やる木の芽

自己肯定感、自己達成感、自己効力感、自己有用感、自己存在感、自己理解、自己認識、自己受容、自尊感・・・・

わかったような、わからない言葉が溢れかえって、飛び交っている。

教育現場での話。

やる気のなかった子供に、「君はやれば出来るんだ!」と励まし導いてきたのがこれまでのやり方。
これからは、「やったら出来た!」の体験をさせるらしい。

高い目標を目指そうとすると挫けてしまうが、低い目標を沢山作ってやって、その都度乗り越えていけると、自信となって自発的な気力に繋がるであろう。
とまあ、そんな狙い。

これはこれで向く子もいるかもしれないけど、用意された道を辿って行くだけなんて面白くないな、と私みたいな跳ねっ返りは思っちゃうんだよね。

むしろ、ドーンとデカい問題を出されて、「どんなやり方でもいいから解いてみろ!」みたいな方がやる気が出そう。
自分でわからなかったら、他の人のいろんなバリエーションを盗んだり、協力したり競ったり。
で、自分が「最高!これっきゃない!」と思う答えが出せたら、それが本当の自信になる。

間違いがないように、失敗しないように、挫折しないように、大切に大切にほんの少しの傷もつかないように気を使って育てた若木を野に放ち、どんな大木になると言うの?

「やれば出来る」「やったら出来た」?
「させてあげたら出来るかも」の間違いでしょう。

そうして身につけさす「自己効力感」など、通用しない事態に遭えば、「だって出来るような状況じゃないんだもん」と周囲に責任転嫁する癖を作ってるようなものだ。

人を育てる時、頭のよさは絶対に必要だけれど、決して計算ずくじゃないんだよね。

自分の働きかけで誰かを動かす。
自分の声が他人に伝わる。
自分が動けば何かが為せる。
それを「自己効力感」と呼ぶなら、人は生れ落ちたその瞬間から持ってる力で感じてる。

泣き声で人を呼び、ミルクがもらえ、オムツを替えてもらい、心地よさを与えられる反応を引き出す。
笑顔に笑顔が返る。言葉で、動きで人を喜ばす。
そうやってずっと育ってきたものが、中学生になってどうして「自分には何のとりえもない」「何をやっても無駄」「やる気にならない」になるのか。
それも学習面に限ったことではないのに、大人たちは概して、勉強での達成感で「生きる力」を身につけさそうとする。

何かおかしくないか?

「自分なんか、何をやってもダメなんだ」と無気力になっている若者など、誰かが何とかしてくれるのを待っているだけの単なる甘えん坊だ。
今更、おしゃぶり代わりにマニュアル与え、お遊戯代わりに指示を出して、「あんよはじょうず♪」でおだてあげてどうする。
既製のロボット人間を作りたいならそうすればいいけれど。

しかし必ずどこかにほころびは出るだろう。
どんな鈍感な人間でも、偽りの自信に違和感を感じない人はいないのだから。

「真に生きたい。この命を活かしたい。」そう願っていながら、そうなっていない所に、苦しみはある。

なら、どうする?

テーマ : 子育て・教育
ジャンル : 学校・教育

無償の愛を与えたい意図

見返りを求めずに与えるのが愛だと知って与える行為を、「はからい」と言う。

愛は自らを知らない。
自らを持たない。

自我が消えたかに見せかける自我の企みは巧妙だ。

時空を越えたメッセージ

先週の地方紙に、短編文学賞の応募作品の中から選ばれた小説が掲載されていた。
第一席は高校二年生の女の子が書いたもので、その設定はちょっとSFチック。

毎夕、決まった時刻に携帯にかかってくる電話。
聞こえてくるのは、女性の泣き声だけ。
それをただ聞いている主人公。
しかし、どうやらそれは自分自身からかかってくるらしいとわかってくる。
それも、未来から。
いったいどんなつもりで? 今の「私」に何を求めて?
・・・・・・・そんなお話。

面白かったので、子ども達にも読むように薦めて、質問をしてみた。
「もしも、時間を越えて自分に電話ができるとしたら、過去と話をする?
 未来にかけてみる?」

子ども達は「未来!未来!」と口を揃える。
「未来がどんなのか知りたい。自分がどうなってるか教えてもらう。」と目を輝かす。
中には「宝くじやギャンブルの勝ちを教えてもらったら金持ちになれる」なんて言う子もいたけど。(笑)

しかし、ちょっと考えて次男と長女は「やっぱ、過去がいい。」と言い出した。
「過去の自分に、自分のこれまで失敗したことを教えて失敗しないようにする。」のだと。
「過去を変えたら今の自分にならないかもよ?」と聞いても「それでもいい」なんて言う。
ほんの10年そこそこの人生を振り返って、もう後悔?
夢のある話をしてるのに、夢がないんだから。
本当に子どもかな?この人たち。

で、私ならどうするかだけれど、もちろん過去にかける。
過去の自信なくオドオドしている自分に電話をかけて、
「何をやっても絶対大丈夫!!未来の私が保証する。
 好きなように、思いのままに、自由にやりたいことやりまくれ!!」
とハッパをかけたい。
失敗を恐れるな。失敗しても最後には全部OKになるんだからって。
まあ、これも、無意味な不安感に苛まれてきた後悔なのかもしれないけれど。

未来と話をしても仕方がないと思ってる。
自分が何と答えるか、すでに私にはわかっているから。
もしその時、どんなに孤独で貧乏で病気でヨレヨレの不幸のどん底であったとしても、
私はきっとこう言う。
「今、とっても幸せよ。何の問題もない。」と。
過去の自分に愚痴るような、そんなかっこ悪いところなんか見せられない。
歯を食いしばってでも最高に明るい声でキッパリ言い切る。
そしてその電話を切った後、「よーし、負けてなんかいられるか!」と立ち上がる。
私はそういう奴。
最初から聞くまでもない。

今ならそう思える。
だから尚更、自分で自分がわからなかった遠い昔の私に教えてあげたい。

「悩んで迷って苦しんで失敗を重ねてきた、君のおかげだよ。」と。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

人間なんてララララララララ~~~♪

ある禅宗の和尚さんが、いつか、
「人間というのものは食って出すだけのものだということを心得ておきなさい」というお話をされたのだという。
それを聞いて、「そうか、なるほどな」と感動し、得心をしている人がいた。

    アクセクと努力して、自分の生きている意味を見出そうとしたり、
    もっともっとと上を目指したり、
    社会的な価値観なんかに囚われてるなんてアホらしい。
    金がなくてもいい。能力なくてもいい。
    出世なんかしなくていい。社会に認められなくてもいい。
    美人(カッコよく)なくてもいい。夢を追いかけなくてもいい。
    人間なんか、食って寝て、それだけで十分じゃないか。
    気楽にいこうよ!
と。

昨日までの私なら、「フムフム」と頷いていたところだが、今日の感触は違った。

    食ったものが身になるし、出るのなら、食べるものは選びたい。

そんな風に。

どっちが正しいってことはないし、だからどうしたということもなくて、
ただ、どうやら私はとことんお気楽でいるのにも飽きる性質だと、わかっただけの事だが。

    人は所詮、五尺二寸の糞ひり虫。

「たかが、それだけ」と、受け取るか、
「されど、それだけのもの」と受け取るか。

どちらにしても、与えられた素材をどう吟味するか、どう味付けして食べるかを、私達は常に選んでいる。
それなら、昨日より美味しく食べる工夫ぐらいは、したいものだ。
どうせウンチになるとしても。

