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百一万回目の失敗

長男がブツクサ言っていた。
自分が見ていたテレビ番組を父親に変えられてしまった事で。

夫は長男が見たい番組だったことなど知らなかったので、
「それなら言えばいいものを。変えてやるのに」と驚いて言う。

長男はいつものごとく、
「どうせ言ったって無駄だし」なんて言ったりする。
「無駄かどうかわかんないでしょ」と私が言うと、
「だってこれまでだって、聞いてくれたことないもん。
もう言わん事にした」とふくれっ面。
しかし、夫にも私にもチャンネル争いなんかした記憶はないのだが。

自分の希望を言わずにおいて、
後で「こうしたかったのに」と不満をこぼすのは、一番無意味だ。
希望は叶わないし、人に嫌な思いを与えるだけ。
むしろ、最後まで黙っておいた方がマシなぐらいだ。
こういうやり方でしか、自分を表現できない不器用さは、
昔の私に似てるのかもしれない。
損だよ~、それは。経験者は語る。

私は言った。
「やったけれどダメだったで諦めたら何も変わらないでしょ。
 たとえ百万回やってダメでも、
 百一万回目には変わるかもしれないって希望は持たなきゃ」
と、ちょっと冗談めかして。
おお、我ながらナイスなセリフだ!!、と思ったのだが、
即座に次男が横から突込みを入れる。

「お母さん、お母さん、百一万回目は違うんじゃない?
 それじゃあ、百万回言った後に、もう一万回も言わないといけなくなるよ」

し、しまった。そうだった。
「百万一回目だ!」と訂正したが、締まらない。
長男は呆れてお風呂に行ってしまった。
失敗失敗。
「百回やってダメなら百一回目」にスケール大きく万を付けてはいけなかった。
しかし、次男は鋭いな~。

長男には、
「失敗ばかり。そして何度失敗しても平気の平左の私を見よ!」とでも
言ってやるか。(笑)

(追記)
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昨夜、夫は帰らなかった。
連絡なしで。
子ども達とご飯を先に食べて、
帰ってきたらすぐ用意できるようにして待っていたけれど、
帰ってこなかった。こんなことは時々ある。

私はこういう時、電話しない。
たぶん、仕事納めで二階の実家で飲んでそのまま眠ってるだろうと思うから、
用事もないのに起こしたくない。
事故でもしたなら連絡があるだろうと、何も心配しない。
いつものように12時には寝た。

夫は今日の昼に帰ってきた。
ビールとプリンを持って。
特に何も聞かない。
一緒にビールを飲んでプリンを食べた。

その後私は夫と子ども達に掃除を頼んで買い物に行き、
帰って早めに夕食にして、夜は町内会の地域研究会で防犯についての会議に出かけた。
出掛けに夫が言った。
「お前、あれこれやりすぎじゃないか。もう来年の仕事が入ってるんだからな」
来年の仕事は今、何の関係もないだろうに。
いろんなところで役員をやったり、趣味などで出かける事が多い私を
夫はあまり快く思わなくなってきたらしい。
私が仕事以外に何もせずほとんど家にいた頃には、
「どんどん外に出ろ。もっと人と接するようにしろ。友達と遊べ」
と言っていたのだけれど。

私は夫の思うところの「あるべき妻像」に合わせなくてはならないのだろうか。
それが嫌なわけではないけれど、できないと思う。
夫の思い描くとおりに、
そこそこ外に出て、ほどほどに人と付き合って、
しっかり仕事をして、ちゃんと家庭を守る妻であろうとするのは。
私には私のスタイルがある。

たまに鬱陶しくなる。

私も何も言わずに外泊してみたいものだ。一週間ぐらい。

自分を固定しない

私は自分をよく
「ぐうたら」だとか「なまけもの」と称していたのだが、
それはもう言わない事にした。
なぜそう言いたがるのかという心に気付いたからだ。

自分で自分に名前を付ける、レッテルを貼る。
この行為は何を意味するのか。
それは「私はこういう人間だから」と言って安心して、
変わらなくてもいい言い訳にしていたのだった。

私は「ぐうたら」という固定されたものではなく、
私が「ぐうたらしている」のだ。

私は「なまけもの」という名称ではなく、
私が「怠けている」のだ。

変えられない前提条件など存在しないのに、
あたかも生まれつきのハンデを背負ってるかのように、
自らの性格を固定するのは、
自分の責任を自分でとる事からの逃げ。

自分を突き放して客観視しているつもりだったが、
感情を見切って言葉にするのと、自分自身を言葉で定義するのは、
まったくの別物だった。

自己客観視とは、自分の長所短所をそのままに受け入れて、
決して他人のようにありたがらない事。
そこには優劣の比較は存在しない。
しかし私がやっていた事は、「働き者」に対しての劣等意識の肯定。

「ダメな私を許されたい」気持ち。
それでは自己肯定感から遠ざかってしまう。

私とは、行動する中にあるのであって、決して固定されたものではない。
私は私に名前を付けないというのをこれからの方針にする。

さおだけやの秘密

「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」は今年ヒットしたベストセラー。
会計学を素人にもわかりやすく解説してある楽しい読み物らしいが、
私はまだ読んでない。
「会計学」と帯に書いてあったのでもう苦手意識。拒絶反応だったのだ。
多くの人が読んでいるとは、みなさん勤勉でいらっしゃる。
できれば私も「読んだ」「よくわかった」とそれらしい事を言いたいけれど、
こういう流行の後追いを今更してもあんましカッコよくないので、
そのうちBOOK OFFで105円で売られるようになったら読むかもしれない。
「下流社会」と一緒に。

朝、この「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」の話題をテレビでやっていた。
ここは田舎で、その上、急な坂道の上に位置する我が家近くには、
こういった販売車はあまり回ってこない。(訪問販売は多いが)
子ども達は「さおだけ屋」を見た事がないので不思議がる。
それで簡単に説明してやった。

