ブルームーン

調子が悪い。
武禅以来、いや、その一週間前ぐらいからどうも間が悪いというか。
つまらない失敗続きで、やることなすこと裏目に出る。
言わなくていい一言を言って場の日雰囲気を壊したり。
体もだるいし、やたら眠い。やる気が出ない。頭が回らない。
気持ちも暗い。出来事はすべてマイナス感情を刺激する。
ねたみ、そねみ、自己嫌悪、劣等感、孤独感、無価値感。
ああ、まだまだこんなに持ってたんだーと思うにつけ、とにかく憂鬱になる。

それでも気分に行動を振り回されない程度の自己コントロールは利くので、
日常はつつがなく過ごしては行けてるが、「どうもおかしい」とずっと感じ続けていた。

昨日も食事の後、何もする気がなく、居間で寝転がっていると、
長男が「お母さん、最近やたら眠くない?」と聞いてきた。
「うん、わかる?」
「そりゃわかるよ。ここんとこずっとしんどそうだもん。」
おかしいんだよね。早めに寝るようにしてるし、子供たちと部屋が別だから
朝までぐっすり熟睡してて、疲れがとれないってはずないのに。
「実は、俺もそう。」彼は言う。
「なんだかやたら眠くて、何もできない感じでさ。なんか変。」
私だけじゃないんだ?
息子は「オレら、もしかして呪われてるんじゃないの?」なんて笑う。
いや、それはないでしょう。心当たりないし、今どき呪いは効かないよ。
それにしても、子どもも違和感を感じてるということは、私の影響かもしれないけれど、時期的に何かありそうな気がする。

そんな事を思いながら寝転んだまま空を見上げると、
やけに月がまぶしく目に飛び込んできた。
携帯サイトで月齢を確かめてみると14。次の夜が大潮の満月となっていた。
今月は、一ヶ月に二回、満月がある。
こういう月をブルームーンと呼ぶ。
気になって、ネットで「ブルームーン」を検索したところ、興味深い記事が見つかった。
ブルームーンの今月は大浄化のエネルギーが地球を覆う特別な時期という話。
この期間は、体調を崩したり、憂鬱になったり、眠りこけたりしやすいのだとか。
今回は特に間に夏至を挟んでいるのでエネルギーが強いらしい。
何人かの人が同じような症状を訴えている。

スピリチュアルな人たちが言うように「大浄化」なのかどうかは知らないが、
(というか、そもそも“浄化”って何さ?
 水晶やら財布やらをズラッとベランダに並べて清めて運を良くするんだと。:笑)
月のパワー、宇宙のエネルギーって、
結構、地球の生き物に影響を及ぼしているのかもしれない。

それならそれで、今夜は青い月の光を浴びて、思いっきり憂鬱(ブルー)に爆睡するだけだ。

石鹸切り

型に入れた石鹸が固まってきたようだったので、切り分けて乾燥する。

型にしていた牛乳パックを破いてみると表面はべっとりしていたので、「しまった!早かった!」と思ったものの、後戻りはできない。
そのままベリベリ。

「いたっ!アチチチ!」石鹸に触れた指先がピリピリ痛い。
まだ強アルカリだから直接触っちゃいけないと注意にあったのだが、私の皮膚は少々では何ともない超鈍感肌だから平気だとタカをくくっていて、このザマだ。
慌てて洗い流して、ゴム手袋を着けた。
皆様、お気をつけくださいませ。

石鹸は白くなっていて、包丁を入れると、柔らかめのチーズのよう。

これを風通しが良くて、猫がイタズラしない場所(これが一番難しい)に1・2ヶ月寝かせる。
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手前のちっこいのは、パックについたベトベトを丸めたの。

早くできないかな~。

さ、次はグレープシードオイル石鹸だ。

生き方の選択権

劣悪な環境で育ち、愛情に恵まれなかった人が、無関係な女性に一方的に母性を求めた挙句、誤って手にかけたと言う。(ホンマかいな?)

それを「可哀想な人だから仕方ない」との見解を示す人がいる。

心優しき彼らは、貧しい母子家庭で育ちながら、懸命に努力してやっと暖かい家庭を築いたところで自分と愛児の命を奪われた人に対しては、どんな思いを抱くのだろう。

「可哀想な人だけど仕方ない」か?


甘い水の地獄へと迷える人々をいざなう壊れた道しるべ。
それも、ひとつの人生だから「仕方ない」けれど。

傷口に塩

「傷ついた、傷ついた」って、何が傷ついたの?

どうせ、しょうもないプライドでしょう。


「裏切られた、裏切られた」って、何が裏切られた?

自分に都合のいい期待がね。

「頑張ってるのに」
「信じていたのに」
か。

懲りないねぇ。その依存心。

日野先生のドラム

日野先生は今朝、関西国際空港からフランクフルトに向けて飛び立たれた。
置き土産をひとつ残して。

ジャーン!!
日野晃ドラムソロ動画

「おお!!スッゴーイ!」と感じた方は、あっちこっちにリンク貼り、お願いします。

日記によると奏法を全面的に変えている最中だそうだから、本番では、またまたこれとは違う更に更にバージョンアップした新たな先生を見ることができるのかもしれない。


かずこ先生はmixiにお二人の写真の置き土産。
旅立ちに向けて胸膨らませる爽やかなピッカピカの笑顔。
日野先生のまなざしの優しいこと。
さっそく携帯の待ち受け画像にしたさ。
これで、お二人が日本にいない二週間も元気に過ごせる。

