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武禅でのこと2

皆が揃ったところでまず先生はこんなことを仰った。
「同じ場所、同じ時間、同じメンバーでも、例えば一人が別の人に入れ替わったとしたら、全く別のものになる。それが人というもの。それが関係だ。」というようなこと。
武禅は始めてから10年になるそうだが、その時々でまったく違うものになるそうだ。
男性が多い時と女性が多い時とでは違う。
若い人が多い時と年配が多い時とでは違う。
一人でもイヤイヤやっていたり、強情な人が混じっているだけで場が盛り上がらないということもあるらしい。
はたして今回はどうなるのだろうか。

コタツに全員が入っての談笑。場がほぐれてきたところで「着替えて稽古場に集合」と先生が立ち上がった。

稽古着は道着と袴。初めて身に着ける。
他の人に教えてもらいながら着てみたが、見事に似合わないのが悲しい。。。

稽古場に先生が颯爽と現れた。
さすがにカッコいい。歩き方が美しく、立っているだけで様になる。
先生は壁にかけてある日本刀をスラリと抜き、両手で前に構えた。
いよいよ真剣向かい合いの始まりだ。

一人一人、先生の前に対峙する。
目の前にいる人を見る。人を感じる。
ただそれだけなのだが、無心に相手を感じることのなんと困難なことか。
向かい合って先生に見つめられる事でありありとわかる。
自分の頭の中で忙しく起こっていることが。
「どうしよう。もしこうきたら動けるか。よけられるか。逃げられるか。」
そんな弱気はすぐに見破られる。
それではと「どうやったら踏み込めるか。どこから責めたらいいか。こうか?こっち?」
などと考えても同じこと。
最初から勝負はついている。相手を感じて向かい合うということができていないのだから。
ビクつく小動物はかる~く切り殺されること必至。

模範解答として、和子先生との向かい合いを見せていただく。
他の人には無いピンと張り詰めた緊張感。
刀を向ける日野先生も真剣。素手で対峙する和子先生も真剣。
双方動かないが、固まっているのではない。
バランスがとれていて、間に何かが交流しているような空気なのだ。
固唾を呑んで見守るというのはこのことか。
「・・・という具合に」と先生が動きだされた時、一斉に「はぁ~」と息をもらす。
スゴイ!!の一言だ。

なんとなくわかったようなつもりになって、参加者同士で木刀を使っての向かい合いに挑んでみたのだが、そうそうすぐに転換ができるはずもない。
頭の中は騒がしいまま。
そして、いかに真剣に見えるかを一所懸命に研究しているという小ざかしさ。
本物にはお見通しだというのに。
それどころか、私と同じく今回初めて参加した人にさえわかってしまうらしいのだ。
私は焦った。焦ってますます演技を磨いてしまった。
中には騙される人もいる。
まずは誤魔化し癖が顔を覗かせた。
こんなことをしに来たんじゃないのに。

武禅ではワンセクションごとにレポートを書いて提出する。
これから先、私がずっとごまかし続ける事ばかり力を入れたらどうしよう。そんな思いをそのまま書いた。

レポートの後は休憩。先生を囲んでの雑談、そしてまた稽古。
その繰り返しだ。


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武禅でのこと1

23日、広島駅を夜11時に出発して、翌朝6時に大阪駅到着。
大阪駅から新大阪まで移動し、そこでJR紀勢本線に乗ったのが6時半。
朝一番は特急ではなく快速なので各駅停車。紀伊田辺駅についたのは10時近く。
バスに乗り、せっかくなので目的地より少し手前で降りて熊野古道を少し歩くことにした。
雨はすっかり上がってきれいに澄み切った高い空の下、しばし紅葉を楽しむ。
作ってきたお弁当を食べてから、バス停に行ってみたがバスの到着時間までまだ少しある。
「さてどうしようか」と見回すと、今まで歩いていた熊野古道の先に見覚えのある6角形の建物。再度坂道を登ってそこを目指す。

建物の前に着くと、丁度玄関から誰かが出てくる所で、客人らしき年配の女性を見送りに出ていたのは、日野晃先生だった。

「はじめまして!!今回はお世話になりますっ!!!」
息せき切って真っ赤な顔をして突進していくオバちゃんは、武道の達人にはどう映ったのだろうか。
先生は暖かい笑顔で招き入れてくださった。

初めて入る道場。先生が設計から建築まで手がけた手作りの空間は、心地よい。
奥様の和子先生は美しくさっぱりとした方だ。もちろん初めてお会いするはずなのだが、なぜか懐かしさを感じる。なんとも不思議。

荷物を置くために部屋へ案内された後、大きなコタツのある部屋に行くと、既に参加者が二人ほど来ていて先生と雑談をされていた。
そのうちの一人は長年先生から武道の指導を受けていらしてるとのこと。
中に加わってお話しをしているうちに、バスも到着し人が増えていき全員が揃った。
今回の参加者は11人。
「丁度いい人数だ」と先生。

さあ、何が始まるのだろうか。

共感を希求する心

「共感」とは何だろうか?

他人の気持ちに触れる、寄り添う、感情を共にする。
他人と関わらずに生きてはいけないのだから、それはできて当然のことであると、かつては考えもせずに使っていた言葉だ。
だから、「どうしたらできる?」とはさほど疑問には思わなかった。

「誰も本当の私をわかってはくれない」という甘ったれた根性を染み付かせて、媚びるような纏わりつき方をするか、嫌われる前に嫌うという歪んだ処世術で渡ってきたくせに、だ。
他人しだいで自分があるとは、即ち、自分などどこにもないということになる。

強烈に他人を意識しているようで、その実、自分がどう見えるかしか考えていない。
誰のことも見ていない。
だからもちろん、自分のことも見えてはいない。
では私はいったい何を見ているのだろうか。

何が好きなのか、嫌いなのかわからない。
何がしたいのか、したくないのかわからない。
自信ありげな人が「○○がいい」と言えば、○○はいいものになり、もっと自信ありげな人が「○○はダメだ」と言えば、○○はダメなものになる。
私自身でさえ誉められれば有頂天になり、貶されれば落ち込むで安定しない。
そうでないあり方にしようとすれば、他者を批判して反発する頑なさで対抗するしかない。
どちらにしても、相手次第の自分であることにかわりはないのだった。

こんな私が真に他人と共感することなどできるのだろうか?
そう思い始めたのは、それがどうしても必要な状況になったからだ。

6年前、ある新興宗教で金銭的精神的に被害を受けたという人と知り合うきっかけがあった。
その方は宗教をやめてすぐに妊娠したことで不安定になっていたので、私は先輩ママとして出産・育児の不安を軽減するような気の持ち方等を自分の経験からお話しするという関わり方をした。
無事、元気な赤ちゃんが生まれたと知らせが来て、その後しばらく音信が途絶え、「きっと忙しくしてるんだろうなー」と私はてっきり幸せな生活をしているものだとばかり思って安心していたのだが、一年半を過ぎて突然電話がかかってきた。
「怖くて子供を育てられない。もう、死にたい」と。
彼女は完全に鬱病になってしまっていた。
聞けば、自殺未遂を何度もして入退院を繰り返してもいると言う。
家族ももうお手上げ、友人も鬱陶しがって相手にしてくれない、病院では事務的にきつい言葉を投げかけられるで、孤独感は相当なものだった。
その原因として霊障を信じ込んでいて、かつて入っていた宗教とそこの霊能力者に強い恐怖と恨みを募らせては、病状を悪化させるという悪循環にはまっていた。

彼女は私に「助けて」と言った。
しかし私は助ける術を持っていない。そんな知識も経験もない。
どうしたら彼女を助けられるのだろうか。無責任な事をすれば命にかかわる。
悩んでジタバタと動きまわっていた時に、多くの人の悩みを聞いてきた能力者の人と知り合った。

悩みに対して「解決」という切り口でしか物を見られなかった私に彼は、「話をただ聞くだけでいい」とアドバイスしてくれたのだった。
胸を繋いで自分の身体のレスポンスに静かに耳をすませるという技法を教えてもらい、もし真の共感というものが知りたいのだったらと紹介してもらったのが、この「武禅」。

結局その時は行くことはできなくて、鬱病の女性に対しても私は一緒に穴に落っこちて辛さを倍増させるようなことしかできないと悟り手を引いたのだが、その後も「共感」を求めれば求めるほど自分にはできないのだと思い知り、ますますそれを得たいとの思いは大きくなるばかりだった。

武禅に行って何かが変わると期待しているわけではない。
わからないから知りたい。できないからやる。それだけだから。

三年近くかけてやっと入り口に立ったように思う。

武禅へ

先週の金曜日から日曜まで、熊野古道にある日野武道研究所での武禅に行ってきた。
武禅とは、武道の精神を日常の他人との関係に活かし、「心を届ける」を実現していくためのもの。
武道の達人の日野晃先生が主宰している。

二年前に他人との真の共感を得るにはどうしたら良いかを悩んでいる時に知ったものだが、なにしろ場所が遠い。
主婦が泊まりで家を空けるのも難しい。自由になるお金も無い。
ということで、いずれ時間的、金銭的にゆとりができたら行けたらいいなぁ~、ぐらいに考えて、ほとんど諦めていた。

