選挙のお礼

投票日の夕方、とある宗教信者の多いこの団地は活気づく。
数人が道に出て、携帯電話で誰かと連絡をとりながら、
また互いに話をしながら歩いていたりする。

その中の一人の近所の奥さんが私を見かけ、声をかけてきた。

「選挙、行ってくれた?」
   「はい」
「旦那さんも?」
   「ええ、一緒に」
「ありがとう。本当にありがとうね」
   「どういたしまして。ご苦労様です」
にこやかに挨拶して別れた。

私は嘘は言っていない。
夫と一緒に選挙に行った。
そして、自分の意思で投票をした。

生まれてこの方、どこの地域に行ってもこの人たちはいた。
私は何度も衝突をして怒りのスイッチを心得たので、今のスタイルに落ち着いた。

自分で物を考えない人は、他人もそうだと思うのだろうか。
頼まれて票を入れる自動反応ロボット人間が多いほど、
この政党は当選する議員が増えるということなのに。
政治にかけるビジョンを借り物の言葉で語る以前の問題。

本人が頑張って頑張って熱狂的に幸せなのはいいけれど、
できれば、関係ない他人を巻き込まないで欲しいものだ。

海の幸

ただの民家を複雑に増築したような民宿は、さして設備など整ってはおらず、廊下から襖一枚隔てただけの部屋。
風呂も我が家の倍程度のものを泊まり客が交代で使う。
タオルは無造作に置いてあり、浴衣もなし、ブラシ・ドライヤーもなし。
旅の情緒や、繊細なおもてなしの心とはかけ離れた、ある種のワイルドさ。

だが、この宿のどこを夫が気に入ったかというと、それは、料理の旨さだった。
070728_1840~0001.jpg

昔の集会所で使ったような長テーブル2つ併せたお膳に並ぶは、山盛りの新鮮な魚介類。
070728_1841~0001.jpg

070728_1841~0002.jpg

魚も貝もコリコリプルプルで歯ごたえと舌を楽しませてくれる。
板さんは相当の腕達者と見た。
他にも、煮付け、天ぷら、サザエの壺焼き、そうめん、酢の物、南蛮漬け、お吸い物と、これでもかのご馳走尽くし。
中でも、ちょっとギョッとしたのが、ボウルの中で飛沫をあげて跳ねているエビ。
070728_1842~0001.jpg

「これをどうしろと?」って感じで戸惑う子供達。
生きたエビでも、そのまま剥けばお刺身だ。
まず見本を見せる。
ピチピチ跳ねるエビを一匹つまんで頭をもぎとったら殻を剥ぎ、尻尾を持って醤油を付けてパクリ。
「美味し~~」
それで、子供達もやり始める。
わーわー、キャーキャー言いながら食べる食べる。
しかし実は私は平気な顔をしてはいたが、内心かなりビビッていた。
生きて動いている物を殺すのは、ものすごく怖い。
パックに入って売られているものと違って簡単には剥けないし、指に筋肉の震えが伝わってくるのだから。
何匹目でも怖さはなくならない。
しかし、物を食べるとは本当は、そういうものだ。
普段は直接手にかけていないけれど、毎食毎食食べる生物を殺している事にはかわりはない。
そこを自覚しておく為には、時にこういった経験は必要だと思う。
長女だけは怖くてどうしてもできなかったので、少し厳しい事を言いはしたが、そういう感受性も間違ってはいない。
怖いものは怖い。
私が剥いてやったら喜んで食べてたしね。
エビが暴れるので、畳はビショビショ。でもそんなのも気にしない。それもワイルドだ。