日出る国から西欧へ。
今度は、どんな伝説を作って帰ってこられるのかな。

生活の彩り

石鹸用オリーブオイルを買いに行ったとき、棚にさまざまな種類の油が並んでいるのをチェックした。
オリーブオイルでも種類、メーカーによっていくつかあったが、他にもサラダ油、キャノーラ油、紅花油、ゴマ油、エゴマ油、パーム油、綿実油、米油、etc...
その中で特に気になったのは、葡萄油(グレープシードオイル)だった。
葡萄の? 種の? 油?
どんなものなのだろう。
その時は、オリーブオイルが目的だったから、それだけ買ってさっさと帰ったのだが、今日、やはりどうしても使ってみたくて手に入れた。
一瓶500mlで600円ちょい。
ラベルには「コレステロール0」と嬉しい文字が躍る。
ネットで調べたところによると、ビタミン豊富で酸化しにくく、水分との相性が良くドレッシングに最適とのことだった。
早速、ドレッシングを作る。
私の作り方は、料理全般にわたってそうだが、いつも適当だ。
ボウルに適当に三倍酢を入れて、ポン酢、砂糖、塩、コショウ、レモン汁、そこにオイルをドバドバ。すかさず泡だて器で混ぜる。
確かにサラダ油で作った時とは違って、馴染んで全体に合わさっている。
ペロリ、味見。
ウマーーーー。
コクはあるのに、ベトベト重くなくて、サラッとさわやか。
調味料の甘さ、酸味、塩味、辛味のバランスもGOOD! 香り良し!
スプーンで娘達にも味見をさせる。
「なにこれー!!美味し過ぎ!」驚きの声を上げる二人。
それをレタスときゅうりと新たまねぎのスライスにかけて食卓に出した。
これまでどうも自宅でのドレッシングが上手くできなくて、高いピエトロのを使っていたのだが、この味なら負けていない。大成功。
これからはこれが我が家の定番になると思う。
同じ味が再び出せるといいけれど。(汗)

もう一つ他に、先日から漬け始めた糠漬け用に青瓜も買った。
かずこ先生お手製のお漬物も絶品だから、それに倣おうというわけだ。
教えて頂いたとおり、糠に酒粕を混ぜてみる。
これでグッと味わいが深まって、瓜はメロンのような風味になるらしい。
明日が楽しみだ。
今日のところは、漬けておいたきゅうりと大根を切る。
漬物などたいして好きでもなかったはずの子供達が最近、この糠漬けをバクバク食べるようになった。
食後にお茶を飲みながら、つまみ続けるほど。
やはりスーパーで買うものと、家で手作りの物とではそんなにも違うのだろうか。
糠床は、使えば使うほど味が変化し美味しくなっていくのを日々味わっている。

食卓も生活もちょっとした一手間が彩りとなり、より充実して行きつつあるようで楽しい。
不思議なことに、サラダと漬物だけでなく、他の料理の腕も上がったような気もするんだよね。

だから?

あの人はヒドい人。
私にあんな事した。こんな事言った。
どれだけ私が傷ついたか。苦しんだか。悩んだか。
そんな事さえいっそ考えもせずに、のうのうとして笑ってる。
最低の人間。
悪魔。
ねえ、あなたもそう思うでしょう?

どうしてあの人はそうなの?

だって、根っからの悪人でもないんだよ。
優しい所もあるし。

なのに、どうして?
私が悪いの?
違うよね。私は一所懸命頑張ってるよね。
でも、認めてくれないのよ。
すごく冷たい人なのよ。あの人は。

ねえ、どうしたらいい?
どうしたら、あの人にわからせる事ができる?
私がどんなにあの人を好きでいるか。
私がどれだけ努力しているか。
私がどれだけ辛い思いをしているか。

ねえ、ねえ、どう思う?
黙ってないで教えてよ。


     さて、
     どう答えよう?

存在の価値

子どもは親の手かせ足かせ?
背負わなきゃならない重荷?
自由を奪い、身動き取れなくして、選択肢を狭め、手間がかかるし、うるさいし、
暑っ苦しくて、散らかすだけで何の役にも立たない、邪魔な金喰い虫?

「お前さえいなければ」と、物心ついた頃から母親に繰り返し言われ続けて育った私は、そんな意味だと受け止めていた。

「お前さえいなければ、私はこんな苦労をしなくて済んだんだ。」
「私はもっと楽に生きられたんだ。」
「私は良い人と結婚して幸せにもなれたんだ。」

「お前のためにこれだけやってやってるのに、なぜわからないんだ!」
そう言って泣きながら殴られたことも一度や二度ではない。
何かといえば包丁を突きつけたり、ガス栓を開いて吸わせようとしたりの酷い親。

子どもながらにその理不尽さはわかる。
彼女の身勝手さに腹を立て、
「そんなに嫌なら産まなきゃ良かっただろ。自分が勝手に作っといて、なんで私のせいにする?」
なんて思ってはいても、口にしたら半殺しの目だから言えなかっただけ。

だが、心の奥底に罪悪感は染み付いていたようだ。
私が存在することが苦しみだとの母の言葉を信じ込んでいたのだから。

私は母をどう不幸にしたのだろう。
自分が親の立場の今になって、ふと考えた。

楽ができない? 堕落できない? 遊べない?
しかし、浪費を抑え、無茶を自重させ、くだらない男が寄り難くなっていたのは、むしろ幸運なことだったんじゃないだろうか。

親が子どもを育てるよりも、もっと多くの事を子どもは親に教えてくれる。
子どもが親を親にする。子どもが親を大人に育てる。成長させる。
これまでの自分自身の子どもとの生活を振り返ると、本当にそれを実感する。

幸せとは何かなんて、人それぞれの価値観に準ずるもので一概には言えないとしても、少なくとも自分で自分を大切にしているかどうかは必須条件だ。

そう考えるならば、「お前さえいなければ」と責められていたことはすべて、「お前がいてくれるおかげで」と置き換わる。
それで過去の事実は変わりはしないが、一つの変化が自分にあった。

憎しみが消えたのだ。
責められた辛さから、母の言葉を許せないのだと思っていたが、そうではなかった。
私がずっと憎んできたものとは、人に苦しみを与えるだけの存在でしかないと思い込んでいた自分自身だった。
そう気付いた時に。

