何して遊ぼう?

踏んだりけったり泥沼人生、どうせ死んだら全部パー。
世界にその名を轟かせても、どうせ死んだら全部パー。

アクセクしたってしょうがない。
ジッとしてたらせいがない。
考え込んだら笑えない。

さあさあどうする、どう生きる?
オサラバまでの暇つぶし。

おむかえ

「心配しなくても、人にはいつか必ずお迎えが来る」

死を考える人によく言われたりする言葉。

そう聞いて、ある人は安心かもしれないし、ある人は不安になるだろうけれど、
動かしようのない事実であることには変わりはない。

「お迎え」とはよく言ったものだ。

それは、
急がなくても、焦らなくても、目指さなくても、あっちから来るものだから。
その時期になれば。

「お迎え」とは、何もあの世からのと限ったことでもないだろう。

人生においてのすべての出会いが、すべての転機が「お迎え」とは言えないか?

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

命の見方、愛の見え方

以前聞いた、水谷氏のとは対照的なある話を思い出した。

ギャンブル狂で大借金して家庭を崩壊させた上に、
子供の養育費も払わず逃げ回った挙句、ついに働き口もなくなって
今は実家でパラサイトしている男が語った話。


戦時中、ナチスのユダヤ人収容所では非人道的な人体実験が行われており、
その残酷な実験の様子を収めたフィルムにはこんな映像が映っていたそうだ。

狭い個室に一人の怯えた目の女性と腕に抱きかかえられた赤ん坊が入れられ、
一つの壁から火炎放射器が突き出され、その炎が徐々に迫っていく。
母親が我が子をどこまで守ろうとするかという、追い詰められた人間の行動を調べる実験だったらしい。
母親は必死で赤ん坊をかばい、近づく炎からわが身をたてにしてうずくまっていたのだが、いよいよ身体が焼けて熱さで我を失った時、抱いていた赤ん坊を炎に向け遮って自分は少しでも逃れようと身をよじっていたという。

それを何かで見た男は言った。

「親はわが身を挺しても子を守るとかきれい事言ったって、
 いざとなったら本性が出る。
 所詮人間は、最後には自分がかわいいもんなんだな」


夜回り先生とギャンブル依存パラサイト男。
生き方の180度違う人間が目にし受け取るそれぞれの事実。

同じ時代の同じ日本に生きているのに、別の世界を見ているかのような。

目の前に現れるものが違うのか、関心を向ける部分が異なるのか。

人はやはり、自分の見たいものを見るようだ。

或いは、自分自身を鏡に映しているのかも。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

命は誰のものか

リストカットや自殺願望の少年少女に「命を大切にしろ」と言うと、
大抵、返ってくる言葉は決まっている。
「自分の命は自分のものだから、どう扱おうと勝手じゃないか」

それに対して夜回り先生水谷氏は、
「冗談じゃない。命は自分一人のものじゃない。
ずっと昔から多くの人たちによって繋がってきているんだ」
と熱く語りかけている。

講演で一つ、その裏付けとなる例を挙げて話をされた。

戦時中、激戦地となった沖縄のある村でのできごと。
米軍が上陸してくるというので、村人達老若男女が集まって洞窟に身を潜めた。
やってきた米兵達はしらみつぶしに辺りを捜索し、そして、見つけにくい洞窟の奥からほんのかすかに漏れた赤ん坊の泣き声を聞き逃しはしなかった。
洞窟の唯一の出入り口に開いたこぶし一つの隙間から火炎放射器の先を差込み、容赦なく炎を浴びせかける。
その時、中で何が起こったか。
一番奥の小さな空気穴の周りにくぼみを作って赤ん坊を入れ、村人達は次々に胸に石を抱えて火炎放射器の先に体当たりをしたという。
一人、また一人と倒れていく中、次々に体当たりをしていき、最後に生き残ったのは数人の赤ん坊だけだったそうだ。
15・6歳ぐらいの少年までもが次の命を守るために死んでいったのだった。

「こんなことがずっと昔から数知れず脈々と続いてきたから、今我々が生きていられる。
先祖達が守り受け継がれてきた命には、次に繋げていく責任がある。
命は決して自分ひとりのモノじゃないんだ。」


史実を受けての語りかけには重みがある。
不幸にして親の愛情に満たされた経験がない子供たちが、より大きな視点での「愛」を気付くに足るほどの。

何より実感できる自分の存在そのものが、
生まれて、生きているまさにこの事実が「愛」。

そう知る事が、受け継ぐということ。
伝える事が、繋げるということ。

私はここに、水谷氏の人間としての核を見たように思う。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

好敵手

エゴって本当にやっかいで、しつこい嫌なもの。
どんなに押さえつけても隙を見てはヒョッコリ顔を出す。
捨てても捨てても背後から忍び寄ってはいつの間にか寄り添っている。
「エゴってや~ね~」と何食わぬ顔で親しげにしてくる奴がエゴだったりとか。

もう、出てって!消えて!死んで!滅んで!

とかなんとか言いながら日々戦ってるわけだけど、
私は内心、エゴがそんなに嫌いでもないみたいなんだな。

馬鹿でどうしようもない生臭さと違和感のカタマリではあるんだけど、
憎めない可愛さがあってね。

長い付き合いだからなぁ。
息の根までは止められないって言うか、
見つけて引っ張り出すこと自体楽しいから、ずっと遊んでいたいみたいな。

おかげで退屈しないで済んでいるともいえる。

あっさりと悟ったのではつまらないと、私が選んでいるんだろうなぁ。

夜回り先生の大きな「いいんだよ」

全国の救いを求める少年少女たちに手を差し伸べ続けている「夜回り先生」こと水谷修氏の講演会に行ってきた。

昨年の第54回日本PTA全国研究大会みやざき大会の目玉の講演を直前でキャンセルした件でPTAからは総スカンでもう講演はないのではと思っていたが、聴くチャンスが得られて幸運だった。

ドタキャンの理由は主会場に入りきれなかった参加者が別室でモニター中継を見るようになっていたことで、「皆さんと対面して講演したい。画面を通してでは失礼で、講演はできない」との説明があったらしい。
全国から8400人もの人が講演を楽しみにして来ていたのが突然の中止となり、批判の雨あられも免れ得なかったわけだが、今回の講演を聴いて私としては彼がどうしてもそこを譲れなかったわけが納得できた。
それくらいの理念を貫き通す気概がなければ、とてもやってられないだろう、と。

今回の講演は、「昼の世界、夜の世界」についての話から始まった。
会場に来ている人たちは「昼の世界の住人」で、水谷氏は「夜の世界の住人」。
「水谷は、夜眠らないんです」との言葉にまず驚かされる。
日曜から木曜の夜は全国から救いを求めてくるメールに毎晩最低でも300通以上の返信。
週末の夜は全国各地の繁華街に彷徨う子供たちの姿を探して夜回り。
昼は毎日講演。本の執筆。合間に1時間半ぐらいのわずかな仮眠。
病魔に侵された残り少ない命のすべてを子供たちと向き合うことに注ぎ込んでいる。

水谷氏は会場の10代の子らにこう質問される。
「夜の世界のネオンの美しさや楽しげな賑やかさに少しでも『いいな』と心引かれる気持ちがある人、手を挙げて」
数人の素直な子らの手が挙がる。
「それじゃ、君達にいいものをプレゼント。宿題だ。朝の7時にその、夜ネオンできれいに見える街に行って見てごらん。何が見えるか。
薄汚い建物、ペラペラのベニヤにケバイ色のペンキを塗りたくった看板、色を失った電飾の安っぽさ、あちらこちらに酔っ払いのゲロ、ゴミだらけの通り。それが本当の姿だ。夜の世界は、嘘の世界なんだ」
話はそこから、嘘の世界の入り口が身近なネットや携帯にあるのだと繋がっていく。
孤独な子供たちが軽い遊び感覚で出会い系やチャットにアクセスすれば、そこにはいくらでも優しい言葉をかけてくれる大人が待っている。
話を聞いてくれて、甘えさせてくれて、おだてていい気分にしてくれて、この人なら自分のすべてをわかってくれるものだと勘違いして縋り付けば、深い夜の闇から抜け出せなくなる。
そうやって転落していった子供たちを多く見てきている水谷氏は、こう言い切る。
「メールや携帯では、心や思い、愛や友情を伝えることはできない!!」
だから水谷氏は、助けを求めてきた子に全国どこへでも会いに行かれている。
面と向かって、しっかり目を見つめて手を握る。
そうでなければ伝わらない。

