞きした物は、親も知ってて当たり前のように話す。
そして「あれ」とか「あの時」など、ハッキリしない主語での会話で同意を求めたりする。
それでいて「何の事?」「はっきり言って」と聞くと「もう、いい!」と怒り出したり。
私はテレパスじゃないからわかんないよ。

食卓では、空気の読めない子ども達が誰かが話をしてようがお構いなしに、
自分の話をしたがるので大変。
それぞれが何の脈絡もなく、話したい事を話してくる。同時に。
私は聖徳太子か。

うちの食事風景は凄まじいものがある。
会話が弾むと、皆テンションが高くなる。
昨日もふと気付くと、それぞれが好き勝手に大声で喋っていて可笑しくなった。
ほとんど怒鳴りあい。声の大きい者勝ちじゃないっての。
人の話をさえぎってでも自分の話しをしようとするから、
相乗効果でどんどんボリュームが上がっていく。
とんだ自己主張バリバリ一家。
そんな中、夫は一人黙々とご飯を食べている。誰の話も聞いてないよ、この人。

女は右脳と左脳を繋ぐ脳梁が太く同時に何種類もの情報を処理できるので、
子ども達の話をわりと聞き分けられて得なのだが、
目は一対、口も一つなので、全員の顔を見て、全員にいっぺんに返事はできない。
しかし返事をするまで「お母さん、お母さん」と呼び続けられる。
大きな声で。
ゲームの話と、お絵描きの話と、魚の図鑑の話と、友達の話をいっぺんに聞かされる身にもなってくれ。

意識してみると、結構私は毎日大変な会話をしてたようだ。
それも頭を使わずに。(笑)

状況や相手の反応を見ながらの頭をフル回転させる会話も大切だけど、
気を使わない、自分をまんま出せる場もやすらぎのためには必要。
オンとオフを上手に使い分けられるのが理想的だ。

異世代・異文化の人との接触は、会話で脳を活性化するのにとても効果的だと言われる。
面白いことに、それははパフォーマンス学で言う所の、
他者肯定的自己主張能力(自己肯定力)を養成するのにも最適な方法なのだ。

成長するには、多くのあらゆる人達とのふれ合い、関わり合いが欠かせない。
という事は、本当に頭が良い人とは、
誰にでも最善の気配りができる、人柄の良い成熟した大人という事になるだろう。

子供と僕とどっちが大事?

もしも連れ合いからこんな質問をされたとしたら、妻はどんな答えを返すだろうか。
多くの女性はどちらかという返答の前に、きっとその質問をする男性を夫に選んだ事を後悔するはずだ。

情けない事件が起きてしまった。
妻を殺害容疑30歳逮捕 育児にかかりきり「許せない」 愛知・一色

今年7月に子供が生まれたばかりならまだほとんど新生児。
初めての育児で、不安で神経をすり減らしている妻を普通なら労わってあげるべきところ、
「かまってくれない」などという動機はあまりにも幼稚すぎる。

この月数では赤ん坊は夜泣きもする、
母親は母乳が出れば乳腺炎になりやすく痛い、出なければ母親失格のようで悩む、
ミルクを作ったり消毒したりで気を使うし、それでも飲みがあまりよくなかったら心配、
オムツ替えを小まめにしないとすぐにお尻はかぶれ、下痢でも便秘でも育児書と首っ引き、
乳吐きが頻繁だったりすると毎回服からシーツから取り替えて赤ん坊を拭かないとならない上に、
窒息しないか目も離せないわ、「たそがれ泣き」で夕食仕度時はキリキリ舞いになるわで大変な時期なのに、
夫のお守りまでしろとは、一体、自分の子の母親である妻を何だと思ってるのだろう。

しかもこの人、自分の実家の土地の離れで暮らしていたと言うのだからあきれ果てた甘えん坊だ。
救急車を呼んだのも、夫の母親。
「長男の嫁の様子がおかしいので」と電話をかけたとか。