美味しい食事と、はじける会話。
旅の夜はとても充実したものとなった。

家族旅行

20070728203904 20070728160904
一昨年、夫が「いとこ会」で行った場所が良かったと言うので、一泊の家族旅行にきている。
呉市の倉橋島。

スッゴくボロボロの民宿のオバチャンは、スッゴく人が良い。

そこで教えてもらった海水浴スポットは、近くの海に面した廃校。

真夏、2時からの炎天下、日陰のまるでない場所でも構わず海に飛び込む子供達。

もう若くはない私。
しかも、化粧が嫌い、日焼け止めも嫌いときてるから、お肌のトラブルは確実だけど、、、まぁ、いいか。

この際だ。お母さん自慢のクロールを見せてあげよう。
持久力まるでないけどね。

ぬるま湯地獄

次男が面白い事を言った。

「周りがみんな馬鹿ばっかりだったら、自分が馬鹿だとわからないからいいよね」

「でも、賢い人達とは縁が遠いだろうね」と言うと、
「別にいいじゃん」と答える。

「もし近づける機会があっても、恥ずかしくて行けないかもね」
「うん、いいよ」

「そして、もっと馬鹿な人達を見ては、『カワイソー』『あれほどは馬鹿じゃなくて、良かったー』と笑うんだろうね」
「おお、最高じゃん(笑)」

どこまで本気かわからないけど、小憎たらしいったら。

だけど、それって、まるで地獄みたいだと思う。

闇の亡者は、光が辛いから、自ら上がろうとはしないのだろう。

幸せのチカラ

ウィル・スミスの「幸せのチカラ」という映画を見た。

悪い時には悪い事が重なるの見本市みたいな映画で、これでもかというぐらい、主人公のやることなすこと裏目に出る。邪魔が入る。
それも、何も今でなくてもいいのにという絶妙なタイミングで。

仕事もなく、金もなく、愛も失って、手元にあるのは一番大切な宝物、子供と数台の販売できる機械だけ。
紆余曲折の末、やっと希望の会社に就職できたと思ったら、研修期間中は無給。
その上、同じ試用採用者20人の中から本採用されるのは、たった1人だけという狭き門。
その間の生活の保証はなし。
ほんの数ドルにも事欠く暮らし。
そんな感じで延々と続く。

普通、映画だったら中盤あたりで奇跡的な何かが起きて、運命の大逆転となるものだろうが、この映画にはそれはない。
無理解な人達を見返すような胸のすく痛快さは味わえない。
ひたすら、イライラ、ハラハラ、ムカムカし通しで胃に穴があきそうな程、カラダに悪い映画だ。

しかし、これ以上ないくらいのどん底でジタバタと足掻き続けて、それでも諦めない。
なんとしても子供は守るし、希望は捨てない。
出来ること、今やるべき事をがむしゃらにやり続ける。
悪い事もするし、感情的になるし、見られたもんじゃないくらいカッコ悪いのだけど、素敵なのだ。

ギリギリの土壇場でも、子供に優しく語りかけ抱きしめる。
仕事に私情は持ち込まず、あくまで計算高くスマートに徹する。
これを貫き通す強さ。

大切なものは、たとえ自分がどんな状況であろうと、最大限大切にする。
そこには、一切の言い訳や責任転嫁は生じない。

誰かのせいにして誰かが救ってくれるのを待ってる暇なんかない。
次は?次はどうする?と動かなければ生きていけないからだ。

「そんな人いないよ」と、ただの作り話とするのは簡単だが、「幸せ」とは何かを考えた時、これほど的確に表したものはそうそうないと思う。

幸せのチカラとは、「こんな状況だから私がこの選択をするのは仕方ない」とは決して言わない生き方。
自分にも他人にも、言い訳しない覚悟。
私はそう思う。

奇跡は最後まで起こらなかったが、なるべくして出た結果にハートが暖かくなる映画だった。

胃がストレスに強い人には、是非オススメ!

繰り言

人が人を責めるとき、
または責められてるように感じるときには、
「私のせいじゃない」
「私の方が正しい」
「私をわかって」
と言っている。


むしろ、それしか言っていない。

やり甲斐 と 見返り

喜ばせたい人がいた。

頑張った。

喜んでくれた。
心から楽しんでくれた。
とびきりの笑顔を見せてくれた。

嬉しかった。


それでいいんじゃないの?
大成功でしょう。

なぜ“それだけ”では不満?

どれだけ見えない部分で汗水流して働いたかわかってくれない人達がいるから?
労いの言葉が足りなかったから?
感謝の気持ちの表現が期待した程ではなかったから?
たいして労力も使わず、楽しておいしいとこ取りの人が大きな顔するから?

では、あなた達は何がしたかったの?