それを聞き私は、PTA全国大会でモニター中継があるが故に講演を中止されたのには、この信念がベースになっていると理解した。
会場が広くてどんなに遠くにいたとしても、同じ場を共有して目と目を見交わした人にだけ伝わるモノは必ずあって、それは同じ映像、同じ音声を見聞きしても目の前にいない人には届かないモノなのだ。
一方的に話をしているのは水谷氏で、参加者はただ黙って聞いているだけだが、同じ場を作り上げるという意味では共同作業がそこになされている。自覚ありなしに関わらず。
それが人と人との関係であり、交流。
モニターを通して見た人が、会場にいた人と等しく「夜回り先生の講演を聴いた」ことになるのだとしたら、その相対峙した時のみ生まれる一番大切にしているモノを自分自身で否定することになる。
水谷氏一人のポリシーが云々ではなく、関わった子供たちすべてへの裏切りにもなりかねないそこを、どうしても守らなければならない砦として持たれているのだろう。
新聞社情報によると、ご本人はドタキャン騒動について「僕が子供なんです」と語られたのみだったようだが。

確立した人生哲学に基く高い理想とそれに追従できる者も真の理解者もいない現実の狭間で、力及ばず失われた命の重さも「水谷が殺した」と全部抱えこみ、追い立てられるように歩き続ける夜の街。
今消えようとする命の灯火に繋がるか繋がらないかわからない無限に広がる細い細い蜘蛛の糸を手繰り寄せるかのような戦い。
関わった子供たちの個々の具体的な話はどれも胸が痛む辛いものだったが、それでも前を向いて歩き出す子も確かにいる。
夜の世界に堕ちた子供を昼の世界に戻そうと奔走する水谷氏から渡された命のバトンは、必ず大きく広がり次に繋がっていくだろう。


ワクワクでハッピーに生きるために生まれてきたという楽天的人生観もいいけれど、暗い闇を凝視してそこに身を投じ苦悩に満ちた自己犠牲の道を歩む姿もまた人間の美しさだと私は感じる。

どんなに汚れようと、どんなに悪事に手を染めようと、どんなに自分や他人を傷つけてきた者であっても、「いいんだよ」と包み込む大きさと温かさは、触れた人に変革をもたらさないはずはない。

救えなかった子がいたとしても、水谷氏の命が燃え尽きたとしても、それは結果ではなく過程。
大人と子供が見失った絆は必ず取り戻せると私は信じる。

テーマ : 生きる力
ジャンル : 学校・教育

聴く姿勢

私は時々、無神経な発言をしては人を怒らせる。

まったく悪気はなくても、言われた人は自分が否定されたように感じるようだ。
だから私は他人の悩みを聞くのが嫌いだ。
ただ聞いて「いいのいいの」と言って欲しいだけなら、本当に困っていることを改善したくないんじゃないのか?と思ってしまって。

けれど、最近はその辺、なんとなくわかってきた。
悩んでる人は悩みたくて悩んでるんだと。
愚痴をこぼしたい人は、愚痴を言いたくて言っているだけ。
何かがあるから悩むのでも、解決の手がかりが欲しくて相談するわけでもないってこと。

昔、こんなことがあった。
妹が家庭の事や職場での人間関係がうまくいかず悩んでいた時のこと、私が「ああしたら?こう言ってみたら?」とお得意だった“私ならこうする”的にアドバイスしていたのだけど、妹はそれにことごとく反論してきた。
「そうは言っても、○○さんは話しが通じる人じゃないから。」
「一方的に決め付けられて、何をしても無駄。」
「相手は仲間が多いから、上司も注意してくれっこない。」
という風に。
「これが普通でしょう?」に対して「だから、私の周囲は普通じゃないの。異常なの!!」と言われては、どうにもできない。

そして彼女はこう言った。
「私は別にお姉ちゃんに、問題を解決する方法を教えて欲しいわけじゃない。ただ話をしたいだけ。ただ聞いてくれたらいいんだから。それでスッとするんだから。」と。

当時の私はそれで納得できるはずもなく、「延々悩み続けてそれをどうしようともしない人間の話を聞くほど私は暇じゃない!」と腹を立ててしまったわけだけれど、その後、いろいろな出来事の中で多くの人の話を聞いてきて受け取り方は徐々に変化していった。

ただ話を聞くとは、相手の心に寄り添って共感すること。
わかってくれる、同じ気持ちを共有してくれる人がいるというだけで、心が癒されて初めて、問題に立ち向かう気力になるのかもしれないな・・・。

そう思うようになってからは、他人の悩みや愚痴に余計な口は挟まずに
話に出てくるその人の周囲への感情ではなく、その人自身の気持ちを観るようにして話を聞くように心がけてきた。

そうしているうちにまた最近、心境が変わってきたのに気付いた。

悩みが「ある」のを前提にして見ていたけれど、本当は悩みなんかどこにも「ない」んじゃないかと。

似たような環境の中で、似たような状況に見舞われても悩む人と悩まない人がいる。
それは個々の個性の受け取り方で、深刻になる人や軽く受け流すタイプとがあるわけだけれど、それならば、悩むべき必須の事象などどこにも存在しないのではないだろうか。
悩みを作り出しているのは、大方の場合、その本人なのだ。
そしてそれをわかろうとはしない。
働きかけるなら変えられる可能性がある所に向ければいいのに、なぜか絶対にてこでも動かないような大岩に対してのみ「動いてくれればいいのに」と希望する。
わざわざそうしているとしか思えないのだ。

何のために?

悩みたいから悩んでいるとしか思えないではないか。
わざわざ不快になるために、その出来事の受け取り方を選んでいる。
そして思い返したり、他人に語ったりすることで辛さを味わい続けることをも選択している。
「嫌だ~、嫌だ~」と、これからの未来さえも色眼鏡をかけてみようとしている。

本人が好んでやっていることだから、きっとそれには理由があるのだろう。
自分の気付きを得易くする最適な環境なのかもしれないし、過去の未消化な感情の浄化に必要なのかもしれないし。
他人には推して量ることのできない精妙な理が働いているものなのだろう。


他人の話を聞く時は、ただ「話を聞く」だけでいい。
「ああしたら、こうしたら」と考えることもないし、
「この人はこう感じているんだな」などと思い巡らすこともない。
私の前に、この人がいて、この話をしている。
それをじっくり聞いて味わう。
私の中から起きてくるモノをどうにもせずにただ感じる。
会話の流れにゆだねつつ。

この世で起きる出来事は、すべてその人にとって必要だから目の前に現れる。
私にとってもそうだった。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

人生が二度あれば

車のCDから夫の好きな井上陽水が流れる。

♪人生が二度あれば
   この人生が二度あれば

もう一度やり直したいとは、ある程度年齢を重ねた人なら誰もが思うことではないだろうか。
私もたまにそんな風な感慨に浸り、ありえないことをよく夢想していたものだったなと、曲を聴きながら思い返す。

「あの時、こうしておけば・・・」
「こんなことしさえしなければ・・・」
そうして、思い通りの人生を築けた今はどんなにか素晴らしかっただろう。
傷つかず、汚れず、間違わず、誰に恥じることない生き方を貫けたら大成功。
焦燥感、孤独感、劣等感、虚無感と縁のない、人生の勝利者になれるだろうに。
そう長い間思ってきたなと。

失敗をしない生き方。

それが私の理想だったのだ。


しかし今はこう思う。
もし人生が二度あれば、もっと多くの失敗をじゃんじゃんやってやろうじゃないかと。

もっと性悪もっと強欲もっと奔放、勝手気ままに振舞って、他人に嫌われ怨まれ誹られて、世界中を敵にまわしても飄々とろくでもない馬鹿やって、「あー、面白かった」と死んでいく。

後悔さえしなければ、人生に可も不可もありゃしない。
だって、人間はどうあがいたって快を求め不快を遠ざけるようにできている。
やりたい事をやって、やりたくない事はしないもの。

それならば、人生をもう一回もいらないのだった。
二股に分かれている道を前にしたら、迷わず危険な道を選べばいい。

どんな展開になったとしても「やっぱりね。失敗するとわかってたんだ。」なんて私は言わない。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

本当のデータ

肉は身体に悪くて野菜は良い?