はじめての陸上競技会

次男が中学の陸上部に入部して一ヶ月で、初めての大会が県立総合グラウンドであった。
朝、6時半に中学校前のバス停に集合して向かうので、私は5時起きで弁当を作る。
「お母さん、大変だろうから、行く途中のコンビニで弁当を買ってくれればいいから。」なんて言ってくれるから、尚の事、ちょっと豪華なのを作っちゃおうかなと張り切った。

開会式は9時。
次男が走る競技は10時50分頃なので、それに合わせて私達は家を出る。
種目は100m走。
並んでいるときから落ち着かない様子が手に取るようにわかる。
胸を押さえて、じっとしてられない。
そして、本番。
毎日練習をしていたのだが、他校の選手は早い。
結果は7人中5位。
もうちょっといい線行くかと思ってたのだけど、ま、私の子にしては上出来か。
午後からはリレーがあり、それが終わって一足先に私達は帰り、息子が帰ってきたのは6時半を回っていた。
前日は、ワクワクドキドキして、早く寝床に入ったくせに眠れなかったらしく、風呂に入ってご飯を食べたらすぐにベッドに入った。
とりあえず、楽しんで打ち込めるものが持てたらしいのは、私にとっても嬉しい。
このところ、背はグンと伸びるし、考え方もしっかりして言う事は言うようになってきた。
中学生頃は、母親とは口をきかなくなってくるものかと思っていたが、それは上の子共まだないようだ。
どんどんどんどん変わっていく。
なんだか、楽しみ。

ぼうやなオッサン

学校にプリントをしに行った時間帯が、丁度下校時刻と重なって、お迎えに来た車で車回しの辺りがごった返していた。
そこを抜けないと、校舎裏の教職員用駐車場には入れない。
我が子を待つ親の車と、その間を通っていく徒歩通学の子供たち。
それだけでも危ないなと思うのだけれど、何をトチ狂ったか逆走して来て、他の車と反対向きに車を停めた人がいた。
おかげで車と車の狭い間を私のワゴン車は通れない。
私の後ろには道路から右折左折して続こうとする車が並んで、両車線とも行列ができている。
通せんぼの車のドライバーは、最初気付かない様だったが、周囲を見てマズいと思ったようで前進しかけたのだが、丁度その時、PTAで顔見知りの人が私が困っているのを見かねてか近づいてきて、
「一方通行の逆に入られてますよ。ここに停められたら困ります。」と彼に声をかけた。
しかし、それを聞いたドライバーは車を止め、ハンドルからパッと手を離し腕組み。
「そんなのどこに書いてある!!ワシは知らんよ!!聞いとらん!!」と怒り出したではないか。
「いえ、でも、決まりですから。困ります。」そういくら言っても、
「聞いとらんモン!!」とふてくされて、てこでも動かない構え。
思いもよらないというか、信じられない光景に私は目を疑った。
子どもをというより、孫を迎えに来たらしき50~60ぐらいの白髪混じりのいいオッサンが、逆切れをしているのだから。
ふくれっ面で、これ見よがしの腕組みの上に、「聞いとらんモン!!」だ?
「ぼうや、おいくつでちゅか?」って聞きたくなるよね。

「困ります!」「知らん!」
そんな押し問答、いくら続けていても埒は明かない。
そう判断した私は「すみませんが、少しだけ前に出ていただけますか?通れませんので。」と笑顔で一言。
それで“ぼうや”が動いてくれて、やっと通れるようになった。


駄々っ子を動かすにはちょっとしたコツがある。
私はそういうのは上手いのだ。
伊達に4人も子どもを育ててはいない。
反抗期のチビに「それはダメ」「違うよ」「こうしなさい」と言ったって素直に聞くはずがない。
そういう時の魔法の言葉。
「困ったな。どうしようか」と一緒に考えさせるか、「こうしてくれるとお母さんは嬉しい」と提案するか。

今回は狙ったわけでもなくて、相手が“ぼうや”に見えて笑ってしまったら、自然にそうしてしまったのだけど、同じ原理の応用は利くものだ。

しかし、小さな子どものきかん気は可愛いけれど、大人のそれはいただけない。
「自分は悪くない!」と頑張る姿がどんなに不細工かわからないとは、ろくな人間と付き合っていないし、ろくな生き方をしてこなかった証拠だ。

アレに育てられてる子どもが同じ学校にいるのかと思うと、憐れになる。

キャパの「差」ではなく「違い」

せわしない1日だった。

朝は子供を送って行って、小学校前で黄色い旗を持って交通立哨。
それから仕事。
昼で終わって帰って、PTAの資料作り。
学校に行って生徒に配布するプリント印刷。先生方や委員さんに広報誌の原稿依頼。
夕方、娘の歯医者。買い物。
夜はPTA新聞編集会議。

忙しいけれど、やるべき事をただ順にこなしていればいいのだから、気が重くなる暇もなくて、楽と言えば楽かもしれない。

育成会の会長が相談に来た。
来週末の地域コミュニティの会議の招集ハガキが来たのだが、昼に子供の習い事の発表があって、夜にどうしても行けないという事もないけれど、予定が入っていると落ち着かないから、なんとかならないかと。
つまり、行こうと思えば行けるけど、行きたくないということだ。
地域としての方針、今後の予定、育成会に期待される事などは、私には関心事だが、彼女にはそうではないのだから仕方ない。
どこに欠席の届けを出せばいいのかもわからないようだったので、自治会会長は地域コミュニティの委員だから、そこにその旨を伝えるようにと教えてあげた。
代理に出てあげたいくらいだが、丁度その日は都合が悪いのが残念だ。

キャパシティとは、時間に対する仕事量では計れないものだなとつくづく思う。

自分基準で他人に押し付けをしていないか、他人基準を自分に無理に課していないかは、気をつけなくてはならないポイントの一つだ。

わからんちん

次男の自転車が壊れてるので、しばらくは私が車で送り迎えをする。
ついでなので小学生組と、今朝は小雨もぱらついていたので長男も乗せて行くことにして、エンジンを温めようと外に出ると、毎朝長男と一緒に通学している友達が待っていた。
「ごめん。今日は送っていくんだわ。」と断ったが、どうせならと「一緒に乗ってく?」と聞いてみると、「はい!」と喜んで自転車を置きに行った。
部屋で息子にその事を伝えると、なぜか怒り出す。
「なんでそんな余計な事言うの? あいつが勝手に迎えに来てるだけだから、勝手に行かせればいいじゃないか。俺、あいつと一緒に車に乗るの嫌だ。もー、お母さんは!」とプンプン。
???何で? 友達でしょ?
「そんなの知らない。俺はどうでもいいんだから。もう来るなと言うよ。今度から。」
理解できないなー???

すぐに友達が戻ってきたので、全員乗っけて学校へ。
奴だけ「いってらっしゃ~い」と言っても返事なし。
感じ悪ーい。

連れて行った責任上、夕方中学に迎えに行くと、当然朝の友達も乗ってくる。
「途中、君の家に寄ったらいいね?」と聞くと、「いえ、いいです。このまま帰ってください。」と言う。

ということで連れて帰って、今、子ども部屋で二人は遊んでいる。

なんなの~これって? 仲いいの?悪いの? 友達なの?嫌いなの?