手作り石鹸

というわけで(どういうわけ?)、いよいよ手作り石鹸に挑戦!!の巻。

武禅名物の一つに、和子先生の手作り石鹸がある。
しっとりふわふわのあわ立ちが、なめらかに身体や顔を包み込んで汚れを落として、洗い上がりもさっぱりしていながら、スベスベ感が維持できるという優れもの。
皮膚から脳髄に伝わる極上の気持ち良さといったら、もう、もう、言葉にできないほど。

私も昔、洗剤にかぶれた時に、しゃぼん玉石鹸の「せっけん読本」を読んで以来、石鹸にはちとうるさい方だと思っていたが、それもメーカーが作る無添加の純石鹸を良しとする止まりで、それ以上の心地よさが得られるとは思ってもいなかった。

それが、和子先生の手作り石鹸で大衝撃。
「こんなに気持ちが良いものを、自分でも作れたら・・・」そうは思ったものの、石鹸作りはなかなか大変そうだとも思う。
なにしろ、劇薬を扱わなければならないのだから。
石鹸作りに欠かせない苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)は、もし皮膚に触れたら大やけど、間違って目に入ったら失明の危険性がある。
うっかり者の私には、ものすごく危険なんじゃないだろうか。
でも、あの気持ち良さが自宅で味わえたら・・・、子供達にも使わせてやれたらどんなにか・・・。
そんなこんなをウジウジと迷っていたのだけれど、5月の時に参加者で自分でも作っているという人の話を聞いて決心した。
よし。ダメもとでやってみるか!と。

材料や作り方は、ネットで調べたらいくらでも出てくる。
石鹸作りキットや材料セットを販売している会社もあるが、やたら不必要な小道具が多すぎるし、分量の調節を試行錯誤するのも楽しさのうちだから、それらは使わない。
「あるもので、安く、どこまでも簡単に」が、ビンボーものぐさ主婦の譲れない基本理念だ。

そこで、用意したものは以下の通り。
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オリーブオイルをなべに移して火にかける。
精製水に苛性ソーダを溶かす。
双方の温度が40度に揃った所で合わせて20分間よく混ぜる。
あとは、一時間ごとに混ぜながら、重く粘りが出るまで反応が進むのを待つだけ。
恐いけれど、作業自体は拍子抜けするぐらい簡単だ。

今現在はまだ、サラサラのままの液をたまに混ぜているところ。
上手くいけば夜寝る前に牛乳パックの型に流し込むことができるはず。
下手しても明日の朝か。

ただ一つ心配は、家には調理用の温度計がなかったので、私の勘でやっちゃったこと。
40度といえば、ヒトハダの燗ぐらいかな~って、触った感じで。
うまくいったらおなぐさみ。(笑)

次は廃油で台所石鹸を作ってみるかな。
あと、緑茶石鹸というのをよく広告で見かけるから、それもいいな。
蜂蜜石鹸、米ぬか石鹸、イソフラボン石鹸も作れるかも。
夢は広がる。

が、まず、このオリーブ石鹸が固まるか、なのだが。

子どもの匂い

休みだったので、友人とランチに行った。
11時半ぐらいに店に入って、出たのが3時過ぎ。
よくもまあ、話が尽きないことだというぐらいペチャクチャ。
そのほとんどが子どもの話題で。

最近、私は気になっていたことがあった。
それは、子どもの匂い。
男の子達が、やたら臭いのだ。
汗の匂い、男の匂いだろうが、ちょっと前までとは明らかに違うものを発散させている。
で、それは他所のお母さん方の間でも同じく話題になっていることを今日、聞いた。
中学生の男の子の親だけが感じていて、女の子しかいない家ではわからないらしい。
そこから話は、幼児期からの子どもの匂いについてと広がっていった。

思い返してみれば、子どもと匂いは常に一緒だったと言える。
切っても切れないつながりがある。
赤ん坊の乳臭さ。泣くとすぐに大汗の匂いが立ち上り、おむつを替えるたびに、炊きたてご飯の匂い、ヨーグルトの匂い。
たまる洗濯物のすえた匂い。食べるようになると大人並みの臭さ。
抱いた時に鼻の前にいつもある頭の匂い。
外で遊びまわって帰ってきた時のチビ独特の足の酸っぱい匂い。
いつの時も決して心地よい匂いではないのに、もっと嗅ぎたいような気持ちであったと、懐かしく感じる。
匂いとは、子どもの様子を知り、健康状態を知る大切な情報であったようだ。
そしてもう一つ。
情感ととても密接に結びついているように思う。

貴志祐介の「黒い家」という小説に、殺人犯の疑いのある女性が実は、嗅覚障害であるがゆえに情性欠如者でもあるのではないかというくだりが出てくる。
生まれつき嗅覚障害であると、赤ん坊の頃に触れる母親の乳の匂いに安心感を感じるということがないため情緒が未発達で、他人にも自分にもわが子にすら愛情を持てず、命に無関心な人間になる可能性があるというような内容だった。

もちろん実際問題として嗅覚異常の人がイコール情感が未発達ではないし、他の要因も多々からまっての人格形成ではあるだろうけど、結構大きな部分を占めているように思う。

なにしろ、人間の五感の内、嗅覚だけは視床を通さずダイレクトに大脳に届くというのだから。
視床というのは、入ってきた情報を過去の体験との照らし合わせ、即ち無意識下の好悪感情で必要か不必要かに振り分ける関所の役目をしている。
我々は、事実を見聞きした上で、考え判断をしていると思っているけれど、それ以前に弾いている情報がとても多いのだ。
しかし、匂いだけはそれをすり抜ける。
そこから得る情報は他と比べ物にならないほど多く、情感を強く揺さぶっても不思議はない。

そう考えたら、子どもの匂いの移り変わりというのも、親への何かのシグナルであるのかもしれない。
愛おしさを感じさせる匂い。庇護されるための匂い。
そしてそろそろ、異質なものとして距離をおくための、男の匂いなのかな?
そんなことを思った。