太ってると不健康でやせてると健康?

癌になった人はタバコを吸わなかったらならなかった?

牛乳・小魚で骨折が防げる?

朝食食べてたらキレやすい子は減る?

不治の病で残された時間と、手術後生きる時間はどれほど違う?

健康食品を摂ってる人と摂らない人の健康比べのモノサシは何?

本当に薬は身体を治す効果はあるのか?

スポーツが健康にいいって本当?


個人差あり、例外もあり、
詳しく調べたらほとんどがそんな中での平均値って信用できる?

自分の身体がデータ通りに、或いは一般通念に倣って
「正しく」反応してくれればいいけどね。
それさえ時代によって、社会情勢によってコロコロ変わる日和見鳥なわけだから。

ちなみに私は今の常識は全部嘘だと思ってる。

外から教えられる情報で、自分にとって役立つ物って少ないんだよね。
内から教えてくれるものに比べたらさ。

似顔絵セラピー

似顔絵セラピストのケンイチさんの作品展に行って来た。

ファニーフェイス


ケンイチさんはまだ20代だが、柔和な表情とものごしに激しい情熱とスピード感を漲らせた、魅力的な青年だ。

人間が好きで、瞬間に特性をつかみとり紙の上にイメージを色濃く描き出す手腕は、その場で見ている者をうならせる。

あちこちで多くの人の顔を描いてきた経験から、「似顔絵には人を癒す力、心を温かくする力があると確信した」彼は、似顔絵セラピストとしての活動を開始する取り組みの一環として、今回の作品展を開いたのだそうだ。

私も手慰みの趣味ではあるが、たまに友人知人に似顔絵を描いてプレゼントすることがあり、その気持ちを伝え癒したり、盛り上げる力についての手ごたえは感じている。
「もし産婦人科で新生児の顔を描くサービスをしたらウケルんじゃないかな」「入院で気持ちが暗くなりがちな人を元気付けられそうだな」などと考えて、仕事にしようかと真剣に考えていたことがあるくらい。

それを実際に行動に移して活動を広げようとしているケンイチさんには、諸手をあげて拍手を送る。
ぜひとも似顔絵セラピーを根付かせ深めていってもらいたい。

私は作品展の初日、仕事帰りの夕方に立ち寄ったのだが、ケンイチさんはこの日だけで30人近くの人の似顔絵を描かれたという。
一人につき、15分から20分で色までつけての仕上げ。
その集中力と持続力には舌を巻く。
見た限りでは、乗ってきたら突っ走りたいタイプのようだ。

お疲れのところ悪いなと思いながらも、やはり折角なので私も描いてもらった。
似てるかな?

似顔絵



ケンイチさんの個展「似顔絵作品展──FANNY FACE」は、広島市中区上八丁堀のギャラリーGで、28日まで。

効果のある食べ物

「あった?」
「ううん。また売り切れだった。」
こんな会話が、このところ会社の同僚との毎朝の合言葉になっていた。
納豆のことだ。

普段から食べているのに、急にどこのスーパーでも売り切れで買えなくなったので、
「たぶん、思いっきりテレビかあるある大辞典ででも取り上げたんじゃないの?」と推測してたら、やっぱりそうだった。

皮肉なことに、番組内での効果の検証が嘘だったとニュースで報道されてはじめて何が起こってたのかを知ることができた。
そんなにも多くの人が健康(ダイエットか?)に関心を持ち、あの番組を信じて見ていたのかと、ちょっと驚く。

私も以前何度か見た事があるが、スポンサーへの不自然な気遣いとか、まず結果ありきの無意味な実験や統計分析の出し方等、首をかしげるような部分は気になっていた。
それで今回だけこんな騒ぎになるのは不思議な気がする。

納豆の会社の株価変動や、品不足から増産体制を組んだばかりでズッコケタのは気の毒に思うが、納豆嫌いな人が毎日2パック食べ続けたのに効果が嘘と知って「騙された」と憤ってるなどと聞くと、悪いけど笑ってしまう。
食べたくもない物を無理に食べても、かえってストレスで身体を悪くしそうだ。

今回の事に限らず、いろんなテレビ番組や本では「○○が身体にいい。」「○○が効く。」と様々な食品が紹介されていて、追っていったらきりがない。

いろんなものにいろんな効果。
血液サラサラ、頭が良くなる青魚。
ゴマにはゴマリグナン。トマトにはリコピン。キナコのサポニン、イソフラボン。
旬の野菜でビタミン補給。根菜類で冷え性解消。ワカメパワーでお肌ツルツル。

そんなこんなをバランスよく献立組んだら、結局、普通の食事だったりするのかもしれない。

私は身体にいいものより、美味しいものをいつも食べたい。

クラゲの骨なし

自分なりの価値観をしっかり確立しようとすると、
自らを縛ってどんどん窮屈になっていく。

主張に一貫性を貫くべきだとつき進むと、
矛盾を含んだ自在性なくして突破できない壁が立ちふさがる。

外からの刺激を追い求める虚しさから脱したつもりが、
与えられるものへの拒絶という頑固さを形作る。


「自分の芯を持つ!」と、「囚われない!」との間で揺れる心。

そんなこと繰り返して、さんざ迷った挙句の果てに思うのは、
どっちでもいいって事。

こうしなくてはいけないとか、こうであってはいけないとか、
そんなの誰が決めたの?
背いて何がいけないわけ?

も、どうでもいいじゃん。

適当で、いい加減で、無責任なのが性に合ってるのなら、
無理せずに、それを貫こう。

それも飽きたら、今度は別のポリシーに乗り換えればいいのよ。

そんなの状況判断の極み?
いいの、いいの。
何事も極めなきゃ、突き抜けられないからね。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

ワンダフルワールド~~三歳までの人生観

最近はめっきり頭がボケて、昨日食べたものさえ思い出せないくらいの私だが、
人生の始まりの頃の記憶というのは結構、残っていたりする。

常識を知る前のこの世界は、何もかもが始めて目にする不思議さにあふれていて、
そこで私は飽きることなく毎日新たな冒険を楽しんでいた。
これはなに? あれはなぜ?
思いがけないこと驚き、泣いて、笑って、じっとなどしていられない。

その頃の私の世界はとてもユニークで奇妙なものだった。
私は子供で誕生日ごとにどんどん大きくなる存在だけど、
親は最初から大人としてあるべくしてあり、
祖父母も最初から老人としてあるべくしてある、
私を除いては変化をしない完成された世界と漠然と思ってて、
すべては私のために存在すると信じて疑いもしていなかった。

それが崩れたのは、一緒に暮らしていた祖母の死によってだ。
大好きな祖母ともう会えない寂しさはあっても、特に悲しみもなかった私に、
祖母を見送る際につぶやいた母の一言は大きなショックを与えた。
「人はいつか必ず死ぬんだから・・・お母さんも、ぽあんもね。」

昨日と違う今日があり、今日思いもしない明日があるということが、
ここにいる今の私が消える可能性も含むのだと知り、世界は一変した。
それが恐怖が私を支配した瞬間。

「それは嫌だ。」と泣いて泣いて、延々泣き続けて、とうとう母に
「ぽあんは死なない。お母さんも死なない。二人でずっと生き続けよう。」と
言わせても、もう元には戻らない。

他人に自分をわかってもらいたい。
私の生きた証を残したい。
価値を認められたい。
必要とされたい。
その強い渇望を生んだ不安の根っこは、案外こんなところにあるのかも。

人は必ず死ぬ。
喜びがあれば苦しみもあって当然。
世界は自分を中心に回ってはいない。
そんな“常識”を知る前は、
永遠に続く自分だけの世界を謳歌していたのだとしたら、
もう一度、そこに立ち返ってもいいんじゃないかなと、
さんざん波乱万丈の異世界探検を楽しんだ私は思うのだった。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