竿竹というのは、洗濯物を干すただのまっすぐな竹。
近くにはいくらでも生えてるし、店で買っても数百円。
これをこの車で「竹や~、さお竹~♪」と売りに来る人から買うと、
数千円、下手すると一万円とかボッタクララレる。
だから一度騙された人は二度と声をかけないし、知ってる人も買わない。
で、ベストセラーになった本ってのは、
まだ知らない馬鹿が数日に一度引っかかるとして、それでなぜ食っていけてるのか?
という疑問をタイトルにしたんだろうねー。
なんて事を適当に。

それを聞いた次男が「竹食ってる」という珍説を出してくる。
んなアホな。
「竹は食えないでしょ。タケノコならまだしも」と私がいい、
ああだこうだとの議論の末、一つの仮説に落ち着いた。

さおだけ屋は、広大な竹林を所有している。
そこでは多くのタケノコがとれるので、主にそれを主食として、
さおだけを売ったお金で調味料と米を買っている。
それだと、数日で数千円でもなんとか暮らしていけるという結論。

まったく子どもは面白い考え方をする。
少ない情報の中だけの閉じた小さな世界観。
なんにせよ我々には関係ないので、私はそれ以上つっこまない。
子ども達には「さおだけ屋とは絶対に関わらない」とだけ教えておく。

因果な因縁

知り合いの話。

彼は50歳の男性で、未婚だが子どもが一人いる。
子どもは母親と暮らしていて、母親は他の男と結婚している。
と聞くと、出来ちゃったけど結婚に至らずに別れて、
その後、女性の方だけ他の人と結婚したのかと思うだろうがそうではない。

その女性は再婚で、子どもは最初の結婚相手と暮らしている時に身ごもった。
夫の子ではない子を産んだのだ。
いわゆる不倫の子。

しかも同時期に付き合っていた男性は、私の知人だけではなかったようなのだ。
浮気癖が元で離婚話が何度も出て、その度に離婚したら一緒になって欲しいと
知人に泣きついていたが、いざ離婚したら他の男と暮らし始めたという。

元旦那は知る限りの妻の浮気相手に訴訟を起こした。
そして子どものDNA鑑定の結果、めでたく当たりくじをだったのが知人だ。
慰謝料を払い、子どもを認知し、
他の男と暮らしている女の元に養育費を送る羽目になった。

元々不倫で苦しんで、女には去られるわ、
子どもが実は自分の子だったと知ってショックを受けるし、
しかし側にいてやる事もできないし、元旦那に恨まれ、金は取られの、
踏んだり蹴ったり。
そしてそれでもまだ、彼女は今の旦那の愚痴をこぼしたりして、
気を持たせる事もあったという。
子どもは新しい父親と折り合いが悪いし、母親にも母性はないので、
虐められては知人を頼ってくるのだが、引き取ろうにも先方は納得しない。
そんなどうにもならない状態で時は流れた。

今、問題が起きているという。
息子は高校生。
上級生を孕ませてしまったという連絡があちらの家から入った。

知人はかけつけ、本人からよくよく話を聞いてみると、
・・・・・・どうやら、その相手は他にも数人と付き合っていて、
自分の子ではないのではないか、という事だったとか。

めまいクラクラヽ((◎□◎ ))
こんな連鎖もあるんだ・・・・・・。

馬鹿を見たのも、心を痛めてるのも知人一人だけってのが悲しい。

人恋うる歌

この恋に 我は今死ぬ 今生きる


与われた 痛みもなみだも 罪も愛ほし


畏れ知る 人ぞかなしき 恐れなき我   (ぽあん)




過去の感情を整理していく中で、
どうしてもこの辺が強く出てきてしまう。
恋とは、依存と性欲、執着と妄想からなる、
無駄なマイナスエネルギーと知りつつも。

本当はいい人間なんだけどね

お金は人を変えると言う。

貧しくとも誰にでも優しく親切だった人が、大金持ちになったとたんに
掌を反したようにそれまで仲の良かった人達を遠ざけ、
傲慢で薄情な性格になってしまうということがある。

しかし一方で、羽振りの良い頃は面倒見の良い親分肌だった人が、
倒産して落ちぶれたら、僻みっぽく人間を信じなくなることもある。

  その人の本質と言うのは、余裕がある時に出るのだろうか。
  貧しい時にこそ見えるものであろうか。


柔和で謙虚だった人が病の中で、健康な人を羨んで
不機嫌でわがままで愚痴っぽい性格になってしまうことがある。

また一方で、同床の人達と慰めあい励ましあって培われた友情が、
回復した人によって何の関係もないとばかりに捨てられてしまう事もある。

  健康な時と、病に伏したときとどちらに人間性は現れるものなのだろうか。


・・・・・・・・という質問自体が、実はひっかけ。

人間とは表もあれば裏もある。
立場や環境で変化するもの。という前提に立っているから。

どんな時、どんな場所、どんな状況下であっても変わらない人もいる。


条件が人を変えるのではなく、本質はその人の中に既に有り、
人目を気にして見せかけていた仮面が外れた時に現れる。

上記の4者は、
レベルの低い人などどうでもいい。
金で人々の歓心を買えない人間は価値がない。
自分だけが損をするのは許せない。
実益のない人情など面倒なだけ。
という考え方をする人だっただけなのだ。


環境がよければ善人で、悪ければ悪人になるというのは、
単に根っからの悪人の都合のいい言い訳にすぎない。

パラサイト・ラバー

「俺にはお前がいないとダメなんだ。」
「お前なしでは生きていけない」
「俺の帰れる場所はお前だけなんだ」

とか言う男。
キモッ、ウザッ、何だよそれ。と吐き気がする。

一人でしゃんと生きて行けないの?
自分っつうもんがないわけ?