どんな匂いになったとしても、親が子どもの匂いを嫌いになることはないだろうけれど。

楽しさのおとどけもの

片チンは、同じ町内の自衛消防隊の青年だ。
彼は、なんやかやと小まめに良く動く働き者で、この土曜日も自分が作った無農薬の新じゃがと新たまねぎを持ってきてくれた。
ジャガイモは子供達の大好物。
昨日さっそく、小粒のものは丸ゆでにして、熱々のものをアジ塩かマヨネーズをつけて食した。
しっとりホクホクの食感と、ほんのり甘みのまろやかな味、立ちのぼる香りに次々と手がのびて、小さなざるはあっという間に空になる。
第二弾、第三弾も売り切れ完売。
そのうち、娘達が中ぶりのをポテトチップにしたいと言いだし、彼女らにスライサーで切らせて、私が油で揚げた。
揚げたてをまた、パリパリむしゃむしゃ。
食べてばっかり。(笑)
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焦げてちょっと苦くなってしまった。

そうこうしていると片チンからメールが来た。
渡したいものがあるから今から来ると。
持ってきたのは、彼が自分で山から掘り出した天然水晶だった。
娘がプレゼントしたストラップのお返しだそうで。
売ってあるみたいに大きく透き通ったものではないけれど、六角柱の結晶の塊をいくつか。
ビールを飲みながら、ポテトチッブと、少し厚めに切った素揚げを一緒に食べた。

そして今夜は猫に、またたびの枝。
面白い人だ。

はないちもんめ

「もう、どうしてウチの子こうなんだろう。いやだ。
 こんな子じゃなくて、もっと普通の子どもが欲しかった。」

よく問題を起こす風変わりな自分の子どもについて、そう話す人を見た。

子どもがいない場所での女性同士の雑談の中であっても、
聞いてあまり愉快なものではない。
まさか本気ではないだろうが、そんな事をどうして口に出せるのか。
たぶん、そんなに酷い言葉だとは思ってはいないのだろうが。

案外、子どもの方も、
「こんな変なお母さんじゃなくて、もっと普通のお母さんが良かった。」
なんて言っているかもしれないね。

たいしたこと

何の取り柄もない私だけれど、唯一人に「すごいね~」と言われることがある。
この少子化の時代に、子どもが4人いることだ。
戦前の合計特殊出生率は4~5人だったから、その頃なら普通だったものが、
今やたいしたことになるらしい。
ブログなどやっていると、
知らない人からもどういう意味かわからないけれどそんなメールが来たりもする。
そんな場合、何と返せばいいんだ?
お褒めの言葉を受けたとして「ありがとう」もおかしいし、
「すごいでしょ~」って自慢するいことでもないし。
てなことを息子に話したら、
「子ども作るの上手いですから、って応えとけば」だって。
おお、それ、いいね。
今後、使わせてもらおう。

悪いひと

あなたは本当はとても良い人。
わたしは知っている。
ただ、誤解されやすいのがもったいないよね。
悪気はないのはわかるのよ。
あなたの気持ちもよくわかる。
だけど、他の人はそう見ないよ。
だから、ね。
あなたの良さをわかってもらおうよ。
いい人だって知ってもらわなきゃ、「ヤッパリそういう人」と思われるよ。
それでいいの?
嫌でしょう?
なら、変わってちょうだい。
変わった所をわたし達に見せてちょうだい。
さもなくば、
わたし達はあなたを嫌いになるわよ。
いいの?
それでいいの?
あなたは本当は良い人なのよ!!
このままでは、そう思われなくなるわよ!


………………
それで人が動くものなのかな。
人が変わるものなのかな。
「私が思う正しさに従わない人は悪い人」が、脅しになると信じてるのね。

でも、おあいにく様。
私は悪人よ。(笑)

武禅にて2

武禅の基本は正面向かい合い。
その最初にやるのが「真剣向かい合い」で、先生の構えた日本刀の前に正対して立つ。
前回もそうだったが、今回も全く何も事前説明はない。
どういうつもりで、何を考えていればいいのか。どこを見るのか、何のために?
一切、言葉では教えてはくれない。
だからとても困惑する。

頭をよぎったのは、先生がよく話に出される真剣向かい合いをした際の宮沢りえちゃんの反応。
先生は彼女をとても高く評価されている。
刀を見た瞬間に「恐い」と叫んで逃げた感性、正面からバシッと来るひたむきさに感じいって。
だからといって、私の中には先生や先生の持つ刀への恐怖はないのだし、真似をしたって仕方ない事もわかってる。
じゃあ、どうすれば?
目の前で他の人たちが向き合う様を見ていると、人それぞれの捉え方というか、表現というか、そんなものの違いがあるのは感じる。
しかしそれも自分にとっての参考にはならない。

そんなこんなで頭を忙しく働かせているうちに順番が回ってきて、私の番。
とにかく、先生を感じてみるしかない。
しかし、先生の前にいたのは、感じようとする私。向き合おうとする私。
違うのはわかる。どうすればいいというものでもないのもわかる。
でも、「どうすれば?どうすれば?」から抜けられないまま今回も時間切れ。
何やってたんだ。この半年間。

皆が終わったあとに見せてもらえる先生と和子先生の向かい合い。
やはり迫力が違う。
ピンと張り詰め、バランスを保つ空気は、本物の関係だけが生じ得る芸術だ。

「こうなりたい!」そう強く思う。

そうした気持ちで臨んだ参加者同士の木刀を使っての真剣向かい合い。
私はとにかく強気で押した。
強く押せば強く返る。それでバランスを取れるんじゃないか。そう考えて。
しかし、押しても押しても手ごたえはない。「迫力を感じる」とは言ってもらえても。
逆に木刀を持つ相手に向かい合う時には、押し切られまいとした。
「弱い」「簡単に切れそう」と相手に言われるのが腹が立つ。