人間以外は不老不死

動物は永遠の命を生きている。
自分がいつか死ぬ存在とは知らないから。

いつか死ぬことを考えるのは人間だけ。
始まりがあれば終わりがあると思うのは人間だけ。
「もし自分の命があと半年だったら・・・」
「もし今日が地球最後の日だったら・・・」なんて、
ややこしいことを考えるのは人間だけ。

「限りある命を無駄なく精一杯生きなきゃいけない!」と気張るのは、
地球上で(もしかしたら宇宙中で)ただ一種類、人間だけだ。

動物はそんなこと思いもしないで、
人間よりずっとひたむきに毎日を生きている。

「こんなことしてる暇はない。」とも言わずに。
これは身体に良い悪いと選り好みすることもなく。
自分探しもせず、幸せの追求もせず、愛を求めもせず、ただ淡々と、
命を生きている。

夢と悩み、幸福と不幸、希望と絶望、理想と嫌悪、友愛と孤独、平和と戦乱、
片方を求めると必ず生じる相反する事象の理を絶対に認めないまま、
「どうしたら?」と足掻き続けることを命の実感と固く信じているのは、
人間だけ。

それにもし意味があるとするのなら、きっと、それを知るために。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

私は幸せでしょうか?

誰かが言ってた。

幸福な人は「幸福とは何か」を問わないものだ。
そしてまた本当に不幸な人も、それを問わない。
と。
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私はある時、かねてから欲しかったものを手に入れた。
どうせなら沢山ある中から一番気に入ったものを選ぼうと、
わざわざ遠方まで出かけて、時間をかけて見比べた末、
値段の高いものを買った。

とても嬉しくときめいて、早速使ってみたけれど、
どうも思っていたのとは違ってシックリ来ない。
ここがもっとこうだったらな。
別の候補の方がよかったかも。
ついさっきまでの楽しい気分はしぼんでいき、
嫌な気持ちが湧き起こる。
「私は選び間違えた? 失敗? 損をした?」
確かめずにはいられない。

メーカーサイト、同じものを買った人の意見、他社製品との比較。
さんざんネットで情報を調べまわってわかったのは、
この商品を使っている人たちの評判のすこぶる良いこと。
私が買った値段は一般価格の最安値で、
その上、「もっとこうだったら」という理想通りの物なんて、
どこにも見つけられないのだった。

なるほど。私はよい物をとてもお得に買えたらしい。

安心したら不満は消えて、それを私は好きになる。

何と調子がいいのだろう。
物は何も変わってないのに、良いものだったり悪いものだったり。
好きになったり嫌いになったり。
損した気分が得した気分に。
状況判断でカメレオンのようにクルクルと色を変える、
この私の心というものの何と不安定なことか。
こんなものに信用なんて置けやしない。

本当は私はどう感じている?
嬉しい? 悔しい? 諦めた?
自分のことでありながら、考えれば考えるほどわからない。

それはまるで私の人生そのものじゃないか。

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幸福な人は「幸福とは何か」を問わないものだ。
そしてまた本当に不幸な人も、それを問わない。

「幸福とは何か」を問う人は、
自分が幸福かどうか他人に決めてもらおうとする、
自信のない人間なのだ。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

生贄と幸福

テレビをつけると辛いニュースが溢れ出す。
どのチャンネルも似たような話題。
知ったからとて何になるのか。
当たり前の質問に、当たり前の感想、当たり前の分析。
「可哀想に、ねぇ。」
「馬鹿だ、ねぇ。」
「酷いことするよ、ねぇ。」
他人の不幸を好んでむさぼる魔物たち。

外に問題を見ている限り、自分自身を観なくて済むから、
エゴは血まなこで喰らいつく。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

プッシュプッシュ

来年度受験生の長男。
学校の成績はまるで振るわず、よほど勉強しないと高校進学が危ぶまれる。
私も勉強は大嫌いだが、さすがに中三の時だけは頑張った。
たぶん人生で一番机に向かった時期だったと思う。
単に夏休みに各教科の問題集を使い切っただけというお粗末な物だが。

息子に受験に向けてどんな心積もりでいるのか聞いてみた。
「考えてるよ。」とあっさりと言うが、
「へー、どんな?」と尋ねても、
何だかゴニョゴニョとすぐには要点を得ない。
ホントに考えてるのか?今考えながら言ってるんじゃないのか?
そんな気がして、つい、
「塾に行った方が身が入るんじゃないの?
 通信講座を申し込んだっていいんだよ?
 一人で計画立ててやるなんてちゃんとできるの?」
なんて意見してしまったら、「ほらね。」と息子がため息をつく。
「人に聞いといて、俺が言おうとするとお母さんが先に言うだろ。
 聞く気ないなら、最初から聞くなよ。」

おっとっと。
やってしまった。
そうそう。これは息子の言うとおり。

聞くのなら聞かなくては。
投げかけたのなら、返ってくるのを待つ。
それがどうも私は苦手。

追われる感

手放して、少し楽になったと思ったら、
その空いたスペースにやはり入り込んでくるのは痛みだったりする。
いや、入り込んでくるというのは適切ではないかもしれない。
それは初めからあったのだ。
感じないふりができなくなったと言う方が近い。

たとえば、ヒリヒリと追い立てられるような焦燥感。
何に?
あれもやらなければ、これもやらなければと思いながら片付かない。
どこまで行ってもイタチゴッコ。
苛ついて、悪者を探す。
誰かのせいにしたい気持ち。
逃げれば逃げるほど追い詰められる袋小路。

こんな気持ちでこれまで生きてきたんだ。
それでは目の前は見えはしない。
今を感じることが出来ないはずだ。

何をしてもしなくても、穏やかに時間は流れていくのにね。
微笑みながら。

テーマ : こころ
ジャンル : 心と身体

おっとどっこい

「私が言いたかったのはそういう意味じゃなくて・・・」
そんな言葉が喉元まで出掛かっては、グッと飲み込む。

「それはこういう理由があったから・・・」
とメールに書きかけては、削除する。

いけないね、言い訳は。
まだまだ残るコントロール癖。

でも、なんとか今日も他人を利用せずに乗り切れた。
毎日毎日、間一髪の綱渡り的だなぁ。

先手の感謝

「きれいに使っていただいて、ありがとうございます。」

外出先のトイレで時々見かけるフレーズ。
こう書いとくと、汚されないらしい。

波動がいいだの、宇宙の法則だので「ありがとう」ばやりの昨今、
どこか誰かがでやり始めたのを見て、
「こりゃあいい。」とばかりに広まっているようだ。
どれだけ効果があるのかはよく知らないが。

しかし、
「先に感謝の言葉を言っておくと、それに見合う感謝すべき出来事が起こる。」
そういった成功法則は、実益があるとしても私はどうも嫌。

自分の都合の良いように他人や周囲をコントロールする罠を仕掛けているようで。
明らかに「ありがとう」と言う時に感謝してなどいないでしょう。
「先に礼を言ったんだから、裏切るなよ!」というお仕着せはさもしくない?
それでは人の良心を信じているのではなくて、利用しているみたい。

「ありがとう」は、確かに大切な美しい日本の言葉だけれど、
その持つ意味通りの心がこもっていない偽りの使い方をすれば、
虚しい雑音にしかならない。
それはどの言葉を発する時にも同じこと。
思ってもいない事は言わないで欲しいな。

日常で考えてみればいい。
何かする前に「ありがとう」と言われるシーン。
  「コーヒー入れてくれてありがとう」と言われてから入れるコーヒー。
  「掃除してくれてありがとう」と言われて、見ると散乱した部屋。
  「たくさん小遣いくれてありがとう」と差し出される手。
気持ちよくしてあげたいなって気になんかなれっこない。
逆に腹が立ってこない?