で、女にどうしろって?
あんたがダメにならないようにいてくれと?
はぁ?
女はつっかえ棒?
誰かに頼らなきゃならない男を支える女でいないといけないの?
何の権利があって他人に犠牲を強いるんだろうね。
俺様のために存在しろと。

誰かがいないとダメになるような人間は、出会う前からダメ人間。

ちっとはマシな人間にしてくれただけでも大恩人なのに、
感謝するどころか、先々の面倒見ろと泣き言とは、厄介な寄生虫。

またこれが、そうやってしがみ付かれて喜んでいる
お馬鹿な女もいたりする。
そいつもやはり寄生虫。
自分が犠牲でいる事で不幸を他人のせいにする。

「大変ねー」「よく辛抱してる」外野のそんな言葉は大好物。
頑張る自分なら自信が持てる、好きでいられる。

持ち込まれてくる困りごとは、関係維持の活力源。
泣きながら、喧嘩しながら、嬉しそうに世話をしている。

割れ鍋にとじ蓋。
世の中、うまく出来ている。

ガンバレヨー!!

女をモノにする男

女をオナニーの道具にする男に、
心底愛される事を望むのは愚かな女。

そんな男にひかれる時点で、
愛する、愛されるとはどういう事かわかってはいない。

「私を心地よくしてくれるから好き。
 かわりに気持ちよくしてあげるから、好きになって。」

そんな計算づくの駆け引きで賢い女を気取っては、
いつも最後に泣きをみる。

「私がこんなに好きなのに、気持ちよくしてあげたのに、
 どうして好きになってくれないの?
 それではどうすればよかったの? 
 待って待ってよ。捨てないでーー!!」

男にとって、快楽の道具に好きになられて嬉しいのは、
自由に使えてラッキーなぐらい。

使用済みのティッシュは、当然のごとくゴミ箱行き。
再利用なんてするはずがない。
キモチワルイ。

どうすればよかったかなんて聞いてどうする?
断られれば他所に行くだけ、やらしてくれてもまた次に行く。

男を恨むのは筋違い。
気持ちよかったのはお互い様。

他人を使って自分を満たす。
そんな女にお似合いの恋愛ごっこの顛末だ。

モノの重さ 命の重さ

子どもは親のモノだから、生かすも殺すも勝手にしていい。
子どもが親を殺すのは、尊属殺人でどんな理由があっても死刑。


幼い頃、母が繰り返し私に言い続けた。

殴っても蹴っても殺してもいい存在なのだ、私は。
どんなに憎くても殺す事は許されない存在なのだ、母は。
母にとって。
ありえないほど都合のいい話だ。

私はどんな思いでそれを聞いていたのか、その感情は思い出せない。
ただ、
「殺すなら、私が殺したのがばれないように殺せばいいだけ」と
考えたのは覚えてる。
自殺未遂マニアの母にそれをするのは、容易い。
何度もそのチャンスはあったのだが、つい助けてしまった。
いつも
「何で私がこんなくだらない女の為に
 人殺しにならなきゃならないんだ?」と思いとどまった。

私は誰のモノでもない。

挨拶したら殺される?

子どもが狙われる事件が続いている。
県からの緊急アピールを受けて、
地域でも安全についての取り組みを話し合ったのだが、
ひとつ残念に思った事がある。

それは、地域の人からも、保護者側からも
「挨拶ができない」という悩みが出ていた事。
挨拶は当たり前の事というのは、今では通用しないらしい。

大人は不審者と見られて怖がらせてしまうという心配をしている。
そして子どもを持つ親は、挨拶したのがもし変質者の場合、
さらい易い子だと思われてしまう危険があると怖れている。
他所の地域から来たまったく見ず知らずの人だけが危険というわけでもないのは、
最近の事件が示していると言うのだ。
少々、無愛想な躾けのできてない子供だと思われて嫌われても、
殺されるよりまし、という声があがっていた。

そんなものなのだろうか・・・?
と、ここ最近、ずっと考えていたのだが、
たまたま今日、昼にテレビを見ていると、
一昨年前に子どもを殺害した犯人の手記に、
「挨拶をしてくる子どもは狙いにくい」とあったと言っていた。
気が小さい人間だから子どもを狙うのであって、
はっきりと挨拶をしてくるような子どもは苦手なのだとか。
もしそうなら、挨拶は是非とも奨励すべきことだ。

また、地域での声かけが徹底している場所も、
不審者が近寄りにくい雰囲気だとも一般的に言われている。

挨拶したら危険。
挨拶しないと危険。

本当は、そんな事を天秤にかけるのがおかしいと言えばおかしい。

私はなんとなく気付いてる。
危険だから、不審に思われるから挨拶しなくなったのではなく、
これまで近所に無関心で関わりを避けてきてた理由を
そこにこじつけていやしまいか、と。

挨拶と地域の交流は、子どもの命を守るだけでなく、
これから大人になる心も育む役目もあるだろうに。

変質者が身近に潜んでいるかもと思うなら、
今現在、未来の変質者が育っていってる可能性も考えるべきだが、
そこはあまり目を向ける人はいないのだった。

コタツに6人

うちの家は寒い。
冬の間は8畳の和室にコタツを出して家族全員が閉じこもっている。

子ども達は冬休みに入ったので、一日中ゴロゴロ。
教科書や、本や、ゲーム、みかん、ビールの缶、お菓子の袋などが
手の届く範囲内にある。
散らかる。
お絵描きや、工作や、人形遊びをする人もいるから余計散らかる。
散らかりっぱなし。

