雪の女王

「私は冷たい人間だ」と言った人に、
「本当に冷たい人は自分を冷たいとは思わないよ」と“慰めた”人がいた。
この人はどうしてそういう事を言うのだろう? と私は不思議に思った。
せっかく人が「私は冷たい」と言っているのに否定しては可哀想。
しかしそれは、どうやらその人には言われてありがたい言葉だったようだ。

だけどそれでも「そうか、私は冷たくなかったんだ」とはならないで、
自分の冷たさにこだわり続ける。
「冷たくない」といわれて嬉しくて、
「冷たい人間」であるのが嫌であるなら、
「私は温かい人間になりたい」と言った方が適切だろうに。

それにしても困った。
と私は考えた。
私も「私は冷たい人間だ」と思っていたからだ。
冷たくて冷たくて触るものをすべて凍らせてしまうから、
それならいっそ雪の女王にでもなって氷の宮殿に住もうかと思っていたのだが、
「本当に冷たい人は自分を冷たいとは思わない」のなら、
氷河を溶かしてしまう恐れがある。
私はこれ以上冷たい人間にはなりたくはない。
このままのナチュラルなクールさと自分が思っている冷たさが好きなのだ。
仕方ない。氷の宮殿は諦めるとするか。

またある時、
私の「人を見る目は冷たい」と言う人がいた。
その人がそう感じたのだからそうなのだろう。

参考↓
●冷たさについて
 まぼろしの敵
 わたし(ぽあんバージョン)
●強さについて
 「強さ」の意味
 強い人
●愛されたい人について
 好きになってもらう努力
 あんびばれんつ
 奪われた心
 あきらめの対極
 愛は七転び八起き

いつも同じ事を言い続けている。
どう受け取るかは、読み手の自由だ。

断言!!

「私は運が悪いかもしれない」と思ってる人、
はっきりさせましょう。
あなたは運が悪いです。

「私は性格が悪いかもしれない」と思ってる人。
性格悪いです。

「私は馬鹿なんじゃないだろうか」
はい。馬鹿です。

まず、認めること。

だから何なんだ。
それがどうした。

運が悪くても上機嫌。
性格悪くても上機嫌。
あたま悪くても上機嫌。

何の問題もない。

さあ、次行ってみよう!

湧きいずる悩み

悩みとは、どうしようもない事を思い煩う事。

  こんな生まれでさえなかったら。
  あんな親でさえなかったら。
  虐めさえ受けなかったら。。
  貧乏でさえなかったら。
  もっと頭が良かったら。
  可愛い顔にさえ生まれていれば。
  暗い性格でさえなかったら。
  太ってさえいなかったら。
  つまらない会社に就職さえしなかったら。
  厳しい上司さえいなかったら。
  意地悪なお局様さえいなかったら。
  好きな人に彼女さえいなかったら。
  歳を取りさえしなかったら。
  こんな旦那と結婚さえしなかったら。
  気難しい舅、口うるさい姑さえいなかったら。
  子供さえ生まれてくれたら。
  子供さえ生まれなかったら。
  子供が受験に合格さえしてくれてれば。
  子供がグレてさえいなければ。
  旦那が暴力さえふるわなければ。
  旦那が浮気さえしないでくれてれば。
  旦那がもっと優しい人でさえあってくれれば。
  嫌な人が多いこんな街にさえ住んでいなければ。
  悪い人に騙されさえしなければ。
  あの時事故さえおこらなければ。
  病気さえしてなければ。

  ・・・・・・きっと今頃幸せだったのに。
  こんなに辛い思いをしてなかったはずなのに。

本当にそうかなぁ。

強さと弱さ

疲れてクタクタになった人だけ見て「弱い人だ」と言う人はいない。
けれど、同じ働きをした二人の片方が元気一杯だったら
その人は「強い人」で疲れた人は「弱い人」と言われる事もある。
本人達も「俺は強い!」「私は弱い・・・」と感じるだろう。
一人一人なら、「俺は元気!」「私は疲れてる・・・」ただそれだけなのに。

結局は、強さも弱さも比較なしにはありえないという事。
実体はない。
それなのに、どこからか出てきてしまう「私は弱いから」の泣き言。
「強くならなきゃ。強くなりたい」の願望。

何が強さかの基準なしで、どうやって強くなると言うのか。
本気ならモノサシは見つかる。
弱音は出ない。

エスケープ

本当に強い人は弱い人を虐めない。
そして、自分の弱さを知る人は、他の人の弱さも許す優しさを持つ。
・・・とよく言われている。
そうだとすれば、私は本当は弱いくせに虚勢を張ってる虐めっ子なのだろう。
「私は弱いから」と言う人に苛立つのだから。
苛立ちながらも、これまでは人を傷つけないように気を配ってきただけで。

私は気付いてしまった。
自分の「人を傷つけたくない」という気持ちの嘘に。
相手を守りたかったんじゃない。傷つけるのが怖かったのだ。
単に他人の機嫌を損ねたくなかっただけ。
居心地悪くなりたくなかった。悪者になりたくなかった。
人に嫌われないように頑張って「良い人」を演じて、
自分の立場を守りたかった。

それは「お前のせいで私は不幸だ。苦労している」と親に言われて、
良い子の仮面をかぶっている子供と同じ。
DV夫に「お前が悪いんだぞ」と殴られ耐える妻みたいなもの。
嫌なのに我慢して被害者ぶってるのはお互い様。

自分の中にある物に気付いたら、外にあるものも観えてくる。
(いや、その逆か)

弱いから何だ。
弱い人は無条件で守ってもらえる特権階級なのか?
強い人には何を言ってもよくて
弱い人には気を使わなければならないなんて逆差別。
弱い人は悩んでいても「それでいい」? 
「そのままのあなたでいい」?
ずっと悩んでるままで?

「傷の舐め合い、共倒れは真っ平ゴメン。いつまでも卑屈な被害者め」
そう言って切り捨てたはずの宙ぶらりんの遠い過去が、
中途半端に“良い人”だった私を嘲る。

私に優しさを期待しても無駄。
やりたい事をやるだけだ。
他人の不幸を慰めながら慰められている人達の群れ、
自分自身のいいわけを許されようとする人達の列には、二度と加わらない。

強い人・弱い人なんて選り分けられてたまるか!
傷なんか自分で舐めといてもそのうち治る。

ハイ、こちらサポートセンター

朝一番で電話がかかった。
ご近所の主婦。
先日、パソコンソフトの使い方を教えに行った人だ。
相当に怒っている様子。
旦那さんが請求書と見積書のフォーマットを作っていて誤って消したのを
彼女のせいにされたらしい。
「私は何も触っていないのに、旦那がやって保存したつもりで間違ったのを削除したら
 元のがなくなったと大騒ぎして、私に探せと押し付けるんですよ。どう思います?」
どうと聞かれても・・・。口ごもる私を無視して彼女は続ける。
「旦那は腹を立ててパソコン蹴るし、昨夜二時までやらされて、
 ずっと親子で責められ続けたんですからね」
親子ということは、お姑さんも一緒?
「そうですよ。子が子なら、親も親ですよ。馬鹿ですからね。馬鹿親子。
 結局は息子可愛さで嫁は悪者。血の繋がりは怖いわ」
言いたい放題だ。
「あの二人にずっと責められたら、いくら温厚なぽあんさんでもキレますよ」
温厚・・・。どうも私を誤解してるような。
「もう、私はこの家を出んといけんかもしれません。やって行く自信がありません」
パソコンソフトの話から、いつの間にか違う所に問題が移ってしまっている。
まあ短気をおこさないで、となだめて昼から行ってみた。
旦那さんは自営業なので家にいらして、奥さんはまだ不機嫌。
「私の車を見かけなくなったら、出て行ったと思ってください」なんて言われ、
今にも戦争が勃発しそうな雰囲気の中、パソコンに向う私。
最悪、私がソフトを預かって自宅でフォーマットを作ろうかと思っていたのだが、
使えそうなファイルが残っていたのでそれを加工した方が早い。
文字入力だけやって後は旦那さんにしてもらうことにした。
タイピング練習ソフトもインストールして、フリーウェアの探し方も教え、
「蹴って壊すぐらいなら、いじり倒して壊してください」と、ちくっとイヤミ。
新しくDELLコンピューターの購入も勧めてサポート終了。
帰りぎわに、「わからない事あったら電話します」と言われたので、
「どうぞどうぞ。夜中の二時でもいつでもどうぞ。
 何だったらうちに泊ってもいいですから」と冗談めかして答えておいたが、
本当にパソコンソフトのせいで家出・離婚なんて事になったら大変だ。
このサポセンは、壊れた夫婦仲の修復は請け負いませんから。

牛乳は毒かクスリか?