私は、そっちの目的達成のお手伝いはできないな。

そんなに辛くて嫌な思いをするなら、やめれば?

別に困らないよ。

もし、困る人が出たとしても、あなた達が犠牲になって困り続けるよりずっといい。

やりたい事をやったらいい。
自分の行動も感情も、すべて自己責任。
それが大人。

「あの人が子供過ぎる」なんてのは、どうでもいいでしょう。

レモン10個297円

スーパーでレモンが安かった。
大きさも形も、ゆずと見間違うような広島レモン。
070725_1640~0001.jpg

外国産の野菜も果物も気持ち悪いので、少しお高くても
何でもなるべく国産を買うようにしている私にとって、これは嬉しい。
暑い夏の体力回復と気分のリフレッシュに最高の蜂蜜レモン?
それとも、以前からやってみたかったレモン酒がいい?
どちらにしようかと迷った挙句、レモン酒に軍配が上がった。
熱湯で表皮をきれいに洗い、皮を剥いて実を輪切り。
皮も2・3個分だけ入れて、氷砂糖、ホワイトリカー。
飲み頃は、どんなに早くても3ヶ月はかかる梅酒とはちがい、たったの三週間。
お盆休みの間には飲めるようになるという算段だ。
また一つ、待つ楽しみが増えた。
070725_1710~0001.jpg
(↑後ろは漬けて一ヵ月半の梅酒。まだまだ。)

残った皮は、そのままお風呂に。
天然の香りに包まれて、気分はリラックス。
お肌はキュッキュッ。
最高だね。

発願

片チンは、13歳の時に「人の役に立つ人間になる!」と決めて、
そのポリシーを今まで貫いてきたと言う。
彼は、ほんとうの本心がどうなのかにはまだ気付いていないにしても、
若くして目標を決めて突き進む、その情熱を素晴らしいと思う。

そんな話をする中で、私が13歳の頃がどうだったかを思い出してみたのだが、
たいしたことを考えてなかったし、ろくなことをしていなかったと思う。
ものの道理も何も知らないくせに、変なトコロの知識だけは人一倍で、
妙にひねくれたマセ餓鬼だった。
「人間なんて、汚いよ」
「正直者がバカをみる世の中だ」
「所詮だれも、自分だけがかわいいもんよ」
「何のかんの言ったって、とどのつまりは金でしょ」
なーんて事を、平気で口にしてたくらい。

そして、そんな私の将来の夢はというと「大金持ちと結婚する!」だった。

私の家は幼い頃からド貧乏で、いつもお金の苦労が付きまとっていた。
もちろん物が買えないのは困ったことだが、それにも増して辛いのは家庭の雰囲気だ。
私は、朝から晩まで「金がない、金がない」と言うような暮らし、
イライラぎすぎすして不機嫌に周囲に当り散らす母のような生き方は、
絶対にしたくなかったのだ。
貧乏でなければこうはならないのなら、幸せになるには大金がどうしても必要となる。
玉の輿は、女が手っ取り早く金持ちになるには、最適な手段と思えた。

そんな幼い私の考えを、母は笑った。
「そんな、お金なんかで相手を選んじゃダメよ。
 なんと言っても、好きな人と結婚するのが女の一番の幸せなんだから。
 金持ちで冷たい人間より、貧しくても真面目で優しい人がいいでしょう?
 愛のない結婚は不幸なだけ。」と。

その時は母に、「自分のやってることは棚に上げて!」と無性に腹が立って、
「愛でメシが喰えるか!
 私はこんな貧乏な惨めさは子どもには味あわせたくない!
 どんな醜い老人と結婚したって、金さえあれば幸せなんだ!」と、
ものすごく反発をしたものだった。
(失礼だよねー。醜い老人にだって選ぶ権利はあるっての。:笑)


しかし・・・・・・・

それほどの激しい願いは、どこへやら。
見事に金と縁のない人と結婚してしまった私は、今、しっかりと貧乏暮らし。

笑い話だなぁ、と思い返していたのだけれど、ふと、あることに気が付いた。
願いは叶っていたのかも?