この年頃の子は難しい。。。ということにすれば簡単だけど、それを言っちゃあお終いだ。
不安定さ、不機嫌さを子どもの特権にしてはいけない。

さて、ここらへんで、ちぃとシメとくかな。

怒る人との距離

どんな感情を持とうと、その人の自由で、誰が何に怒ろうと勝手だけれど、
怒りの表現で他人を動かそうとされるのは、とても嫌。

不機嫌な顔、怒声、主観だけの正当性をまくし立てる言葉。
それをストレートにではなく、遠まわしに、
しかし確実にある狙いをもって発してくる人というのがいる。

「嫌ならいい」「無理にとは言わない」と言いながら、
「ああ、情けない」「どうしてこうなのかな」「何もわかってない」と溜息。
そしてまた、「困った」「何とかならないか」。
思い通りになるまで繰り返す。

あくまで自分は正しい被害者で、その言いなりにならない人間は、悪い加害者なのだ。

ヤクザの手口。
共依存のパターン。
モラハラの典型。
悪徳商法の手法。

もう、うんざり。

適当なところでこちらが折れるか、それとも折衷案でお茶を濁すか、
はたまた衝突して相手をやり込めてみるか。

いやいや、それは卒業した。

怒ってる人はそのままに、笑顔で静かにその場を離れよう。

あなたの怒りは要りません。
あなたのコントロールは受けません。
あなたが私をどう思おうと、それはあなたの自由です。
悪口、非難、中傷、罵詈雑言どうぞどうぞお好きなだけ。
私はあなたの罠にはかかりません。

私に用があるのなら、普通にまっすぐに話してくれたほうが早いですよ。

そんな思いで。

通じようが通じまいが、私はそうする。
相手を変えようとか、動かそうとか思ってないから。
自分がコントロールできるのは、自分だけ。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

交通安全週間に事故った!

朝、「いってきま~す」と元気よく出かけた次男。
数分後に鳴った電話は、その息子の事故を知らせるものだった。
自転車で坂を下った道路で、車と接触したと聞いて、
急いで現場にかけつける。
自転車はグニャリと捻じ曲がり、ヘルメットは飛んだという。

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が、

息子はまったくの無傷。
かすり傷一つもなかった。
ホッと胸をなでおろす。

電話をくれたのは、昨日も会ったばかりのPTAでの知り合いの人。
てっきりその人の家の近くで事故ったのだと思ってたら、
ぶつかったのが彼女の運転する車だった。
左折する車の後ろからヒョッコリ飛び出した息子と当たったらしい。
車の方も傷がついていたが、「いいです」と言われる。
申し訳ない。。。

そのまま次男を学校まで送って行きがてら、気をつけるように重々言って聞かせる。
「私もな~」と思いながら。

壊れた自転車は夫が持って帰ってくれたが、フレームも曲がっているので、修理はできそうにない。
息子は「自転車が衝撃をほとんど吸収してクッションになってくれた。あれはイイ自転車だ」と言っていたが・・・

成仏してくれ。

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(追記)
夕方、小学校の緊急連絡網訓練があった。
伝言の内容は、
「交通安全運動期間中です。通行に気をつけましょう。
 登下校の安全について、ご家庭でも話し合ってください。」だった。
よりによって、今日ねぇ・・・。
身に沁みてわかったけど。

楽しむか苦しむか

今日は、仕事を昼までで切り上げて、中学の参観とPTA全体会、そして役員会に行ってきた。
全体会では、不登校対策や、基礎学力の定着を目的にして「自己効力感」を育成するとする学校としての取り組みの発表があった。
安心感のパーセントが上がったとか、自己評価が県平均を下回っているから改善するとか、いつもながら、どうでもいいことをそれらしく見せるのは上手いな~と感心する。

それが終わって、役員会。
私はクジに当たってすぐ、校外活動委員を希望して決定していたので、あと、クラスで3つの役員が決まらないといけない。
1人は都合で欠席で、2人が時間ギリギリに駆け込んできた。
片方は長男次男とも同じクラスで、特に次男とは大の仲良しのお母さんだった。
今日初めて口をきいたが、明るくノリのいい人で、「なるほど、この人の子供ならウチの息子とウマが合うはずだわ」と感じる。
「はーい。私、広報委員をやります。」と、こちらはすぐに決まったが、もう1人の人が残り2つの役をなかなか決めない。
「ええ~、私、何もやりたくない。。。」
「何で私が?」
「楽なのがいい。あまり出なくていいのはどれ?」
「仕事があるのに。できないよ。」
「あー、いやだ。やりたくない……」
長々と不機嫌な顔でゴネる。

なので、「ハハハハハ。一番楽で人気あるのは早い者勝ちで私が取ったからダメだよ~ん。」
と、ワザと神経逆なでしてあげた。

誰も好き好んでやってるわけじゃないっての。
それでも、自分も他の人のお世話になってきたのだから、誰かがやらなきゃならない事なら、どうせなら気持ち良く、少しでも楽しめるようにやろうとしてるのに、イヤイヤオーラ出しまくりで盛り下げてくれる「お子ちゃま」には、手を焼くよ。

できない所はフォローするからという事で役は何とか決まったが。

出来事に良いも悪いもないように、自分に与えられた状況に、楽しい事も、嫌な事もないんだけどね。
楽しむか、苦しむか、それだけで。

どこに行っても、何をやるにしても、楽しむ人は楽しいし、嫌な事がある人は、嫌な事ばっかだよ。

子供の様子とかを雑談していたら、その不機嫌な彼女が「男の子なのに、そんなに色々喋ったりするの?」と驚いたように聞いてきた。
上と下女の子に挟まれた息子は、家ではほとんど口をきかないらしい。

理由は何となくわかるような気がするな。

言わないけど。

コウノトリの暴論

赤ちゃんポスト(コウノトリのゆりかご)の是非があちこちで取りざたされているが、これは今回初めてできたものではなくて、かつてあった物だと、いったいどれだけの人が知っているだろう。

捨て子自体は大昔から珍しいものでもない。
近松門左衛門の歌舞伎にもあるし、徳川綱吉の生類憐みの令には捨て子禁止令も含まれている。
そこまで遡らなくても、私年齢以上の人なら、小説やドラマで、大金持ちの家の前に捨てられたという設定の悲劇のヒロインを記憶の片隅に持っている人も多いのではないだろうか。

捨て子の捨て方にも定番というものがあった。
大金持ちの門の前、産婦人科の玄関、神社の境内、お寺の軒先、そんなところ。
優しい人に拾われること、食うに困らないであろうことを期待してだろう。

20年ほど前のこと、生きるか死ぬかまで追い詰められて、どうしても子どもを手放すしかない状況にまでなった人がいるのならと、捨て子置き場を用意した人がいた。
しかし、赤ちゃんにとって安全な場所で尚且つ、人目につかない場所をと作った小屋が裏目に出た。
その年、一番の冷え込みとなった朝に、赤ちゃんが冷たくなって発見されたのだった。
下着とミルクと手紙が添えられて。夜のうちに置き去りにされたらしい。
「せめて電話一本してくれたら。」と設置した人は嘆いていたが、私は、「親なら子どもを捨てるにしても、危険はないか、どんな人に拾われるのかが気になって、物陰で見ているものだろう!」と、とても腹が立ったのを覚えている。
その後、その場所がどうなったかはわからない。