どうも牛乳は、身体にいいとも悪いとも一概に言えないようだ。

大塚製薬の人の話を聞いて「絶対に大量に飲む必要がある!」という気になった私だが、
K-Hyodoさんにご紹介いただいた「日本人と牛乳」によると、
むしろ牛乳は害とあり、混乱する。

お腹は壊すし、骨粗しょう症の予防になるとは限らないし、
心筋梗塞・脳梗塞・大腸がん・男性の前立腺がん、
女性の乳がん・卵巣がん・子宮体部がんを引き起こす可能性もあり、
少子化の原因でもあるらしい。
それが本当なら、とても恐ろしい事である。
文部科学省は一日のカルシウム摂取量の基準の50%を学校給食でまかなうように指導し、
事実上、児童生徒たちに牛乳の強制をしている。
とすると、我々は国によって毒を飲まされているのか?

などと考え出すと夜も眠れなくなる。
睡眠不足が一番の健康の大敵だというのに。さてさて。

日本人には昔から牛乳を飲む習慣はない。これは本当である。
しかし、カルシウムの必要量が現代人と昔の人とで大きく差があるわけではないだろう。
では、どこから摂っていたのか。
ムチャクチャ小魚ばかり食べていたわけではあるまい。

調べてみると、日本人のカルシウム摂取量は、長年340㎎~380㎎であったのが、
戦後近代栄養学の導入によって食生活が欧米化し、
欧米のカルシウム摂取量1000㎎/日を目指してなされた1960年代はじめの牛乳普及運動の結果、
現在の一日の必要摂取量600㎎が決められたのだという事だ。
昔から日本人はカルシウムをしっかり摂っていたわけではない。
それなのに古代から戦前までの日本人の骨を分析しても、
高齢者に骨粗しょう症などいなかったという結果が出ている。
反対に牛乳をしっかり飲んで栄養状態がいいはずの戦後生まれの人の骨がポキポキ折れている。
これはどういう事なのか?

実はカルシウムだけを大量に体内に取り入れても骨にはならないのだ。
カルシウムが骨に吸着されるにはマグネシウムが不可欠。
牛乳を飲んでも、ナッツ類や海草、ホウレンソウ、大豆製品、バナナ、青魚などを
食べていなければほとんど無意味ということ。
これは意外と知られていない。

昔の人の食卓は野菜中心で肉を食べる事はあまりなかった。
マグネシウムは野菜から十分に取り入れることができ、
尚且つ、動物性タンパク質によって酸性になった血液を中和させる為に用いられる
体内のカルシウム量は少なくて済むという構成。
必要なものだけ食べて、身体に余計な負担をかけないという
極めて合理的で効率の良い栄養の摂り方をしていたのだった。

また、砂糖や食品添加物に多く含まれるリン酸というのがまた、
カルシウムの骨への吸着を妨害している。
運動不足も言うに及ばず。

どうやら、栄養たっぷりの美味しい食事と甘いお菓子が豊富にある現代は、
いつもお腹をすかせていた昔の暮らしより貧しくなっていたようだ。

さあ、食をもう一度、見直しだ!!

ふたりの孤独

愛して欲しい人は寂しい。
寂しいから愛して欲しい。
愛してもらえなくて寂しい。
寂しいから愛を求める。
愛してくれそうな人に。

愛して欲しい男と、
愛して欲しい女。
向き合って覗き込む瞳の中に自分を探す。
相手に自分がどう見えているか、
相手が自分をどれだけ考えてくれているか。

愛が足りない。愛が足りない。
もっと見て。
もっと知って。
もっと温めて。
もっと優しくして。
傷を癒して。空腹を満たして。
わたしだけを想って。
わたしだけのあなたでいて。

冷たい手と手、
冷たい唇と唇、
冷たい心臓と心臓。
重ねても重ねても温もりは灯らない。

成長期における身体作りについて

PTA連合会研修会に行った。
私が出たのは育成委員会分科会で、
広島東洋カープのトレーニングアドバイザーや高校陸上の指導等を経て、
現在大塚製薬消費者商品販促課で各種研究をされている金山牧子先生の
「成長期における身体作りについて」の講演を拝聴した。

私は子沢山の割には、食について悩んだことがこれまでまったくなかったので、
「食事は食べたいものを食べたいだけ楽しく食べればいい」をモットーにしていたのだが、
講演を聴いて、ちょっとばかし認識を改めた。
成長期におけるカルシウムとビタミン、
そして運動直後のプロテインの必要性をよく理解した。

まずカルシウムは、一人あたり一日の最低必要摂取量が牛乳600ml。
それに足りない場合は怪我の可能性が増えるので、
サッカーで県のベスト4に入る子ども達は全員それ以上は摂取しているという。
県決勝に出る子らは1リットル以上、全国ベスト4なら2リットル以上、
Japan代表はなんと4リットルとか。
飲めば飲むほど強くなるわけではないだろうが、
それくらい摂らないと身体が持たないのだそうだ。
そういえば、最近次男がやたら牛乳を飲みたがっていたっけと思い当たった。
パックの半分は一人で飲む。
また、チビもイリコを頻繁に食べていて、袋を置いておくとすぐに空になる。
身体が求めているのかもしれない。

ビタミン不足の怖さは写真で示された。
背骨が外にむき出しになっていたり、頭が半分ない赤ん坊の写真がスクリーンに映される。
二分脊椎症や無脳症のこの赤ん坊達は生まれて数時間で死亡するのだが、
これらの子らの母親は野菜嫌いで緑黄色野菜をぜんぜん食べていなかったと報告されている。
妊娠のごく初期の受精した直後の時期に母体が葉酸不足だと、
脳や神経になる管状の組織が 正常に発達しないために引き起こされる障害ということだ。
帰ってからネットで調べて更に戦慄した。障害は他にもいろいろ多く、
また、過去27年間でこの出生率が約3倍に増えているとか。
金山先生は今、親になっている40代50代の人はまず大丈夫と言われていた。
その理由は、ご飯をお茶で食べていた世代だから。
実は野菜を食べなくても、お茶で葉酸の必要量は足りるのだ。
20代30代の人は食事時に炭酸飲料が食卓に乗っている世代なので危ないという事だった。
ご飯時はお茶が基本の我が家はセーフ。
子ども達のまた子供も味覚オンチにはして欲しくない。
配偶者選びの基本は「ご飯はお茶で」を大前提にするように子供たちに言っておこう。

他にも、筋肉を作る運動とたんぱく質を摂るタイミングの話や、
ウエイトトレーニングに入る前の準備体操としての関節運動、ウォームアップなど、
実践講習もあり、とても充実した一日だった。

帰りは早速スーパーで牛乳をドカ買いする私。
ノルマは、家族で一日2パック以上。
子ども達が成長しているのだから、親の私も一緒に成長しなければ。
来年のマラソン大会の練習には、運動後30分以内のプロテイン摂取もメニューに組み入れて、
筋肉モリモリになってやる~、と新たな楽しみができた。

鍵のありか

悩んでいるときは、悩みを見つめる。
ワタシハ ナニヲ ナヤンデイルノカ?

その悩みがない状態とはどんな状態なのだろうか?
ドウデアレバ ワタシハ マンゾクナノカ?

頭の中に浮かぶ情景があるだろう。
それを言葉にしてみるといい。
できるだけ細かく箇条書き。
・・・・・・
・・・・・・

それを読み直して分類する。
自分に属する希望。
環境に属する希望。
他人に属する希望。

「いつも笑っている」ハ、ジブン。
「○○の仕事をしている」ハ、ジブン。
「大成功して大金持ち」ハ、カンキョウ。
「大きな家に住む」ハ、カンキョウ。
「誰かに心から愛されている」ハ、タニン。
「子ども達が良い子に育つ」ハ、タニン。

このうち、意思でどうにかできるのは自分に属する希望だけ。
環境に属する希望も、それが自分の本当の望みであれば叶う事もあるだろう。
例えば、仕事が好きで夢中で打ち込んでいれば成果が出るとか、
どうしても住みたい憧れの家があった場合、その情報を集めたり、
現実に手に入れるための計画を立てて実行する過程にも喜びがある。
悩んでいる現状があるという事は、
それが自分の本心からの願いではないという事を表している。
デハ ダレノ ネガイナノカ?