私が嫌だったのは、朝から晩まで「お金がない、お金がない」と言う暮らし。
お金がないことで、イライラぎすぎすと周囲に当り散らし愚痴る毎日。
それは、ないのだから。

金持ちと結婚しなくても、何でも欲しいものが買えなくても、
他人に羨まれるような暮らしをしていなくても、将来が安泰とも限らなくても、
上機嫌でいられる。家族で楽しく過ごしていられる。

思い描いた理想の願いとはぜんぜん違う、叶い方。
今の今まで、本心で自分が何を求めて、何を決めていたのかを知りもしなかった。
でも、そうだったんだ。

へー、なんだかねー、自分で自分に驚くよ。

わからない。わかりたくもない。

毎年、この時期の母親達が合い言葉のように口にするのは、
「子どもが家にいると大変」。
「うるさいし、散らかすし、鬱陶しい。ダラダラと遊んでばかりで勉強なんかしやしない。毎日の昼ご飯が面倒くさい。早く学校始まって欲しい」なんてセリフ。
子のない人や、子育て終わった人、男性からも、
「大変でしょう。」と労われる。
それはもう、幼稚園の頃から決まって。

だけど私には、何がかわからない。

朝ゆっくりできるし、洗濯物少ないし、事故の心配減るし、見なきゃいけないプリントとかないし、学校行事で煩わされないから、楽で良いこと尽くめに思える。

子どもが勉強しないからって、何でイライラに繋がるのか、家にいて欲しくない理由が、いくら考えてもわかんないんだよなぁ。

夏休みとは関係ないけど、
「嫁と姑はうまくいかなくて当たり前」
「家庭は苦行の場」
なんてよく言われるのも、私には実感がない。

みんな、もしかして謙遜?
家庭を作ってるのは自分だから。
そうだとしても、私は大切な人達を悪く言いたくはないんだけど。

この風習には馴染めない。

そのまんまでいいんだよ。だと?

  「そのまんまでいいんだよ…」
  「あなたはあなたであればいい…」

やかましいわい!!
どこのどいつがどの口でよくもまあ他人にそんな事が言えるのか。

嬉しげに頷いて聞いてる奴、
「心が楽になりました」じゃないだろ!

気持ちわるいなぁ。
嘘つきばっかだ。

「ありのまま」は気に入らないくせにさ。

いや、
だから許可を求めるのか。

タマゴ作品

20070723124803
これが、いずれ美容師になるかならないかわからない長男が2時間かけて刈った、片チンの頭。
千円カットの散髪屋でも、さすがプロなんだなぁと見直したよ。

親馬鹿?、バカ親?

現在私は、友人に頼まれてバレエ教室の発表会のプログラムを作っている。
これは仕事ではなく、個人的な協力で。
発表会をするとなると、いろいろ物入りで、先立つものが必要だ。
教室では、少しでもその経費の足しにしようと、企業や店の広告をもらってくるように、教室に通っている子どもの親達にお願いしたという。
しかし、そのスペースを個人で買って、我が子への応援メッセージを入れようとする親がいようなどとは、またそれが一人二人どころではない人数にのぼろうとは想定外だったようだ。

「●●ちゃん、頑張って~~!」
「○○ちゃん、ママも一生懸命衣装を作りました」
「▲▲ちゃん、涙と笑顔の練習だったよね」
「□□ちゃん、見てるからね」「応援してるよ」
「パパとママより」「おじいちゃん、おばあちゃんより」
こんな原稿がどっさり。
私からすれば、一見して「うわ~、ごっつキッツイわー!」なんて仰け反ってしまうぐらいの恥ずかしさなのだが、当の本人達は大真面目で、何が問題なのかがわからないらしい。
教室側も一度、こういったものを広告スペースに入れるのは好ましくない旨を伝え、諦めてもらおうとしたのだが、聞き入れてはもらえなかったと言う。
「お金がいるんでしょう? 協賛って、つまりは応援よね?
 だったら、親族が我が子、我が孫を応援して何が問題?」といったところだろうか。
習い事の教室は、公的な教育機関のようにモラルを指導する立場にないため、厳しい面はある。