押した押された。
強い弱い。
勝った負けた。
結局、そんなものに終始したのだとは、その時には気付けなかった。

結局、調和を重んじる日野武道の精神とは正反対の、対抗心の塊、それが私だったのだ。

日野先生からのアドバイス

水曜に、武禅での写真と自分の書いたレポート、それに添えてアドバイスが届いた。
日野先生は、毎回、参加者一人一人に対して、丁寧に的確に指針を示したアドバイスを送ってくださる。
これが、大きな楽しみでもあり、怖いところでもある。

見るには準備をしたい。
散らかった部屋や、騒々しい環境では開けられない。
心を静めて、それこそ真正面から受け止めたいからだ。

今日は仕事が昼までだったので、子供達が学校から帰ってこないうちにと、
やっと封を切ることができた。

文中に記されているのは、「ひとりよがり」「自意識の幼さ」
「自分の意のままに相手をコントロールしようと」等々の、
武禅の最中にも先生や他の参加者に何度か指摘を受けたのと近いようなこと。

本当にまったくその通りだと、噛み締めるようにゆっくりと読み進む。

先生の文は、平易な言葉で淡々と綴られている。
決して感情を含んだ荒い語気を感じさせたり、
難解さや意図のあいまいさで相手側に意味を考えさせたりすることはない。
それは、個人に向けたものだけでなく、ネット上の日記でも、
専門的な書籍にしても、一貫している。
どんな時でも読み手に伝えるための文章だからだ。

一通り読み終えて、
「ズキッと来るかと恐れていたけれど、それほどでもなかった。
 自分でもわかってることだし。」と、
驚いたとか、ショックを受けたとか、辛いとか、そんな感情もなく、
「うん。」と納得して、手紙を閉じようとした時、
本当に不思議なのだが、締めくくりの一文が目に飛び込んできて、動けなくなった。
特に何がということもない文章のはずなのだけど。

ブワッと涙があふれてきて、どうしようもなくなる。
胸からのどを通って次から次からこみ上げてくるコレは何?
「え? え?」とわけわからないまま、
いつの間にか、ワンワンと声を上げて泣いていた。
悲しいでもない。辛いでもない。悔しいでもない。もちろん嬉し泣きでもない。
そんな涙が止まらない。

「私の声は、誰にも届かない」
「私の手は、誰にも触れることができない」
その事実はどうしようもなくある。だからなのか?

そうしてひとしきり泣いたら、なぜかスッキリしていたのだった。
今の私はこんな私。
だから、どうするかだけじゃないか。と。
武禅から帰って以来、悶々としていた空気が変わったような気がする。

届かない声なら、届ければいい。
触れてない手なら、触れればいい。

ひとりよがりの寂しさを思い知れ、私。
押し付けがましさの嫌らしさをトコトン思い知れ、私。
いいかげん、本気になれ、私。

そして、消えてしまえ! これまでの「私」!


夕方、前回と同じく、行後の写真を大判プリントしてきて壁に飾った。
今回の顔はあまり良くない。
消化不良、不完全燃焼の顔だった。

ものは考えようと言うけれど

嫌なこと、辛いことは生きてる上ではどうしてもあるわけで、
それを避けたい、どうにかして改善したいと思うのも、これまた人間の常ではあるが、
どうもいつも、「どう考えるか」「どう捉えるか」ばかりを追っかけがちと気付く。
事実は事実としてあり、出来事は出来事として起こっているのに、
それをどう受け止めるかで、痛みが変わってくるとはどういうことなのだろう。

自分の機嫌ぐらい自分でとる。他人を利用するのは最低最悪。
それはもちろん当たり前。
だけど、その自分の機嫌のとり方ってのも、
他人に慰めて欲しい言葉をそのまま自分に言い聞かせてては、意味がない。

無責任なら、いくらでも甘やかせる。
他人にも、自分にも。

痛み止めで痛覚鈍くすればするほど、悪化していくばかりなのは当然だ。


おかげさまのジンギスカン

本場のジンギスカンをお腹いっぱい堪能した。

日野先生のことを教えてくれた大恩人に、来年のドラムコンサートのデモDVDを送ったら、そのあまりのスゴサに大感激して、お礼にと、なんと、30人前のタレ付き羊肉を送ってきてくれたのだ。
30人前だよ、30人前。
さすが何をするにも大きく行くという人だけあって、こういう物でも半端じゃない。

抱えるほどのダンボールの箱にキッチリ詰められた肉の包み。
うち、6人家族で、皆肉好きだけど、さすがに10人前も食べられなかった。
ハァ~~、余は満足じゃ。

なんだか、わらしべ長者の気分。
もらったDVDをダビングしただけで、大もうけ。
頑張ってるのは日野先生なのに、そのお陰で私が感謝されるんだもの。

よーし、それじゃもっとジャンジャン、ダビングしまくってばら撒くかー!!
と、二匹目のドジョウを狙ったりなんかしちゃー不純か。(笑)
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マムシ

外で子供達とバトミントンをしていると、夫が「蛇がいるぞ!」。

見ると、前の空き地の廃材の上に小ぶりの地味な蛇。

「シマヘビ?」
「いや、ガラが鎖型だから・・・もしかして?」

チビに図鑑を持ってこさせて調べると、紛れもなくマムシ。

ウワー、大変、嫌だ~、どうしよう。

すぐに空き地の隣の家に教える。
ついでに今日訓練している自衛消防団の人にも連絡をとってみると、詳しい人から、マムシは大抵家族単位で行動するらしいので、空き地には巣がある可能性大との情報を得る。
育成会にも子どもが草むらに入らないように連絡網を回してもらう。

消防団から「退治に行きましょうか?」と、ありがたい申し出を受けたので、遠慮なしに「是非是非」と頼んだのだけど、それから音沙汰ないなと思ってたら、集会所の前をたまたま通りかかった人から聞くところによると、急遽結集した臨時対策本部では、うっかり飲み会が始まってしまったらしいとのこと。
・・・・まぁ、しょうがないな。(笑)

ネットで調べてみると、マムシは危険なことは危険だけれど、わざわざ向こうからは襲ってこないし、幼児や老人を除く健康な人であれば、たとえ噛まれても死ぬことはないという。