虐待も子捨て、子殺しも、今始まったことではないのに、ここ最近になって、いいの悪いの、どうすればいいかなんて騒いでいるのがチャンチャラ可笑しい。

先日も、生まれたばかりの赤ん坊が、駐車場で投げ捨てられて死亡するという事件があった。
捕まった母親は、「お金がなかったので中絶できずに産んだが、育てられなくて捨てた。可哀想な事をした。」と涙を見せたらしいが、へその緒を付けたまま、素っ裸で、コンクリートに叩きつけて頭蓋骨陥没で殺しておいて、「可哀想」もなにもないだろう。

しかし、マスコミは、「こういう事があるからこそ、赤ちゃんポストが役に立つ」などと報道する。

事情があって子どもは欲しくなくても、お腹に出来てしまった赤ん坊を堕ろすお金がないから仕方なく産む人に、その赤ん坊を邪魔だからと殺したり虐待したり育児放棄させないための捨て場所を用意するぐらいなら、いっそ最初に中絶費用の補助をすればいいのだ。

生まれなければ、子どもを捨てる親の罪もない。
捨てられる子の悲しみも、後々の悩みもない。
人一人を育てる為にかかる費用も負担もない。

赤ちゃんポストを設置したからといって、「良かった。助かった。」とばかりにポイポイと捨てに来る人はいないだろう。
それと同じで、中絶費用の補助をしたとしても、お金がかからないならと、本当なら出産していたはずの多くの人が堕胎するなんてはずもないから、最善の方法ではないだろうか。

もしも、ドッと増えるようなら、これまで事件として表に出なかった虐待がそれだけ多かったということの証明であり、将来的な悲劇を未然に防いだ成果ということになる。

それとも、欲しくもなかった子どもを我慢して育てざるを得ない親に、何かを期待できるとでも?


テーマ : 赤ちゃんポスト
ジャンル : ニュース

結果が原因を作ってる(仮説)

私は、ここ数年来ずっと考え続けている事がある。

最初は一つの疑問からだった。

アトピー性皮膚炎の子を持つ親は、潔癖症で神経質な人が多いのはなぜか、という。

それは、アトピーが先にあって、症状が出ないように気を使うからそうなのだろうか?
本人達はそう言うが、環境に対しての接し方と同じような傾向が、人間関係にも当てはまる所を見ると、元々の性格だったようにも思える。

アトピーだから神経質になった?
神経質だからアトピーになった?

食物アレルギーがあったり、食べられない物が多い人は、人間の好き嫌いも激しい。
「絶対に嫌!」「許せない!」なんて言葉をよく使う。
これは正しい、あれは悪い。
これはキレイ、あれはキタナイ。
そんな思い込みが強い。

アレルギーは、あたかもその気性の具現化のように見える。


では、アレルギーやアトピーを治すには、潔癖症をやめて細かい事を気にしないルーズな性格になればいいのかというと、そうだとも言えるし、そうでないとも言えるという、曖昧な答え方しかできないわけだが。

「無神経になりましょう」と言われてなれるものではないからだ。
それが出来る人なら、最初から神経質にはなっていない。

神経質な人は、懸命にルーズさを徹底しようとして、なりきれない自分を許せず責める事になるだろう。
よって、症状は改善するどころか悪化する。
これまでの方がまだマシだったと結論付け、戻るだけだ。

そんな仮説を立てて、いろいろな事例と照らし合わせを続けてきた。
専門的な研究者でもなんでもないので、身近な人達や、書籍から得られる限られた情報ではあるが。


先日、「思っている事が叶う」という成功法則が書いてある一昔前前の本を読んでいて、ふと、これも同じ原理なのではないたろうかと感じるところがあった。

成功法則では、願望は過去形で描くのが良いとされる。
「大学に合格した。嬉しい。」とその心情でいたら、受かった。
「宝くじが当たった」と信じて何に使うかまでイメージしていたら、当たった。
「元気だ」と想い続けたら、ガンが消えた。
反対に、子供に「事故が心配だ。気をつけて」と毎日言っていたら事故にあってしまった。
病気の恐怖をマスコミが喧伝するから蔓延する。
そんな事例が載っており、だから、悪い事は考えずに、叶って欲しい未来を心に描いて実現させようという、いわゆるプラス思考の本で、最近のスピリチュアルブームの走りみたいな本だった。

これを先ほどの考え方で見てみると、大学に合格する事になっていたから、喜ぶことができた。
当たりの宝くじを持っていたから、一点の曇りなく信じきれた。
病気は快方に向かっていたから元気になれた。
事故に遭うと知っていたから、心配だった。
病気の蔓延に先駆けて報道がなされた。
とも、言えないだろうか。

なるべくしてなった。
そうなるように決まっていたから、その想いが生じたのだと。


お金が欲しかったら、大金持ちになった自分を強くイメージすると叶うと、多くの成功法則信者は言う。

それを聞いて、続々と実践する人は増えているが、なかなか疑いなく思い切るということができないから、そうなれずにいるらしい。
「金持ちになりたい」と思うと、もう、今がお金がない状態だと自分で認めていることになっているから、その「金持ちになりたいと願い続ける現実」を未来に渡って創造し続けるのだそうだ。

「金持ちになりたければ、金持ちになりたいという想いを手放さなければならない。」という矛盾に挑み続けるチャレンジャーが成功する日がいつか来るとは思えない。

叶う望みが、すでに願望でもなんでもなく、当たり前の事として今に繋がっているのなら。

例えるなら、カレーが食べたいから野菜と肉とルーを買ってくるとか、
行きたい場所に運んでもらう為にバスに乗る、みたいな事は、努力とは言わないように。
アクシデントによる予定変更はあっても、実現が無理なんてことはないのだから。

今が未来に繋がっていて、結果はすでに決まっているなら、気楽に気軽にやりたいことをやりたいように楽しむのがベストな選択だろう。

今の望みは、今、叶えなければ。

テーマ : 自己啓発
ジャンル : 心と身体

人と人との間にあるもの

昨夜は小学校PTAの歓送迎会だった。

出席している先生に教わった子が、十年二十年を経た現在では、
保護者の立場として同席し、わが子や学校の運営の事などを語り合う。
保護者同士が「何年生まれ?」「何小出身?」と聞くうちに、
配偶者の同級生だったとか、兄弟姉妹の友人だったりとかわかって、
グッと親しみを増す。
そんな光景が今年もいくつか見られて、会は大いに盛り上がった。

普段はそれぞれの家庭や地域にいて、それぞれの仕事を持ち、
学校との接点は、年に数回の参観日や行事ぐらい。
同級生の保護者同士でも顔見知り程度で、特に話をする機会もなかったものが、
こうして何の因果か運営委員入りし、目的を同じくする役割を持たされると、
それを糸口にして、人と人の距離はいっきに縮まる。

その中で私も良き友人達との出会いがあり、ここ4年程の付き合いを通じて、
得がたいものを得ることができた、そう思っている。


教師歴長い、この辺では評判の高い名物先生は、
赴任してきた4年前からこの歓送迎会には皆勤賞なのだと言われていた。
その頃は小三だった次男の担任で、今年は五年の次女の担任をしていただいている。
どこか枠におさまらない破天荒さと、自分なりの教育ポリシーを持っており、
面白くはあるけれど、厳しいときには厳しく、ついでに親に対しても厳しいので、
タイプ的に好き嫌いがはっきり別れる先生だ。
私もちょっと苦手だったが、今は娘が毎日楽しそうにしているので好きかな。
いい加減なもんだ。(笑)