それにしても「応援」とは言うものの、いったい誰に向けてのメッセージなのだろう。
パンフレットに子どもの名前をでかでかと出して。
毎日共に暮らし、いくらでも直接声をかけられる相手に対して、多くの人が手にし、目に触れる印刷物を通して語りかけるのは、普通に考えて不自然だ。
その上、「みんな、頑張れ!」と、我が子と同じステージに立ち、一緒に作品を作り上げる仲間達を応援する言葉は一行たりともないとは、お寂しいかぎり。
この人たちにとっては、我が子だけを可愛く思う親の気持ちの大アピールこそが愛情といいうことなのか。

親ばかもほどほどにしないと、みっともない。
持ちモノ自慢をする人ほど、中身がないと振れ回ってるようなものなのだから。

もちろん、子どもも愛もモノではないが。
しかし、この扱われ方はどうだ?

緊急出動

ビーッ、ビーッ、ビーッ
「スクランブル発生、スクランブル発生。至急応援頼む!」

そんな感じに、電話が入ったのは木曜日の昼前。
休みで、のんびりたまった家事などをしていた私は、いきなり忙しくなった。
少し残った今週の仕事を片付ける為に一人出勤していた同僚が、あとは印刷会社に渡すだけのチラシのデータを誤って消去してしまったのだ。
すぐにでも渡さないと、週末折込には間に合わないというので大パニック。
前日にデータを他のパソコンに分散させていたのだが、こういうときに限って運悪く、残っていなかった。
切羽詰った悲鳴のような声を聞いては、とりあえず会社に駆けつけないわけにはいかない。
車をぶっ飛ばして会社に着いたのが12時半。もう一人もすぐに到着。
それから三人で、細かな情報びっしりのチラシを一から作り直して、出来上がったのが2時。
普段は半日かかる制作の最速記録を出したことになる。
3時までに持ち込めばなんとかセーフなので、帰りがけに私が印刷会社に寄って一件落着。
費やした時間は短かったが、まあ、心臓に悪いような時間だったよ。

デジタルもんは、中身がいつ何のはずみで一瞬にして無と消え去るかわからないような存在だから、恐ろしい。

それにしても、よかったよかった。

お子ちゃまの定義

自分の感情のままに振る舞って、
「わかって欲しい、わかって欲しい」
「わかってくれて当然だろ!」
「なぜ、わからないんだ!」
との気持ちを持ったり、他人に押し付ける人は、年齢に関係なく“お子ちゃま”だ。

幼い子どもの心は出来うる限り大切にするが、大きなお子ちゃまのエゴなど相手にはしない。

私はそういう選択をする。

セレブの品格

ニューヨークのセレブ御用達のエコバッグが数量限定で売り出されるのに殺到する台湾と日本の人々の様子がテレビの画面に映し出されていた。
前の晩から並んで、もみくちゃになりながら人を押しのけ、泳ぐように商品にたどり着き手にしようとする必死の形相。
ポップで可愛い文字で「私はレジ袋じゃないわよ」とデカデカと書いてあるバッグを使って、どんなエコロジカルな生活を夢見てるのだろう。

最近では、「女性の品格」という本がブームになっているとも聞く。
私は読んでいないので、詳しい内容は知らないが、ある会社では社員教育にまで使われるというほどの良書だということだ。

セレブなエコバッグを求める女性達が読んでいる割合は、どれくらいだろう。

結構、高いかったりして。

先日、目にした愛読者のインタビューの受け答えで印象に残ったのは、
「“品格”なんて、自分とは違う世界のことだから憧れるんです」という言葉。
そう考える人もいるんだなと。

私は、庶民の品格、平凡な主婦の品格、貧乏人の品格ってのもあると思ってるから。

断熱シート性買い物袋を持って行ってスーパーのポイント集めて賢くお買い物とか、ゴミ袋としても使用できるレジ袋の店を選ぶとか、そういうのも、暮らしの品格の一つ。

自分が美しいかそうでないか、ただそれだけを基準にするのは、“品格”と呼ばない?