それは宇宙だってそうなんじゃないかな。

「あるがままでいい」なんってなこと言いながら、おねだりなんてね。
「わがままがいい」の間違いでしょ。
成功法則なんかろくなもんじゃない。


私はどんな張り紙がしてあってもなくても、公共の施設はきれいに使うけどね。
だって、私が使う時に汚れていたら嫌だもん。


テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

新春餅つき大会

わが町内では年末ではなく、鏡びらき過ぎた頃に餅つき大会がある。
今年は14日。
この日、世間ではとんど焼きをしたところが多かったのではないだろうか。
お正月飾りや書初めなどを燃やし餅を焼いて食べ、
一年の無病息災とか書の上達を祈るという、神道に由来するこの行事は、
この町では諸々の大人の事情で行うことはできない。
また新興住宅地なので、豊年祭りや鎮守祭りもなく、
10年前まで秋にあった形ばかりの子供神輿もそんなこんなでなくなってしまったため、
宗教とは関係ないところで住民皆が参加して親睦を深め楽しめるものをと
5年前から始まったのが、この「新年餅つき大会」なのだ。

私はここ3年、役員としての準備や子供会の屋台の手伝いとは別に、
音楽係と写真係りを勝手に担当している。
毎年、餅つきを盛り上げる流行歌を探すのに苦心しつつ、それでも楽しい。
あれこれと悩んだ挙句、今年の曲は以下の通り。

1. 宙船/TOKIO
2. ありがとう/SMAP
3. 一剣/氷川きよし
4. 気分上々↑↑/mihimaru GT
5. たらこ・たらこ・たらこ/キグルミ
6. 三日月/絢香
7. 恋のダウンロード/仲間由紀恵withダウンローズ
8. ブギウギ66/w-inds
9. Winter Love/Boa
10. ハネウマライダー/ポルノグラフィティ
11. セーラー服と機関銃/星泉(長沢まさみ)
12. 夢のうた/倖田來未
13. Dear Woman/SMAP
14. ボクノート【映画ドラえもん のび太の恐竜2006】/スキマスイッチ
15. 恋愛写真/大塚愛
16. タイヨウのうた/Kaoru Amane 沢尻エリカ
17. ぼくはくま/宇多田ヒカル

子供からお年寄りまで誰でも耳に馴染みのある最近の曲としては、
結構いい選曲したと自負してるのだけれど、
やはり、一昨年前の「マツケンサンバ」を超える曲がなかったのが残念。
ここ一番のクライマックスシーンは、
どうしてもこれじゃなくっちゃ始まんないって感じで。

餅つきは、ちびっ子程楽しげにやりたがる。
自分から並んでくるのは小学校低学年までの男の子達で、
女の子やそれ以上の子達は恥ずかしがって逃げていく。
特に中学になるともうダメで、声をかけても無反応でフラフラと消えてしまう。
そういう年頃とはわかってても、「ええい、シャンとせんか!!」と尻を叩きたくなる。

今年は子供会は「フランクフルトとぜんざい」、消防団は「本格うどんと焼き鳥」、
自治会役員は「竹酒」のコーナーをそれぞれ受け持った。
私は最初にちょっとフランクフルトを焼いたら、後は飲み食い専門。
切り出した大きな竹筒に酒を入れて焚き火で燗にしたお酒の旨いこと旨いこと。
町内会長に酌をさせて何度もおかわりに行くのが恥ずかしいので、
夫がもらいに行く時についでに頼んだら、しっかりばらされてしまってた。

食べ物が片付いたら、集会所内に集まって恒例のくじ引きが行われる。
毎年、豪華景品が当たるので、この時間になったらどこからわいてきたのかと
思うくらいの人が集まる。(笑)
今年はその前に町内で大正琴をやっている人のグループが演奏を聞かせてくれた。
曲は、
「一月一日」「人間ていいな」「故郷」「風雪ながれ旅」「明日があるさ」
どれも親しみのある曲で、演奏を聴きながら皆がつい口ずさむ。
きれいな音色とささやくような歌声。
会場を穏やかな時間が流れ、最後の曲は自然に全員で手拍子になっていた。
一致団結とか、親睦を深めるとか、交流の場とかって、
本当は難しく考えることないんだよね。
餅つき大会

くじ引きは、景品に高級和牛ステーキセットとか、ホットカーペットなどあったけど、
今回我が家で当たったのは、駄菓子セットとクーラーポット(麦茶なんか入れる容器)。
ちょっとくじ運低下かな。

後片付けが終わっても夫が帰ってこないなと思っていたら、
案の定、消防団の人に拉致られていた。
深夜、11時ころにベロベロのいい気分でご帰宅。

来年度の書記を引き受けたのだそうで。
その話は以前私の方に来てて、PTAで忙しいからと断ったもの。
「せっかく私が断ったのに、お父ちゃんが受けてきちゃったら同じじゃん。
 どうせ動くのは私なんだから。」とプンプンしてみせたけど、
一緒に自治会役員の仕事するのも、それはそれで楽しいかもと思ったりもする。
ただ、役員会の日に両親揃って家を空けることになってしまうのが困るような。
でも、子供は案外、気楽でいいのかも。

さてさて、どんな一年になるのやら。

浄めの火

昨年の初頭に美保神社に参拝したので、年末には大晦日の大祓用の人形(ヒトガタ)と、元旦より三日間の祈願受付用紙が送られてきた。
人形には家人の名を記し息を吹きかけさせ、家内安全を祈願して申し込んでおいたら、先日、札とお守り数種が届いた。
まだ神社には足を運んでいないのだが、これで一応初詣をしたということにしている。

私は三が日の初詣はあまり気がすすまない。
イベントとしてお正月気分は楽しめるが、多くの人が流れ作業的に一斉に祈願する雰囲気よりは、静かな中で微細な御神気を感じる方が好みだからだ。

今年は旧暦の新年あたりにまた山陰の神社めぐりを計画している。
前は長女と二人で出かけたが、今回はどうにかして夫を巻き込もうと算段中。

新しいお札が届いたら、古いお札は用済み。
美保神社の方ではそういった物は十四日に浄火で焼き上げるということなので、一昨日、それらをまとめて送っておいた。
昔は結構、お札やお守り、破魔矢の類の扱いは雑にしていて、処分も神社に返す都合がつかなかったらゴミとして出しても平気だったのだが、もうそれは出来なくなった。
神様がどうとか、ご利益があるなし関係なく、自分が心を向けたものは大切にしたいという思いが強くなったからだろうか。

一年の厄を引き受けてもらった感謝を込めて郵送に出し気分がスッキリしたはずなのだが、家に帰ってふと、まだやり残した事があるような気がしてきた。

心当たりは、押入れに封印した箱。

私は熊野から帰ってから、それまでしていたエネルギーや意識を扱う技法と、補助製品を使うことを一切やめた。
それらは私には向かないのだということがわかったからだ。
それまで得た情報も私にとっては不必要な迷いの元となっていた。

もっと早くに示唆してくれる人はいたのだが、自分がそうと認められずに執着し続けていた。
この方法で大きく変化を遂げる人がいるというのに、どうして私には無理なのか。
そんな焦りで不安を大きくしていた自分を、はたと離れた目線で見つめた時に、私が追い求めている物が本質から遠ざかる方向にしかなかったということが明らかになったのだった。

したくない事をしていた。
自分をどんどん嫌いになるような努力を続けていた。
そうと知ったらもう終わらせなければならない。

「でも、本当にそうなんだろうか?一時の気の迷いかもしれない。
 いつかまた何かの役に立つかもしれない。」
そんな断ち難い未練もあって、使っていた物や集めた冊子類、
データ等をとりあえず箱に入れて置いておいたのだった。

「取り返しのつかないことになるのが怖い。」
失敗や後悔を恐れ、自分で責任を取るリスクを避けるのが、
これまでの私のパターン。

いつでも戻れる安全な場所を確保しつつ、
新しい道を切り開くなどということが可能だろうか。
答えは私の本心が知っている。
Noだ。
退路を断たねば前には進めない。

しかし、世話になった物たちを無下に捨てたりはやはりできない。
私に向いていないということがわかったのも、技法や製品やこれまで学んできたことがあってこその結果なのだから。
そこで師匠(だった人)に必要なものがあればもらって欲しいと頼むと、彼は快く全部を引き取ってくださった。
これから必要な人に有効利用してもらえることになりそうで、私としても嬉しい限りだ。