私はたまに爆発する。

「どうしてうちは、6人も人間がいて、
 一人ぐらい小まめな片付け魔がいないかね。
 なんで皆、そろいも揃ってグウタラなの!!」
と、答えのわかっている八つ当たりをしてみる。
6人、と私も入っているあたりがミソ。

子供たちは「そりゃあ、皆、お母さんの・・・」。

夫はアセアセと片付け始める。

約束された苦しみ

つくづく考えるに、人間のあらかたの苦しみは、
他人への期待から生じてるものだとわかる。

「なぜあの人はああなのか。」
「どうしてこんな事を言うのか。」
「認めてくれない。」
「わかってくれない。」
「動いてくれない。」

そしてそれには大抵、
「わたしがこんなに~~してるのに!!」
がついている。

親子、夫婦、恋人、友人、仕事関係、社会的役割、
通りすがりの無関係の人にまで及ぶ、
「期待」。

当然なされるべきと自分が考える行動に、
他人が当てはまらなければイヤなのだ。

それはなぜか。

自分ならそうする、を基準にしているから。

「してくれるのなら、してあげる。」の気持ちを前提に動いているのに、
してくれないのは、裏切りだ。
その上、「してくれないけど、してあげた。」のを
感謝さえしてくれないのは、恩知らず。

私ばっかり損をする。
募る被害者意識と、相手への恨みつらみ。

だけど、いつ、「してあげるから、してちょうだい。」の
取り引きが成立してたのだろうか?
これも自分が勝手に世の中に存在すると思い込んでるだけの、
実体のない「お約束」なのだった。

人気者になりたい!

人に好かれたい人は、
人に好かれようとすればするほど、自分が嫌いになっていく。

失敗すれば当然ながら、好かれて人気者になったとしてもそうなのだ。

好印象にしようとどんなに頑張っても好かれない人はいる。
人より秀でた物を持っても、カワイコぶっても成果なし。
何をしたってダメな自分に自己嫌悪・・・・・・。

また、狙い通りに好感度アップしたとしても、
幸福なのは願いが達成した一瞬だけ。
好かれるキャラ作りに成功したら、それを維持する努力が必要。
そして、誰も本当の自分を知らないという孤独・・・・・・。

私は好かれているだろうか、嫌われているだろうか。
あの人は私をどう思っているだろう。
こんな事言ったら嫌われるかな。
あんな事言っちゃったけど嫌われたかも。
「いい人」と思ってもらいたい。
嫌われたらどうしよう。どうしよう。どうしよう。。。

いつもいつもそればかり。

「本当の自分は嫌われる」との強い強い思い込み。
誰が自分を嫌っているのか。
他の誰でもない。
自分自身だけ。

他人には(その人が好かれようと嫌われようと)別にどうでもいい事を、
一人で思い悩んでるだけなのだ。


こうやって書くと、
「そりゃあ、そうだよ。アハハ、へーんなの。」と多くの人は思うのだけど、
自分がそうだって認められない人ほど、実は重症だったりする。

ワケありの笑い

笑いは健康に良い。

「笑う門には福来る」とは昔から言われていたことだが、
笑うと脳が刺激される事によって分泌される神経ペプチドという
免疫機能活性化ホルモンによって免疫力がUPする。
そしてそれによって、ナチュラルキラー細胞も活性化し、
ガン細胞が破壊されるという効果が研究によって明らかになってきた。

そこで、これを利用して積極的に笑おうと、
治療に「お笑い」を取り入れるなどの試みが多くの医療現場でなされている。
大声で笑えない場では、笑顔を作るだけでも効果はある。

・・・・・・
とかいう話題を聞くたびに、私は何だか違和感を覚える。

ガンの治療の為に笑う。
免疫力を高める為に笑う。
リウマチ・関節痛の痛みを和らげる為に笑う。
副交感神経を活性化してリラックスする為に笑う。
自律神経を整える為に笑う。
循環を良くし、美容と健康の為に笑う。

そして笑う為に笑いに行く。


何かおかしいんだよな。

何でわざわざ何かの為に笑わないといけないのだろう?

笑いとは、楽しいと、心地よいと、面白いと自然に出てくる表情。
その状況と感情は好ましいものであって、
笑いはそれ自体が喜ばしく望ましい動作のはず。

普段、誰でも笑いたいものではないのだろうか?

もしそうでない人がいるとするのなら、
そんなこれまで笑う事が少なかった人が、いざお笑いを見て笑える?

作り笑顔、笑うふりでも効果があるみたいだから、
それは治療として薬を飲むかのように笑いたい人がいたって構わないのだけれど、
なんか、もったいないな、と思ってしまうのだ。

私はお笑い好き。
冗談もよく言う。よく笑う。(よく泣くし、よく怒りもするけれど)
箸がころげても可笑しい年頃がもう、何十年も続いている。

こんな私がもしガンになったら、どうしたらいいのだろう。。。
なーんて心配はしていない。(笑)

行動の美意識

確かに、この度のみずほ証券誤発注事件は、
ちょっとした入力ミスで一瞬にして莫大な損益がもたらされるという
システムの問題点が大きく取り上げられるべきであり、
儲けた個人投資家がどんな人であるかなど、どうでもいいことだ。

実は私は、ミスとは知らずに買いのタイミングが
偶然その魔の16分に当たって利益を得た個人投資家よりも、
ミスをミスと知っていながらつけ込んで儲けようとした大手証券会社数社が、
世論や自民党、証券業界内からの「火事場泥棒」という批判によって、
企業イメージを損うのを恐れて返還する事にしたという経緯の方が、
余計にムカついているのだった。

ビジネスというのは、従来、非情なものではなかったのか?と。
「行動の美学を持つべきだ」との与謝野馨金融担当相の批判は、
とても倫理的ではあるけれど、
では、どこからどこまでそのモラルが適応されるものなのだろうか。
国中のどれだけの企業が、経営者が、社会人が
「行動の美学」を持っているのか?
社会経済に大きな影響がある時にだけ持ち出される
「行動の美学」にカチンとくる。