何に価値を置くかは人それぞれだからいいけどね。

皆が欲しがる数量限定品に血眼になるのは、お下品でしてよ。
奥様方。お嬢様方。
オホホホホ・・・・・

すっかりキレイに

忘れてた。

全世界同時瞑想タイム。

「あ、」と思ったのは、食卓前で合掌した22時過ぎ。

今日は、仕事を終えて急いで帰ったら、保護者に配布するPTAのプリントをパソコンから出力して小学校で夏休み前で忙しい先生方の間を縫って印刷し、各子ども育成会の会長さんにも運動会についての会議の案内出し。
その後、子供を迎えに行って、買い物をして、食事の支度をする間もなく、育成会で夏休みのイベントの打ち合わせと、先日のそうめん流しの反省会。
それからご飯作ったんだから、そんな時間になるよね。

よゐ子は寝ている時間から夕飯というのは、我が家では珍しい事ではない。
「どこに行ってもぽあんさんがいるね」と最近よく言われるような毎日を送っているけれど、子どもにしてみれば迷惑な事だろう。
子どもの為にやってる筈の役員の仕事で子どもが犠牲になるという矛盾はいただけない。
時間の使い方をもっと上手くしなくては。

瞑想したり、何かを「感じようとする」暇なんかありゃしない。

だけど、それでいいのだと思う。

胸キュン

会社で普段どおりに仕事をしていても、どうも落ち着かない。
イライラとか、そんな感情が乱れてるわけではないのに、胸が苦しい。
もちろん臓器に異常があるような感覚なんかではないのだけれど、やたらキューッとくる。
濃いコーヒーを飲みすぎた深夜のハイ状態にも似ているが、頭は冷めている。
台風の前のようないてもたってもいられないのとも違う。
悪い予感の胸騒ぎでもない。危険も感じない。不安でもない。
それなのに、胸が絞られるようにキューッときて、喉から顎や口の中にまで痺れが広がり、ピリピリと痛い。
やたら高エネルギー反応?
「変だなぁ」と思っていたら、地震が起きていた。
今日はそういう日だったのかな。


明日は面白いイベントがあるというので、ある種の人たちの間で話題になっている。
夜の8時11分から一時間、全世界的にいっせいに瞑想するらしい。

この人たちは本当にお祭り好きだ。
この月初めには、3000年に一度の奇跡の画像が7つの願いを叶えてくれるとかで「神の目」ってのを配信しまくっていたっけ。
目のように見える星雲なのだが、「NASAが撮影した」とだけ強調するわりに、肝心の星の名がどこにもない文章を添えて。
その上、「7日まで」「(この情報を)自分だけで独り占めはしないこと」
なんて口説き文句を使われた日にゃ、夢見がちなハートはイチコロだわね。
んもー、この、テクニシャン。
地球から目のように見えるその天体は、みずがめ座に惑星状星雲NGC7293。
現象としては、1825年より前から観測されてるらしい。
3000年前はどうだったかはわかんないけどね。(その気になればシュミレーションは可能かもしれないけれど、どうせ興味はないでしょう。)
参考(2003年のニュース)

明日は明日でまたドッと盛り上がることだろう。
私は参加しないが、ちょっと気にしておこうと思う。
「自然」と「思念」をどう感じるか、感じないかというところで。

--------------------------------------
(追記)
まあ、祈りの人数にも、深さ(統一観念)も、真剣さ(命がけ)も、
宗教者の結集には遠く及ばないとは思うんだけれど、ね。どうだろ。
それともこれはこれで、一つの宗教とも言えるかな。
なにしろ、多くの人が定義づけに挑んだけれど誰も成し遂げられていないんだもの。

いろんな団体が好んで使う、「これは宗教ではありません」なんて言葉も寝言、寝言。

おっと、いかんいかん。
高エネルギーのせいで、またまた過激モードに入っちゃってる?(笑)

うららかな午後

昨日は足裏ベタベタして不快指数100%だったのが嘘みたいに、打って変わって台風一過の今日は、マイナスイオンに満ち溢れた晴天で、足の裏もサラサラ。
気持ちいいー。
青く深い空、光る雲、吹き渡る涼やかな風、セミの鳴き声。
お外に遊びに行ったまま無断外泊の不良猫娘も昨夜無事お隣の畑で保護することができたし、何の憂いもなく、ビールを飲みながらゴロリと横になって、勢いよく流れる雲を眺めるのーんびりした昼下がりは最高ですなぁ。