これから先は、もう誰にも何にも頼れない。
覚悟を決めたはずなのに、心細く寂しくてたまらない。
そういう気持ちもごまかさずにシミジミと味わってみる。
もう、なんとかしようとはしない。

古い私も今日、浄火で燃やし尽くされるといい。

愛の計り方

映画『RENT』のレビューを見て、紹介されていた主題歌の詩に興味を持ったので、DVDを借りてきた。

数人の男女がステージに立ち、
それぞれ小さなスポットライトを浴びて歌いだす「SEASONS OF LOVE」は感動的だ。

歌は一年を分単位にした「52万5600分」というフレーズを繰り返す。

♪52万5600分
 52万5000の貴重な時間
 52万5600分
 1年を計る基準は何?
 昼 夕焼け 深夜飲んだコーヒー
 インチ マイル 笑い ケンカ
 52万5600分という時間
 人生の1年をどうやって計る?
 愛ではどうだろう
 愛で計れるだろうか
 愛を数えてみよう
 愛で時を刻み
 愛の季節を作ろう
 愛の四季が巡る
 あなたの人生を 愛で計ろう

心の深いところを揺さぶるような歌に「ああ、いいなぁ。」と目頭が熱くなる。
確かに、限りある人生だから、しかめっ面で過ごすより笑って過ごしたい。
些細なこだわりを捨てて、幸せな気持ちを持ち続けるには、
この歌詞の通り、今が「愛を1カウント」できるかどうか
常に自分に問いかけてみるといいかもしれない。
そんなことを思いつつ、本編に大きな期待をしたのだが・・・・・

タイトルの「RENT」とは、家賃のことで、
登場人物たちは治安の悪い貧乏芸術家達が集まる街に住み、
家賃を長く滞納し続けているという設定で物語は始まる。

彼らは家賃を取り立てにきたオーナーに「払うもんか。」と抵抗し、悪態をつく。
芸術家たちは各々トラウマを抱え、生活はすさみ、
お酒や薬物に浸り、HIVを患っていたりする。
お手軽な恋愛や同性愛があちこちで交わされ、
アウトローを自称しながら、「メジャーになる」夢を持っていたりと、
とても騒々しい人たちなのだ。

愛とは、恋愛対象に向けるものだけをさして言うのだろうか?
愛とは、同病相哀れむ気持ち?
愛とは、貧しさや悩みを共通の土台として持つ者同士の連帯を指す?

観ていて、そんな疑問がわいてきた。
恋人といちゃついたり仲間と馬鹿騒ぎしたり自己満足の創作活動をする時間があるなら、
きちんと働いてちゃんと家賃を払うのが「愛」じゃないのか。
先の短い命だから不安定で当然とは思えない。

オーナーだって、仕事で部屋を貸してくれている。
貧しさは家賃を踏み倒す正当な理由にはならない。
敵対しておいて、金持ちの懐の深さに期待する矛盾。
それでいて声高に自由を叫ぶという責任を負わない権利主張は、まるで駄々っ子だ。
と、私は感じた。

古い因習に挑戦する若者達の姿に勇気と感動を与えられたと
多くの人が絶賛する映画が不快とは、私は相当なヒネクレ者かもしれない。
ミュージカルとしての歌とダンスは申し分なかったのだが。

しかし、外に見える物に反応をしてしまう時というのは、
大抵、自分に中に同質の問題を抱えているものだ。
そんなふうに視点をクルリとこちらに向けてみると、
上記の指摘は私自身に向けたものとして迫ってきた。

敵味方を分けて視野の狭い愛し方をしているのは誰?
自分の無力さで得をしようとしてるのは誰?
自己顕示欲の強いのは?
不安を他人や物への依存で紛らわそうとしたがるのは、誰?

みんな、自分の中に持っている要素なのだった。

私の52万5600分は、気付きで計る。

テーマ : DVDで見た映画
ジャンル : 映画

幸せの名残癖

末っ子がもうすぐ小学二年にもなろうかというのに、まだ幼児言葉が抜けない。

いや、子供のことではなく、私がだ。

「おべべ着なさい。」「おてて洗ってね。」なんて言ってしまって、
上の子らに「お母さん、また。」と注意される。

次々に赤ん坊が生まれて子育てに追われていたので、
小さい子に合わせて幼児語になってしまうと思っていたが違っていた。
癖になってすっかり染み付いているようだ。
いい加減、やめなくてはね。

しかし、こんなふうに親の言葉が成長しなくても、
子供たちはいつの間にかちゃんと普通に話しているのだから不思議。
影響ないなら、自然に出てくるものを変える必要は無いかなという気もする。
今は猫に話しかけるのにも都合いいし。
「わぁ~、アンヨちゅべたくなってるね。おコタでヌクヌクしよ。」
なんて言ってると、なんだか優しい気持ちになってくる。

癖といえば、子供を持ってからついやるようになってしまった動作がある。
荷物を抱えて歩いていて、例えば信号待ちで立ち止まったりする時、
無意識にユラユラ揺らしてしまうのだ。
大抵、左の腰骨に荷物をトンと預けるような格好で右に左に体重移動している。
ハッと気がついて、「私何をやってるんだ?」と赤面してしまうのだが、
気付くとまたやってしまっている。

それぞれ3歳になるまでとしても、10年間ダッコし続けたのだから、
そりゃあ身にも付こうというものだ。

でももう赤ちゃんはいないから、それがちょっと寂しい気持ち。
「早く大きくなって、早く手がかからなくなって、早く私を楽にして。」と、
あれほど願っていたはずなのに。


最近聞きかじった話に、子守唄は子供のためではなく、
歌う母親の心を癒すためにあるという説がある。
育児ストレスを自らの歌の響きと子守唄独特の旋律で
音楽療法するようになっているらしいのだ。
眠りを誘うとは、交感神経を静め、
脳を副交感神経主体にする心地よい刺激を与えるということ。
それなら子守唄が究極のリラクゼーション法であっても、頷ける。
私もよく歌ったものだ。


歌と優しい言葉と体温と揺らぎ。甘い匂いととびきりの笑顔。

私が子供に与えたと思っていたそれらは、
実は同時に私が与えてもらっていたと改めて気付く。

それはそうだろう。
母親と無力な赤ん坊であっても、人と人との関係には違いない。
であれば、そこに生じるのは紛れもない「交流」であり「共感」。
一方的に片方が与えるばかりで、片方が求めるばかりなど成り立つはずがない。
母親は子供に向き合えば向き合う程、無垢な魂に触れて満たされるとすれば、
なるほど、上手くできてるものだ。

私の言葉と動きの癖はそのうちなくなるだろうが、決してなくならないものがある。

テーマ : お母さんの気持ち。
ジャンル : 育児

やり直しのきかない過去はない

最近、長男が興味を持っているので「オーラの泉」を時々一緒に見る。
前回は新春スペシャルの未公開特集。

基本的に私は、人の物の見方考え方はその人だけの世界観で、それは霊能力者であっても例外ではないと思っている。

人は、見たいものを見、聞きたいものを聞き、体験したいことを体験するものだ。

事実と真実は違うとはよく言われる事だが、真実もまた人の数だけある。
疑いようのない共通認識と捉えている事柄も、他人に成り代って感じることが出来ない限り、自分の見ている景色と他人の見ている景色が同じかどうか確認は不可能。
いくら五感の感覚を説明し合ったたところで、所詮それは言葉のやり取りでしかない。
私の赤とあなたの赤が同じだとどうしてわかる?
「リンゴは赤」と言ったって、そのリンゴの丸さも、香りも味も、本当に同じに感じているとは限らない。

目に見え、手に触れられる物でさえそうなのだから、いわんや、物質として存在していないものを語る内容においては尚のこと。
「霊界ではこうなんですよ。」
「前世では○○でした。」
「あなたにはこういうところがありますね。」
「守護霊様が見守っておられます。」
すべて、そうかもしれないし、そうでないかもしれないと話半分に聞いているし、子供たちにもそういう話をする。

ただ、江原さんも美輪さんも、時にゲストに鋭い突っ込み方をしたとしても、決して否定したり貶めたり不安を与えるような事は言わないので好感が持てる。
気持ちを明るく持ったり、正しい(心が苦しまない)方向に考えられるのなら、「そういうことがあったらいいねぇ。」的に楽しんで損はないとのスタンスだ。