子供達には「この蛇は危険」ということだけしっかり教えて、各々しっかり注意させる。
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うちべんけい

「また、あの子達、挨拶しなくなったな。」

土曜朝に次男を陸上部の朝練に送っていった夫が帰るなり、そう言った。

「あの子達」というのは、ご近所の子。
道が行き止まりで、あまり車が通らない我が家の前をよく遊び場にしている、小学校中学年の二人兄弟。

活発なのだけど、人見知りが激しく、彼らの母親は「うちの子は内弁慶だから。」とよく言う。
あまり親しくない人とは口をきけない。顔をみかけると逃げる。挨拶も苦手。
母親は躾に厳しくしているような話し振りだし、実際、時々怒る声も聞こえてくるのだけれど。

よく庭で車やバイクいじりをしている夫は、基本的に子ども好きなので、見かけるたびに声をかけていて、次第に親しんで話せるようになってきていたのだが、何週間かその機会がなかったら逆戻りしたようだ。

「内弁慶」が、「内気」と違うのは、身内や親しくなった人にはとことん遠慮がなくなるというところ。
相手が自分を受け入れてくれる人だと思ったら、ガラっと態度が変わり、今度はしつこいぐらい纏わり付いて甘えてくる。
言葉や態度が乱暴になったり、わがままを言ってみたりも。

子どもとは他人との距離を測りにくい物だとはわかっていても、あまりに度が過ぎると辟易してくる。
「ここまで!これ以上はダメ!」という線引きは大人がきちんとしてやらなければならない。
夫はその辺を、やんわりと、しかし明確に示す人だから、もしかしたら何かのやりとりがあったのかもしれない。
(そんなの普通のことなので、彼はいちいち覚えていない。)

そうして、また殻の中。

彼らは親と一緒のときには、もじもじクネクネしながらも挨拶をする。
「内弁慶だから」と言われるが、本当にそうだろうか?

何も悪いことをしたわけでもないのに、敬遠したくなる子どもというのがたまにいる。
反対に、とんでもない悪ガキなのになぜか憎めない子どもも。
そういった気質は、幼少期のごく早い段階でできていて、一生を通してあまり変化しないもののようだ。

ぎこちない子どもは、どうも痛々しくていけない。

武禅にて1

武禅の目的は、「他人とどう関わるか」に尽きる。
それは、武道、ダンス、演劇等においても同じだ。

自と他は違う。
だからこそ、他を知ることは、自分との差異に気付くこととなり、
自ずと自分自身を見つめることとなる。

しかし、独りよがりな「思い」だけの働きかけでは、決してそれは望めない。
「“私は”こうしたい!」に対して、その通りになったとしても、交流とは言わない。
人と人との関係ではない。
そうした相手の「こうしたい」を無視する働きかけは、衝突を生む。
挙句、自分の「思い」と違う相手の反応に「こんなはずでは・・・」と言って倒れる。

真剣勝負の場合なら、命を取られる。
ダンスはパートナーと息が合わず、お芝居も音楽も空回りし、観客をうんざりさせる。
頑張れば頑張るほど、個と個の不協和音が激しさを増すだけ。

思ったとおりに他人は動かない。
思ったとおりに他人は自分を見てくれない。

それなら、どうすればいい?

他人の思い通りに、自分が動いてあげればいいのだ。

行きたい方に行かせてあげる。
動きたいままに動かしてあげる。
感じたいように感じさせてあげる。
見たいものを見せてあげる。
話したいことを話させてあげる。

言いなりになるのではない。それは全く正反対。
その相手の望む方向を、どうやって自分の望みの方向に誘うか、
というと語弊があるけれど、まあそういうこと。
対立しない。

そのためには、相手をどれだけ深く知ることができるかが重要になってくる。
手がかりは、身体。

本来は、相手の身体からの情報を自分の身体はしっかりとキャッチしている。
どう動けばいいかも正確に知っているのだから、その通りに委ねればいいだだが、如何せん、人間には脳みそという厄介な司令塔が付いている。
「こんなことしたら、相手はどう思うだろうか?」
「変じゃないかな」
「嫌がられないかな」
「嫌われたらどうしよう」
「間違ってたら恥ずかしい」
「無能と思われるかも。弱い奴ってバカにされるかも」
「失敗するのが怖い」
変なブレーキが邪魔をする。

こんなもの、勝手に作り出した妄想でしかないのに、それで今の現実が掴めなくなる。

これをどう外していくか。
それが武禅での、私の課題の一つだ。

(お題)菩提寺

日本人に一番ポピュラーな宗教は、仏教。
ということは、ほとんどの家庭で、お寺さんとのお付き合いはしているはずだ。
先祖のお墓のあるお寺を“菩提寺”と言う。
しかし、私は一切宗教心というものがなかったため、いざと言うときに菩提寺を捜し求めて苦労したことがある。

母が死んだ時、葬儀は加入していた冠婚葬祭互助会に任せることができたのだが、さすがにお寺の手配まではしてはくれない。
それで、祖父や祖母が亡くなった時にお世話になったお寺さんを探したのだが、母の持ち物には一切手がかりは残っていなかった。
ちなみに、祖父母のお墓は火葬場にある集合墓苑なので、お寺とは無関係。
大急ぎで昔に実家があった場所に近い浄土真宗のお寺に、「お宅の檀家に○○という姓はありませんか?」と一軒一軒片っ端から電話をかけて聞いたりもしたが、「知りません。」と素っ気無く言われるだけ。
途方にくれて、いっそのこと無宗教ということで、お経なしの葬式でもいいやと考え始めたころ、近所に住む生前母と仲が良かった人が、「私の家のお寺さんでよかったら呼びましょう」と助け舟を出してくれて、なんとか仏式の葬式を執り行うことができたのだった。
その後、同じお寺で初七日、四十九日、一回忌は同じお寺さんに来てもらったのだが、葬儀の際に、何も知らない私からお布施を高く取ろうとしてか見習い中の息子達を同席させようとした事で一度持ってしまった不信感はどうしても拭えなかったため、引越しを機に縁を切った。
そういう事情で、今、うちの家には仏壇があり手は合わせるけれど、お寺さんとは関係はないということになっている。