「結婚とは何か」、「家庭を持つとはどういう意味か」、「夫の役割・妻の役割とは」、
「子供に対する親の責任をいかに果たすべきか」という事を何一つ考えられないままで、
年齢だけ重ねて大人のふりをしている幼児なのだ。この妻殺しの男は。

しかももし今回、妻が殺されていなければ赤ん坊が危なかったと言うことも考えられる。

椎名篤子原作・ささやななえ絵の子供虐待ドキュメンタリー「凍りついた瞳」にこんなエピソードがある。
小学二年の少年が母親が再婚し父親となった男から酷い虐待を受けていて、母と一緒に児童相談所を訪れた。
普段は優しい父親がお酒を飲むと豹変して残虐な行為に及ぶのだ。
相談所では母子をかくまい何とか逃がす段取りをつけたのだが、
「もう殺されるかも」とまで追い詰められていたはずの妻は夫に探し出されるとあっさり家に戻ってしまった。
あまりに奇妙ななりゆきに納得がいかない担当者は頭を抱え、
ある時、母親から担当を女性にかえて欲しいとの申し入れを受けて「あっ!」と気付く。
「主人が男の人はだめだと言うんです。誰にだってやきもちをやくんですから」の言葉で。
父親が子供を虐待する理由は、母親が子供の世話をして自分をかまわない事にあった。
日頃大人しく不満をためる人が、一旦酒を飲むと暴れだし、
母親に「俺と連れ子とどちらが大事なんだ。証明しろ」と言い、子供に暴力をふるいだしていたのだ。
この後、相談員はこう考えた。
「妻である事を優先する母親と、それを喜ぶ夫が夫婦円満になれば、子供にとってそれ以上の幸福はないのだ」と。
正しいあり方ではなくても当面の問題を解決する方向へ形からでも持って行ければ、
心が後から付いてくる事もあるから。

しかし、妻が殺害された今回の事件は出産からまだわずか二ヶ月。
誰にもどうすることもできなかった。
つい最近、幸せそうに近所に挨拶して回り、誰もが羨むほどの夫婦仲の良さだったと言う。
カッとしてすぐ極端な行動に出るのは、やはり時代のせいだろうか。

未熟な心の人は、愛して欲しい人から自分が望むほどの愛が感じられないとき、
自分を拒否されたように感じ、激しい怒りを覚える事がある。
思いのままにならないモノがあるのが許せないのだ。
そして破壊衝動から、すべてを失う。。。

本来なら反抗期に何度も親と衝突し、力関係を計りつつ乗り越えるべき壁だったはず。
それを越えられず成長が止まったままで今日まできてしまったのがこの男の悲劇だろう。

妻を取られたと嫉妬した父親に母を奪われてしまった首もまだ座らぬ赤ん坊がこの先どう育つのか。
それを思うとあまりに不憫でならない。

私は肉食動物

一日に茶碗一杯の自家製青汁だけで10年過ごしている43歳の女性がいる。
健康状態の検査の結果、どこにも異常は見られず、
骨密度などは、同年齢の女性の平均値を大きく上回っていた。
なんでも、青汁だけの食事を続けてきた為、
腸内細菌が変化して草食動物と同じようになってしまったのだとか。

身体に良く、経済的な食生活。
だが、なぜか羨ましくない。

あれっぽっちしか口にしてないのに、
何で太ってるの?と思ってしまう。

よく考えたらそうだ。
太ったウシとかウマはいる。草しか食べてなくても。
ダイエットなんて無駄?

私は雑食でいい。
お肉も魚も美味しく楽しく食べたいから。

「健康の為に~すべし」とか、いらない事など考えず、
好きなものを好きなだけ食べるのが一番いいように
元々人間の身体はできてるはず、というのが私の持論。

青汁大好きで、バラエティ豊かな食卓は性に合わない人は
それが最適な食事だというだけ。

土を食べたい人は食べれば良いし、
電球を食べたい人はそれもいい(ちょっと違うか・・・)。

さあさあ、食欲の秋だ。
モリモリ食べるぞーーー!!
プロフィール

ぽあん

Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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