今回の番組の中で面白いなと感じたのは、カルマの法則の話題でのゲストの反応だった。

「辛さに耐えられなくて自殺をしたとしても、来世でまた同じ苦しみを味あわなければならなくて、それは何度生まれ変わっても、乗り越えるまで続く。」
そんな感じの所から始まって徐々に生き方全般への考え方に広がる中で、美輪さんが
「人間は問題(カルマ)を解決するために生まれてくるのだから、逃げてやり残したことがあったら、来世もまた、これまでと同じ人生を歩むことになる。」みたいな説明をされた時だった。
3人座っていたゲストが一斉に「えー、いやだー。」と言ったのは。
才能あふれ、華やかなスポットライトを浴びて、多くのファンを魅了する歌手や女優は、誰もがうらやむ存在なのに、よほど辛い事が多いらしい。
「もう、この人生はいいです。」
「せっかく生まれ変わるなら、同じことは繰り返したくない。」
と口々に言われていた。
そこで「自分で気付いて問題を解決すれば幸せになれる。」とのスピリチュアルアドバイスが出されたわけだけど、意味がわかる人がどれだけいるだろうか。


以前なら、きっと私もゲストのように思ったことだろう。
こんな人生嫌だ。
こんなところに生まれてきたくなかった。
こんな生き方したくなかった。
なんて。

今は、もう一度同じ人生も悪くないかなと思っている。
同じ辛さを味わって、同じ苦労をして、同じ失敗をして、同じ後悔。
そして、同じ私がまたここにいたとしても、それはそれでいいんじゃないかと。

でも、またこうも思う。
同じ環境、同じ状況でも、同じ選択はしないから同じ人生はありえないなと。
記憶はなくても、見たもの感じたことはちゃんと魂が覚えているのだから。

むしろ、まったく同じ人生をもう一度試してみたい気もするぐらい。
選択が一つ違えば、その先の選択肢もこれまで出会った物とは違ってくるわけで、無限の枝分かれの中に再び同じ私を見るのは、そうしようとしても難しいだろうけど。

今の人生が嫌なら、来世まで待ってないで、今生きたい人生に変えればいいだけ。
それが課題をクリアするって事。
何にも問題が起きなくて、望み通り予定通りの学ぶべきことがない人生なんて送ってもしょうがないから、即、卒業認定証間違いなし。

そしてもっとレベルの高い学校行って苦労するとかね。(笑)
「幸せ」の定義も共通認識じゃないって事も忘れてはならない。

ま、生まれ変わりが本当にあったらの話。

前世の記憶も霊感もない私にとっては、死んでからのお楽しみってことで。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

コドモの愛情──おかえりランちゃん

仕事中に携帯電話が鳴った。
出ると長女が息を切らせて切羽詰ったような泣き声交じりの声で「お母さん?」。
ドキッとして、冷や汗が噴き出す。
誰か怪我でもしたのかと。
しかし、次の一声は「ラン(猫)が逃げた。」だった。
なんだそんな事か。
ホーッと全身の力が抜ける。
仕事中でもあり、「とりあえず捜しなさい。」とだけ言って電話を切った。

仕事が終わってすぐ家に電話を入れるが、まだ見つかっていなかった。
私は逃げた猫より、娘が気に病んでいないかが気にかかる。
うっかり玄関を開けていたために逃げたと自分を責めていたり、事故に遭うのを心配しているのではないかと。
「大丈夫だから、落ち着くように伝えて。」と次男に頼んで、急いで家路につく。

帰宅してもまだランちゃんは行方不明のまま。
日が暮れては、窓の外にエサを置いて待つことぐらいしかできない。
疲れと落胆の雰囲気が子ども達の間に漂う。
そのまま夜も更け、何度か長女は外に出て気配を窺うも帰ってはこない。

もう寝ようかという段になっても、娘は悲しそうな表情で「眠れないかもしれない。」などと言う。
外は水も凍るほどの寒さ。
家から出たことがない子猫が夜を過ごせるだろうかと身を案じて辛いのだろう。
しかし、どんなに心配しようがすまいが、猫の状況にとっては関係が無い。
それより、私にとっては子ども達の心理状態や健康が損なわれる事の方がよっぽど問題だ。
娘を安心させるために楽観的な話が口をついて出る。

「カワイイ子猫だから、猫好きな優しい人に拾われて、きっと今頃は暖かな部屋でヌクヌクと寝てるんじゃないの? 餌もたらふく食べて満足して。帰ってこないところを見ると、そうに違いないよ。ね、だから、心配しないで寝よ?」
それで少しは希望が持てて落ち着くかと思いきや、意外なことに裏目に出た。
それでは嫌だと言うのだ。

「えーっ、もしそうなら、ランともう逢えないじゃない。そんなの嫌だ!!」
「今、寒い中でお腹空かせて震えているより、よっぽどいいじゃないの。」
「まだその方がいい。だってそうしたら帰ってくるかもしれない。」
「いい人に飼われるんだったら、ここもよそも猫にとっては変わりないよ。」
「ランはここがいいの。よその猫になったら嫌!!」
娘はムキになる。

ああ、そうか。と、私は内心苦笑する。
さすが子供だけあって子供の愛し方だなぁ、と変な所に感心しながら。
子猫を可愛がる気持ちに嘘はないけれど、自分が関わっていないところで勝手に幸せになるのは許せないようだ。
それぐらいならむしろ、自分がいない不幸を噛み締めていて欲しいといったところか。
身勝手で自己中心的なコドモの愛情。
でも、本物の子供なのだから仕方が無い。
大切なものを失う経験もこの子の学びの一つなのなら、動揺をなんとかする必要もないのだなと私の方も気付きを得た。

明日また探す約束をして、とりあえず今日は眠ることにしようと、電気を消した時だった。

すぐ外で「ニャー」とかすかな鳴き声が聞こえた。
ガバッと飛び起き、「ランちゃん?」と外に飛び出す。
チッチッチッと舌を鳴らして呼ぶと、すぐ側で気配があるが、暗くて見えない。
玄関横、出窓下の南天の植え込みを掻き分け、手を突っ込み捜す。
いるのなら、驚かせて逃がさないようにして今捕まえないと、一晩中寒空の下にいることになる。
祈るような気持ちで暗闇の中を手探りして、ようやく捕まえた時は、安堵以外の何物でもなかった。
そのまま私から猫を受け取った娘が「もーっ、心配したよー。」と抱きしめ、事件は無事解決とあいなった。

これで猫も暖かい部屋で眠れる。
私達も心の暗雲が晴れて、ぐっすり安眠できるというのものだ。
よかった、よかった、と玄関を上がろうとして気がついた。
私が裸足で降りていたことに。

一番うろたえていたのは私・・・だった?

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

天賦の才

長島茂雄のバッティングの極意は凄い。
なにしろ、「来た球を打て!」なのだから。

それが出来たら苦労はしないよ。と言いたくなるだろうけれど、本当に長島さんは苦労してないんだから仕方が無い。


「どうやったらできるんですか?」

「やったらいいんだよ。」 

これはどの分野においての天才に聞いても返ってくる言葉だ。

天才は苦労しない。
努力は目いっぱいしているけれど、一般人のそれとは全く質が違うのだ。

例えば、大抵の人は頑張って出した成果を他人に誉められるのは嬉しいものだろう。
汗水たらして、あるいは四苦八苦して努力を重ねれば重ねるほど、その喜びはひとしおという所がある。
賞賛を浴び、認められてこそ報われるというものだ。
そしてまたそれが新たなチャレンジへの活力になり、もっともっと頑張って、より高い評価を得ようとするのではないだろうか。

頑張れば、苦労は報われる。
そう考えるのが普通だ。
だから、どう頑張ればいいのかを知りたがる。
それが苦労の仕方を求めているのだとは思いもしないで。

そういう人には残念ながら才能はない。
ある程度の成果は上げられたとしても、求めている本質からは外れてしまっているのだから。
目的が、どう評価されるかになってしまっていては、その喜びは単なる快楽であって、幸福に満たされた状態とは言えない。
追えば追うほど、求めれば求めるほど乾く心を感じられるかどうかはその人の感性によるが。

しかし、私はこうも思う。
人は皆、それぞれ天才性を持っているのではないかと。
天賦の才を持たない人など、本当はいないはずだ。

それはその人にとって努力とは無関係な分野にある。
労せずに当たり前にやっていることなのに、思いがけず他人に羨ましがられたりするものはないだろうか。
誉められても別に嬉しくもなんとも無くて、役割みたいな感じで淡々とこなしている事の心当たりは?