しかし一方、これから付き合いが深くなりそうなお寺さんもある。
夫の家のお寺さんだ。
夫の父親の一族は全員が浄土真宗で、親戚の中には僧侶となった人もいるのだが、舅はまったくの無宗教だった。
代わりに信心深かったのが姑。
しかし、姑は昔から日蓮宗。
毎日、仏壇にご飯と花、お菓子や果物のお供えは欠かさず、長い時間お念仏を唱えて仏様と語らい続けていた。
舅が亡くなった時、葬儀をどちらの宗派でするかが問題となったのだが、結局は先々長く仏様を守って行くのは姑だからということで決着した。
これが舅が熱心に浄土真宗を信仰していたのなら別だろうが、そうではないし、分家だから「家」としてどうこうと言われる謂れもなかったのが幸いだった。

浄土真宗と日蓮宗では、詠むお経が違う。
そこで夫が気を利かせて、姑のお経の本をコピーして皆に配ろうと言い出したので、私はどうせならと、ページ立ての両面コピーで、表紙を和風草花のシルエットイラストで飾った中綴じ小冊子を作って用意をした。
葬式には、今まで顔を合わせた事もなかったような遠い親戚もはるばる東京・大阪方面から来てくれていて、その数は50人を越えていただろうか。
その人たちが、それぞれ手にコピー冊子を持って、お坊さんの声と合わせて慣れないお経を一所懸命に詠んでくれたのだった。
読経が終わった後、お坊さんはこうお話をされた。
「私はこれまで幾度となく葬式をしてきましたが、こんなにご親族が一つになった暖かな式は初めてです!!それも、宗派が違うにも関わらず、気持ちよくお経を詠んでくださって、亡くなられたご主人がどれほど愛される素晴らしい人であったかが偲ばれます。」
四面楚歌状態を覚悟して来られていたのだろう。感激しきりだった。

その時、いいお坊さんだとは思ったけれど、このお寺となら長く付き合っていけそうだと感じたのは、つい最近になってからだ。
昨年、秋、舅の七回忌法要があった。
葬式の時よりは人数は少なかったが、やはり遠くから親戚が一同に会しての法事。
そこに、お坊さんはちゃんと、懐かしのコピーお経冊子を風呂敷に包んで持って来られていた。
「あのお葬式は、本当に忘れられません。これは、私の宝物として大切に持っているのです。」と言われて。

この人なら、この人のいるお寺なら、菩提寺として永くお付き合いさせていただきたいと、心から思える。

    信仰も 人のあいだに つむぐ縁 より集いたる 菩提樹の杜

ありがとうございます。

再び武禅へ

5月の25・26・27日は、武禅一の行特別行会に参加してきた。

前回と同じく、前夜に家を出て、深夜バスで大阪に。
そこから特急とバスを乗り継いで、和歌山県の熊野古道へ向かう。
家を出るときに空模様が気になったので念のために持っていった傘が役に立った。
時間まで熊野古道の沿線の景色の良い場所をゆっくりと歩いて見て回ろうと計画していたのだが、大雨で、とてもそれどころではない。
六角形の日野武道研究所にちょっとだけ似た佇まいの熊野古道館が参拝ルートの途中にあり、以前バスの中から見かけたときに気になっていたので、時間つぶしに丁度良いと下車してみる。
しかし、そこは展示物も少なく食事も出してはいない休憩施設であったため、あまりにも退屈な上、リユックを背負ったウォーカー達の中で一人でポッカリ浮くいたたまれなさに耐え切れず、時間的に少し早くはあったけれど、武道研究所に行くことにした。


半年ぶりの日野先生との再会に胸躍る。
今回の武禅の申し込みをした際に、先生からのメールにあった「春になりましたね。」の一言が、とても嬉しい。
初めての武禅の終わりに感激して涙にまみれて言った「また、春に来ます!」を覚えていて下さったのかどうかはわからないけど、こんなに嬉しい一言はない!、というぐらい嬉しい。
それからは、指折り数えて、この日を待つ。
今回は、入金確認後に送られてくる案内の他、間近に迫った頃に再度、武禅に臨む心構えを記した文が添えられた封書も届いた。
はじめての人の不安を思いやり、尚且つ、何度目かの人の気持ちに弾みをつける文面に、先生の想いがにじむ。

   「昨日」でもなく、「さっき」でもない
   「この次は」でもない「今」を過ごしましょう。

過去の体験や感覚との照らし合わせで、今を否定したがる癖も、私が前回の武禅で日野先生から指摘されたことの一つだった。
そう、「今」、「今」、「この瞬間」を、いかに感じつくせるか。
それは本当に大きな課題だ。
改めて、先生の行き届いた配慮と、人と向き合う事への情熱の深さを見せていただいた。
武禅前から、すでに武禅は始まっている。


体調は万全!・・・に整えていたはずなのだが、なぜか家を出る直前から急に咳き込むようになってきた。
娘が「お母さんが風邪ひくなんて、珍しい。雪でも降るんじゃないの?」なんて言うくらい頑丈に出来ている私なのに、どうしてこんな一番大切な時に限ってこうなるのだろうと、自分で自分に腹が立つ。
しかし、少々の風邪なんか障害でもなんてもない。
行くしかない! 行けばどうにかなる! いや、どうにかする!!
風邪なら風邪をひいたままで学べる物はあるだろう。
病気でも、身障者でも、やりたいことはやれるのだ。
他の人たちの迷惑になるのだけが心配だったが、ひいてしまったものは仕方がない。
覚悟を決めて、出発した。