その先生と、昔と今の教師の違いについての話になった。
私達親の世代の先生は、人間味が直に伝わるようなところがあって、
教師と生徒の関係が今と比較できないくらい濃かったような気がする。
特に小学校の先生というのは、人格を形成する段階で関わるからか、
中学や高校の先生と違って、卒業して何年経っても忘れられない特別なものがある。

私も小学校3、4年の頃の先生の家には、何度かバスを乗り継いで訪ねて行ったものだ。
この先生に何を習ったとか、そういうことは覚えていないが、大きな恩がある。
私が学校で40度近い熱を出した時に、
病院に連れて行って、自宅で看病してもらったという。
丁度その日、母が産気づいて入院してしまったので連絡がとれなかったためだ。
夜になってやっと居場所が確認でき、
先生のベッドに寝かされたまま「妹が生まれた」と聞かされた。
そこでの夕食のよく煮込んだロールキャベツと、デザートの三色ゼリーの味は、
今でも鮮明に覚えている。

今ではそういうことは出来ないらしい。
各家庭に電話があり、ほとんどの人が携帯電話も持っているから、
連絡がつかないなんて事はまずないという時代的な違いもあるけれど、
学校では親の承諾なく病院に連れて行くことはしてはいけないのだそうだ。
薬も勝手に使えない。アレルギーなどの予測できない可能性があるから。
熱が出ても、親が迎えに来るまで何時間でも保健室で寝かされている。
それが実際にあったと聞いて、私は「なんで?」と憤りを感じたものだが、
一教師から、校長、学校、市と「もしも」の時の責任の所在を考えたら、
臨機応変な判断など望めない体制なのだから仕方がないらしい。

人間的情による失敗は許されない。
となると、事務的にならざるを得ない。それが安全。
昔の学校と今の学校、昔の教師と今の教師、昔の子どもと今の子ども、
違いはそういう部分だろう。

リスクを冒してまで他者と関わるのは、ダサくて、重くて、馬鹿を見る。
だけどこれが人間らしさの根幹、「人」の「間」にあるものだ。
「お仕事」である教師にそこまで求められはしないが、
親として、子どもには何としてでも伝えたいものである。

テーマ : PTA
ジャンル : 学校・教育

叩く子供の背景

GWに行ったサーカスで、開演前に入口で並んでいた時、異様に騒がしい子供達がいた。
姉妹かいとこか友人か知らないが、小学校3・4年ぐらいの女の子達が、おもちゃを取ったとか、嫌な事を言ったとかで追いかけっこをして走り回るのだ。
それだけならまだカワイイじゃれあいだろうが、思いっきり頭を叩いたり、叩きかえしたりして、「バシッ」と大きな音が響くたび、周囲の人達は驚いてしまうほど。
ウチの子供達もビックリして、瞬間、凍り付いていた。
とうとうたまりかねて、その子らのおじいさんくらいの年の人が、「コラッ、そんなに人を叩くもんじゃない!」と叱ったのだが、若くキレイなお母さんとその友達は、「ほーら、怒られた。だから言ったでしょう。この子達を二人一緒にするといつもこうなるから、今度から別々にしなくちゃねー。」と、ノンビリしたものだ。
これは、親の育て方の問題に間違いなし。

こんな風に、すぐ人を叩く子、何をするにも乱暴な子、口より先に手が出る子というのは、時々見かけるけれど、親のタイプには、二種類あるように思える。

やはり乱暴で、すぐ子供を叩く親。
もしくは、叱り方のポイントを外した優しい親か。
たいてい、このどちらかだろう。
気分次第で2つのタイプを使い分ける人も含めて。

暴力が日常的にコミュニケーションの手段として使われている場合、子供がそれを当然のこととして身につけるのは、不思議でもなんでもない。
そう、育てられているのだから。

また、親が叩かなすぎて、人の痛みをわからない子にしてしまっている場合もある。
赤ん坊の頃、叩かれても、髪を引っ張られても、噛みつかれても「イタイ、イタイよ~」と言うだけで、まだわからない小さな子に怒るのは可哀想なんて言ってた親だ。
わからないから教えるのが親の役目だろうに。
叩かれたら、叩いて教える。
髪を引っ張られたら引っ張り返す。
噛まれたら、噛んでやる。
それは、怒りでの仕返しではない。
徹底して、いつどこでどんな状況でも繰り返し続けたら、暴力の意味がわからない子供にはならないはずだ。
感情のまま振る舞うことを抑える「加減」も知る。

こうして考えてみると、虐待と過保護とは、そう変わりはないような気がしてくる。

どちらも、子供にとってどうかより、自分の感情を最優先しているのだから。

叩く子供は、不幸な子なのかもしれないが、私は嫌いだ。

叩く大人は、もちろんのこと。
どんな背景があったとしても、関わりたくはない。

テーマ : ■アダルトチルドレン(AC)■
ジャンル : 心と身体

鰯の頭

ニューズウィークで「スピリチュアルと日本人」という特集をしてたのでパラパラと立ち読みした。
江原さんがこんな事を言っていた。
「霊を見せてくれと言われても、それはできない。
心のものは、心で見なければ、見えない。
信じないと言われたら、それまでだ。」

そう!その通り。
いい事言うねー。この人。
スピリチュアルカウンセラーにしとくの惜しいくらい。(笑)

この世に信じられる物など存在しない。

信じるか、信じないか、それだけだ。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

人の目を気にする人ほど

「私、変に思われたんじゃないかしら?」
「でしゃばりと思われてない?」
「馬鹿だと思われた?」
「人間関係は難しい。ものすごく気を使うよ。」

そんな風に人目を気にしてる人ほど、
口をついて出るのは他人の悪口ばかり。

「あの人は、あんな人なんだから。」
「いい加減なのよ。ルーズすぎる。」
「親切な顔して、何してるかわかったもんじゃない。」
「裏切り者よね。」

何でそこまで物事を悪い方に受け取れるのかと思うくらい、あら探ししてる。

たとえ思ったとしても、一人胸で留めている分には構わないが、
何故か周囲に同意を求める。
よほど物知りで人間洞察力に自信があるのだろう。

「私はどう見える?」
「みんなにどう思われてる?」
いくら落ち度がないように、悪く言われないように気を使ってたびれようと、
誤解されない為に、常に行動の理由を説明することにやっきになっていても、
自分が見せたい、思われたい人間には見られないでいる。

何をしてるかを人は見るからだ。

客観的に自分を見るとは、他人に評判を聞いて回る事ではない。
どう思われたか常に神経を尖らせる事でもない。

自分が何をしているかを正しく認識する事だ。

自分基準で他人を判断し、当然その基準で他人が自分を裁くと信じていれば、
被害妄想にもなるだろう。


しかし、その人はその人でそれを選び、やりたいことをやっているのだから、
「どうぞご自由に」と、そっとしておく。
共犯者になりたくなければ、遠ざかればいいだけ。

私の悪口も「どうぞご自由に」。
耳に入っても、聞かなければ存在しないからね。
そんなモン。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

お掃除の神さま降臨

今日はうっとうしく伸びた髪を切りに行く予定だった。
子供たちの春の服も買いに街にも出ようかなとも思ってた。
だけど、そうはならなかった。
なぜなら、
久々にお掃除の神さまが降りてこられたからだ。

おかげで、男の子の部屋の古いたんすを一つ処分して、
不要な服や、子供たちの幼稚園からの作ってきた工作も、
ほとんど捨てることとあいなった。
その量、大きなゴミ袋に7つ分。
今月はウチがゴミ捨て場の掃除当番なので、
もし分別を間違えて持って行ってもらえなかった場合でも、
私が回収するのだから気が楽。
思い切った捨て方が出来る。