その後、紆余曲折を経て、いかに自分が他人と心を通わせることができないかを嫌と言うほど思い知り、ここに至って再度、共感への実感を強く欲求するようになった。

「武禅に行こう!」
思い立ってすぐ、一番近い日の行会に申し込みをした。

しかし送信フォームのボタンを押してから改めて内容を確認して「しまった!」と思った。
通常の一泊二日コースだとばかり思っていたのだが、今回は特別行会の二泊三日。
しかも、平日も含まれている。
夫と子供にどう説明しよう・・・と一瞬戸惑ったが、申し込んでしまったものは仕方が無い。
今やらなくて、いつやるのか。
もう、行け、行け~!という勢いで、夫の反対を無理やり押し切って、無い袖からお金を無理やり絞り出して、一人、深夜バスに飛び乗って熊野に向かったのだった。

ダッコ薬

「仕事って大変?」
夕方アイロンをかけてたら小4の娘が聞いてきた。

「遊びじゃないから楽しいばかりじゃないけど、大変というほどの厳しい仕事もしてないし、そんなに疲れないよ」と答えたら、
「私、早く大きくなってお母さんが働かなくてもいいように稼ぐからね」と言う。

早く大きくなって働きたい、ならいいけれど、私が働かなくてもいいようにというのはちょっと引っかかった。
仕事が辛いとか辞めたいとか言った事は一度もないはずなのに。

そこで「どうしてお母さんが働いちゃだめなの?」と聞いてみた。
すると「えー、だって、普通女の人は結婚して子供ができたら仕事やめるものだから。お金が無い人だけ働くんでしょ」と言う。

「何時代の話をしてるの? 今時働いてないお母さんの方が珍しいよ」と笑うと、
「そんなことないよ。家にいるお母さんの方が多いよ!!母親が働いてる子供は不安定になりやすいんだよ」なんて言い出す。

ピンと来た。
「それ、誰から聞いた?」と問いただすと、
「友達から・・・」との返事。
やっぱりね。
その子のお母さんも働いているのだそうだ。

子供は親に感化されるもの。
きっと親が「仕事は大変」と教えたのだろう。
「できれば辞めたい」「働かないお母さんの方が多い」とも。

「夫婦共稼ぎだと子供が不安定になるなら、児童館の子供はどうなの?
 お母さんが家にいる子は皆、問題ない?」とちょっと考えさせてみた。
話しを鵜呑みにせずに、周囲と照らし合わせればわかることだ。

娘に話しをした友達のお母さんは、昼から出勤で夜遅くまでの勤務なので、その子は「寂しい」らしい。
「だから働いて欲しくないんだろうと思う」と娘が言う。

「でも、あんたもお母さんが働かないようにしたいというのは、どういうこと?」と聞いてみると、
「だって、私も帰った時にお母さんがいないと寂しいんだもん」と答える。
「寂しいったって、夕方には帰るし、沢山お話しするし、ご飯も一緒に食べるし、一緒の部屋で寝て、布団にもぐりこんでもこれるのに、何が寂しいの?いつ寂しいの?」
「それでも寂しいの!!」
「寂しいんだったらダッコするよー」とからかうつもりで言ったら、
「うん。ダッコー」と飛びついてきた。
お、おもい。。。腰骨折れそう。

本当に寂しさを感じているようだとちょっと反省。

母親が仕事しているか専業主婦なのかは、寂しさには関係はない。
接し方、話しかけ方のハウツーもあまり役には立たない。
要は、意識を濃く向けられているかどうかだ。

不在の時でも、守られ包まれている安心感があれば子供は寂しくない。
同じ部屋にいても、意識がそっぽを向いていれば寂しくなる。

十分満ち足りるほど意識が注げてないのなら、まずは身体で守って包み込む。
心と身体は不可分だから。
「心身一如」
心の病は身体に現れ、身体の不具合は心を蝕むのだとしたらそれしかない。

身体をギュッと抱きしめて、心に届けと祈りをこめる。

ひとり踊り

近所にお茶の先生をしていた高齢の女性が一人暮らしをしている。
古いお宅はいつもこぎれいにしてあり、本人も普段着が着物の昔の人という感じだ。
子供が大好きで、毎週土曜日には女の子を数人集めてお茶を教えてくれていて、我が家の長女も通っている。

「お月謝を」と言っても、「まだどんなもんだかわからないのだからいらない」と受け取ってはくれない。
せめてもの気持ちとして、そこに行ってる子の親同士で相談して中元歳暮を届けさせてもらっているが、
「そんな気を使わないでください。私はいつも子供達から元気をもらっていて、それが年寄りにとって一番の幸せなんだから」と、とても腰が低い。

本当に子供好きで、お茶が好きで、自分が何か伝えるというのが幸せなんだな~、いい人だな~、と嬉しく思っていた。

最近では「お母さん方は顔を覗かせないけど忙しいのかしらね。子供が何をしているか関心薄いのかな。そのうち参観日みたいなこともしたいね」と言われていたと娘が教えてくれるので、その時にはぜひお邪魔させてもらうつもりでいた。

しかし、どうもそれは少し違っていたようだ。

町内の集会で顔をあわせる機会があり挨拶をすると、いきなり不機嫌な顔で「お茶を教えるのをもうやめようかと思っている」と言われた。
驚いて返事ができずにいると、続けてこうも。
「だって、お母さん方誰も興味はないみたいだし。何かもう、あれこれやっても・・・ね。
 一人で踊ってて馬鹿みたいでしょ」
と、完全にへそを曲げている。
「昔はもっと人が大勢集まってくれてたけど、今はこんなもんなのかしらね」

私は何と応えていいのかわからなくて、「まあまあ」とお茶を濁してその場をやりすごしたけれど、
内心、「困ったなー」という思いと、「なんだ、そりゃ?」という怒りが入り混じる。

子供達が好きで、自分の楽しみでやってたんじゃなかったの?
親達が関心を持って集まってくれるのを期待してたなんて、知らないよぉ。

どうしよう。どうしたらいい。
こんな事で心はすぐにざわついてしまう。

お婆ちゃんが寂しくないようにご機嫌を取るように動いてみようか。
それとも、
勝手な期待を押し付けられるの腹立つし面倒くさいから、もう娘を行かさないようにしようか。

どちらが正解か。
と悩むところで既に不正解なんだけど。
どっちが正しいか間違ってるか、は、「私は正しい」の証明のためだし、
どっちが得か損か、は、「他人よりもいい目を見たい」という欲だからね。
ズルッこいのよ。

私はどうも他人から責められるのを極端に嫌う癖があるようだ。
責められるとは、責任を押し付けられること。
それが異常にイヤなのは、母親から植え付けられた恐怖心なのだろう。

他人の「こうでなきゃいけない」に翻弄されがち。
「あなたのせいで私は悲しい」「あなたが私を怒らせる」なんてのは、本当は違うんだと知ってはいても、責任を感じるマインドコントロールから脱せられていないから。

ではどうしたら?

気にしない。他人のことばは独り言。他人の反応に反応しない。
そういう視点に立てば、自ずと答えは出る。

すっかり忘れよう。
また何か動きがあってから考えればいい。

心を静かにして、ただ相手の動きを待つ。流れに委ねる。
これ、武道の極意。
もうそろそろ、私もできなくては。

「待つ」の練習には、丁度いい機会を与えてもらったのかもしれない。

静かに、静かに、水鏡のように。

悩みも怒りも消えていた。

蟲の話題

先々週の事だ。
朝、会社に行くと同僚が携帯を片手に血相を変えていた。

「ぽあんさん、ケジラミの駆除の仕方知ってる?」

ケジラミ???とな?

「今、友達からメールで、子供の頭にケジラミがわいたからどうしたらいいか問い合わせきて、私知らないから困ってるの」

はあはあ、そゆこと。(*゚ー゚)

「頭ジラミの駆除の仕方なら知ってるけど、性病のケジラミは知らないよ(笑)」
と答えたら、
「えっ?違うものなの?」と言う。

まあ、フツーは知らないよね。

「薬局に行ってスミシリンパウダーかスミスリンシャンプーを買って、三日に一度の使用を3~4回続ければ死滅するよ。あ、卵は出来るだけ手で取り除いてね。耳の後ろの髪の生え際が一番集中している部分だから」
と教えた。

彼女は「詳しいねー」と感心して、すぐメールでそのように返信していた。

そう。なぜ詳しいかというと、恥ずかしながら経験者だから。

6年ぐらい前、長女がまだ幼稚園年少の頃に、耳掃除をしてやろうとして頭に白く小さな植物の種のようなものを見つけた。
それがシラミの卵だった。
卵や成虫は耳の後ろ側、毛根の近くに多く集まっていて肉眼で見えると、上の子たちが持って帰った保健室だよりに書かれてあった。

この衛生的な現代でシラミをわかせてしまった事は、ものすごくショック。

  不潔の証拠。バイキン一家。
  これが知れたら幼稚園や小学校で絶対にいじめられる。
  先生達も気持ち悪がって嫌うに違いない。
  この町に住んでいる限り言われ続ける。
  子供の頭にシラミをわかせた馬鹿母、親の資格なし、
  人間失格の烙印決定なんだわ。
  ああ・・・絶望・・・・。
ってな具合に。実際、胃がキリキリ痛むぐらいにもなったし。

すぐにネットで情報収集。そこでスミスリンを知った。

薬局で薬品名を言うと、案外明るい応対であっさりと出してくれて拍子抜け。
なんでも、近辺の小学校で割とよく発生していて買いにくる人多いとか。
ちょっとホッとした。

本当は幼稚園に言いたくはなかったのだけれど、隠して通園させるわけにもいかないし、既に他の子にうつっている恐れもある。
注意してもらうために報告をしにいくと、ここでも意外と慣れた対応で「卵の抜け殻は専用くしより指の方がとりやすいですよ」なんて事を教えてくれたりもした。
それで、あれ?そんなに深刻に悩む程の事もないのかな?と気が楽になったものだった。
それはやはり、私を不安にさせないための先生方の心配りもあったのだろうが。

「頭に虫!!イヤッ、気持ち悪い!!」
といくら嫌いでも、子供の頭の卵はとってやらなければならない。子供を嫌いになっちゃいないのだから。
怖がらせないように穏やかに呼んで窓辺でひざに頭を乗せて、卵を一つ一つ取ってつぶしてテープにつけていく。
やってるうちに怖い、汚いという意識が薄れて面白くなってくるのは不思議。
「わー、いっぱい取れた。大量だ~~」とヘンな達成感?