庭に出て、いつものごとく車いじりの夫とダベリングもまた楽し。
手持ち無沙汰で草むしりなんぞをしてたら、ブロックの間から出てきた、かわいらしい生き物と「こんにちは」。
あらま、カエルちゃん♪

腕に乗せると、体温の高さが申し訳ないぐらいヒンヤリとした体でひっついてくる。
鮮やかなグリーンにゴールドの輝きの美しいこと。それでいて、この愛嬌。
愛でられる為に造られたわけではないのに完璧なんだよね。
070715_1540~0001.jpg

070715_1541~0001.jpg

記念撮影をしていると、何を感じるのか徐々に私に正面を向いてくる。
070715_1541~0002.jpg

そして………


ピョン

!!!!!

「キャーーーーーーッッッ、はっはっはぁ(≧∇≦*)」

070715_1542~0001.jpg

070715_1542~0002.jpg


どう?
この胸元のアクセサリーは。
素敵でしょ~。

台風の空

070714_1937~0002.jpg


070714_1939~0001.jpg


私は台風が好き。
とりわけ、こんな空の色はたまらない。
時間を忘れてみとれてしまう。
何か大切なことを思い出しそうで、それでいて、そうなったら怖いような気持ち。


強い風が吹くと落ち着かない。
いてもたってもいられず、ソワソワと追い立てられるかのように動き回る。
地震の時と同じで、台風などの低気圧は大気中のプラスイオンが増大するから、動物の本能としてそうなるのかもしれない。
で、どういうふうに動き回るかといえば、私はとにかく買い物に走る。
強風豪雨の中でもスーパーに向かい、大量に食料品を買いまくるのだ。
家族6人×数日分の肉・魚・野菜・卵・パン・飲料そんなこんなをドチャリコンとかごに入れ、それに更にお菓子を山ほど。
いざというときでも、甘いものを食べて生き延びることができる、なんだかそんな気がして。(雪山遭難か?)
どれだけ食品ストックがあっても、「これで大丈夫」という感じがしないのはどういうわけだろう?
私の中ではどうも「生命の危機回避」=「食料確保」という図式が根本にあるみたいなのね。
「いのちは食べ物で出来ている」のは間違いじゃないけど、台風の危機的状況にもそれを当てはめちゃうってのが、自分でも可笑しい。
子どもらも、「災害の備えになぜお菓子ばかり?」と笑うけど、しょうがないんだよ。そうできてるんだから。
今回も、台風が過ぎてもしばらくは買い物に行かなくても済みそう。。。

マイナス感情の世界をあとに

自分を害するものを遠ざけ、益するものを求める。
これは至極当然。

腹が立ったり、悲しくなったり、気分が悪くなるような物に、わざわざ近寄って行く馬鹿はいない。
普通はそう思うだろう。

しかし人間とは面白いもので、怖いもの見たさならぬ、嫌なもの見たさのような心理が働くことが往々にしてある。

そんなに嫌いなら見なきゃいいのに、気になって仕方がないなんてこと。
あら探ししては、ああだこうだとやってしまうような時って、たいてい自分をなおざりにしているものだ。

そこで、何が見たいのか、何が知りたいのか、それによって何を得たいと思っているのか、どんな感情を刺激されているかを観る、観ないかが分かれ道。

人は本当に不快な事はしない。
嫌なものの何かが心地良いから、そこに居続けている。

だから、そんな人を見たとしても、何も言うことはない。
黙ってその場を離れて近づかない。
それが自分の世界に責任を持つということだ。

寝返り名人

あんなに「嫌だ」「嫌いだ」「悪党だ」「絶対に許せない」と言っていた人と仲直りしたんだ?