全額返済してもしなくても、「火事場泥棒」は「火事場泥棒」だ。
万引きを見つかったからと後で返しても、窃盗犯は窃盗犯。
だが、今回の取引きは、商取引の正当なプロセスを経て成立したものであり、
ちゃんとしたビジネス。

それに、一度は儲けようとした企業が外部から言われて返したからといって、
そんな中途半端な「いい企業」イメージを保っても
仕方がないのではないのか。

いっそここは強欲を貫き通して、
堂々と世界中から非難の石つぶてを受けるぐらいの
悪徳の栄えの商魂を見せて欲しい物だと思ってしまう。

もしかしたら、誰も知らないところで、
いち早くミスに気付いても買い付けに走らず、
ミスを連絡し被害を食い止めようとしてくれた人がいるかもしれない。
「ミスだろうから」と、様子を見ていた人もいるかもしれない。
大手であろうと、中小であろうと、個人であろうと、
つけ込もうとすれば儲かるとわかっていても、自制した人が、
本当の「行動の美学」を持つ人。

お金と体面を秤にかけて得なほうを選ぶ行動は、
それも正当なビジネスではあるけれど、
社会に対する責任を負っている立場もあるけれど、
だから一概に良いとか悪いとか断じる事はできないのだけれど、

決して美しくはない!!

20億ちょうだい

みずほ証券の発注ミスで20億円稼いだ
27歳の男性のインタビューをテレビでやっていた。

他人のラッキーを妬みやすい私としてはもちろん面白くない。
「いいことしやがって」とムカつく。

さあ、すぐにこのムカつきを観なければならない。

なぜある情報に対して心穏やかでいられないのか。
まったく自分と利害関係のない人間に対してさえ、
気分を害するのはどうしてなのか。

ムカつきながら報道を見ていると、
その人のアラを何とか探そうとしているのに気付く。

日常のほとんどを家のパソコンの前に張り付いてのオンライントレード。
引きこもり。株取引きオタク。
両親と同居の独身27歳なんてモテナイ君じゃないの?
お金の使い方を知らないなんて、カワイソー。

大きなお世話である。

そんなに株取引で大きな利益を得たいなら、やってみるかと言えばそれはイヤ。
儲かる保証がないから。
リスクを避けて、着実に大きな収益を得たいなどと都合の良い事を考えている。

また、小口取引をしながらコツコツと株を学んでいくというのもイヤ。
勉強、努力、大嫌い。面倒臭い。私はナマケモノ。

本気でやりたいことではないのに、
「金持ち」というなりたいものになってる人を羨んでるだけ。
自分が貧乏なのが許せないとの気持ちが、
他人をコケ下ろすふりをして、実は自分自身を苛んでいる。

私の環境を私は不満に思ってる。
つまりはそこに行き着く。
ここは私に「ちょうどいい」のにだ。

ま、そんなふうに自分を感情を観ては捨てていく。
腹立ちの原因が自分のどこにあるのかがわかれば出来事の役目は終わる。


ただ、インタビューの最後に「株取引の魅力とは?」と聞かれた彼の、
「辛いばかりです」の答えには、物悲しいものがあった。

80億円も持ってても、やりたいことできないの?

子供より可愛いモノ

私には10歳違いの妹がいる。
私は母の妹への子育てを側でずっと見てきたという事になる。

赤ちゃんはその存在だけで愛らしく、構って遊ぶのは楽しい。
どこの家でも「いないいないバア」や「ベロベロバア」は必ずするだろう。

しかし、それと同じようにこんな事はするだろうか?

子供と楽しく遊んでいる途中で、
その子供が気に入っている動物のぬいぐるみに対して、
「可愛いクマちゃんですね~、よしよし、いい子ね~」と抱っこして、
子供には「○○ちゃんは嫌い。あっち行って。」と嫌な顔をするという“遊び”。

母は妹によくやった。
妹は泣いて「クマちゃん、ダメ、私のママよ」とクマを叩いたり投げたりして、
「ああーん、ママ、好き、ママ!!」と母にしがみ付くのだ。
母は嬉しそうに抱きしめる。
そしてまた、別の日にやって繰り返す。

私も真似て同じように妹と“遊んだ”。
それが普通の可愛がり方だと思っていたのだから。
私に好かれたくて泣いてすがってくる幼く無力な者を見るのは快感だった。
かすかな記憶をたぐると、かつて私も同じ“遊び”をされてきたように思う。


だが、私は自分の子供には、そんな事はしていない。
愛情確認について思い巡らせた今日までまったく思い出しもしなかったのは、
知らず封印していたからだろうか。
あんなのは、親になった私にとっては楽しい遊びではない。
子供に悲しい思いをさせて、泣かすなんてのは。
私は子供を笑わせたい。楽しい気持ちにさせたい。それが嬉しい。

なぜ母はあんな事を子供にしたのだろうか。
それは、子供に愛されている事、必要とされている事を、
行動と言葉で示して満足ささてもらいたかったからだと思う。
そして私も、母に愛を求められるばかりで満たされない寂しさを、
妹に求められる事で癒そうとしたのだろう。

私は自分の痛みを知っている。何がイヤだったか、何が悲しかったかを。
だから子供にはそれは味あわせたくないという気持ちが強い。

妹は自分の寂しさがどこから来るのか知る機会が少なかったのかもしれない。
今もなお、愛される事を求め続けて苦しんでいる。

満たされたい心

時々、チビが私に
「お母さん、だーいすき。」と言ってくる。
とても可愛い。
「お母さんも、ナナちゃん、だーいすき。」と
ギユッと抱きしめる。
嬉しそうな顔。


だけど私の胸の奥がチクリと痛む。

「あなたが好き」と言葉に出すのは、
「わたしはあなたに好かれたい」という気持ちの表現だから。
親が何もわからない赤ん坊に「スキスキ」とするのとは、意味が違う。
まったく不安や寂しさがなければ確認などいらない。
自分の気持ちも、相手の気持ちも。