娘の頭は10日ですっかりきれいになって、幼稚園に通えるようになった。


後日、戦前生まれの元お隣さんが家に遊びに来た際にその話しをしたら、
「昔は当たり前におったけえね」との事だった。
何でも、夏場に頭に手ぬぐいを巻いて路上に出した長いすで将棋を打ってるのは、皆シラミ退治してる人だったそうだ。
頭に酢を振りかけて手ぬぐいで覆って半日もすれば全滅したとかで。
男の子が丸坊主なのも、女の子が刈り上げのワカメちゃんカットなのももしかしたら、そのせいかも。

衛生事情が今とは違うけれど、神経質にならずにそれくらいおおらかに構えているのがいいのかもしれない。

同僚に我が家であった事を詳しく話そうとすると、「いやー、気持ち悪い、聞きたくない」と耳をふさがれてしまった。
やはり自分で経験していないと、昔の私と同じで嫌悪感が先に立つようだ。

それでいて、ホテルで働いている彼女の旦那さんが外国人の部屋を片付けた際に付けてきた南京虫が家に大発生して、殺虫剤もバルサンも効かずにプロに強力な薬剤で駆除してもらったという話しは嬉々として話すのだから、よくわからない。
布製品の縫い目にびっしりと卵を産み付ける5ミリぐらいの茶色の虫で、吸血されるとひどい痛痒さというのだから、そっちの方が怖いと思うんだけど。
自分の経験を思い出すのは気持ち悪くないものなのか。未知の物を想像するよりも。
なるほどね。

彼女の友人の子供は無事頭シラミを一掃できたそうで、お礼を伝えられた。

30周年記念誌編集会議

私の住む団地の自治会が発足して30年を迎えるに当たって、記念誌を作成する計画がある。

記事を募集したが集まらなかったため、自治会長の発案で座談会で出た話をまとめようということになった。
敬老の日の老人会行事のついでに20年から30年の住民の座談会をした際にはある程度の人数は集まったものの面白い意見は出ず、また録音した音も聞き取りにくかったりもしてあまり使い物にならなかったらしい。
なので今日の住んでから10年から20年の人の座談会に期待されたのだが、私たち夫婦二人の他には誰も来ていなかったのは予想外だった。
空の座布団が並ぶ座敷に、いつもの役員が顔を揃えているだけ。寂しいもんだ。

当然、座談会にはならない。
軽くお酒も入る雑談タイムとなった。

会長は「自治会の歴史は恥の歴史だ」と言って、これまでの様々な行政や各組織などとの軋轢、行事や運営にまつわるトラブル、人間関係のいざこざを語ってくれた。
私たちが越してきた当時は、夫も自治会の活動に積極的に参加しようと努力していたのだが、長時間審議の末に一旦決まったことが適当な意見でコロッと覆る事が往々にしてあったり、若造が口を利くなという雰囲気が漂ってたりで、すっかりやる気をなくしてしまったという経緯がある。
今回、その頃の事情や、ちゃんと物を考える人は同じように感じていたことなどを知る事ができたのはよかった。

そういう真の歴史こそが面白いのだが、残念ながら印刷物として残すのは無理。

結局、座談会の企画は中止にして、再度班ごとに原稿を出してもらうこととなった。
集まればいいのだが。

同じ町に住んでいても、一致団結して盛り上げようとする人もいれば、一時の住家だからと近所と関わりたくない人もいる。
子供に大人になっても大切に出来る故郷の思い出を作りたい人もいれば、それよりも塾や習い事や個人の楽しみを充実させる方に価値を見る人もいる。
その辺の温度差はいたしかたない。

理想を押し付けることなく、自分たちの出来ることをボチボチと進めていくという今の方針が一番ストレスがなくていい。


一昨年、私が子供会の会長として役員会に出るようになった時、今の自治会長は副会長をしていて、まあ、結構衝突をしたものだった。
その頃を振り返って会長は、
「ワシはぽあんさんが何か言ったら全部否定していた。ことごとく意見をつぶして。でも、それをこの人は反発するのではなくきちんと聞いて納得してくれたっちゅうのが嬉しかったんじゃ。そして今はこうして協力してくれてるというのは、ワシは間違ってなかったということじゃろ?」と夫に話していた。
夫は「いやぁ、この人のことだから、受け入れて納得した上でさらにまた反発しそうなんだけど、そうじゃないなら少しは丸くなってきたってことかな」なんて言う。
どういう意味?(笑)

確かに、顔を合わすたびに火花を散らしていた会長が私に相談役を依頼してきたときは意外だった。
これこそ他人がどう思うかなんて考えたってしょうがないという証拠。
嫌われること、悪者になることを恐れるのほど馬鹿らしいことはない。
それを知ってはいても実感できたのは、私にとって大きな意味があった。
ありがたいことだ。

でも、これからも良い関係が続くかどうかわからないけどね。
私は自分自身にしか従わないんだから。

アーチェリーの秋

子供会からアーチェリーランドに行った。

昔、友人が会社から行って「すごく楽しかった」と聞いていて、今は自宅からもさほど離れていない場所なので、一度行ってみたいと思っていながらもなかなか機会がなく、やっとである。

町内の子供たち20人ばかりと大人5人で、送迎バスに乗り15分程で到着。
田舎町から細いわき道に入り、くねくねと奥に進むと急に開けたフィールドが広がる。
急に冷え込むこの時期は紅葉の色が美しく、壮観だ。

一人一人に弓と矢が渡され、指導員に持ち方から扱い方、ルール等の説明を受ける。
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小さな子供にできるのか、危険があるのではないかとの心配は不要だったようだ。
誰にでもわかり易く丁寧に教えてくれる上に、高校生ぐらいの子が数名ついて教えてくれた。

射ち方は簡単だ。
カラダを的に対して横を向いて立ったら左手で弓を持ち、右手で矢をかけて三本指で腕をまっすぐに口の横に付くぐらい引き絞り、右目で照準を的に合わせて放つだけ。

生卵を持つようにかる~く弓を持ち、ジャンケンをするようにかる~くポッと矢から指を放すのがコツ。どこにも力はこめない。
スポーツは何でもそうだが、いかにゆるむかが大切だ。

私はアーチェリーの経験は一度もないが、なんとなく自信があった。
運動オンチで特に反射神経はダメダメな割には、ダーツや射的は得意だったりする。
その予想は当たった。

私の矢は最初から的の中央にまっすぐに集まって刺さったので、補助の高校生から「経験者ですか?」と聞かれるぐらい。
「姿勢がすごくきれいだから、結構されてる方かと思いました」と。
矢が右上に少しずれて集中するので照準器の微調整をしてもらったのだが、そういう人も私だけだった。
きっと前世は狩人だったのかもしれない。
もっとも、初心者用の一番近い5メートルからなわけだから、そう威張れるもんではないのだが。(笑)

射ち方に慣れてきたところで、山中のフィールドに出る。
ここで大人と子供は別々のグループに分けられた。子供は子供でまた年齢別に。
色づいた木々の間に小川が流れ、紅葉の重なりや落ち葉のじゅうたんの鮮やかさに見とれながら山道を歩く。
今は時期的に使われていなかったがバーベキューの設備もあり、いろんな楽しみ方ができるようだ。
競技は12箇所のポイントを回って点数を競う。
上級者用に的から40Mも離れた場所から印があるが、我々は5Mのリンゴマークから。
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でこぼこしていたり足場が傾いていたり、木の枝が張り出していたりして、練習していた平坦な所と違うのがまた面白い。
山を歩いて上って行くため、弓を持つ腕だけでなく足の筋肉も相当使う。
「明日絶対筋肉痛よ~」と笑いながら、息ハアハアで歩いた。

客の世話係の若者達は、実は高校生や大学生のボランティアなのだそうだ。
アーチェリークラブで練習させてもらうかわりに、週末は手伝いに来ている。
どの子も教え方が親切で話し上手な上、明るくよく気が回り気持ちの良い子たちで、本当にアーチェリーが大好きなのがよくわかる。
若い頃に好きなものがあり、それを通じて人とふれあいいろんな経験ができるのは素晴らしい。
うちの子供たちにもこういう縁があるといいのだが。