他でもない。自分のはず。
ジブントハ ナンダロウ?

↓この自分。
↓ありたい自分。
↓なりたい自分。
↓他人に見られたい自分。

大きなズレがここにある。
自分を自分で否定して、他人がこう見るであろう理想の自分像であろうとしている。
だから、そうでない自分、本心で望んでいない事をする自分が苦しくて悩むのだ。
自分をこう見るであろう他人とは、実在の人物の形と名前を持ってはいても、
現実ではなく、ただの作り出した妄想だというのに。

そして、他人に属する希望もまたこれとまったく同じ事が言えるのだ。
愛される為に、愛される自分であろうとして人は自分自身を見失う。
こうすれば可愛く思ってもらえるだろうか、愛してもらえるだろうかと計算し演じ、
もし狙い通りの気持ちを持ってもらえたとしても、
それは本当の自分ではない人を好きになってもらっただけ。
また、相手が自分の思いどおりにならなければ、努力の報われなさに傷つき、
激しい悲しみと怒りが押し寄せてくる。
そしてどちらにしても、「本当の私をわかってもらえていない」という寂しさからは逃れられない。
見せているのは本当の自分ではないのだから。
見ている相手ももちろん本当の相手自身ではない。

自分の本当の望みを知らなければ前に進めない。
ワタシハ コノヒトヲ アイシテイルダロウカ?

その人を喜ばせたいのか、
その人に誉められたいのか。

その人のために動きたいのか。
その人のために動く自分を見せたいのか。

その人を大切にしたいのか。
その人のために犠牲になりたいのか。

「愛とは、その人のために何ができるか」に照らし合わせて、どうなっている?

人は他人に自分を愛させる事はできない。
自分にできるのは、ただ、愛する事のみ。

自分に属する希望だけが、悩みと迷いから脱する鍵を握っている。

サル課題

自分の長く美しいシッポが大好きなサルがいた。
世界で一番美しいシッポ。それさえあれば幸せだった。
ある日、サルは山で落石に巻き込まれ長いシッポが大きな岩の下敷きになった。
サルは泣いた。
痛みと悲しみに泣き狂った。
「こんな場所を通りさえしなければこんな事にならなかったのに。
 どうしてよりによって自分がこんなひどい目に遭うのか。
 世界一の美しいシッポだったのに。
 シッポがつぶれてしまっては生きてはいけない」
そしてサルは泣き続けて死んだ。

自分の長く美しいシッポを褒められるのが大好きなサルがいた。
誰もが美しいシッポに見とれ、憧れ、集まってくる。
サルは人気者。大勢に囲まれていれば幸せだった。
ある日、サルは山で落石に巻き込まれ長いシッポが大きな岩の下敷きになった。
サルを見て、みんな泣いた。
サルが可哀相でみんなで慰めた。
身動きが取れないサルのために食べ物を運び、寝床を作り、世話をした。
サルはあきらめてこのまま生きていこうとしたが、
長く続いた大嵐の後、岩の下で冷たくなっていた。

長く美しいシッポの自分が大好きなサルがいた。
サルは草原を駆け回る。木に登る。友達と遊び笑い転げる。
サルはそんな日々が幸せだった。
ある日、サルは山で落石に巻き込まれ長いシッポが大きな岩の下敷きになった。
サルは泣いた。泣いてもどうにもならない。
友達は食べ物を運び、寝床を作ってやったが、いつまでもこのままではいられない。
なんとか岩をどかそうとあらゆる手をつくしたが無理だった。
サルを大好きなサルの友達は一つの方法を考えた。
そして、サルは決断した。

短いシッポの自分が大好きなサルがいた。
サルは草原を駆け回る。木に登る。友達と遊び笑い転げる。
幸せなサルは、もう二度とシッポが岩の下敷きになることはない。

みんな

「みんな」という言葉が好きな人がいる。

「みんなが言っている」
「みんなそう思っている」
「みんながおかしいと見ている」
「みんながあなたを嫌ってる」
「みんながあなたを笑ってる」

ねえ、教えて。
「みんな」って誰?

世界中の人?
日本国中の人?
アンケートで統計とってみたわけ?

あなたの近くにいる人数人?
ネットで話をした数人?
それで共通見解が出たの?
どこの誰と誰が
どんなバックボーンで
どんな思想に基いての意見?

ねえ、教えてよ。
「みんな」って誰よ?

まさか、あなたの脳内だけに存在する人格の集まりを総称して
「みんな」って呼んでるんじゃないでしょうね。

実体のない虚像を怖れる人ほど、よく使う。

「みんな」が味方でないと何も言えない意気地なしの寂しがり屋さん。
「みんな」はあなたなんか知らないって言うだろうね。

魔法の木

幼稚園の作品展だった。
長男の時から10回目の「あゆみ展」。これで最後と思うと感慨ひとしお。
チビのクラスの今年のテーマはピノキオ。
ダンボールでできた水のトンネルをくぐって教室に入ると、
いかだに乗ったジュゼッペじいさんがいて、
壁にはこれまで制作した様々な作品が展示してある。

「ナナちゃんは絵が好きでいつも細かいところまでよく描いてますね~」
見ていると先生が話しかけてこられた。
「特に、この魔法の木の絵のとき、感心しました」と言われるので見ると、
園児それぞれがイメージする魔法の木を自由に描いたコーナーがあった。
ピノキオが木で出来ているのに動けるのは魔法の木だったから。
それでは魔法の木とはどんな木なのかを子ども達にお話も一緒に作らせてみたのだとか。
「どの子も、自分だけの願いが叶う魔法の木を考えたのに、
 ナナちゃんだけは『みんなの願いが叶う木』なんですよ」と教えてくださる。
確かに他の子のは、顔のある大きな木に欲しい物の実が生っているようなのが多い。
チビのは木らしくない。
更に先生は言われる。
「これは、お願いがいっぱい叶ったらそれでこの木の魔法はおしまいなんですって。
 ずっとじゃない所が欲がないですよね~。いいですよね~」
何でも誉める材料にできるのはさすが幼稚園勤めが長いだけある。

それにしても、
魔法の木を「自分の願いが叶う木」でなく「みんなの願いが叶う木」と考えたというのは、
私としてはとても嬉しかった。
神社に参拝する時には、自分のお願いだけでなく、
必ず他の人の事もお祈りするようにと教えていたのが頭に残っていたのかもしれない。
しかし・・・この絵、

真ん中のは、よく見ると悪魔に見えるけど・・・?

チビが知ってるはずもないのだが、
実は、悪魔と取引しても魂を奪われない最強の願い事がある。
それは、
「世界中が平和でみんな幸福になりますように」
誰も地獄へ落ちる人はいなくなり、地獄も悪魔も消滅する最強の祈りらしい。

チビがこの絵を描いた時の心をずっと持ち続けてくれるのが、私の願い。

お荷物

コタツ布団を買いに行った。
最近では買い物に同伴しない長男だが、
DVDレンタルもついでに立ち寄るので付いてきた。

下見をして、気に入ったのを見つけておいたのだが、それは少し高かった。
安いそこそこのは薄くて寒そう。
でも、毛布をかけて何とかなるかもしれないし、いいのを買っても
どうせ汚して長くは持たないし、だけど高い方が気に入ってるんだよなー、
などとグルグル迷っているうちに、息子の機嫌が下り坂になってくるのがわかる。
「もう、どっちでもいいから早く!」
急かされて、最初に決めていたのを購入。
「それなら迷う事なかったじゃん」と、ますますご機嫌ナナメ。

レジを通って大きく重いコタツ布団を抱えると、息子が「持つよ」と手を出す。
「重いよ。大丈夫?」と渡すが、ヒョイと持ち上げ歩いていく。
後姿を見ながら「いつの間にかこんなに大きくなってたんだ」と小さな驚き。

食料品売り場で夕食材料を少し買い足す予定があった。
大きな荷物を持っている息子には待っていてもらおうと、
「休憩所でジュースでも飲んでなさい」と言うと「いらん」という返事。
「じゃあ、アイスでも食べる?」「いらん。何もいらん!」
「重いからウロウロするの大変でしょ」「いい!付いていく!」
なぜか買い物に一緒に来たがる。
「何か欲しいものあるの?」「ない!!」ますます不機嫌。
「クソッ!子供扱いしやがって・・・」などとブツブツ言いながら、
買い物客の多い食料品売り場を分け入ってくる。誰がどう見ても異様だ。