子ども部屋のスッキリしたこと。
学校から帰った男の子たちが喜んで、
「ありがとう、お母さん」なんて殊勝なことを言うのが嬉しい。
が、
「一週間も持つかな」てなことも言う。
おいーーーー。

そうなったらまた、ゴチャつくものは全部捨てるだけだけどね。

要らないものは捨てなさいっていくら言っても、ゴミは出ないし、
「これ要らないでしょ」と捨てようとしても「いるー!」と奪い返しておいておくくせに、
黙ってコッソリ捨てたら気が付かないもんなんだから。

これは私自身にも言えること。
「いつか何かの役に立つかも」でとっておいて
眠り続けて幾年月ってものが、今日もあれこれ出てきてた。
捨てても捨ててもあるもんだ。
使わないけど捨てるには勿体無いものも結構あるしね。

売れそうなものはオークションで売るけれど、
やっかいなのは、「思い出」ってやつ。

アルバムにはり切れなかった写真、
子ども達の作ったもの、書いたもの、記念、賞状、文集、その他諸々を
いつか懐かしむ為に取っておこうか、捨てようか、いちいち悩む。
4人も子どもがいたら、一人のを取っておくなら、全員のも捨てられない。
一人のを捨てたなら、他の子のも捨てなきゃならない。
思い切るのが難しい。
それでも、上の子のはキッチリ整理されて沢山保管されてるのに、
下の子のは行方不明で足りないものが多々できてしまうわけだけど。
そうなると不公平なので、上の子等の物も処分処分。
良いのか悪いのか、軽量化にはなっていく。

きっと一人っ子だったら、全部とっておいたかもしれないな。


私はここんとこ、自分自身の「思い出」も処分しつつある。
かつての仕事に関しての資料はもうないし、本もごく少なくなった。
何より、私の部屋というものをなくしてしまった。
家全体が私のスペースなのだから、それでも何ら問題はない。
アルバムも、誕生からこれまでのものが6冊あったのを、ほとんど捨てて1冊にまとめた。
そのうち全部捨ててしまうかもしれない。

「物より思い出」というキャッチフレーズのCMがあったけれど、
だんだん、「物も思い出もいらない」という心境になってきている。

ただ、全部をスッキリさせられないのは、「勿体無い」「折角の」の気持ちがネック。
そういうこだわりも一旦手放してみれば、
本当に勿体無い事ができなくなるのかもしれないと思いながらも、
踏ん切りはなかなかつかずにいる。

良い季節でもあるから、お掃除の神さまにはしばらく滞在してもらいたい。

妄・毒

私は痛い。
私は傷ついている。
毒矢が刺さったからだ。
痛い。痛い。死にそうに痛い。

まて、抜くな。
その前に知りたいことがある。

これはどんな矢なんだ? 毒の種類は?
いったいどこからこれは飛んできたのか?
誰が射たものなのか?
なぜ私が撃たれたのか?その理由は?
どうして、他の誰かではなくて、この私に当たった?

撃った奴を捕まえて、ここに連れて来い。
この痛みの責任をとらせてやる。
思い知らせてやる。
どんなに私が痛いか。どんなに苦しんでいるか。

周りの人々も同罪だ。
たまたま運が良かっただけで、
この災難から逃れさせてやるものか。

弓をよこせ! 矢をよこせ! 毒をよこせ!
撃ってやる!
私に傷を負わせた奴を。
私を嘲笑した奴らを。 私を踏みつけにした奴らを。
私に何もしなかった奴らを。

痛い。痛い。死にそうに痛いんだ!

私には、毒矢が刺さってる。

教えろ、これはどんな矢なんだ?
教えろ、これはどこから飛んできたんだ?
教えろ、どうして私に刺さったんだ?

なぜ、私がこんな目にあう?


・・・・・・・・・そうして、私は、死にました。・・・・・・(幕)

愛情不足って、なにさ?

「先生ぇ~、あたしってぇ、愛情不足なんですぅ。
 親から愛されなかったアダルトチルドレンなんですぅ。
 依存症なんですぅ。 生き難い人なんですぅ。。。」

ってな感じの甘ったれたことを、武禅の夜に日野先生に言ってみた。

もちろん先生から返ってきた言葉は、「アホか!!」だ。

「何を言っとるんや。愛情不足だなんて、そんなことがあるか。
 あのなぁ、愛がなかったら人は生きていられんのや。
 産んでもらって、育ててくれる人がいたから大人になれたんやろ。
 今、生きて、ここにいる。これがすべてやないか!」

怒ってではなく、あきれたように笑って言われる。

!!!!はい。先生。
私は「アホか」ではなくて、正真正銘の「ドアホ」でしたね。いい年して。
その事がはじけたようにわかった瞬間だった。


翌日の「声(歌)を届ける」のセッションの際、
私の声はどうしても相手に届かなくて苦労していた。
「なぜ?どうして?どうやったら?こんなにしてるのに。」
声の大きさ、歌い方、表情、身振り、目を見て、乗り出して、でも、届かない。
そんな苦心惨憺で途方にくれる私の傍らに、先生が近づいてきて、
優しい瞳で見つめて微笑みながら、そっとゆっくりと囁かれた。

「愛がない・・・」

うーーーー。
これは、キイタ。参りました。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

あなたから見える私

ブログに顔写真でも載せてみようかと、携帯で何枚か自分を撮った。

「どれがいい?」と、興味なさそうな子供たちを無理やりひっ捕まえて聞くと、
「うーん、どれも硬くてイマイチだけど、強いて選ぶならこれかな?」
ライトの方を向いてとばし気味にした若く見える笑顔の写真を指して長男が言う。
そうだよね、うん、私もこれがいいと思うけど、
「本当にこれ、お母さんっぽい?」なんだか似てないような気がする。

なので帰ってきた夫にも聞いてみる。
「どの写真が私らしい?」
夫は「ハイ、これダメ」「これ却下」「あー、ぜんぜん」と撥ねてって、結局全滅。

「ええ~、残らないジャン。子供たちはこれがいいって言うよ。」
と先ほどの一枚を見せると、
「だって、別人みたいじゃない。」

「じゃ、こっちのハッキリくっきり写ってるのにしようか。」と見せたのも、
「それ、すごく老けてるよ。オバンくさい」と言う。
「実際オバンなんだからいいよ」
「いや、ひどすぎだろう。もう50過ぎに見えるから」

それではと、以前外出先で写した写真も出してみた。
「誰?これ?」という返事とは、よっぽど印象が違うのだろうか。
子供たちも、「全部違う人みたい」と言うし。

この人たちには、私はどう見えてるのだろう?
いったい私はどんな顔をしているの?

私が私だと思っている私と、他人が私だと思う私は、
どれくらいかけ離れているのかな。

・・・・・・そういうわけで、写真のUPは見送りとなった。

裏腹スメント

本気ではないことを口にする人は多い。

これまでは「そんなこともあるよ」と、聞き流していたものだが、
自分の思いと言葉と行動が一致しているかを常に注意していると、
他人のそれは、いちいちとても気になって仕方ない。

たいてい、脅迫、虚勢、自己正当化。

死ぬ気もないのに「死にたい、死にたい」「死んでやる」。
別れる気もないのに「もうお終いね」。
引き止めて欲しいから「いつでも出て行く。帰ってこないから」。
辞められちゃ困るくせに「お前ら、みんな首にするぞ」。
部屋を片付けさせたいのに「全部捨てるからね」。
嫌われるのが怖いあまりに「本当は私を嫌いでしょ」。

ああ、回りくどい。面倒臭い。

もっとちゃんとまっすぐに物を言え!!

