やる木の芽
自己肯定感、自己達成感、自己効力感、自己有用感、自己存在感、自己理解、自己認識、自己受容、自尊感・・・・
わかったような、わからない言葉が溢れかえって、飛び交っている。
教育現場での話。
やる気のなかった子供に、「君はやれば出来るんだ!」と励まし導いてきたのがこれまでのやり方。
これからは、「やったら出来た!」の体験をさせるらしい。
高い目標を目指そうとすると挫けてしまうが、低い目標を沢山作ってやって、その都度乗り越えていけると、自信となって自発的な気力に繋がるであろう。
とまあ、そんな狙い。
これはこれで向く子もいるかもしれないけど、用意された道を辿って行くだけなんて面白くないな、と私みたいな跳ねっ返りは思っちゃうんだよね。
むしろ、ドーンとデカい問題を出されて、「どんなやり方でもいいから解いてみろ!」みたいな方がやる気が出そう。
自分でわからなかったら、他の人のいろんなバリエーションを盗んだり、協力したり競ったり。
で、自分が「最高!これっきゃない!」と思う答えが出せたら、それが本当の自信になる。
間違いがないように、失敗しないように、挫折しないように、大切に大切にほんの少しの傷もつかないように気を使って育てた若木を野に放ち、どんな大木になると言うの?
「やれば出来る」「やったら出来た」?
「させてあげたら出来るかも」の間違いでしょう。
そうして身につけさす「自己効力感」など、通用しない事態に遭えば、「だって出来るような状況じゃないんだもん」と周囲に責任転嫁する癖を作ってるようなものだ。
人を育てる時、頭のよさは絶対に必要だけれど、決して計算ずくじゃないんだよね。
自分の働きかけで誰かを動かす。
自分の声が他人に伝わる。
自分が動けば何かが為せる。
それを「自己効力感」と呼ぶなら、人は生れ落ちたその瞬間から持ってる力で感じてる。
泣き声で人を呼び、ミルクがもらえ、オムツを替えてもらい、心地よさを与えられる反応を引き出す。
笑顔に笑顔が返る。言葉で、動きで人を喜ばす。
そうやってずっと育ってきたものが、中学生になってどうして「自分には何のとりえもない」「何をやっても無駄」「やる気にならない」になるのか。
それも学習面に限ったことではないのに、大人たちは概して、勉強での達成感で「生きる力」を身につけさそうとする。
何かおかしくないか?
「自分なんか、何をやってもダメなんだ」と無気力になっている若者など、誰かが何とかしてくれるのを待っているだけの単なる甘えん坊だ。
今更、おしゃぶり代わりにマニュアル与え、お遊戯代わりに指示を出して、「あんよはじょうず♪」でおだてあげてどうする。
既製のロボット人間を作りたいならそうすればいいけれど。
しかし必ずどこかにほころびは出るだろう。
どんな鈍感な人間でも、偽りの自信に違和感を感じない人はいないのだから。
「真に生きたい。この命を活かしたい。」そう願っていながら、そうなっていない所に、苦しみはある。
なら、どうする?
わかったような、わからない言葉が溢れかえって、飛び交っている。
教育現場での話。
やる気のなかった子供に、「君はやれば出来るんだ!」と励まし導いてきたのがこれまでのやり方。
これからは、「やったら出来た!」の体験をさせるらしい。
高い目標を目指そうとすると挫けてしまうが、低い目標を沢山作ってやって、その都度乗り越えていけると、自信となって自発的な気力に繋がるであろう。
とまあ、そんな狙い。
これはこれで向く子もいるかもしれないけど、用意された道を辿って行くだけなんて面白くないな、と私みたいな跳ねっ返りは思っちゃうんだよね。
むしろ、ドーンとデカい問題を出されて、「どんなやり方でもいいから解いてみろ!」みたいな方がやる気が出そう。
自分でわからなかったら、他の人のいろんなバリエーションを盗んだり、協力したり競ったり。
で、自分が「最高!これっきゃない!」と思う答えが出せたら、それが本当の自信になる。
間違いがないように、失敗しないように、挫折しないように、大切に大切にほんの少しの傷もつかないように気を使って育てた若木を野に放ち、どんな大木になると言うの?
「やれば出来る」「やったら出来た」?
「させてあげたら出来るかも」の間違いでしょう。
そうして身につけさす「自己効力感」など、通用しない事態に遭えば、「だって出来るような状況じゃないんだもん」と周囲に責任転嫁する癖を作ってるようなものだ。
人を育てる時、頭のよさは絶対に必要だけれど、決して計算ずくじゃないんだよね。
自分の働きかけで誰かを動かす。
自分の声が他人に伝わる。
自分が動けば何かが為せる。
それを「自己効力感」と呼ぶなら、人は生れ落ちたその瞬間から持ってる力で感じてる。
泣き声で人を呼び、ミルクがもらえ、オムツを替えてもらい、心地よさを与えられる反応を引き出す。
笑顔に笑顔が返る。言葉で、動きで人を喜ばす。
そうやってずっと育ってきたものが、中学生になってどうして「自分には何のとりえもない」「何をやっても無駄」「やる気にならない」になるのか。
それも学習面に限ったことではないのに、大人たちは概して、勉強での達成感で「生きる力」を身につけさそうとする。
何かおかしくないか?
「自分なんか、何をやってもダメなんだ」と無気力になっている若者など、誰かが何とかしてくれるのを待っているだけの単なる甘えん坊だ。
今更、おしゃぶり代わりにマニュアル与え、お遊戯代わりに指示を出して、「あんよはじょうず♪」でおだてあげてどうする。
既製のロボット人間を作りたいならそうすればいいけれど。
しかし必ずどこかにほころびは出るだろう。
どんな鈍感な人間でも、偽りの自信に違和感を感じない人はいないのだから。
「真に生きたい。この命を活かしたい。」そう願っていながら、そうなっていない所に、苦しみはある。
なら、どうする?