あらかた必要な物は既に買ってあったので、手早く回って買い物はすぐにすんだ。
店を出るときに息子が言う。
「ほらね。俺が付いていった方がお母さんの買い物が早く終わるだろ。
 俺を歩かせまいとして。思った通りだ。最初からそこを狙っていたんだ」
なんて、勝ち誇ったような不敵な笑み。
ああ、そういうことか。
それで私の上を行ったつもりのようだ。
はいはい。そうね。あんたの勝ちよ。

メチャクチャ不機嫌でブツクサ文句を言いながらも、
大きくて重いコタツ布団をしっかり抱えて私の後ろを付いてくる13歳男子。
親を観察し動向を予測はしても、自分を客観視するところまではまだ出来ない。

この子はまかり間違っても「良い子」じゃないけど、
間違いなく「いい子」だよな~、とシミジミ思う。

除菌・消毒・傷口に塩

♪大きな袋を 肩にかけ 大黒さまが 来かかると
 ここに因幡の 白うさぎ 皮をむかれて あかはだか

童話「因幡の白兎」では、
騙したワニザメに皮をむかれて苦しんでいるウサギに
海水を浴びてから高山の頂上で風にあたって乾かすように教えたのは
意地悪な兄神たち。
優しい大黒様は、真水で身体を洗い、蒲の穂綿を敷いて寝転がり、
花粉を身体につけるように教えて傷を癒してやったとされる。

これはただのおとぎ話的神話としてだけでなく、
日本最初の医療行為の文献と見る向きもある。
「まあー、なんてひどい兄神たち!」という話ではなく、
それは食塩と日光で消毒し、紫外線や赤外線での化膿防止する事の
大切さを説いたもので、
そして、その上に大黒さまの治療を施したからこそ、
ウサギは完治できたのだとか。

それを始めて知った時、まさに目からウロコだった。
それはそうだ。
化膿は恐ろしい。消毒は重要。
子供の頃からそう教えられてきたではないか。
怪我をしたら、まずオキシドールやイソジン(赤チン)で消毒して、
雑菌が付かないようにガーゼで覆い、乾かすようにするのが常識。
兄神様たちは意地悪じゃなかったんだな。
ウサギはひどく痛い思いをして泣いたけれど、それは必要な痛みだったんだ。
仕方がなかった。治るためには。
・・・
と、長らく思っていたのだが・・・、またしても大逆転である。

最新の医学では、
傷口は消毒してはいけない。
ガーゼを当ててはいけない。
傷は乾かしてはいけない。
というのが正しい認識になっているのだ。

傷を消毒すると、雑菌よりも生きている細胞(白血球、線維芽細胞、表皮細胞)を
殺して、治りを遅くしてしまう。
消毒では感染症の防止効果は皆無。もちろん化膿した傷の治療効果もない。
傷口に触れたガーゼは異物として、感染を誘発し温床になる。
傷口を乾かすとできるかさぶたは傷の治りが止まっている状態である。
傷口は水道水でどんどん洗うべし。

この新常識はにわかに受け入れ難い。
それでは、これまでの消毒液のしみる痛みを我慢して、
泡が出ると「ばい菌が死んでる」と嬉しがったりしたのは何だったのだろう。
傷が乾いてかさぶたになると、下で新しい皮膚が再生している証拠だと
安心してたのは、あれは全部、嘘? 逆効果?
親から子へ、子から孫へ間違った治療法を教えてきたの?
医者が患者を結果として虐めてきたわけ?
しかし、実際の医療現場で明らかな差が出ている事を示されれば、信じざるを得ない。
むしろ当初は医療関係者の方が受け入れるのに抵抗が大きかったかもとも思う。
いや、今でもかな。

常識って奴は、ある日突然、コロッと転ぶ。
普遍的ではないって事。
それがたとえ長年、代々受け継がれてきたものであっても、という一例だ。

やっぱり、大黒さまに意地悪した兄神さま達は悪かった。
日本書紀の頃の人達は、もしかして最新医学を知っていた?

参考→新しい創傷治療

苦笑(+自嘲)

 私は誰ともつるまない!
 私は孤独を恐れない!
 私は何にも囚われていない!
 私は嫌われるのなんか平気!
 私にはこだわりなどない!
 私は人にどう思われたっていい!

なんてのを
わざわざ文章にするのがもう既に、さ、
「私ってこういう人なの」でしょ。
「わかって欲しい」でしょ。
可笑しすぎ~~~。

裏返しにしたって同じだよ。言ってる事は。
「自分を証明」したいだけ。
評価は受け手にお任せしては?

権利と義務

はっきりしなければならないのは、
養育費も面接交渉権も子供の権利ということ。
親の為のものではない。

親にあるのは義務。
親には子供を健全に育てる為に必要な環境を整えてやる義務がある。
そこを間違えてはいけない。

「子供に会えないのが寂しくて可哀想」などと、
すでに配偶者でなくなった相手を思いやってやる必要がどこにあるのか。

私の知り合いのあるシングルマザーの離婚原因は、旦那の度重なる借金。
なんのかんのと理由を付けて給与もわずかしか家に入れないので、
彼女は乳児を託児所に預け身重の身体で働いたりして家計を支えていた。
旦那の実家からはなぜか金遣いの荒い嫁だと思われていたようで、
嫌がらせも酷いものだった。
後にわかった事だが、旦那はサラ金の他に実家からも大借金をしていたのだった。
離婚の際に養育費の取り決めはしたものの、もちろんそれも滞りがち。
催促すれば自分の事情ばかり。そして怒鳴る。
「お前は冷たい奴だ。俺の気持ちを少しは考えてくれよ。
 結局は金か!金さえあればいいのか!」
そんな言葉にいちいち傷つく彼女。

遠方に出稼ぎに行っているはずのその男、
子供の小学校の入学式の前日に急に訪ねてきたという。
入学式に父親として出たいからマンションに泊めろと玄関口で騒ぎ、
彼女は断りきれずに泊めてやって、翌日、入学式に一緒に出たのだとか。
わざわざ新幹線でやってきて、入学祝もなし。
それは「父親として入学式に出たい」という自分の気持ちだけ優先したに過ぎない。

子供の為に我慢して赤の他人を自宅に泊める母親。
子供の為に頑張って呼ばれてもいない入学式にだけ出席する父親。
無言でそっぽを向いて並ぶ二人。
それが本当に子供の為?

責められたくない、悪者になりたくないという恐れで、
「良い人」から脱しきれない母親は、
その子供もまた人の顔色をうかがう「良い子」にしてしまいはしないか。

何が子供にとって最良なのか。
親はそれだけを考えればいい。

不要な観念、感情を捨て去れば、とてもシンプルなものなのだ。

親の権利は金で買えるか?

トラバってます→慣れてるはず。・・・

トラバしておいて何なのですが、一部の人には不愉快な話かもしれません。
私の偏狭な個人的見解とお断りしておきます。


私は父親の顔を知らない。
二歳のときに両親が離婚して以来一度も会っていないので記憶にない。
母は「子供を置いて行け」と言う婚家に対して、
「慰謝料も養育費も一切もらわない代わりに、今後二度と子供とは会わせない」と
啖呵を切って私を連れて飛び出した。
大馬鹿である。

このような生い立ちのせいか、
私は子供には父親の存在が不可欠とは思っていない。
両親揃っている家庭で、母は母の役割、父は父の役割をすることによって、
子供の心が健全に育つというのはもちろん理解しているが、
だからこそ、人を思いやる心のない人間と知って別れた人に、
親としての意識を期待する事などできないと思うからだ。

DV男やモラハラ男が子供に、
弱者への労わりや優しい心を教える事ができるだろうか。
支配と被支配以外の人間関係がもてるだろうか。

借金男が働く尊さ、お金の価値を正しく認識させ、
欲望の抑制し自己を律する教育ができるだろうか。

浮気男が、正常な男性観・女性観を伝える事ができるだろうか。
家庭の意味を教えられるか?
男の責任の取り方を語れるか?