「私はこう思っているから、あなたにこれこれこうして欲しい。」と。
それに対してYES、NOをどう答えるかは相手次第だ。

「言うこときかないと困ったことになるぞ」とか、
「私を悲しませるあなたは悪い人だ」とか、
そんな余計な含みの装飾は必要ない。

一時それで上手くいったとしても、そのうち本当の望みは失われてしまうだろう。

誰しも、試され、脅され、操られるのは嫌いだから。

やりたくもない事をやりたいと言うような人の人生は、
すべてが、やりたくない事をやらなきゃいけないように動いていく。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

目で語る子育て

私は赤ん坊が好きなので、目の前にいると、他所の子でもつい見つめてしまう。
見つめると、見つめ返される。
目が合うと、微笑まずにいられない。
笑いかけると、笑い返される。
赤ん坊は満面の笑みで、ジタバタと全身で喜びを表す。
感極まってか、おもむろに抱かれているお母さんの胸に突っ伏して顔を隠し、
そーっと目だけでこちらを伺って見る。
「バァ」とあやすと、「キャキャ」と笑っては顔を突っ伏し、
一瞬の静寂の後、期待を込めた目でまた私を見上げる。
それが延々エンドレスになる事多し・・・・・・(汗)。

そのうち他の事をしていたお母さんも我が子の様子に気付きだす。
「どうしたの?」というふうに覗き込むと、赤ん坊は母親と視線を絡ませ、、
そのままスイーッと私に目を誘導する。
私と母親を交互に見ては、鼻息荒くして足を突っ張り、じっとしてられない。
まるで、「あのオバちゃんがネ、面白い顔してボクを笑わすんだよ~」と教えてるかのよう。
赤ん坊の目はとても雄弁だ。

それにしても、私が子どもを産んで一番最初に持った疑問でもあるのだが、
赤ん坊はどうして、目が物を見る器官だと知っているのだろう。

赤ん坊に乳をやると、どうしてか必ず目を見つめてくる。
刺激が好きなら派手な色の服を見つめていてもいいはずなのに、
声を頼りにするなら口を見ててもいいはずなのに、
じっと目を見つめてくる。
目が合うと、微笑まずにはいられない。
何を感じているか考えずにいられない。話しかけずにいられない。
ゆったりと見つめると、安心したかのように眠りにつく可愛らしさ。

慣れてくると、そういつもいつも赤ん坊ばかり見てられない事もある。
テレビが見たかったり、読みかけの本の続きが気になったり、電話してたり。
そんな心ここにあらずの状態を、赤ん坊は敏感に察知する。
いつもより変にグズッててこずらすし、歯茎で乳房を強く噛んで引っ張ったりする。
「イタイ!」と声をあげ、怒った顔をすると満足げにニヤリと笑う。
何もわからないはずなのに、
「自分を見ろ!」「意識しろ!」と、ちゃんと要求してくるとは不思議なことだ。

自分の目と親の目が同じ働きをするとなぜ知ってる?
黒目が見たい対象物に焦点をあわせるなんてなぜ知ってる?
目が合わない時、しっかり意識を向けられてないなんてなぜ知ってる?

人間は本能として、共感能力を持って生まれるとしか思えない。


いろんな子育ての専門家が、「授乳の時には目を見て」「語りかけながら」などと指導している。
先日、教育再生会議が出した親業の提言にも
「子守歌を聞かせ、母乳で育児」とか「授乳中はテレビをつけない。」が入っている。

しかし、こんなことは教えられないとわからないものだろうかと常々私は疑問に思う。
「こうしなければならない。」と決められたやり方より、その持つ意味が大事だろうに。

「目を見なくては」とじっと凝視し、なんとしてでも母乳にこだわり、知らない子守唄を練習して、
見たいテレビも我慢してまでイライラと育児をして、それがいったい何になる。

形から入って、本質に気付く人もいるかもしれないが、
「良い子を育てる為」にだけ子育てがあるとされている限り、たぶん効果は望めない。
そこに「親の幸福」がないからだ。
10年20年先に問題を起こさない真面目で心優しく頭の良い子にする為に、
今の親に義務を課すのが、本当に親子の情愛を育むと言えるだろうか。

子育ては人間関係の基本を作る。
関係とは相互の交流であって、してあげる側とされる側の役割分担ではないはずだ。

人間が生まれつき持っている素晴らしい能力を、なぜ持てない大人がいるのか。
目を見さえすればいいのではない。
歌を歌いさえすればいいのではない。
話しかけさえすればいいのではない。

何を見たいか。何を読み取りたいか。何を伝えたいか。何を与えたいか。
それで自分は何を感じるのか。
大切なのは、そこだ。

それがない子育てとは、
単に親の老後の面倒見用ロボット、国家の財源確保用ロボットの製造にしかすぎない。
そんなふうに、私は思うのだ。

テーマ : コミュニケーション
ジャンル : 育児

私のうしろの百太郎?

私には霊感が0なので、それを持つ人を羨ましく思う反面、怖くて、過剰に反発してしまう事がよくある。
先日も、あちらサイドが見える聞こえる人と、ちょっとした口論をしかけてしまった。
「ヤバい悪霊は実在する。執り憑かれたら、必ず災厄にみまわれる。
 気の持ちようとか、そんな生易しいものではない。」と言う相手に対して、
「霊なんかがこの世に影響するはずがない。
 絶対に、肉体を持ち、エネルギー漲る生きた人間の方が強い。」と主張する私。

「またやってるよ。進歩ないなー、私。」と思いながらも。

見えない聞こえない感じないものが悪影響を及ぼしてくるのは困る。
電磁波や放射能、大気汚染、各種有害物質などもそうだけど、まだこれらは観測できるから、対策も立てられる。
しかし、霊なんて、光の反射で見えるわけでもない、波長の振動で聞こえるわけでもない、鍵をかけたり密閉しても防げないモノがあるなんて、考えただけでも気持ち悪いじゃないか。

自分ではどうすることもできなくて、見える人に教えてもらわないと難が避けられなかったり、力がある人に祓ってもらわないと不幸続きなんて、そんな危なっかしいのってアリ?
そこで「実質努力を無にする存在を認めるわけにはいかない!」
と頑張ってしまう私はやはり現実を見ず、自分の都合に固執してるって事になるのかな?

ちなみに私には右後ろに青い何かが見えるらしい。
別に肩が重いということも、寒気がするということもないのだが。
こんなのは、病気の不安と同じで気にしないのが一番。

「相手にしない」でいれば、影響されることがないのは、何でもそうなんじゃないのかな。
困ったら困ったときのことで。

しかし、そんなに霊感があって怖いものが見える人なのに、
オーラがまったく見えないなんてこともあるとはね。
見るものの波長が違う?次元が?