自分の価値とは何の関係もなく見えるそれこそが、「来た球を打っている」状態なのかもしれない。

なぜなら、もし、他人に「どうやったらそれができますか?」と聞かれたとしたら、
「やったらいいんだよ。」 としか答えられないはずだから。

世界に一人の大天才なら、その才能を磨かなけりゃ、もったいない。

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ジャンル : 心と身体

人生の終わりを決めたら何が変わる?

新年といえば、たいていは「抱負」を語ったりするものだが、私には殊更「よし!今年はこれをしよう!」と意気込むようなものがないなぁ・・・
というような事を考えつつ、借りたDVDで「ジャケット」という映画を観た。

この映画も以前観た「バタフライエフェクト」に似ていて、主人公が時間を越える中で自分自身や関わる人たちの運命を変えていくという話だった。

無実の罪で精神病院に入れられた主人公はそこで非人間的な実験治療を強いられる。
強い薬物と閉塞感による恐怖とでパニックになった彼は、過去の出来事を今目の前に観るかのようにまざまざと脳裏に甦らせ、そして遂に、これまで見たことの無い場所をリアルに体験するのだった。
そこは15年後の2007年の世界。
彼は実験の行われている4日後に自分が死んだ事実を知り、その真相を探っていく。
はたして運命は変えられるか。
真実は明らかになるのか。
自由も時間も制限された中で、いったい何ができるのか。
・・・という内容。

ラスト近くの主人公の台詞が印象的だった。
「人生は死を意識したときが本当の始まりだ。」


本当にやりたい事を見つけるための手段として、「余命○ヶ月だったら」と仮定してみた経験は誰しも一度は持っているのではないだろうか。

慣れやしがらみの中で、ただ何となく時間をこなし、やりたくも無いことをして、どうでもいい人間との面倒くさい関係にしがみついて、「こんなもんか」との諦めと「こんなはずでは」の焦燥の間に揺れる人間でも、終わりの日が差し迫れば、人生の目的を真剣に見据え、無駄なく充実した日々を輝かせられるはず。
なんて考えて。

そういう話題は、これまで幾度となくあちこちで耳にしたが、そのモチベーションを保ち続けている人というのは、この安穏な現代社会では皆無に等しいように思える。

かく言う私もそうだ。
「これからはこうしよう!」などと自分で前向きな理念を立てても、がむしゃらに変化を追い、成果を出そうとしては息切れをしてつぶれて、ドヨ~ンと自己嫌悪を幾度となく繰り返してきている。

そんな私が達した答えは、とりあえずこう。
条件がなくては真剣になれないようなことは、そもそも本当に好きなこと、やりたいことではないのではないかというもの。

本当にやりたいことなら、どんなに時間があっても足りない程に既にやっているはずで、それをしていない人間が下手な小細工で自分を追い詰めたとて何が得られるものだろう。
現実に迫り来る死を実感すればまた違うものなのだろうが、そうでないというのは、その必要がなくてそうなっているのだから。

何もしないまま終わるのが虚しいと思うなら、今現在が虚しい毎日を生きているということ。

「死ぬ前に何かを為さなくてはならない。」なんて誰が決めた?

立派に価値あることをするのなら、真っ当に生きてるだけで十分なんじゃないだろうか。

自分のするべきことなんて、わざわざ作るものではなくて、今現在やっている事にあるのだから。
それなら、いつ死んだって悔いの残りようがない。


武禅の時、「人は、なんのかんの言ったって、結局はやりたい事をしてるんですね。」と日野先生に問うと、先生は笑ってこう言われた。
「そらそうや。やりたい事しかやってない。我慢もしたくてしとるんや。」と。


自分の残り人生をカウントして逆算的に生きるのが好きならそうすればいいし、「本当の自分探し」をしたい人もいたっていい。
目標を設定しては達成するために頑張る生き方もいいだろう。

要は、趣味の問題なのだから。

「余命3ヶ月」と仮に決めてみたとしよう。
そして「よし、それならその3ヶ月間で思いっきりやりたい事をやろう」と計画しても、明日死ぬかもしれない。

やろうとしていた事ができなかったから不幸?

私はそうは思わない。
3ヶ月でやりたい事をやろうとする、やりたい事をやっていた。

決めても決めなくても別に何が違うということも無い。


私はこのままダラダラと、今年一年を過ごしていくことだろう。
それが私のやりたい事。(笑)

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

勘違いオーリングテストの思い出

昔、三千年に一度の大神人が教祖をする宗教団体のセミナーに潜り込んだ時、面白い遊びをしていた。
私はそこで初めて「オーリングテスト」というものを聞いたのだが、それは後に調べて詳しく知った本来の使い方とは少し違っていたのだった。


オーリングテストとは、無意識下での筋肉の微細な反応によって、ある物質が身体に有害か無害かを判定するもので、そのやり方は次の通り。
一人が片手で人差し指と親指で円を作り、もう一人が両手の指で円を作って左右に引っ張ってその力具合を見る。
(その場合、電磁波が出るような物の側は避けて、身につけている金属や不要なものは出来るだけ外した方が正確さを期する為には良いらしい。)
被験者の開いた方の手に調べたい物を持ち、何も持っていないときと比べて力が弱まれば、その人にとって良くない物だとわかるので、薬の適合性テスト等に用いたり、
また、臓器に対応するツボを刺激した時の反応によって、どの箇所に異常があるか発見も出来ると言う。

元々人は誰しも、自分にとって危険か安全か、異常か正常かを見分ける感覚というものを持ち合わせている。
それは超能力とかそんな大げさな物ではなく、ごく普通の本能として。
しかし、大抵の人は蓄積された経験知や雑多な思考によってその感覚器官を鈍らせており、わかっているのに知覚できないという奇妙な状態になっているのだ。

しかし、そんなふうに頭はいくらボンヤリしていても、身体は正直。
違和感を敏感に察知する。
それを利用したものがこのオーリングテストだ。


・・・・・のはずなのだが・・・、
三千年に一度の大神人の側近中の側近である幹部がやったのは、こんな実験だった。

カップラーメンを持って、力が弱まったので身体に悪いという判定。
教祖の本を持って、力が強まったので良書という判定。
そして、教団の問題点を暴いたことのある雑誌を持つと、いっぺんに力が抜けて有害図書決定!!
週刊ポストは「こんなもの。」と投げられ、宙を舞った。
マイク片手に大勢の人を前にして舞台の上でライトを浴びての実験では、さぞかし厳正な結果が得られた事だろう。(笑)


物質の影響による身体の正直な反応を観測できるのは、好悪感情を挟まないニュートラルな精神状態であって初めて成り立つのだと、その時誰も知らなかったとすれば、人間を知るにはずいぶんとお粗末な眼力だと言わざるを得ない。

その後、二度と同じ実験がされたという話は聞かないので、単に流行を取り入れたお遊びだったのかもしれないが、それなら余計に時間の無駄というものだ。
今は、それをやった側近をはじめ、ゾロゾロと辞める信者があとを断たないということだから潰れるのも時間の問題だろうけれど。


どんなものでも洗脳の手口には使われる。
特に科学的データはありながら、一般的常識としては未認知であいまいさを残すような分野はトリックが仕掛けやすい。
「多くのレベルの高い人は知っている」「普通の人は信じない」と言われて、「レベルの高い人」の仲間になるか、「凡人」の仲間でいたいかと言えば、そりゃあ、ね。


「自分は何をしたいのか」を常に身体の中心に据えて、見える事象に「何故か?何故か?」と追求していく姿勢を持ち続ければ、物事は自ずと明らかになってくるものだ。

他人の感じたことではなく、自分の感じたことを信じる。
それが何より大事だ。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

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