壊れた信頼関係を相互努力で取り戻せないほど家庭を破綻させた人間が、
どうして子供に無害であると考えられるのか。

よく離婚した母親が「子供には彼をいい父親だと思っていて欲しい」と言ったりする。
子供には離婚の理由を詳しく語らず、相手の悪口は一切言わない。
半分は父親の血が流れているのだから、それを嫌になって欲しくないのと、
困ったときに頼れる人がいてくれた方が子供の為だと思うからなのだとか。
それと、機嫌を損ねると養育費を払ってくれなくなる可能性もあるらしい。(ハァ?)
人それぞれの子育てがあるので、外野は口をはさむべきではないが、
私はどうも複雑な思いを抱いてしまう。

感情は感情。
事実は事実。

かりそめの「いい父親」を作る為に、隠し事を必要とするのが、
「いい家庭」であるはずがない。
さんざんな目にあって別れた後でさえ、元旦那の顔を立ててやるなんて、
それもまた「都合のいい女」だなと、私は思ってしまうのだ。

(注)婚姻破綻原因が妻側にあり、親権を持つ父親の方は男女を入れ替えて読んでください。

不倫願望占い

こちら。

してみた。
59点。
  大丈夫かな?
  貴方は突然噴火する休火山タイプです。
  基本的にはどっしりと落ち着いた実のある恋愛をする人です。
  ところが本当は心の奥底のマグマがグツグツと活動してませんか?
  不倫にも浮気にも興味はあるし
  隙あらば噴火してこましてやろうと思ってませんか?
  普段は自分の相手に満足しているフリをしながら
  チャンスを窺っているような腹黒い部分がなきにしもあらずですね。
  そういう気持ちを持っているだけなら相手にもバレないでしょうけど
  噴火してしまっちゃあおしまいですよ(笑)。


いやぁ~、やっぱそう?当たってる~。
紫色のカクテルグラス並みに当たってる~。(^_^;)
これまでの結果、6220人中で一番割合の多いクラス。
普通。平均点。ありがち。ってわけね。いつもそう。
私って本当に平々凡々だわ。面白くないなー。

男と女の幸せってなんだっけ?

ある占い師が言っていた。
女に生まれたのを損だと思っている女性、
女が嫌で嫌で仕方ない女性は、次も女に生まれ変る。
女としての生き方を全うして、
女の喜びを十分知った人だけが、男に生まれ変れると。

その逆は言わなかった。

男は「男で生まれて良かった」と思う人が多いから当然、次も男なのだろうか。
女は頑張って「女で生まれて幸せ」「次も女でいいわ」と思えると男になるのに?
どうも女より男の方が位が高いと言われているようだ。

男になりたい男は男。女になりたい女も男。
女になりたくない女が女なら、男になりたくない男は女?
で、女になれたら女で良かったと思ってまた男?
それとも男である事が嫌だった男は、女である事も嫌になりがちだから女?
いやいや、男が気に入って悔いのない人生が送れたら、
また女としても悔いのない人生を送る順繰になるのでは?
はたまた、女をクリアした人が男も卒業したら解脱するのかも?
と、こんなトンデモ説を元にどんどん妄想を膨らませても埒が明かない。

さて、ここからが本題。

女性が考える女の「損」の中身を考えてみた。
男は嫌な事、面倒な事、評価を受けないような雑用を全部女に押し付けて甘えて、
楽をして自由に楽しく自己実現しながら生きられるのに、女にはそれは難しい。
そんな風に思っている人が多いのではないだろうか。
そう言われると男性は「男の苦労は大変なんだぞ」と異論を唱えたくなるかもしれないが、
夫婦共稼ぎが常識の昨今、それでも家事労働や育児、地域や保護者活動は主に
女性が担う割合はダンゼンに高く、また離婚家庭を見ても、
子供は母親側に引き取られるケースがほとんどでありながら、
養育費を払う父親は全体の2割程度。
自分の子供でありながら無責任が許されると思っているし、社会もそれを容認している。
家庭にいてもいなくても男性は、夫、父である部分をも妻に丸預けして、
仕事人間と自分の時間だけでONとOFFを生きられるシンプルさ。
対して女性は、妻であり母であり、経済的負担も担う家の大黒柱でもあり、
子供への大人の模範を示す父親役もしなければならない。
その上にビジネスでの成果も求められ、何もかもを背負い込んだまま、
とても自分自身の時間を楽しむ余裕などもてるはずもない。
24時間、常にON状態。
それでいて、男性ほど仕事にウエイトをかけられないので評価を受ける機会も少ない。
女性の自己実現の欲求の向う場所は子供。
過大な期待を寄せて追い詰めていくパターンはウンザリするほどある。

それなのに男側の認識は、
「女なら家事ができて当たり前」「子育てを楽々できて当たり前」で、
できないと女の不良品あつかい。子供が問題を起こしても女の責任。
でありながら、職場で残業や休日出勤が出来なかったりする女性を「使えない」と非難。
業績を男性以上にあげたりなんかすると、これまた面白くない。
下に見て押さえつけておきながら
万能の働きを期待して何ら矛盾を感じないんだから不思議なものだ。

そんなふうに、女性が抑圧された不自由な中での苦労が多くありながら、
より愛情深いというのが共通認識なら、
男と女、どちらがよりハイレベルと言えるだろうか?

女を充実して生きることが出来る人なら、男の人生なんか容易すぎで、
わざわざ生まれ変ってまでやる必要もなさそうだ。
逆に男として女を踏みつけにして胸も痛まないような人こそ、女をやる意味がある。
男にとって女は何をしてもいいモノ、無茶しても黙って耐えて甘えさせてくれて、
常に居心地よくチヤホヤと受け入れてくれるのがイイオンナなどという、
自己中的願望型良妻賢母幻想にどっぷりと浸ったマザコン男が、
愛情深いが故に不利益を被る現状をなんとか打開したいと、
懸命に足掻いている女性より優れているなんて、あるはずがない。

女性が「女は損」と言っていても、女である自分を拒絶している人は少ない。
ファッションに関心を持ったり、自分を美しくしたりする事は大抵の人は好きだし、
お料理をしたり、インテリアに凝ったり、
きれいなもの可愛いものに囲まれていたかったりする。
女である事が嫌なわけではない。
男や社会からの女や子供の扱われ方が不当だと不満を持っているだけだ。

女の中にも男性側からの視点で物を言う人は多い。
男の浮気は仕方ない、女は絶対にダメ、とか。
そんな人達に特に鼻につくのは「女とはこの程度のものなんだ」という決め付け。
それにプラスの「私はそんじょそこらの女とは違うわよ」というプライド。
頭の固い男性(父・夫・師)の下にかしずいてきた女性がよく陥っている。
「オレ様がいるから、お前はイイオンナでいられるんだからな!」
という洗脳のなせる業なのだろう。
一見、自信満々に見えて中身はスカスカだ。

死んで地獄行きだろうが、来世で何に生まれようが、どうでもいい。
生きている今、考える事ではない。
男女問わず「女は損・男は得」という考え方が要らないのだ。

しかし、長らく
「男は満足、女は不満足」の状態が続いてきたのは確かな事実。
そして今、男も満足でいられなくなってきた。
少子化、リストラ、フリーター、ニート、ひきこもり、晩婚非婚化、
幼児虐待、熟年離婚、虐め、拒食、薬物汚染、リストカット、
アダルトチルドレン、老人介護問題、凶悪犯罪の多発、低年齢化・・・etc.
基礎である家庭や生活を振り向かない社会なら、
問題を不都合という形で目の前に突きつけるしかない。

女が女らしさを失ったのが原因?
子供を産まなくなったのが原因?
母性の欠如が原因?
そんな事言ってるうちは変わりはしない。
「父性の復権」を声高に叫んでいた人達も、
「母親が父親を立てないのがいけない」という論に終始するばかり。

女を否定し、押さえつけ、力を持たせないように縛り付けておきながら、
社会の安定は女の肩にかかっているなんて責任だけは押し付けてくる。
それはまるで、勝手気ままにいじくりまわして壊した玩具を
泣きながらママに直してもらおうとする幼稚なガキ。
そろそろ、大人になる時期だ。

マザコンでオレ様男と、過保護で奴隷女との共依存社会の終わりは近い。
自立するにしても、
潰れるにしても・・・。

気付いた人は「男のせいだ、女のせいだ」と責任転嫁することなく、
すでに動いている。
自分の為すべき事を為すべき所で。

プロデビュー目指す

私は去年、無料着付け教室に通っていたので一応着付けは出来るようになり、
気が向いた時だけ、ポリエステルの洗える着物で着物生活をしている。
ヤフオクで買ったポリエステルの着物4枚のローテーションなので、
近ごろでは「素敵なお召し物ね~」とも言われなくなった。

そして最近また習いに行っているのが、他装。
実は、来年の成人式に振袖の着付けの仕事をする事になったのだ。
無料教室の講師の方が個人的に受けている仕事で、
それを手伝って欲しいと頼まれて、現在特訓中。

ただ、先生もスケジュールが立て込んでいて、
毎週決まった曜日に練習ができるというわけではなく、結構飛び飛び。
また、背が高いと着せられ役が多く、なかなか上達していけてない。
それでも新人はヘルプだと聞いていたので、しっかりした経験者の人と組んでの
ただのお手伝いでいいのだろうと気楽に構えていたら・・・、
今回はメイン・ヘルプ制を取らず、前専門と後ろ専門のペアを組むと発表され、
大ショーック!! 今更のようにうろたえる私。
しかも私は後ろ担当。
いくら着物は前が命だからって、帯の完成度も大きなウェイトを占める。
なのにこれまで一度も帯結びをさせてもらっていない、
始めてチャレンジする私にいきなりそんな重責を担わしていいの?