お昼に施設内でカレーライスをいただき、1時過ぎには帰り支度。
子供達はよほど楽しかったのか「まだ遊びたい」と名残惜しそうだったのだが、また来ることを約束してバスに乗り込んだ。
その途端、雨がポツポツ。丁度良いタイミング。

行きとはうって変わって静かな車内。
遊んで、お腹いっぱいになったら、眠くなる。
子供はとってもシンプル。
楽しい一日だった。

これからアーチェリーには、個人的にはまりそうだ。
「カッコいいMY弓が欲しい」と言っては、子供達に「また~?飽きっぽいんだから、買っちゃダメだよ」と釘を刺されるのだった。

成り立たないアンビバレンツ

 光が強まれば闇は薄れる。
 暖かさが増せば寒さは弱まる。
 相反するそれらが両立しないように、
 一人の人に愛と憎しみを同時に持つことはできない。
 良き事をしながら害を与えることはない。

ダライラマ法王が自我についての説明の途中でそう話されたとき、私は一瞬反発を覚えた。
「だって、相反する愛と憎しみのアンビバレンツってあるんじゃないの?」と思ってしまって。

愛して愛して愛しすぎて辛くなり、そんな苦しみを与える相手を憎くなる。
こちらが思ってるほど思ってくれない悲しさから。
他の人の方を大切にする嫉妬から。
冷たくぞんざいな扱いをされる悔しさから。
どうにかわかって欲しい、わからせたい、思い知らせたい、
との情念の業火に焼かれる地獄はあると私は知っている。

だけど次の瞬間に、それは本当は「愛」ではなくて「執着」なだけだと思い直した。
相手をわかろうとせず、自分をわかって欲しいとの思いだけで働きかける所に愛はない。
しかも、「本当の私をわかって」と要求しているつもりで、自分にとって都合良く作った「見せたい自分」を押し付けていたりするものを。

他人の自由意志を尊重せず、あるべき姿にしようとするのは相手を害する事になる。
至極当たり前の事なのだが、感情はそう簡単には割り切れないのがやっかいだ。


秋田で自分の子を虐待の挙句に殺害した女性が10年前に男性がらみの放火事件を起こした事が報道されている。
火をつければ消防士の元恋人が来るかもしれないとの動機で。
そのときの心情を裁判の場でこう話したという。
「炎の中で死んでいく私を見たら、私の愛がどれくらい深いかわかってくれると思った」
「私を遠ざけた彼を困らせてやりたかった」
これがまさにそう。
世にある男女間のトラブルのほとんどがこういった感情から起こっていると言っても過言ではない。

これがもし「愛」と呼べるのだとしたら、こちらはどうだろう。

あるテレビ番組の中でイジメを受けた経験のある子供が自殺を考えた時の心情を語っていた。
「虐めた奴らを見返したい」
「悪かったと思い切り後悔させたい」
「自分が死んだらどんな顔をするか見てみたい」

とてもよく似ているように見える。

わかってくれない人にわからせたい。
自分を嫌う人に罪悪感を感じさせたい。
後悔で苦しめたい。
「あなたのせいで私はこんなに不幸。あなたは悪い人」と刻み付けたい。
との思い。


虐められた人はイジメっ子を愛してる?
まさか。
それはないだろうが、逆はあるのではないだろうか。

「愛して欲しい」のは。
「優しくして。親切にして。仲間に入れて。高く評価して。嫌わないで。そして、好きになって。」

「そうしてくれないのなら、苦しめ!!」


そこにあるのは自分が心地よくなるための要求と、欲望が満たされない怨みだけ。


幸せを願う気持ちと不幸を願う気持ちとが両立することはない。
他人に対しても、自分に対しても。

ゆえに、相反する愛と憎しみのアンビバレンツとは、その実、身勝手な執着と逆恨みの復讐と言い換えることができるだろう。


光と闇は両立しない。

苦しみを伴う愛はない。

苦しさは正当化してはいけないもの。
誰かによって苦しめられてる気がするのなら、それは自分の誤りだと気付かなければならない。


肝・腎かなめのデトックス

秋口からどうも体調が思わしくない。

別に病気なわけではないけれど、ちょっとした鼻かぜが長引いて、治ったと思ったらまたかかるのを繰り返している。

靴ずれがひどく腫れていたのがなんとかおさまりかかったら、今度は虫刺されが悪化してそれも大きく広がり、また足の別のところにできた小さなオデキが半日にして化膿して歩けないほどになった事もある。
すねのリンパ腺に沿って毒素が上ってくる赤い道がくっきり見え、熱が出て頭痛がしていたほどだった。
病院で抗生物質を処方してもらって、三日ぐらいで治るだろうと言われたのだが、やはりこれも長引いて、今もまだ完治にはいたっていない。

他の関係ないところにできた擦り傷でさえ治りが遅くいつまでもジクジク。

息が苦しいくらい背中が痛んだり、背骨の上に変なカタマリもいつの間にかできていたりする。

気持ちが悪いので知り合いの能力者に聞いてみたら、いろいろやってる分のメンゲンに加えて、夏の疲れと重なって肝臓が弱っていると言われた。
この時期、肝臓や腎臓の機能が低下して体調不良になる人は多いのだそうだ。


毒素を排出するためには柿がいいと聞いて、この秋はこれまでにないくらい大量に柿を食べた。
また、夏の間にスイカを種ごと食べておくのもよかったとか。

私は面倒くさがりなのでスイカを食べるときはいつも種ごとバリバリ食べるのだが、この夏はあまり沢山は食べていなかった。
「あー、しまったなー」と思っていたら、スーパーでいい物を見つけた。
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お味も塩味と甘みがマッチして、なかなかイケル。

スイカの種で排出する毒素より、取りすぎてしまうカロリーの方がもしかしたら問題かも。(笑)

本当は夏のものは夏食べて、秋のものを秋食べるのが自然の理にかなった健康法なので、これは間違いなんだけどね。

だから、姉妹品の「カボチャの種」も食べてみた。こちらもオイシイ。

ところで、、、
お菓子を食べながら考えたのだけれど、カボチャの種はまだわかるとしても、スイカの種をどうやって集めたのだろうか。お菓子メーカーは。

カットスイカの種取りで?
余剰スイカを処理して?
それとも・・・・・・・
工場のベルトコンベアーに並んでスイカの種を飛ばしているパートのおばちゃんを想像して笑ってしまった。
まさかね~~~。


そろそろみかんが安く美味しくなってきた。
昨日出したこたつの上にみかんのかごを置くと、いよいよ冬という感じだ。
もりもり食べて、風邪治さなきゃ。

今月いっぱいは全体的に体調もだけれど、精神的にも不安定な人が多くなってくる時期らしい。
どなたさまもお気をつけて、心静かにお過ごしください。

マモリタイモノって?

昨日のNHKのニュースウォッチ9の特集で「増える夫の暴力・被害女性が語る追い詰められた心境」という特集をしていた。

子供の頃から身近で何人もそういう人を見てきているので、DVにしても幼児虐待とかイジメもことさら今増加してるとは私は思ってはいないのだけど、表に出てきやすくはなっているのだろう。
それはいいことだ。(あるのがではなく、出てくるのがね)

他にも同じ境遇の人がいて、関心を持つ人や助けようとしてくれる人がいると知れば、孤独から自暴自棄にならずにすむ人もいるかもしれない。
脱する機会を得る可能性もでてくる。


けれどやっぱり私には暴力を受け続ける人の心理が理解できないなと思いながら見ていた。

被害女性が言っていた。
「殴られ続けていると逃げる気力がなくなるんです」には、
そもそもどうして殴られ続けたの?と疑問。

「親戚や近所には絶対に知られたくなくて必死に隠していました。
 どんなに腐れた家庭でも、やはり守りたいですから」と言うけれど、
なぜ隠す? 「殴られたー。痛い。ひどい!!」と大騒ぎしたら助けてもらえるかもしれないのに?とわからない。

「一生この地獄から逃げられないなら、もう殺すしかないと思った」ぐらいなら、
恥も外聞もなく暴れてすべてをあからさまにする方が簡単じゃないのかな。

「首を絞めて最後の最後に子供の顔が浮かんで、『この子を人殺しの子にしてはいけない』と思いとどまった」という話も、
何か芝居じみている。
日常的暴力を見せてるのは最悪の生活環境と思わないくせにね。

落ち度があろうとなかろうと、暴力(リンチ)は犯罪。

夫婦間でも、親子間でも、同級生同士でも、先輩後輩でも、教師生徒でも。
例外的に体罰を必要とする指導はあるとしても、それは暴力とは一線を画する。

怪我をさせたり、恐怖心を植えつけ支配するところに愛情は一切存在してはいない。


ある人は「殴られた傷の手当てを受けている病院に迎えに来て、『お前に似合う口紅があったから』とプレゼントをされると、これが本来の優しい夫なんじゃないかと許して戻ってしまう」と言っていた。

そう。殴られ続ける人は例外なくこれと近いことを言う。

骨折ったのは誰? 血を流させたのは? 殺されるかもと思ったんじゃなかったの?
それが口紅一本、優しい言葉ひとつでチャラなんてね。

安ぅ~。
安い女。安いカラダ。安い命だこと。

腐れた家庭なんかより、もっと守らなきゃいけない大事なものあるだろうに。


逃げ込めるシェルターは必要だけど、それでDVはなくならない。

今の家庭が次の家庭を作るわけでね。

幼児期に虐待受けて、学校で虐め虐められ、社会で人間関係のストレスまみれ、
で、家庭内暴力。
弱い者はより弱いものを虐げていく連鎖がグルグル。
逃げ場がなければ自殺でリタイア。

さあ、誰のせい?