道場には、案内に書いてあったバスの到着予定より、一時間近くも早く着いてしまった。
訪問者の常識を破るこんな礼儀知らずでも先生は「どうやって?」と驚かれてはいたけれど、歓迎してくださった。
すでに参加者を迎える準備の整った空間には、穏やかで静かな雰囲気が流れる。
が、そんな中でも、日野先生と和子先生を前にした嬉しさのあまりに騒々しくくっちゃべる私。
聞きながら、先生の手にはドラムのスティック。ずっと手を動かし腿を打つ。
当たりの感触、響きを確かめておられるのだろう。
そうこうしているうちに、車やバスで参加者が次々に到着。

さあ、いよいよだ。
今回は、どんな人たちと、どんな三日間となるのか。
私の半年の成果は。
何を得ることが出来るのか。
私はほんの少しでも変われるか。進めるのか。
期待と不安。
高鳴る鼓動。

武禅、スタート!  (つづく)

アクアス

自治会の子ども育成会からバスで、島根の海洋博物館アクアスに行った。
交通の所要時間は2時間。
近い割には、行くのは初めて。
育成会員の家族は行っても構わないのだけれど、男の子達は中学生にもなると一緒には行きたがらない。
我が家からは、私と二人の小学生の娘達だけが参加した。

育成会内での女同士のいざこざは、相も変わらず続いていて、前日もなんだかんだと相談を受けていた。
いくら聞いても埒は明かない。
なので、「よし、わかった。私がうまくやるから、心配しないで。大丈夫、大丈夫。」と、考えもないのに適当なことを言っておく。

それでどうするかと言うと・・・、何もしない。
知らん顔して、バスの中でも本を読んだり寝ていたり。
弁当食べたらサッサと遊びに行く。
何かをやろうとやるまいと、なるようになるのだから、これでいいのだ。

11時から、アクアスの目玉、白イルカのショーがあった。
開始前に進行のお姉さんが、イルカに芸をさせる役の子どもを募集すると、呼びかけに応じて会場内からちびっ子たちがゾロゾロ前に出る。
小2の娘も「ハイ!」と飛び出して行って、前に並んだ12人ぐらいの子どもに混じって、ジャンケン。
なんと、最後まで勝ち抜いて大役を任されることとなった。
その映像はこちら。↓

ここには映っていないけど、ショーの終わりにイルカが見せてくれる「幸せのバブルリング」は、本当に幸せになれるから素敵だ。

アシカ・アザラシショーも見て、外の大きなアスレチック遊具で遊んで、お土産買って、そんなこんなで、アッと言う間に集合時間。

短い一日だった。

悪趣味が悪趣味を哂う

先日テレビで、中国のサファリパークの話題をやっていた。

トラに生きたままの動物を餌として与える場面を客に見せるコースが好評ということで、それが残酷だと、コメンテーター達は顔をしかめて口々に批難していた。

「動物虐待で国際的にも問題のある行為が11年も続けられているとはどういう事だ!」
「自然にいれば群れの中で生き延びられたかもしれない動物を人為的に一頭だけ選んで、逃げられない状態で食べさせるのは惨い。」
「生きたまま喰われる動物の、恐怖や苦痛はどれだけのものかと思うと耐えられない。」

また、与えられる餌の動物によって、一番小さい鶏だと600円、一番大きな牛だと2万5000円と、何種類かに料金が設定されているのを、
「こんなふうに動物に『命の値段』がついているんです!」と司会者が憤慨して言う場面もあった。

では、どうすれば良いと言うのか。

「普通は、先に人間が殺して、その肉を与えるものでしょう。」
と言ってる人がいた。

それだと、国際的にも残酷ではないらしい。

見えない所でひそかに殺された命のない肉は、ただの餌として安心して見られるらしい。

何をされるのかわからない動物に、苦痛を与えないように一撃で殺してやるのは惨くないらしい。

生きた動物の値段は『命の値段』だけれど、死んだ動物の値段は『肉の値段』になるらしい。

取材する人は、サファリパークの車の中からヤギが喰われる所を見た上で、同乗者に感想を聞いていた。
「あれは食物連鎖だよ。」「虎の狩りが見れるのはいい。誰も寝ている虎など見たくないからね。」
そんなふうに楽しんでいる人たちに、嘆かわしいというかのように首を振る。


何がいけないと言っているのだろう。
どこにも困っている人はいないのに。

残酷と言うのなら、野生動物を人工的に管理して見世物にする事自体が、とんでもない残酷行為だ。
しかし、そこは問題にはしない。自分達もやっているのだから。

所有する肉食動物に与える為に、自分達が食べる為でもない動物を殺すのはどうだろう。
楽しみのために、命を犠牲にしているとは言わないのだろうか。
死んだ肉を与えられ、野性の本能を奪われ飼いならされた虎は、可哀想ではないのだろうか。

自分のしている事は棚に上げ、それと違うことをしている他所を貶める。
それは日本も散々やられてきたはずだ。

「頭のいい鯨を殺して食べるなんて残酷!」
「活け作り、踊り食いなんてシンジラレナイ!」
「生食なんて、気持ち悪い。ゲテモノ喰い!」
「猿まわしは、動物虐待!」等など。。。

「文化だ!」「いや、人道主義に反する!」といくら主張し議論をしても、どちらもが納得する答えなど出ない。

結局は、趣味の問題だからだ。

問題でもなんでもないことを問題にする。
どうであれば最善であると、徹底的に突き詰めていくこともせず、
ただ、自分と違うものを批判し、それを「正義を為した」とする。

こんなのは、特に伝えたいこともない場合の、単なる時間つぶしなのだろうが、似たようなパターンを繰り返し見ることによって刷り込まれるものはありそうだ。

他を批判することは容易く心地よいが、そういった情報ほど疑い、自らへの照らし合わせをする事を怠ってはならない。

変えられるのは、他ではない。自分自身だ。

もしも、報道を見て、中国のサファリパークの残虐行為が許されないと感じた人がいたならそれもいい。
では、「そのために自分は何をするのか」で動けばいいだけだ。

くれぐれも、批判仲間を増やしていくような愚行はするなよ。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

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