まだ愛情の器が満たされるところまではいっていないようだ。

長女も二年ぐらい前、理由はわからないのだけれど、
「なんだか寂しい気持ちがする」と言っていたことがあった。
その時も、ひざに乗せて彼女の気が済むまで抱きしめるしかできなかった。

子どもの心に隙間があるとしたら、それは私の意識の薄さのせい。
外にばかり目を向けて、目前を観る事を怠っていたから。

もう少し、もう少しだけ待ってね、と心で子ども達に詫びる。

本当の自分像

実生活で「いい人」を演じている分、
ブログでは「本当の自分」を出していると書いてるのを
あちこちでよく目にする。

そんな事を言う人で、そうなってる人はいない。

実生活は「我慢してる自分」、ブログで「ありたい自分」。
どちらも「偽りの自分」だ。

いくら
「私は弱い部分、ダメな部分、悪い部分を素直に表現している。」
などと反発してもそれは違う。

逆境にけなげに耐えるワタシ、状況さえ良ければデキるワタシ、
根は優しいワタシ、と作ってるのは一目瞭然。
どれもこれも言い訳ばかりじゃないか。

ウジャウジャ寄って来る類友だけが気がつかない。

自分の都合の悪い事(痛いトコ)はコッソリ隠しておいて、
本当の自分もないだろう。

「いいえ。私は本当に他人にどう思われたっていいと思って、
  正直に飾らず、ありのままを自分を出しているだけ!」

もしも、そんな怒り方をする人がいたとしたら面白い。
他人に「自分を作ってる」と思われることだけは嫌だったという事だ。

せっかく、正直なワタシを作ったんだからねぇ。(笑)

見られたい自分の像がある段階で、すでにニセモノ。

どうぞこのまま

来年はチビも小学一年生。
今日は幼稚園でもちつき大会の後、クラス懇談会があり、
そこで最近の子供の様子や、入学前の心配事などを話し合った。

中の一人のお母さんがこんな事を言われた。
「うちの子は毎日楽しく幼稚園に行っていて、家でも本当にいい子なんです。
 だけど小学生になると、悪い事も入ってくるかもしれないし不安です。
 このまま純粋に真っ直ぐいって欲しい。
 今が最高にいいから、これから壊れていくのかと思うと暗い気持ちになる。」

同席している人達の中には私の他にも上の子を持つ人は数人いて、
先生はこの悩みについての意見をそれぞれに聞かれていたが、
「付き合う友達次第」とか、
「先生によってもいろんなやり方があるから」とか無意味な言葉が舞うばかり。
問題がわかってない人達に解決策は示せない。

私は黙って聞いていた。
場が求めるのは安心材料。
だけど私には「悪くならない」なんて嘘は言えないし、
「悪くなっても大丈夫」かどうかもわからないから。

子供は悪くなるものだ。
自分で考え、自分で勝手に動きだす。
どんどんどんどん悪くなる。
親の都合にとって。

今は“いい子”の子供が手におえなくなる不安。
それは、いずれ来る親離れの予感でもある。

子供の成長を望むなら、親も一緒に成長するしかないのだ。

言わなくてもわかる人は自然にわかるし、
言ってもわからない人にはどうしてもわからない答えなんて、
言う必要はない。

私より少し不幸な人が好き

下ではたまたま学歴について書いたけれど、
言葉と心が裏腹なんてのは、何についてでも言えることだ。

例えば女性が女性を誉める「おきれいですね」。
これ、どこまでホンネだろうか。

きれいな人にきれいと素直な感想として言える人がどれくらいいる?

多くの女性が自分より美人は妬ましいし、ブスは安心できる。

美人のアラを探し、見つからなければ性格が悪いという事にしないだろうか。
「きれいね~」「あら、ありがと」
(何、あいつ、美人だからって鼻にかけて!プン!)

ブスをおだてていい気分にさせて優越感に浸ってないだろうか。
「きれいよ~」「わー、うれしい」
(フフッ、可哀想な人に優しくするのは気持ちいいわネ)

そんな事、あるでしょ?
ない?
ない?

ええ~っ、こんな事考えるの、ひねくれ者の私だけ?

みんな“いい人”だよね~。

できそこないカメレオン

多くの人は「学歴偏重社会は問題だ」と言うが、
現実には学歴差別は歴然として存在するのも周知の事実。
これが建て前とホンネ。

 もしも、「学歴がなければ幸せになれない」と
 言う人がいたとしたら、私は猛反発するかもしれない。
 なぜなら私は高卒だから、
 侮辱されたように感じて、言った人を嫌う可能性がある。

 逆に「高学歴の奴なんか勉強以外何もできない、使えない」と
 言う人がいたとしたら、私は喜んで同意したくなるかもしれない。
 言った人を好ましく思いそうだ。

 だから、私に学歴の話をする時は慎重に言葉を選ばなければならない。
 私の劣等感を刺激するなーーー!!!

・・・なんて個人的主観を押し付けたら、
私は自己中の困ったチャンと見なされるだろう。

だけど口に出して言わなくても、大抵の人は暗黙の了解でやっているのだが。


「学歴なんかどうでもいいよ」そんな無難な意見を誰かが言ったとして、
バックボーンがわからなければ、多くはそのまま聞き流すか頷くかの反応になる。

しかしもし、その人が超名門大学院卒のエリートだと知ってる場合は、どうだろう。
「いやー、たいしたもんですよ。あそこを出られてるなんて」と、
言わないといけないような気がしないだろうか。

そしてまた、言った人が中卒の町工場の経営者かなんかだと、
「そうですよ。実力が物を言う社会ですからね」と言ったりしないか?