断ち切るには、どこで誰が何をしたらいいのか。


ということを、私はずっと考えている。

スペシャルディ

「人生の幸福の2/3は食べる楽しみが占めている」と常日頃口にしては、子供たちから「お母さん、それは多すぎだろう」と言われてしまう私。

そんな私にとってのご馳走とは、ステーキ、お刺身、フルボディのワイン、そして生クリームたっぷりのケーキ。

今日の食卓にはそのすべてを並べてみた。
栄養バランス関係なし。

会社帰りに新しい服を買ったのは、自分へのプレゼント。

誕生日だもんね。

いくつになっても思いっきりお祝いなのさ。

いつもながら帰りの遅い夫だったのだけど、思いがけず差し出されたミニ薔薇の鉢植え。

何も言ってなかったのに、覚えててくれたんだ。
嬉しい。
私が紅い薔薇が大好きなことも。

夫と出会う前の年月と、夫を知ってからの時間とがほぼ同じになってしまった。
ずっと幸せで、ますます幸せだなぁ、って寝床に入ろうとしてメールの着信に気付いた。

友達からのお祝いメールが届いてた。
「すてきな一日になりましたかぁ」って。

おかげさまで。すてきさ倍増さぁ!!


ありがとう。

すべての人に言いたい夜。


言ってることとやってることが

教育についてのテレビ番組のスポンサーになっていた某教材会社のキャッチフレーズを見てワラタ。

「ひとりひとりの個性を大切に」か~~~~。

この会社の訪問販売のセールストークが
「お隣りも、同じクラスの○○さんも◇◇さんにもご契約いただいています」
とは、どゆこと?
関係ないっしょ。

私の個性も大切にしてね。

嫌いにならないで

「最近、うちの娘が○○ちゃんに無視されているらしいのだけど」
と、同級生(○○ちゃん)の親に電話してくる母親の話を聞いた。

「何か気に入らない事をしたのかもしれないので、悪い所があるのなら教えて欲しい」
とのことだったので、その人が子供に尋ねたが、
当の本人は「そんなことないよ? 何もないし仲良しだよ」と不思議顔。

どうやら、はっきりさっぱりした性格なので、先約とか他に用事があったりすると
「遊ぼ♪」と誘われても「遊べない!」と、キパッと断ってしまう事があるのが誤解されたようだ。

冷たい印象を与えるのだとしたら、そんなつもりもないのに損なだけなので、
「もっと優しい言い方があるでしょう」と教えて、娘さんも納得し気をつける約束をしてくれた。

それで解決、と思いきや、またまた
「まだ無視されてるみたい。うちの子は嫌われたのかと心配してる」との電話。

さすがにその時は「これ以上言うと逆効果だから」と娘さんに何も伝えなかったという。

いつも一緒にべたべたしていたい人と、わが道を行くタイプとでは関わり方に温度差があるのは仕方ないのだが、それが理解できる人とできない人がいる。
それも仕方ない。

その人は「こうして普通言いにくい事でも教えてくれて子供の様子がわかるのはありがたいと思うのよ」と笑っていた。
よくできた人だと感心する。


別にいいじゃん。と私なら思うけど。無視したってされたって。
遊びたくないなら遊ばなくてもいいし、嫌いなら嫌いで何にも悪くない。
人を嫌っちゃいけないのが前提とはおかしな話。
好いてくれた人を好きにならなきゃいけない法律なんてないのに。

好きなようにさせてくれ!

嫌いな人は嫌いでいさせてくれ!

「嫌いにならないでー」とすがりついてくる人はウザイだけ。
それで好きになってもらえるなんて、絶対にない。
・・・のだけれど、わかんない人にはわかんないんだよね。

身近な問題

子供たちが通う学校にもイジメ問題はある。
金曜の朝、子供会の交通立哨で立った時にペアを組んだ人から相談を受けた。

5年生のクラスで数人のグループによるイジメが続いていると。

以前からチラホラと耳には入っており、人づてにこの件に関しての緊急懇談会後から沈静化してきていると聞いていたが、まだ何も変わっていなかったようだ。

相談をもちかけてきた人からは、イジメ以外にも学校に対する不満が、あの時もこの時もといくらでも飛び出してくる。

保護者と教師とのちょっとした行き違いが、思い込みで悪い方へヒートアップしているとの情報は得ていたので、一緒になってカッカとすることはなかったものの、こじれた糸を解きほぐすのは相当難しそうだ。
受け止めてくれる場所を探してあれこれ動いても空回りしてきた経緯がよくわかる。
一番人を感情的にさせてしまうパターン。

「PTA全体の問題として取り上げて欲しい」との要望を受けて、早速その夜、一部執行部の役員とこの件について話し合いの場を持った。

メンバーの一人は図書の先生をしていて、学校での内情にとても詳しい。
朝聞いた話をすると、「あれは実はこうなのよ。これはこんな事情があってね・・・」と、一般保護者側から見たのとはまた違う見解を示してくれる。

イジメの事実は確かにあるし、他にも落ち着きのない生徒によって迷惑をかけられるクラスもある。
その上、先生や校長の保護者に対する接し方が配慮に欠けていたり、下手だったり。
しかし、どれも少し視点を変えれば致し方ないというか「ああ、そういうことだったのか」と納得できるようなものだったりする。

保護者の一部からは、「あの校長では話にならない」と署名を集めて辞めさせようとする運動が始まっているらしい。
また、虐められた子供が怖がって二週間学校を休んだとか。
事実かどうかの確認よりも早く噂は広まり、不安と不満は蔓延する。
困ったものだ。

実際のところ、イジメに対してPTAが介入できることはない。

PTAとして各々の子供の心を教育したり、癒したりはできない。

みっちり張り付いてイジメをさせないように見張る係を作るとしても、誰がやる? 
どんな人が自分の仕事をうっちゃって他人の子供の為に責任を負うだろう。

はっきり言って事態の変化を望んでいるのは、イジメられている子供とその親だけなのだ。

イジメっ子は楽しいだけ。その親は無関心で知らない、知りたくもない。
周囲の子も親も被害が及ばないならできるだけ関わりたくない。
教師は、厄介なクラスの担任から離れる日を指折り数えて待っている。
そんなもんだ。

誰かが助けてくれる、教師が最適な方法で指導してくれる、話し合えば理解し合えるというのは幻想と思ったほうがいい。
期待するから「わかってくれない」「何も動いてくれない」「信頼を裏切られた」なんて被害者意識を強めて怒りになる。

もちろん私は一PTA役員として、出来ることはするつもりだ。
だが、それによって校長が動くとか、教師が変わるとか、イジメっ子やその親が改まるとは思っていない。
私にできるのは「わかって欲しい」人を「わかってあげる」だけと割り切っている。

今度の参観懇談の様子を受けて、次回の校長も出席するPTA役員会で議題に上げる予定だ。



当事者には言えない事だが、本当は私はイジメが続いているなんて話聞くとイライラしてしまう。
「どうしてそんなに大人しいの? 何を怯えてるの?」と不思議でしょうがない。
もちろん、違いは間違いとは限らないから、それがいけないとは言わないし、私が正しいわけでもないけれど。
もしうちの子がイジメにあったとして、教師に言って改善される様子がなければ、即行動だ。
それでイジメがエスカレートしたなら、更にやる。
たぶん、イジメっ子の親が血相変えて飛んでくる事態になるだろう。

「ああ、キチガイと呼んでくれて結構だね!!」
とまで腹くくってんのに、うちの子はイジメられないんだよねー。これが。

それとこれとの関係

友人と話をしてて、ひっかかりを覚えた一言。

「私の子供は学校に行けなくなったせいで進学できる高校もせばめられて、ある意味一生を変えられてしまったのに、イジメをした人たちは何のお咎めもなくのうのうと普通に学校に行っているのが許せない」

この一瞬、グワッと強烈な感情が噴出してきたのを感じた。

イジメがわかったのは、どうやら子供が喋ったのではなく、同級生の保護者からの情報らしい。
学校側は把握してなかったと言っているのだが、相手はいわゆる問題児で他の子にも同様に虐めているので、わからなかったはずはないと見ている。

近々教師と話し合いの場を持つらしいのだが、神経質なぐらいそれを子供に知られないように配慮するのが、私にはどうもよくわからない。
調査能力も指導能力もないとして信じてもいない教師から何を聞こうとするのか、何を伝えようとするのか、何を期待するのかもわからない。

イジメた子を処罰したって、失った時間は戻らない。
それに、本当にイジメがあったのかどうか、そのイジメだけが不登校の原因だったのかどうかがどう証明できるのか。
もし本人が語ったとしても真実とは限らないものを、本人不在でつきとめようとするのはなぜなのか。