不手際があれば責任問題。
出来栄え如何で今後の信用にも関わってくるので、絶対に失敗は許されない。
場数をこなしてきた人達は「やればやるほど恐ろしくなる」なんて口を揃えて言う。
ううううう・・・・、プレッシャー・・・。
私、本当に出来るんだろうか。と、もう失踪したいぐらいの気持ちになっていたりする。
でも、やるんだけど。(笑)
今更先生も「あんたトロイから外れて」とは言い難いんだろうな~。ハッハ~。

そんなこんなの先日の練習日の事、
もう残り日数わずかなので、朝から夕方までミッチリとお稽古のお昼休憩の時に、
お弁当を食べながら先生がこんな事を話された。
「成人式に美容院の着付けの仕事をするという話は、
 親しい人にでも、なるべく言わない方がいいですよ」
?どういう意味なのかわからない。皆も不思議顔。
そこで先生は続けて、
「人の妬みは恐ろしいからね」と言われた。
「どうしてあんな人に着付けの仕事が来るの。そんなに簡単なら私だってやりたいわよ!」
と人を羨む人は多いので、嫌われたり、嫌がらせをされたりと、
思わぬ人間関係のトラブルになりかねないのだとか。
「喋っていい事は一つもないから、黙っておいた方が無難です」だそうだ。
たぶん、実体験とそんな身近な例を見てきたこれまでがあるのだろう。

あら、でもね、先生、もう遅いよ。
私、既にあちこちに嬉しげに言いふらした後。
知り合いが着物を着たい時には声がかかるかもしれないし、
着物仲間とかできれば楽しいかな、なんてちょっと期待してみたりして。
妬まれるなんて思ってもみなかったんだけど、そんなものかしら?

そして、今日はここにも言いふらし~~~~。
ねぇ、私って羨ましい? 妬ましい? いぢめる?
なーんてね。
変なの。

「我慢」比べ

昨日の記事について、
「そうは言っても必要な我慢もある」「我慢を子に教えるのも教育ではないか」
というご意見を頂いたのでそれについて書いておく。

同じ我慢という使い方をしているが、これには二つの性質がある。
一つは苦痛を堪える我慢。
そしてもう一つは、快や楽への欲望を自制する我慢だ。

双方とも自分の内面を外への行動に出さないように抑制しているわけだが、
これは自分自身の問題でもあり、
同時に対人コミュニケーションのとりかたにも通じる面がある。
そう見た時に、二つの我慢がまったく逆の方向を向いているとおわかりだろうか。

人が自分を表現し意思を伝達するのは交流を通じての共感を求めての事だ。
他人が何を感じているという気持ちを共有するするからこそ、
楽しさも分け合えれば、苦しみも思いやる事が出来る。

しかし、苦痛を訴えているのに、その人と向き合い気持ちに寄り添うことなく、
知識として知っている症例に当てはめて
マニュアル通りに受け答えをする人がいたらどうだろう。
どんなに頭が良く有名で実績があると言われていたとしても、信頼できるだろうか。
「痛いんです」との訴えに、
見もせずに「ああ、それは良くなってる証拠ですよ。大丈夫」との返答だとしたら、
それは会話ですらない。
何が伝えたいのかを一切無視しているからだ。
「痛いんです」の中には、こちらを見くれ、よく調べてくれ、痛みを和らげてくれ、
わかるように説明してくれ、不安を解消してくれとの、
「何とかして欲しい」気持ちが含まれているというのに。
それでも、絶対に一定期間内に改善する確約をしてくれるのならまだしも、
「個人差がありますからねぇ」などと言われたらどうだろう。
苦しみの程度も人それぞれ、苦しむ期間もまちまち、確かに治ると言われているだけで、
実際に良くなった例の割合がどれくらいなのか調べようもないとしたら?
本当に我慢して「大丈夫」かな?

必要な我慢という事では、子供の心の発達の仕方が例としてはわかりやすいと思う。

幼児とは自己中心的なものだ。何しろ自分の世界しかないのだから。
お腹がすいたら泣いて求める。抱っこして欲しくて泣く。
痛くて泣く。痒くて泣く。暑くて泣く。寒くて泣く。眠くて泣く。
自己主張ばかりで、我慢など知らないのが当然。
しかし、人との関わっていく上では、
他人にも自分と同じ心があり感情を持つのだと知らなければならない。
人の気持ちのわからない幼児は、他の子が遊んでいる玩具を取って遊ぶのに何の悪気もない。
それは、相手が自分の世界には存在していないからだ。
自分以外はすべて自分をとりまくモノでしかない。

だが、そこでいつも自分の要求を満たしてくれる人が痛みを与えたらどうだろうか。
怖い顔で、厳しい声で、お尻を叩いて叱られて“いけない事”を教えられる。
いつも自分を守り、必要なものを与えて心地よくしてくれる人が与える辛さ。
それは嫌なことではあるけれど、悪いものではないはずだと子供にはわかる。
他の子の物をとって相手が泣けば、自分は叱られて同じように泣くようになる。
人を叩いたら、同じように叩かれて痛い。
何度も同じ場面で繰り返される教え。それはとても大切な事。
子供は、自分以外の他人も自分と同じ心があるという現実を受け入れていく。
すると、人の物をとって遊んでも楽しくなくなってしまう。
取られた人の涙や泣き声が悲しくて。
自分が“我慢”する事で他の子が楽しく遊ぶのは嬉しい。
自分も「遊びたい」と言って、一緒に遊べればもっと楽しい。

自分の気持ちの表現を我慢する必要はない。
ただ、他人を傷つけない我慢は必要。

そして、自分を大切にする我慢は必要だけれど、
自分を偽る我慢はいらない。

ということで、私は「苦痛を我慢しろ」と言う人を信用しない。

ムカムカの理由

大昔、オウムの麻原の本をパラッとめくって、
饐えた血生臭さと黒い闇に襲われて
本を放って外へ飛び出してしまった事がある。

また別の団体のリーダーを直接見たとたん、
吐き気がこみあげて仕方なかった事もある。

その人をある霊能力者は神が見えると言い、
ある霊能力者は大蛇が見えると言う。
私には何も見えない。
霊能力0だから。

気分が悪くなるのは、私の中の魔が怖れて、
近付かないように妨害しているのだと言う人がいた。

真の魂の声に従って妨害を撥ね退けようとすれば、
邪魔はますます大きくなり、健康を損ねたり、不運が重なったり、
もうダメだと思うような出来事が続くかもしれないけれど、
それは「あくだし」だから、それが強ければ強いほど浄化され、
後に思い通りの人生を送れるのだとか。

そうかもしれない。

そうでないかもしれない。

「あくだし」を別の言い方で、「好転反応」「瞑眩反応」とも言う。
これだと馴染みがある人も多いだろう。
鍼・灸・マッサージ・温泉・気功・漢方薬・自然療法・
カイロプラクティック・各種健康食品、化粧品、イオン水、
には付き物。
そしてさらに、スピリチュアルセッション、パワーストーン、レイキ、
波動なんてのにも使われる。

不自然な生活をして肉体や気にたまった老廃物や毒素を排出する為には
苦しみや痛みを伴うのを当たり前のように言うのだが、
だけど、本当にそうなのだろうか?