世界は人それぞれだなと、またこういう部分でも思う。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

ちょいバテ

一昨日は、朝7時に寝て10時起きで、昼からフラワーフェスティバルに出かけ、
平和大通りをパレード見ながら、ビール片手に往復。
子ども4人を連れて人ごみでモミクチャになるのは毎度の事ながら、
もし子どもとはぐれても、一番下でも歩いて実家に帰れるぐらいになってるので、
ずいぶんと気が楽になったものだと思う。

昨日は、新聞社のバスツアーで新聞印刷工場見学と木下大サーカス。
中学生らは気が乗らないのか面倒臭げにダラダラと付いてきた割に、
サーカス後は「最高だった!!」と興奮気味。
そうでしょ、そうでしょ。
この年代の子は、こんな感じの素直じゃなさと無邪気さの間のアンバランスが面白い。

帰ると、一人家で留守番をしていた夫の部屋から話し声。
誰かと思ったら、同じ町内の消防団の人が来ていて、
早速私もビールとつまみを持ってって参加。
深夜12時まで話し込む。

彼は25歳の若者だが、消防団や自治会活動に積極的で、
今は育成会の集会にも、独身でありながら、
男性としてはただ一人顔を出して協力してくれる奇特な人だ。
子どもたち、特に女の子には大人気。
人間好きで、この若さでてらいなく自己を見つめ、
物事を深く考えて取り組もうとしているのは、とても好感が持てる。

「明日は庭で炭火焼でもしようか」と言ったら、
昼に肉とビールを持って来てくれたので、今日はまたまた酒浸り。
ガンガン飲んで、ワーワー話して、疲れた私はちょっと失礼してお昼寝ゴロン。
夕方起きて、夕食作って、食べたらすぐに自治会役員会に出席する。

明日はGW最後の日。
家で静かにしていたいところだけれど、まだ姑の所に遊びに行っていないのと、
娘が薬草風呂の温泉に行きたいらしいので連れて行く予定。
みっちり遊んだこの連休。ものすごくハードだったような。
明後日から仕事モードに戻れるのだろうかと、ちと心配。

「休みの最初の日に戻れるといいのに。」
次男がこんな事を言っていた。
休みの終わりに休みの始まりに戻って、ずっと遊び続けたいらしい。
「閉ざされた時間の中で生きたら、未来はないよ?」と聞いたら、
「それでもいい。」と。
実は私もたまにそんなことを思ったりするから、気持ちはよくわかる。
「ずっと続け、楽しい時間」そう思えるのは幸せだよね。
終わらない時間、変わらない物なんか退屈極まりないだろうけど。

子供たちが何やら顔を見合わせて、私の顔も覗き込んできた。
「お母さん以外は、みんな目の下にクマができてるよ。」
見ると本当にどの子もウッスラ色付いている。
「やだ、なにその顔。そんな疲れてるんなら早く寝なさいよ。」
と笑う私に子どもらは「何でお母さんだけ?」と不思議がる。
さあ? 何ででしょう。

ワンダフルワールド

沢山のことをを知りたいと思った。

あらゆることをわかるようになりたいと願った。

けれど、どんどんわからなくなっていくばかり。

確かなものなど、何もない。


なんて素敵な世界なんだろう。

こんなに自由に満ち満ちて。

悩めるすべての人に

「どうしたらいい?」

      どうもしなくていい。


「悩んでいるのよ。苦しいのよ。」

      悩まなければいい。苦しまなければいい。

「だって、嫌なものを見せられるんだから。」

      そこにあっても見なければいい。

「嫌なことを言われるんだから。」

      耳に入っても聞かなければいい。

「嫌なことをされるの!逃げられないの!」

      相手にしなければいい。

「そんなこと出来るはずがない。」

      あなただけがしないから、あなただけが悩んでいる。

「どうして私の気持ちをわかってくれないの?」

      私があなたの気持ちをわからないと、あなたは思っているんだね。


「・・・・・・私はいったい、どうしたらいいの?」

      どうもしなくていい。

      悩まなければいい。

      苦しまなければいい。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

目の前の現実を見よ

ある一つの出来事について、それを人づてに聞くとする。

その人が淡々と話をすれば、淡々と聞けるだろう。

その人が楽しそうに話をすれば、楽しく聞けるだろう。

悲しげに話せば、悲しくなる。

怒って話せば、腹が立つ。

その時、私たちは事実としての出来事を正しく見ていると言えるのだろうか。

他人の観念、他人の感情、他人の判断に影響される事なく。

良い悪い。好き嫌い。正しい間違っている。
生じる出来事に、そんな色がついているはずもなく、あるのはただ、それを観る人の立場。

自分にとって心地よく好ましい出来事は良いこととなり、不快で嫌な出来事は悪い事となってるだけ。

人の話を聞くとき、私たちは、それが事実についてであっても、実はその人の物の見え方を聞かされているのだ。

直接聞く事も、テレビ・新聞・雑誌の情報にしても。

更に突き詰めると、実際に見聞きし体験した事でさえ、自分自身の観念、感情、判断によって意味を持ってしまっている。

恵まれた環境、ゆゆしき事態、そんなもの、現実に存在してなどいないというのに。

何を見ているか、何を聞いているのか、それをいつも「ここ」に立ち返って観なければ、ありのままは受け取れない。

ありのままの世界とは、この自分の今ということだ。

苦の伝播とエネルギー

昨夜は徹夜で朝の7時まで人の悩みを聞いていた。

同席していた別の人が主に話をしていたので、私はほとんど口を挟むことなく互いのやり取りが聞けた。
相談するほうも、受けて助言をするほうも、どちらもが「わかって欲しい」の自己主張でしかないと、外から客観的に見て初めて気付くこと多し。

またよく、人に話すことで「悲しみ半分、喜び二倍」なんて言うけれど、苦痛を伝えると、半分になるどころか増えるだけだというのも目の当たりにした。
人間は共感の動物だから、言語や表情によって苦痛を訴えられると、実際の自身の経験でないことでも追体験して、脳には実際に苦痛の反応が現れる。
(自分の過去を回顧しても同様。脳は自他、時間、虚実の区別が苦手らしい。)
その際に、味わう苦痛と共に伝わるものが感情だ。
当事者の悲しみや怒りを想像し思いやるというよりも、実は自身のものとして湧いてきている。

「同情」し、「心を痛める」とは、本当に読んで字の如しだなぁ、と、敵不在のままエキサイトしていく状況に思った。

注意を引き、感情をかき立て、時間をとらせる。
そんな罠によって奪われたエネルギーを、今度は別の人に、心配させ、困らせ、弱さを見せ、罪悪感を植え付け、心地よくしろと要求することによって補う様は、まるで食物連鎖のよう。

これが私の姿なのだと、やっと認めることが出来た。

ありがとう。

分と不安

私には、何だか不思議なのだけど、「困ったな」と思っていると、自然とサッと助けてくれる人が現れて、「ラッキー!」という事がよくある。
今日もそうだった。

私がトロくてボヤボヤして危なっかしいから放っておけなくなるのだろうけど、いつ、どこで何をしても必ず、しっかり者が隣にいる。
おかげで私は楽に面白い事ばかりしている格好だ。

いいのかな?
日常からしてそうだから。

高い所の物が取れない。重いもの持てない。汚い物触れない。
物が壊れた。虫が出た。気分が悪い。道がわからない。
そんなこんなに全部、夫がテキパキ動いてくれるもんなぁ。

甘えすぎ?
自立心なさすぎ?

自然にそうなってるものなのに、「いいのかな?いいのかな?」と不安に思う、この気持ち。

いったい、誰に、何に「いいのかな」?

こういうのも、アクセルとブレーキの同時踏みなんだろうな。
うーん。
プロフィール

ぽあん

Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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