と、私はいろいろ疑問に思うのだが、当事者は悩み傷ついた子供の心を守る当然の行為だとしているので(表向きね)、それは理解できないだろう。

私は問われた事のイエスノーを答える以外は責めや押し付けになるのでしないのだが、どうも悩んでも仕方ない部分での悩みが多いように思うのだった。


それは、このところのイジメ自殺にしてもそうだ。

マスコミでよく使われる「イジメに殺された」という言葉には、「はぁ?」と、いつも思う。

暴力や暴言、いやがらせ、仲間はずれなどはもちろん悪い。
やってはいけないこと。あってはならないこと。やめさせるべきことだ。
が、
「イジメに殺される」とは、肉体的暴行を受けての致死のみが該当する。

怪我で、悪口で、意地悪で、無視で人は死なない。
たとえ「死ね」「殺すぞ」と言われてもショックで心臓が止まったりはしない。

「死ね」と言われて従う人が殺すのだ。
存在を消し去りたいと一番望んだ人が直接手を下し殺す。

だからイジメっ子にはイジメた罪はあっても、人を殺した罪はない。

それが混同されて、「イジメ=死の可能性」を常識にしてしまっている昨今の風潮はどうも奇妙に感じる。


イジメられて自殺は当然ではない。
それと同じく、イジメられて不登校も当然ではない。
イジメっ子が学校への道をふさいでいるわけではなく、自分が行かないだけなのだから。

選択をしたのは当人であるということをふまえれば、他者に何の責任を問えるものかは明らかであろう。


と、こんな本音は、見たくないものを抱えている人には言えないのだった。
それこそイジメちゃ、可哀想。
未消化の課題は自分で解くしかないからね。

わたしなら・・・どうする?

古くからの友人が子供の不登校で悩んでいる。

私の長男と同じ中2の息子が、昨年から学校に行かなくなった。
理由をたずねても「わからない」と言い、無理に行かせても具合が悪くなって当校途中で帰るか、保健室に行く。
朝、起きてこられない。
もちろん親も先生も心配してあれこれ話し合い動いたのだけれど改善せず、フリースクールなら行けるようなので、今はそちらに通っている。

この夏休みが終わったら学校に行くと言ってくれたと喜んでいたのだけど、一日だけだったとガックリきていた。

何度も話を聞いて欲しいとメールがきていたのだけど、昼は私は勤めに出ているし、夜はあちらの子供たちが家にいるので話す機会がもてなかった。

それに、私はもう誰の相談にものらないしアドバイスもしないと決めているので、この手の話には積極的には関わらないようにしているというのもある。


一昨日、またメールがきた。
不登校の原因が実はイジメだったと一年半もかかってわかってショックだと。

詳しい状況も「ホントの事」もわからない私にはやはり何も言えない。
「イジメがわからなかったのはショックだったね」
「一年半も話せなかった子供の気持ちを考えると辛いよね」
との確認型応対と
「原因がわかったら対処法も考えられるからよかった」
「がんばって」とはげますメールを返した。

こんな時すぐ、「そっけなさすぎかな?」「もっと親身になる言い方ってあるんじゃないの?」「人の気持ちのわからない冷たい人と思われたんじゃないか」なんて浮かんでくるのが、私がいかに他人に「役に立つ人」と思われたいかの証拠。
まったくしょうがないなと、苦笑しつつエゴを抑えた。


今日は会社が休みで家にいたところ、その彼女から電話がかかった。

イジメの内容を本人から聞き出したほうがいいのか、それとも思い出させて辛くさせないほうがいいのか、
「もしもぽあんちゃんなら、どうする?」との問いを投げかけられた。

私は戸惑った。

以前の私なら、聞かれなくても言ったことだ。
「私だったらこうするよ!」とは。
「こう考えたら? ああしたら、こうしたら? 何でそうなのかな? もっとこうしなきゃ!」
相手の為によかれと張り切って頭をふりしぼっただろう。
けれど、それは無駄だはともう知っている。
エゴが考えた「私だったら」は、問題解決能力のある頼れる私を他人にアピールする手段でしかないのだから。

何しろ、彼女の「ホントのこと」も、彼女の子供の「ホントのこと」も私には何一つわからないのが現実。
判断を交えながら聞いた話から組み立てた妄想のストーリーの中で自分の「こうする」を導き出しても無意味。
それになんといっても、彼女は私ではないのだから。前提条件が違う。
同じ事をしたとしても、人が違えば結果は違って当然。
そもそも私の答えが正しいとも限らないのだし。

「うん、難しいね。子供にとって何が一番大切かだろうね」と言葉をにごす。

本音は言えない。

私なら、子供を不登校にはさせないし、イジメは気付くし、隠し事は許さない。
言いたいことは言うし、聞きたいことは聞く。怒るときは怒る。叩くときは叩く。
いいか悪いか、成功するか失敗するかなんか考えずに。
そうしているから、今こうなっている。
なんてのはね。

自信満々なわけではない。
これからどんな問題が出てくるかわからないと覚悟はしている。
何があっても私の責任だ。

指1本と命のもしも

次男がこんなことを尋ねてきた。

「もしも利き腕じゃない方の指とかそういうものと交換で人の命を助けたりよみがえらせられる魔法があるとしたら、お母さんなら使う?」

彼は最近、「ハリーポッター」や「ダレンシャン」等のファンタジー系の本にはまってるから、どこかでそれに近いものを読んで自分にあてはめて考えたのだろう。

「うーん、誰に使うかによるね」と私は答えた。
家族のためなら指の一本や二本惜しくはないけど、他人にはできないから。

心を痛めた悲しい出来事がいくつか思い出され、そのとき失われた命がもし助けられるなら・・・と頭に浮かびはしたのだけれど、私の肉体のたとえ一部とでもひきかえにはしたくないと思ってしまう。
仲の良い友人の危機でも、できるのはせいぜい足の小指ぐらい程度だろうか。

息子に指を失ってでも助けたい友達がいるか聞き返してみたけれど、やはり悩んでいた。
「よく考えたら、そんな人いない・・・できない」とマジに沈みはじめたので、
「だってさー、もし何かとひきかえにして命を助けたらさ、仲がいいときはいいけど、喧嘩でもしたら『あの時助けてやったのに』とか言いそうだよね」と言ってみたら、
息子は「あー、そうだな。『指返せよー!!』とか絶対言いそう」と笑った。


現実にできるわけではなく空想のもしもの話だけれど、それにしてもたった指一本も人の命と代えられないなんて、なんてケチなんだろう。
と、その後、ひとりで少し考えていたら変なことが浮かんできた。

これがもし、憎い相手を殺すことが出来るとしたら?

「こいつさえいなければ苦しみから逃れられるのに。幸せになれるのに」というぐらい邪魔な人間の存在を指一本とひきかえに消せるとしたら?

今現在私は憎んでる人はいないのだけど、もしいたとしたらやりそうな気がする。
執拗にまとわりつくストーカーに実害を及ぼされたとか、詐欺師に巧妙にお金も住む所も奪われたとか、子供がイジメで精神的にボロボロにされたとか、そんな感じで生活を脅かしてくる者なら排除するのを躊躇わない。

誰かの命を救うためには使えないものが、誰かを消すためなら使えてしまう。
また、喜びのためにはできない行為でも、苦を避けるためならやるということでもある。

私って、つくづくネガティブにできているんだなと実感。

特権階級

夫とドライブ中に車道を横切る歩行者を見かけた。
それで思い出したのか、夫が以前通りがかりに白い杖をついた目の不自由な人が道路を渡ろうとしているのを見て手を貸した時の事を話しだした。

横断歩道ではないところにいて危険なので信号のあるところまで案内しようとしたのだが、拒むのだそうだ。

「ここが近いんです」と言い張って。

どう説明しても頑として聞かない。

近いかもしれないが交通量は多いし、なんといっても目が不自由なので距離をはかったり間をぬったりはできないはずだが、どうもいつも通っている「道」らしい。

引っ張ってはいけないしそのまま放ってもおけなくて仕方なしにそこを渡らせてあげたのだけど、釈然としない思いが残ったようだ。

運転手が見れば白い杖で目が不自由なのはわかるから、車がよけて当然というのがその人の常識なのか。
車道を渡ってて事故にあったら弱者に配慮せずぶつかってきた車が悪い、手助けしてくれない周囲の人も悪いと主張するのだろう。

痛い目をみるのは自分なのに。

障害者は健常者よりも不便さが多いから、それを回避するためならルール違反はOK?
労わられ遠慮され守ってもらえるべき人?