私は気分が悪いのは嫌だ。
「好転反応」でも「瞑眩反応」でも嫌。
身体の不快さ、痛み、痒み、熱さは、危険信号を脳に認識させる為にある。
それを「身体にいいから」「魔を祓う為」と
思考で誤魔化す事がいいとは私には思えない。
   嫌な体感=良い傾向
これが不自然でなくて何だと言うのだ。

「良くなる為に我慢する」という思想を植えつけられた人はどうなるか。
我慢を求めるようになりはしないか?
苦の刺激がないと不安になる。
改善していないような気がして。
逆に悪くなっているような気がして。

普通市販されている化粧品の注意書きには
「アレルギーテスト済みですがが、 万が一お肌にあわないときは使用をおやめください」
と必ず書いてある。
漢方薬の場合は、不快な症状が好転反応か副作用かの見極めは難しく、
本来は専門家に判断を仰ぐ必要があるものなのだ。

しかし、良くなる為には不快な症状があって当然というのが、いつの間にか定着している。
どこでも何にでも隙間から忍び寄って、その思想は常識のごとく植えつけられているのだが、
それはとても危険な事なのではないだろうか。

私が最近ムカムカを覚えるのは、
いわゆるスピリチュアル系の人達の文章だ。

 ポジティブ・守護天使・ワクワク・チャネリング・チャクラ・オーラ・
 波動・ワーク・コーチング・バシャール・魂の声

なんてのが満載の書物やページには、やはり麻原や某リーダーに感じたような
吐き気がしてしまう。

スピリチュアルなヒーラー達はたいていが、
自分が施術した人達に不快な症状が起きたらというより、起きる前から、
「苦痛が出てくるかもしれませんが、メンゲン現象ですから大丈夫です」と言いきっている。
ここで言う大丈夫というのは、絶対的に改善するという保証があってのことだろうか?

私はある霊能力者の所へ母親の病気治しの相談に行ってパワーを送られた直後に
母親が急死したという人を知っている。
霊能力者を責めると、
「お母様の魂が清められるには、命の償いが必要でした。
 現世から見ると悪いように見えますが、霊の向上の為には最善なのです」と言われたとか。
その人は、そんな怪しげな所を頼った自分を悔やみ、無責任な霊能力者を恨み続けている。
私もその霊能力者の掲示板に
「それなら最初から死ぬ危険があると書いておけ!」と激しく抗議したが、
あっさり削除され「直接メールにてお答えします」と返されただけだった。

私は実はこの霊能力者のパワーによって人が死んだとは思ってはいないのだが、
人の気持ちを翻弄して商売にしているのは間違いないわけで、そこには怒りを覚える。
事態が改善すれば、ヒーラーのおかげ。
悪くなれば、メンゲン現象。
悪いままで良くならなければ、それだけ多くのカルマがたまっているという事。
続けないと元の木阿弥。
これまで費やしたお金も時間も労力もすべて無駄。
そんなのあり?

不快な物から遠ざかり、痛みや苦しみは避けようとするのが生き物の自然なあり方。
「お金の為」「健康の為」「より良い生き方の為」「浄化する為」「霊格を上げる為」「悟りを得る為」
なんて狙うのがもう、カルマだわね。(笑)


参考→<好転反応について>オススメ!!ぜひ読んでください。
私の文章なんか読まなくていいから。これだけはゼヒゼヒ!!

交通事故の波紋

一昨日、小三の娘の友達が事故に遭った。
学校のまん前でひき逃げされたのだ。
夕方4時、塾の帰りに女の子三人で歩いていて、
車にはねられた。
背中から二人に当たって、
そのうち1人は高く飛ばされたという。

しかし幸いな事に、二人ともランドセルが緩衝材の役をしたおかげで
怪我の程度は軽症で、逃げていたドライバーもじきに逮捕された。

第一報では意識不明らしき報道がされた娘の友達も、
実は救急車の中でははっきりとした受け答えもしていたらしく、
直後には呆然となっていただけだったようだ。
タンコブが出来ただけだが、念のために学校を休んでいる。

現場は、先々月の台風で道路が片側流されてしまった所に、
歩道とバス停をなくして無理やりに車線にした狭い道。
通学時の安全に不安があると心配してはいたのだが、
今回は危惧していたポイントではない所での発生だった。

しかも車は側溝に落ちたのを無理やり上がり、ガードレールをこすり、
タイヤもパンクしたままで大きな音をたてながら逃げたと言う。
69歳の女性だったが、
警備員や他の車や通行人が多く見ている前でそれだけの事をやっていながら、
「気が付かなかった」と言っているらしい。
パニックになると記憶も飛ぶのだろうか。それにしても・・・。

娘は仲の良い友人の突然の事故の知らせだけでオロオロと落ち着かず、
「どんな怪我なんだろう」「今も痛いかな」
「もし私が一緒に居たら私も事故に遭ってたかも」と何度も言いながら、
ニュースの度にテレビにかじりつき、朝は一番に新聞を取ってきて記事を確認していた。
学校で先生から怪我の程度について聞かされて始めて安心できたようだ。

ただ、聞くところによると事故に遭った子は、
身体の怪我自体は軽いものの、精神的ショックを相当受けているらしい。
娘が人ごとではなく感じたように親にとっても人ごとではない。
事故を目の当たりにした恐怖が小さな心につけた傷がどれほどか、
またご両親の心配がいかばかりなものかと思うと本当にいたたまれない。

毎日どこかで交通事故は起きている。
今回はたまたま運が良かったけれど、
ちょっとした不注意が、もっと大きな事故に繋がる可能性はいつだって持っている。
私も日常の事なので、漫然と運転しがちだったかもしれない。
気を引き締めていかねば。

呼び水

街を歩く。
買い物をしたくて、空いた店に入る。
商品を見て回っていると、いつの間にか店内に客が増えている。
レジ前には行列まで。
私は並ぶのが嫌い。
また空くまで辺りを一回りしようと店を出る。

しばらく歩くと興味をそそる品を売っている店を発見。
引き込まれるように中に入る。
へぇ、こんな面白いモノあるんだぁ。
わー、これもGOOD。
と見ていて、ふと店内を見渡すと・・・人が増えている。
ついさっきまでガラ空きだったのに。
レジ前、しっかり込み合ってる。
何も買わずに店を出る。

こんなんばっかし。
どうして?

余命の逆転発想

「リング」では呪いのビデオを見ると、一週間後に死ぬ。
主人公達は呪いを解こうと、
テープを分析したり、コピーしたり、井戸をさらったり、
可能な限りの手をつくし、とても大変なめにあう。
これは架空の話だが、
ある教祖が相談に来た悩める信者に、
「前世で武将の頃に数千人殺しているので、寿命あと○年」と言って
大金を巻き上げて訴訟沙汰になった、などという話は実際にある。

呪いにしろ予言にしろ、私はこういった話に猛烈な怒りを感じる。
それは、取りも直さず「脅し」だからだ。
「○○しないと死ぬ」という。
オカルトの場合は、いくらナンセンス、根拠はないと理性で思っても、
それ故にまた明らかに否定のしようもなく、気持ちの悪さや恐怖を拭いきれない。
ヤクザの「月のない夜道には気をつけろよ」よりも悪質と言えるかもしれない。

しかし私は怖さよりも怒りが優る人間だ。
ヤクザを騙る奴から「殺す」と言われても、包丁を隠し持って出て行った。
「殴るぞ」と拳を振り上げられて「やれよ」とビール瓶をかち割った事もある。

そんな私の残り寿命があと何年、あるいは何日でもいい、
「もうすぐ死ぬ」とはっきりと言われたなら・・・、

大喜びしてやる!!と心に決めている。

人生、一寸先は闇。
今日と同じ明日が続くと思っていても、それは幻想。
今この瞬間にも心臓発作で死ぬかもしれない。
事故を恐れて家に閉じこもっていても、飛行機が落ちてくるかもしれない。
賊に襲われるかもしれない。地震があるかもしれない。
一瞬、一瞬が命がけ。意識していようとしてまいと。
朝「いってらっしゃい」と別れた人と、夕方会える保証はない。
夜「おやすみ」といった人に、朝「おはよう」と言えるかどうかわからない。
それなのに、○年間、あるいは、○日でも
絶対に死なないという確約があるのだ。

大いなる安心が得られ、
大いなる勇気が持てるではないか。
何でもできる。どんなムチャな事でもヘッチャラだ。

予言が当たっても外れても、思い残す事なし。
長生きできれば尚けっこう。

予言通りに死んだらどうしようとビクビクしながら大金を払い、
騙されているかもしれないと長年疑い続けた挙句、
嘘だったと知って後悔の日々で長生きする人生だけは送りたくない。

もちろん、人の弱みに付け込んで騙す方が悪いのは当然だが、
脅しに簡単に屈する臆病さが被害の要因であるのは間違いない。

「保身も過ぎれば悪徳だ」とはジュールの言葉だが、
守りの人生になどどんな意味があるのだろうか。
「過去も前世も因縁も、先祖も霊も神も私の邪魔はさせない!」
ぐらいの心意気でいたいものだ。