それがこの社会のルール。
どこにも明文化してない決まりごと。「お約束」。
相手によって見せ方を変える。
先様のご機嫌を慮って自分を抑える。
そうあってこそ分別ある大人、という事になっている。

掟破りは好かれない。
“いい人”に思われたかったら、計算が大切。

頭を働かせて、この場合はどっちが得か損か見極めて選ぶ。
ここではこれ、あの人にはこう、
そつなく、どこでも好印象であるのが世渡り上手。

本当は心で叫んでないか?
「名門出身だからって偉そうに」とか、
「学がないから他人を羨んで」とか。

怒りは澱のように溜まっていき、また新たな腹立ちを作り出す元になるのだが、
その原因に気付く人は少ないのだった。

どうにもこうにも

建築物耐震偽装問題の報道を見るたび思うのは、
この人達、いったいどうするつもりだったのだろうって事。

あんなずさんさでばれないほうがおかしい。
それに、地震が来たら「ぺちゃっ」と行くって、平気なの?

関連するどの人達も、
多くの人の生活と命を預かる責任感・使命感など持ってはいない。
その上、結果を考える想像力さえないのは、どういう事だろう。

その場当たり的な刹那主義は、
返すあてもないのに横領を重ねて破滅する人にどこか似ている。
気に入らないからって簡単に人を殺す人にもどこか似ている。
その後どうするつもりだったの?って聞きたい事件は、
この所、とても多い。

自分が何をしているかまったくわかっちゃいないんだ。

「どうにかなるさ」は、自分がなすべき事をした人が言えること。
やっちゃならない事をしたら、どうにもならない。
わかれよ、それぐらい。

どうにかしてよ。この人達。

ロールキャベツの夕べ

キャベツが安かったので久々にロールキャベツを作った。
作り方がどうだったかイマイチ覚えてないが、適当。

「今日のおかず何?」
子ども達は毎日必ず聞いてくる。(しかも一人ずつ!)

「ロールキャベツよ」と答えると、
「ヤッターー!」とみんなすごい喜びよう。

「今年初めてだね」なんて言うので、
「ええっ?全部作るのは久々だけど、冷凍のは作ったと思うけど?」と言うと、
「ううん。あれも去年。今年は作る作るって言ったけど作らなかった」。

そうだった。
何度もロールキャベツの予定はあったけど、その度に仕事が遅くまでかかったりして、
結局野菜煮込みスープになったり、ハンバーグになったりしたんだった。
しかし、よく覚えてるな。

子ども達はウキウキして待ってて、テーブルに出すと、
誰が大きいのを取るとかあげるとかで、皿をあっちやりこっちやり。
「合掌、いただきまーす」の次の瞬間、
「おいしい!!」の合唱。
こういうのは、家庭内シェフ冥利に尽きる。

その後、仕事が遅くなった夫から帰るコールが入った。
「今日はロールキャベツよ」と言うと、
「おっ♪ ひさしぶりだな~、楽しみ」との返事。

みんな、そんなにロールキャベツが食べたかったのぉ?
それなのに、私ときたら今年初めて作ったなんて。
ごめんよ。知らなかったんだよ。
しかも、たぶん今年最後だわ。

ズルイ女

都合よく権威を利用する人を見て、
「あの人、ズルイ」と腹を立ててたら、
武道に通じている知人に、
「ああ、それは君がその相手の行為は、
 敵を倒すために「有効」だと思っているからだよね。
 それに君もよく使う手だからね。」

と言われた。

グサッときた。

「人間関係は、ジャングルの弱肉強食の世界。
 ルールなき世界。
 本当の戦いにズルイはない。

 それをあると言う事は、
 真剣に命のやり取りをすれば軽くやられるということだよ。」


グサグサッ。
も、だめ。

私ってわかってなかったな~。
イケナイ事とイイ事と、
そんな公式国際標準規格のルールなんてどこにもないって事。

結局、私の「野生」は中途半端だったのだ。
放し飼いで自由を謳っても、危険になれば檻に戻る小動物。
だけどここはジャングル、
どこにも安全な場所はない。

「そんなのズルイ」「い~けないんだ~」なんてのは、
単なるチビッコのおままごと。
それにいちいちつきあって、勝った負けただのチャンチャラおかしい。
お遊びはおしまい。

生きるのは命がけ。

さよなら、燃える闘魂

アントニオ猪木の「燃える闘魂」は、
スポーツマンシップに則って肉体と精神力を高めていくもの。

しかし私の「燃える闘魂」は、
単なる闘争心であり、その原動力は“激しい怒り”だった。

怒りは、自らを高める方向に向うのではなく、
他の否定により正当性を主張する自己顕示欲だ。

いくら他者と競っても、そのベースが違えば当然のこと、
尺度を決めるモノサシも違ってくる。
どちらが上か下かをいくら争ったところで意味はない。

私のこれまでの考え方は、この視点に欠けていた。

私の意見は、自分と違う考え方を否定し、
肯定する時は、否定の否定となっていた。
全ての事柄に対しての敵対意識。

それは、自分を証明する必要があると感じていたから。
「『あれ』より『これ』でしょう」と賛同者を求める為に。

他と敵対する者が、
また別の多くの他によって認められる事によって得る自信は、
本当の自信ではない。

比較する事でしか自己を表現できない者が、
真に誰かに伝えられる物などあるだろうか。

いくら他を否定しても、自己肯定にはなりえないのだ。

闘う必要などどこにもなかった。

怒りの炎を鎮めて、ゆったりと自分の今いる場所を見渡せば、
必ず観えてくる物がある。
そう信じる。

そこなお女中

「夫が私を女中扱いする」
先日、そんな熟年離婚を考える主婦からの相談を細木数子が受けていた番組を見た。

細木は一喝。

「女中とは家事一切を取り仕切り管理する大変な仕事よ。
 女中扱いされるのを光栄に思いなさい」と。

そうだなぁ、と珍しく同意する私。
物事は受け取り方次第だ。
旦那に女中扱いされたからといって女中になるわけではない。
妻は妻。
自由を奪われ虐げられていると思えば奴隷だが、
プロ中のプロとして主婦業に徹していれば、
その腕を頼りにされていると受け取れる。