そんな事をしばらく考えていたのだけど、ふとそれは別に障害者に限ったことではなかったなと思い当たった。
弱さを主張したがる人とはだいたいそんなものだ。

「過去が不幸、今が不遇、弱いから、周囲の人が無理解だから、こうなっても仕方がない」という言い訳を持つのが「自己憐憫」。

ニート、リストカット、アル中、ギャンブル狂、借金癖、いじめ、虐待、不倫、自殺だって何だって「理由」はあるんだよね。

自分を痛めつけているようで実は他人に甘えてる。それが依存。
「わかってくれ」との押付けは、逆恨みの攻撃みたいなもんなのに。

私もついそんな気持ちが出てきてしまうことがあるかもしれない。
そんな時は、白い杖で車道を渡ろうとしてるのではないか?と思い出して自戒としたい。

永遠の幸せを得る方法

いじめ事件に関わったり、自分勝手な判断で学校を途中で抜け出して帰ってきたり、友人に貸した金の代わりにゲーム機を預かって騒動を起こしたり、朝風呂好きで遅刻の常習者だったり、勉強をまったくしないので呆れるぐらい成績が悪いぐらいの事はあっても、
とりたててたいした問題のない中2の長男だが、ちょっと気にかかることはないでもない。

虚無的というか、やる気なしというかそんな雰囲気が漂っている。
本人も「面白くない」と言うし。
何が面白くないのかと尋ねると、「退屈なのがいやだ」と言う。
「何か事件でもおこればいいのにと思う」とか不吉な事も。
世の中を怨んで地球の破滅を望むような破壊衝動でもないだろうが、持て余す熱量の行き場のない苛立ちのようなものは感じられる。
何か熱中できるぐらい好きなものを見つけてくれればいいのだけれどと願うが、こればかりは親が与える物でもない。
そんなことをしても子供にとっては「ウザイ」だけ。
ここは見守るしかない。


一昨日、ちょっとした雑談をした。
何の話の流れだったか忘れたが、長男が自分の心のもやもやについて語りだした。

「楽しいことがあっても終わるだろ。ずっと楽しいなんてことはない。俺はそれが嫌なんだ。」と言う。
「幸せなんか短い。そのあと普通になると、余計につまらない。ずっと続く幸せがあるといいのに。」とも。

あっ!!と思ったのだけど、なんと応えたらいいのかわからなかった。ズバッと斬り込まれたような気がした。
「生きる意味」を問われるより、直球のような。
適当に何か「そりゃあそうよ。だからその過ぎ去る貴重な瞬間瞬間を精一杯味わわなきゃ。」みたいなことを言ったような気もするが、自分でそれは的はずれ(彼が求めているものに対しては)とわかってはいる。
自分へのはがゆさを感じながら、宿題にした。


翌日4日のダライラマ法王の講演会は、仏教の基礎基本の説明となっていた。
最初に、仏教を学ぶ意義、その入り口の動機について語られたのだが、それがまさにこの長男が言った言葉と重なっていた。

(概略)
  人は、生きとし生ける者はすべて、苦を逃れ幸せを求めたいとの願いを持つ。
  一般的に言う「幸せ」とは、一時的な快楽の汚れた幸せをさす。
  求めて得られなければ苦で、手に入れ一時的に幸せになったとしても、
  今度は失う苦となり続かない。
  穢れた幸せは常にこの変化の苦と共にある。
  煩悩という自我の間違った行為の結果として得られる幸せは一時的で
  穢れたたぐいの幸せでしかない。
  人が本当に求めているのは、永続する穢れ無き幸せであり、それは真理を知り、
  苦を因と共になくす対策を講じ、苦の死滅により、その境地に至ることが出来る。

不思議なシンクロだ。

息子に教えてやりたいという気持ちが湧いてきたけれど、それはしないでおく。
私が理解しているとは言えないから。
理解とは目的に向かっての実践であり、他人にもし伝えることができるとしたらそれ以上の言葉は無いと思う。

なにしろ、親のエゴの押し付けは「ウザイ」からね。
彼にとって必要なものは、彼が選びさえすればつかめるはずだ。

トイレの神様

小学校の清掃奉仕作業の日だった。
6年生全員と地域で分けた半分のPTAが参加。
私は3年生教室横のトイレを担当した。

毎日生徒が掃除しているはずなのだが、めちゃくちゃ汚い。
一年間放ったらかしだったんじゃないかと思うくらい。
女子トイレなのに便器に広い範囲に便がこびりついている。
もうすでに石のよう。
「あかずのトイレ」になっていたのかもしれない。

そういう他人がやりたくないであろう場所は出来るだけ率先して手がけるように心がけている。
「嫌だ」「苦手だ」と思う気持ちを抑えるいいチャンスだから。
時間をかけて磨いてピカピカになると嬉しくなる。

全体に水を流したら、どこにこんなにあったのかと思うほどのたまったほこりや汚れが流れてくる。
汚物入れも長いこと替えていなかったよう。
掃除時間の終わりの放送が流れても終わらなくて、とりあえずのほどほどの所で切り上げなければならなかったのが心残りだった。

先生も忙しいから子供まかせなのだろうけれど、やはり大人のチェックは必要なようだ。

荒れた学校のトイレをきれいにしたら子供の心が落ち着いたという話をよく聞く。
「快食・快眠・快便」は健康の基本。
うちの学校は荒れてはいないけれど、生理現象によって行く必要がある場所が、子供たちにとって行きたくない嫌な場所になってたりしたら困る。

不良を立ち直らせたり、起業の再生に役立ったというイエローハットの社長の「掃除道」のような集団での取り組みとまでいかなくても、一度、掃除の仕方の見直しの機会があるといいかもしれない。
それは学校で教える学習よりも、やはり家庭での躾の分野が大きいのだろうとは思うのだが。


トイレには烏枢沙摩明王(うすしま明王)様という、不浄を清浄となす、施福(金運)の神様がいらっしゃるという。
トイレ掃除は、おまじないや変な開運グッズよりよっぽど御利益がある。
それは学校では教えられないホントの話。
やってみればわかるから。

いるだけ係

宮島から帰って食事の支度して食べたらすぐまた出かけた。
第一土曜日は自治会の役員会がある。
あれこれ懸案事項や今後の行事について話し合い、来年度の役員の構成についての話題となった。
自治会長やその他の役員は毎年立候補者を募るのだが立候補する人はおらず、引き続きそのままというのが例年の流れ。
私は一昨年度たまたまアミダくじで当たって子供会会長、昨年持ち回りの順番でブロック長と連続で役員をしたので、わかる人が残って入れ替わりの激しい子ども会と自治会とのパイプ役になって欲しいと頼まれて、とりあえず相談役としているのだが、私は今年特になにもすることがなかった。
だから続投を打診されて、「今まで通り私にできることはするので、別に役員という形はいらないとのでは」と答えた。
その方が私の気は楽。

だが、どうしても残って欲しいと言われてしまう。
「何もせんでもいい。あんたはそこにいるだけでいいんだから。」とまで言われては、それでもどうしてもと断る理由がない。

頼まれごと断るのは苦手。
ついいい人ぶりっ子してしまう。
そして、やっぱりそこまで必要とされるのが嬉しかったりする。

好かれて、高く評価されて、認められて、必要とされて、いい気分になる私。
自分の無価値感を他人を利用することによってなだめる癖。
まったくしょうがない奴だ。
何をする、しないは問題じゃないけれど、動機が邪というのがねー。


でも、ま、引き受けるからには、もう一年、気持ちよく働こう。

弥山開創1200年記念

空海が弥山を開創して1200年。
その記念に昨日からダライラマ法王が来られている。
今日は講演会。
そこに行ってきた。

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ブッダをめぐる人びと

ふらりと入った書店で漫画家里中満智子さんの描いた「ブッダをめぐる人びと」を見て、即買いした。
里中満智子さんは私が好きな漫画家の一人で、昔から多くの作品を読んでいる。
ほぼデビュー作から知っていて、私が漫画家を目指していたときは彼女の「漫画家入門」を何度も読み返し、テクニックを磨いたりもしたものだ。
最近では歴史物を揃えてて、持統天皇を主人公にした「天上の虹」の一年に一度出るかでないかの新刊を心待ちにしている。
「女帝の手記─孝謙・称徳天皇物語」や「長屋王残照記」も全巻持っている。

心情描写には誰よりも力量のある彼女の描くブッダは、これまでの私の持つ仏陀のイメージを塗り替えてくれた。
手塚治虫の描く「ブッダ」も読んだことはあるのだが、それともまた違ってリアルな人間の体温に近いように感じる。
決して俗っぽくはないのだが、誰にとっても遠くはない存在と言うか。
それぞれ短い話にこれ以上ないという程わかり易く凝縮された濃い内容はさすがだ。

ブッダと女性の物語7編、ブッダと弟子の物語13編、ブッダと王家の物語6編からなっており、エピソードはたいていこれまでにどこかで一度は目や耳にしたことがある話ばかりなのだが、今回あらためて「ああっ、そうだったのか」とか「これは私の事じゃないか!」と思うものもあった。

サーリープッタは世の無常のむなしさから悟りを得たいと師を探し理屈の堂々巡りを経て、やっと「すべてのものごとは原因から生じる」「生じたものはいつか必ず滅する」との確かな真理に出会った。

美しい妻への執着を捨てきれず心の定まらなかったナンダは、人々が寝静まった夜に出て行こうとして、一つの扉が閉まればまた別の扉が開く様に自分の煩悩を見て迷いを吹っ切った。

執着が苦の元とは知ってはいても、つい見失う。
状況判断や損得勘定で右往左往の私の道とはどこにある?
そんなふうに自らを振り返るよすがとなった。


参考文献としてあげてあった書物もこれから読んでいこうと思う。

かげぼうし

ふう。
下のように

嫌い嫌い嫌い

と書くと疲れるもんだ。暗い方ばかり見ていると。


悪い悪い悪い

酷い酷い酷い

間違ってる間違ってる間違ってる

問題だ問題だ問題だ


だから、どうする、どう動く。

というのは実は、恐れを動機としている。
嫌なものを変えようとする試み。
ネガティブな感情を解消するために、外の状況を思い通りに変えようとする。
苦しさといつもペアなのが特徴。
願望が達成した一瞬だけ安心しても、次々に変えたい物は現れる。
きりがない。