子宝

私は私の物だと思っていた。
私の人生は私だけの物だと。
どんな生き方をしようと、どんな死に方をしようと、
傷つこうが壊れようが汚れようが勝手。
好きなように自由にやりたい事をやればいいと。

でも、ある時を境にそれは変った。

私は自分を大切にしなければいけなくなった。
傷ついたり壊れたり汚れるような可能性を出来うる限り回避し、
常に自分を高める方向を見るようになった。
それは、
恥じたくないからだ。

子供に。

子供達はなんとしても傷つけたくない。壊したくない。汚したくない。
「こんな親から生まれたくなかった」とは、絶対に思って欲しくない。

それは私が子供たちに大きな喜びをもらったからかもしれない。
私はこの子達の親になれてとても嬉しい。
この子達の親である事が私の誇り。

「子に恥じない母でありたい」
その衝動が、私の中に長く垂れ込めていた暗雲を掃った。

子に恥じない母とは、自分に恥じない自分。
お天道さんに真っ直ぐ顔をあげられる自分だ。

防災訓練の日

町内の防災訓練があった。
一時間の間に消防隊の小隊長さんからの地震・台風に対する心構えとか、
常日頃からの準備などについての講習と、
土嚢袋の作り方などがあると聞いていたのだが、話だけで一時間以上だった。
というのも、この方は阪神淡路大震災の時に救助活動に借り出された体験をお持ちで、
語るべき事がとても多くあったからだ。

被災地に人命救助要因として向かった際に、食料の用意が不十分で困っていると
地元のコンビニ店店長さんが「遠くから来てくれた」と感激してパンを分けてくれ、
それを他の被災者の人に見られないように申し訳ない気持ちで食べたという話。
消防隊の制服を着ている為、すぐに呼び止められてはつかまれて、
「うちの火を消してくれ」と哀願されるのを、「人命救助優先」と言って
他の消防隊に引き渡したりしながら、振りきり、振りきり、
少しずつしか進めなかった大変さ、心苦しさ。
倒壊した家屋の下の布団の中から、ほとんど無傷で出てきた老人の死因が、
口と鼻につまった砂埃だったとわかった時のショック。
三階建てのマンションの屋上から、屋根をはがして、床天井をめくり、
やっとの事で一階にたどり着くと、やはり布団の下で冷たくなってる親子を発見。
どこでも親は子供を庇い、姉は妹を庇い、
いろんな人が布団の中でうずくまって亡くなっている。
火事で全焼した中に確かに人がいたというので、
探しやすい冷めた部分から皮手袋で瓦礫を除けながら探し進めて行くと、
まだ燃えくすぶっているような一番熱い場所にいた。
──等々の体験を生々しく語られる。

ふいに小隊長さんの話している声が詰まった。
「ちょ、っと、すみません・・・」
思い出して涙腺がゆるんでしまったのだろう。

災害の犠牲者は、数字で何千人、何万人と無機質に語られるが、
その一人一人はまぎれもなく生きていた、我々と変わりない人間。
震災のような突発的な災害に、なす術もなくうずくまったままであったり、
パニックを起こさないためには、的確なとっさの行動がとれるようでなければならない。
それを意識付けするための話だったのだろうが、
私はなにより、この方のこうした人の情にこみ上げてくるものがある。

何かあったときには、必ず力の限り助けようとしてくれる人がいる。
温かい血と涙の通った人が駆けつけてくれる。見つけてくれる。手を貸してくれる。
それを信じられるというのが、一番大きな安心と力になるのではないだろうか。
そして私も私のできる限りの事を。と、そんな風に感じた。

猛獣

想いは私一人のものだけど、ときどき暴れだすことがある。
届けたい。知って欲しい気持ちが湧いてきて。

なぜ想っているだけではいられないのだろう。
私は私が一番良く知っている。
それを他人に押し付ける必要などないと言うのに。

人を否定したいの?
自分を認めさせたい?
あなたの為と恩をきせる?
私は傷ついたと被害者ぶる?

好意と善意を前面に押し出して、
私に反する、私を否定する、私を嫌う人を攻撃。
「あなたは悪い人だ」と。

悪い人を良い人に。
間違った人を正しい人に。

私の思い通りに従わせて支配できたと感じれば満足する。安心する。
何度も繰り返してきたじゃない。
だけどそれで満たされるのはほんの一時。

また新たな心揺さぶられる人が現れてしまう。

いいえ。

次のターゲット。
新しい獲物に心躍らせているのかもしれない。

そういうこと。
笑っちゃう。
それって何かに似ているね。

不安と期待とワクワクと

「不安」と「ときめき」はよく似ている。
やがて起こる出来事に対しての恐れと期待。
相反する二つの気持ちもまた表裏一体。
期待がなければ失敗を恐れはしない。
失敗の心配がなければ成功の期待もない。

スピリチュアル流行りの今日、
好んで使われる言葉に「ワクワク」というのがある。
このワクワク感こそが、悩みを解放し、人を癒し、人生を豊かにし、
喜びに満ち溢れた日々を送るための心持ちらしい。
それらしい雰囲気を持つ言葉ではあるが、これほど曖昧な物もないだろう。

・すべてはひとつ
・魂は永遠
・宇宙は完璧
・必要な時に必要な事が起こる
・真実は愛だけ

巷に存在する能力者、スピリチュアルカウンセラー、ヒーラーは
大抵こういうことに、もっともらしい肉付けをしている。
しかし、言ってる事とやってる事が正反対なのにどれだけの人が気付いているだろうか。
完全にあるがままを受け入れているとしたら、
あるべくしてある不幸や悩みや心配をなぜ、なくそうとするのだろう。
結局のところ、いかに自分の都合の良いように運命や環境を操るかの方法を
必死に探してるに過ぎない。

パワースポットに出かけたり、パワーストーンを持ったり、
まじないをしたり、言葉を唱えたり、瞑想したりで、
宇宙(神)と交流する事により、魂を向上させ現実を望みどおりに変えようとするなど、
それこそ宇宙(神)に対する冒涜であり裏切り行為ではないか。

「すべてがひとつ」なら、「私」は孤立しては存在し得ない。
「永遠」な「完璧」を「私」が知って信じる事もない。
なぜなら、それを忘れている今の「私」が必要だからだ。
孤独で儚く不完全な「私」が悪戦苦闘、七転八倒の現在を生きてこその調和という事。

だからこれでいい。
親に愛されずに最悪の環境で育つ。
人に嫌われる。虐められる。裏切られる。
お金で苦労する。病気になる。
仕事がうまくいかない。嫌な奴と離れられない。
大切なモノも人も失ってしまう。

必要な時に必要なことが起こってるのなら、それがなぜいけない?

良くなりたい。愛されたい。認められたい。助けられたい。
お金持ちになりたい。健康になりたい。成功したい。
嫌な奴を懲らしめたい。好きなモノや人に囲まれていたい。
幸せになりたい。
その願望ももちろんあっていい。自然な気持ちだ

しかしそれを宇宙意識を「利用」して自分の都合の良いように変えようとするのが
“エゴ”でなくて何なのか。と問いたい。

不幸を過去や他人のせいにするのは、全部いいわけ。
誰が誰を好きでも嫌いでもそれはその人の勝手。
お金は労働の対価。健康は賜り物。チャレンジあっての成功。
自分にとって嫌な人も誰かにはいい人かもしれない。
他人に害をなせばいつか自分に返ってくる。自分も誰かの嫌な奴。
物や人への執着こそが苦しみの元。

それをわかってる人なら、誰も何も“自分の力”によって変える事はない。

未来は何が起きるかわからない。
状況はどう動くかわからない。
人は何を思うかわからない。
「私」が動くことでどう変るかわからない。
だから不安。だからときめく。
都合が悪い方向へ行く恐れと、都合がいい方向へ行く期待、
それが「ワクワク」。
当たり前の感情。

スピリチュアル・カウンセラー、ヒーラー、占い師、霊能力者、あらゆる宗教は、
時に、自然の理に殊更大袈裟な理屈をつけては真理から遠ざけて、
“自分の力”の誇示に利用しているように見える事がある。
あるものをあるがままに受け入れる以外の選択肢があるかのように錯覚してなければ、
「悪い事」を「良い事」に変える作用を“自分の力”によって及ぼそうとはしないだろう。

だけど、この矛盾も必要だから存在しているのかもしれない。
そう。きっとこういう事をそれぞれが考えてみる為に。
プロフィール

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Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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