また熟年離婚についても「後悔するよ」と厳しい見解。
確かに。
横暴な夫と離婚してせいせいするのは短期間だけ。
夫を後悔させるつもりが、残りの人生、経済的不安と寂しさから
後悔し続ける女性も多いと聞く。

更に細木は
「夫をオーナーと思えば我慢できるでしょう」
「死ねば保険金おりるんだから」
なんてなかなかブラックな事も言う。

そこまでは頷きながら聞いていたが、最後にズッコケた。

「素晴らしい女中がいるんなら、私が欲しいぐらいだ。
 月に100万、200万出したっていい」

欲しいのか・・・。
スーパー女中になりたいんじゃなくて?
オーナーがいなくて自分で稼げる女性は、オーナーの資格があるんだ。

私は妻と女中は違うと思って見てたのだが、
細木にはその区別はないらしかった。

甘え虫を飼いならす

ある朝、朝食の仕度をしていつものように子ども達を呼んだ。
二階の長男の返事がないので何度か大きな声で呼ぶ。。
しばらくして仏頂顔で降りてきた彼に「おはよー」と声をかけたのだが、
「・・・」返事がない。
黙ってテーブルにつく。
「おはよう」「・・・・・・」
「おはよう!」「・・・・・・・・・・・・」
「おはよう!!」
「もう、お母さん、うるさい!!」

「親に向ってうるさいとは何だ。
 朝の挨拶をするというのは当たり前の事じゃないか。」
頭に来た私はそんな事をまくし立てて「言いなさい!!」と強制し続けて、
やっと彼の口から「おはよう」を引き出した。

そのやりとりを傍で見ていた夫が息子に聞いた。
「何が気に入らんで機嫌が悪いんだ?」
息子は言う。
「だって、お母さんが何度も呼ぶから。一度言えばわかるのに」

息子が登校した後、私は夫に言われた。
「あいつはちょっと過保護にされてるんじゃないか。いい気になってる。
 遅刻しても本人が困るだけなんだから、放っておけや。」
翌日から私は一度しか起こさない事にした。

それで気を引き締めたのか、しばらくは一度の声かけでシャキッと起きてきていた。
もちろん「おはよう」は欠かさない。
いい感じ♪

ところがある日、彼は一度起こした私の声に反応したものの降りてこなかった。
小学生組が登校しても、うんともすんとも言わない。
夫がソワソワしだした。
「おい、あいつ、大丈夫なのか? もう遅刻だぞ。」
「さあね。」私は約束どおり一度起こしている。

中学校は8時15分までに登校しなければならない。
8時になっても9時になっても二階は物音一つしない。

「9時になったよー。今日は学校行かなくてもいいのー?」
過保護の私は、つい世話を焼いてしまう。

「ええーーーっ」
ドタバタと階段を駆け下りてくる息子。
「お母さん、起こしたぁ?」
「起こしましたよ。ちゃーんと一回。」
息子はバツが悪そうに黙ってパンを頬張る。
「いってらっしゃーい。」明るく送り出してやった。
大遅刻の彼は、学校で担任にこってり絞られたらしい。
ザマミロ。(←悪)

その夜寝る前に息子が言ってきた。
「お母さん、やっぱり朝、起きるまで起こして。」

ヘッヘー。私の勝ち!!

嫌われた先生

塾講師が小学生を殺害。
しかも一週間前から計画を練って。
信じられない。
カッときてつい手が出てしまうなんてのもあってはならない事だけど、
理解できなくもない。
しかし、これは・・・。

朝のワイドショーでやっていた。
母親が30を越えての一人っ子だから甘やかされて育ったと。
幼少期から堪えしょうがなく、奇声を上げてたり、
最近でも家族に暴言を吐いたりしてるのを近所の人が聞いている。
でも、頭は良かったとか。
知性は発達しても理性はない。
情緒が未発達であったためか、感情の起伏が異常に激しかったそうだ。
熱血漢さが評価され、異様なハイテンションぶりが気持ち悪がられる。
以前は「親子のように」仲がよかった少女に、
ある時を境に掌を反されたように嫌われて、憎しみが募って行ったらしい。

「こんなに可愛がってるのに。よくしてやってるのに。以前は仲良くしてたのに」
そんな心理があったとしたら、過保護・過干渉の親と無関係ではなさそうだ。

自分を好きな人は好き。
嫌いな人は嫌い。
自分が好きなのに嫌う人は酷い悪人。

可愛さ余って憎さ100倍とは昔から言うが、
恋愛対象でもないただの教え子に対する恨みなど、
想像することさえ難しい。

自分が親から離れたかったのかな。
親に逆らいたかったのかな。
でも彼にはできないのに、
目の前の少女はいとも容易く自分の腕からすり抜けていく。
残酷にも思えるほど正直な気持ちを口にして。

置いて行かれる。
自分が否定される。
そんな、恐怖が「許せない」という気持ちに火を点けたのだろうか。
一週間という時間も消せないほどの怒りの炎。
目的を果たした後を考える想像力も働かないで。

鋭い刃で断ち切らなければならなかったのは、別のものだったはずなのに。
プロフィール

ぽあん

Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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