連日報道されるいじめをめぐる事件に激しく心をかき乱されるのは何故かと観て行ったところ、過去の出来事につながった。
今おきているいじめのせいで怒っているのではなくて、ずっと抱えていた怒りや痛みが刺激されていたのだった。


「嫌い嫌い嫌い。嫌いだから私はこうする!」か。
我ながら笑う。

過去は今とは関係ないし、他人は自分とは違うというのに。
本当に困った人。


脱線するが、
「うんこは汚い!あんな汚いものは許してはいけない!だって黒かったり茶色かったりと色が汚い。べたべたして汚れる。臭いがすごくくさい。気分が悪くなる。おえー。それに・・・(中略)・・・で、みんなの迷惑、社会の害悪。もう、嫌い嫌い大嫌い!!」
と叫んでる人がいたとしたら、それは本当にうんこが嫌いなのだろうか?
実は好きで好きでたまらないフェチなんじゃないかと疑われるだろう。
嫌いなものなら見なければいいだけなのに、そんなに情熱的に思いを向けているのだから。


影を見たいのはなぜなのか。
それに突き動かされるのを当然と受け止めていたのはなぜなのか。
そこにどんな隠された意図があるのかを観ていかなければ。


良いも悪いもなく、ただ「あるがまま」。
なかなかに遠い。

いじめられっ子が嫌い

私は小学校二年から三年にかけての1年間、東京方面を転々とする貧しい生活をしていて、仮入学をした学校でいじめを受けた。
「汚れ」「貧乏」「馬鹿」「やくざの子」
全部本当のことだから、唇をかんで耐えるしかなかった。
悔しく辛い経験。
だから私はいじめが嫌いだ。

中学のとき、いじめられる女の子がいた。
一人で浮いてて、男子によくからかわれる。
時には叩かれたり、シャーペンで刺されたりとか。
そういうのを私は見過ごせない。
猛然と怒り、彼女をかばい、男子と大喧嘩をした。
毎日のようにホームルームでいじめっ子のつるし上げもして。
やりすぎなほどやった。相当嫌な奴の部類だろう。

しかし、私も本当はそのいじめられっ子が好きではなかった。
おどおどとしているくせに図々しくて、べたつく感じが気持ち悪い。
虐められるには、虐められるだけの理由はある。
口をきくのは私だけだから寄って来るのだが、適当な理由をつけて避け続けていた。
あたりさわりのない程度の付き合いはすれど友達にはなれないのは仕方ない。

仲良くはできなかったけど悪いことはしなかったし「タスケテアゲタ」と思っていた。

卒業後、数ヶ月してその彼女からはがきが届いた。

幸福の手紙。
三日以内に同じ文面のはがきを出さないと不幸になるというアレだ。
つながってきた人たちの名前がズラッと並んでいて、最後に彼女の名。
見覚えのある個性的な字は間違いなく本人の筆跡だ。

ショックだった。

なぜ私に? タスケテアゲタノニ。
他の人は怖いけど私なら怒らないと思ったの?
だからあんたは虐められるんだよ!!
さまざまな思いが駆け巡ったが、黙ってはがきを破り捨てて終わりにした。

中途半端な偽善者は、えてしてこういう目にあうものだと教えてくれた出来事だった。


私はいじめが嫌いだ。
いじめっ子が嫌いだ。
いじめられっ子も嫌いだ。
関わりたくない。

が、本当は何よりギャラリーが大嫌いなのだ。

偽の正義と知りながら、益体も無い火中の栗を拾いに行くのは誰の為?
そこはもう間違えない。

ひとりあそび

会社から帰ると子供たちがとびだしてきて、
「ランがクモを食べた!!」と騒ぐ。
「もう取り上げたの?」と聞くと、「ううん。足についてる。怖い。触れない」という。
中に入ってみると、確かに・・・元クモだったものだ。
足だけがもじゃもじゃとなんだかよくわからない形になってて、それをランちゃんが楽しそうにつついて飛び上がってはかんだりして遊んでる。
「ダメよ」とティッシュで取ったら残念そうにしていた。
クモつついたその足で私に触り、クモ食べたその口で私をなめてくるのか。
いいけどね。

映像はゴルフのピンに紐をつけたもの。

今はねずみの玩具に夢中だ。

0円の誘惑

PTAの連絡網に必要だからと携帯を持って3年になる。
パケット代を気にしながらメールするのは嫌なので、携帯はauの定額にしている。
電話はめったに使わなくていつも無料分が残るぐらいなのだが、月々の料金は8000円ぐらい。
あれば便利は便利だが、無ければ無いで済まされるものだし、毎月の出費を考えると
無駄なものかもしれない。
やめようかな? でも、ないと困るかもしれないし・・・と考えている所に、今度の携帯ポータビリティに時期を合わせたソフトバンクの「電話0円 メール0円」の広告を見た。
これはイイ!!
善は急げだ。さっそくチェーンジ!!
とワクワクしながら、どんな機種があるのか、どんな機能があるのかをWEBで調べてみた。
機種のデザインもまあまあいいし、機能は今使っている物と大差ない。
イイじゃん、イイじゃん。とついでに詳しい料金体系も確認したのだが・・・ここで「ん?」と首をひねった。
「0円」のゴールドプランの他に、オレンジプランとブループランというものがあるらしい。
2880円で使い放題なら、その他のプランはいらないのでは?とさらに見ていくと、どうやらオレンジプランはauの、ブループランはdocomoのそっくりさんという。
そして「auやdocomoが値下げをしたら、その通りにソフトバンクも値下げするから乗り換えユーザーに損はさせませんよ」というのをウリにしている。
2880円で使い放題なんだから、わざわざそんなこれまでのプランにこだわりたい人っているものだろうか?
何かおかしい。どうもゴールドプランとはそんなにお得ではないよう???

よく読めば書いてある。ちゃんと。
ソフトバンク同士の電話なら、ソフトバンク同士のメールなら、0円と。
しかもややこしい条件が小さな字でごちゃごちゃとめんどくさい。
シェア低いんだからメリットないじゃんか。

ということで、私の携帯乗り換え計画は10分で中止になった。
世の中そんなに甘い話はないよね、と期待した自分を笑って。


予想通り問題は出てきたけれど、「騙された」人は自分で調べもせずに安易に口車に乗るうかつさでお金を失い、「騙した」方は客と社会的な信用を失ったわけで、両方自己責任なのだから仕方ない。


一昨日息子が「ソフトバンクはやめるときに4万円お金がかかるって知ってた?調べたら出てきた」と言っていた。
そんなことがあるのだろうか? やめさせないために?
もし本当ならあまりにアクドイと思っていたら、昨日の新聞で意味がわかった。
「携帯本体価格も0円」と銘打って頭金0で月々の使用料に分割で合算というやり方もしていたので、解約や契約変更の場合は清算する必要があるということだった。

なるほどなるほど。
「ただより高いものはなし」とな。

CMは面白いけどね。


おこられちゃった

広告を入稿した新聞社から、締め切り時間直前に一部表記の不備の見逃しに今気がついたとストップがかかった。
新聞は小さな決まりごとが数多くあってチェックが厳しいのだ。
すぐにお客と連絡をとったのだが、あいにくと今日はその会社が休み。
携帯に電話をすると機嫌が悪い。
変更点を説明してすぐ対処する旨を話したのだが、昨日のうちに片付いたはずの仕事ではあるし時間的余裕がないのもあいまってか苛立ちが沸点に達したようで、いきなり、
「もう、出すのやめようか?」と言われる。
「はい???」私は一瞬、何を言われてるか理解できなかった。
「ああっ? だってそうだろ!こんなギリギリになって直せないだろ。どうにもならんよ。もういい。全部なし、なし。キャンセル!!」と怒り口調。
ええと・・・と考えてる暇はない。
「すぐに修正して間に合わせますので大丈夫です」と言って、一旦電話を終わらせ作業にかかり、出来たところで再度確認の電話を入れてみた。
時間を置いたことで先方は冷静さを取り戻したのか「もうそちらに任せるからいいようにやって」ということで、無事入稿にこぎつけた。

言い訳は言う側のためだけにある。
聞かされる側にとってみればどうでもいいこと。
なので私は状況説明はしても誰がどうだったからなどという言い訳はしない。
私の責任においてのみ相手と対峙するを心がけている。

しかし他人の怒りというものに私は弱いというのを今回も再認識させられた。
「あなたのせいで私は怒らされた。私があなたを困らせるのはあなたが悪いからだ」
と受け止めてしまって、つい、それをなだめて自分を許してもらおうとしたがってしまう癖がまだまだあるのだな、と。
その気持ちのゆれをじっと見ながら。
失敗はしたけど、まあその面ではまずまず成功かな。


お客の注文は出来うる限り快く受けるがモットーの私。
『「もう広告出すのやめようか?」と言われた時には、「はい。やめですね。わかりましたぁ!」と快く受けるべきかとも思ったんだけど、さすがにそれはマズイですからね」と、後で社長の奥さんに笑いながら話したら、
奥さん「私が以前キレてそれやって、だからしばらくあそこの仕事が途切れてたのよ」と教えてくれた。
奥さん、短気だからなぁ・・・。


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Author:ぽあん
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のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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