そして今度はあれほど「いい人」「優しい」「大好き」「一生付き合える本物」と言っていた人が「許せない」わけね。

一緒になって悪口を言っていた人の悪口を言われていた人にできるその神経、まったくもって恐れ入谷の鬼子母神。

昨日の敵は今日の友で、今日の友は明日の敵。か?
おお、怖い。

結局、誰でもいいんだよな。
その時だけ自分が気持ちよければ、さ。
相手なんざ、見ちゃいない。

その口で善悪だの愛だの語られても、質の悪い冗談にしか聞こえないよ。

進路

中三の長男が高校に進学しないと言う。
美容師になりたいのだそうだ。

本音は勉強が嫌いで逃げたいだけというのもわかってる。
出来うるならニートなぶら下がり生活が理想だが、ガミガミうるさく言われながら自由になる金もなく引きこもれる部屋もない状況は目に見えているので、仕方なくそれらしい形を提示してみた、といったところか。
所詮、私の子だもんね。(笑)

まったくの寝耳に水というわけでもない。
昨年の学校からの職場体験では、大多数の男子が一般企業や工場を希望した中でただ一人、美容院に行ったという変わり者だし、春のコタツに外人事件もある。
あれから黒髪に染め直したものの徐々に色が抜けて、今や立派な茶色で、その上、自分でカットしてるこだわりの長髪。周囲に遊ぶところのない片田舎の地味な不良より、よっぽど目立っている。中身はおとなしく平凡な子のくせに。

専門学校のパンフレットを取り寄せるらしいが、どこまで本気なのかはまだわからない。
どうしたものか?と、どうもできないことを知りつつも頭を抱えてしまう。

今朝、中学の役員としての交通立哨で、たまたま中学のPTA会長と一緒の当番だった。
彼は小学校の元PTA会長でもあり、ここ数年来、役員の仕事を通じて親交がある。
その人の上の娘さんは長男より一つ上。彼女も勉強が嫌いで、就職をした口だと聞いていた。
立哨の後、少し話を聞いてみた。

親としてはやはり高校に進学して欲しかったようだが、「いやなモンは仕方ない。こればっかりは。自分で探して勤め先を見つけてきたら、もうダメとは言えんよ。」と、あっさりしたもの。
どうも、娘さんは娘さんなりに作戦を立ててたらしい。
夏前に専門学校の入学資料を取り寄せ、その高額な授業料で親の度肝を抜いておいてから、「他にやりようはないのか?」と聞かれる中で「あるよ。」と、あらかじめ話をつけておいた店に通うことを打ち明けたのだという。
やるじゃん。
中学在学中から毎週のように店に手伝いに通い、卒業して即就職した彼女に対して、親が応援できるのは送り迎えぐらい。
夜が遅くなったり、いろいろ心配の種尽きないが、腹の中にグワーッと渦巻くものがあっても、黙って見ているしかないのだと言う。

確かに子どもは頼りなく、危なっかしい。
何を考えているのか、どうしたいのか、どうなりたいのか、全然具体的ではなく、ただなんとなくのイメージを膨らませるだけ。
だから、「ああしたらいいのに、こうも考えられるよ」と、つい口を出したくなる。手を出したくなる。動いてやりたくなる。
今の私は丁度そう。
でも、ここはグッと我慢、我慢。
転ばぬ先の杖はいらない。
躓き、転んで、ずっこけて、さんざん痛い思いや回り道をしてこそわかることがある。
そういう親のスタンスの話が出来る人が身近にいるのは本当に心強いものだと感じる。
もちろん夫もそうだしね。

それにしても、子どもは自然に成長し、親もそれにつれて成長してはいるのだろうけど、やっていることはさほど変わらないものだ。
赤ん坊はヨチヨチと歩いては派手に転んでタンコブ作って泣きわめき、それでもまた歩きだす。
親の仕事は、上手に歩けるように手をひいたり歩行器を与えることではなくて、障害物を全部なくして平らな地面を作るのでもなくて、こけないように支えることでもなくて、ただ見てるだけ。
子どもは行きたい所に行くのだから。
痛みが嫌ならそうならないように気をつけて、邪魔なものをどう避けるか乗り越えるか考えながら試しながら、格好悪くても時間がかかってもたどり着く。
テーブルの角を包むように置く癖の親の手、いつも後ろに倒れた時にたまたま頭の下にあるクッション、下部の段だけ空の引き出し、等々には気が付かないが、それでいい。

君が行きたい所へ行ってくれ。

それがいつの時も、親の願いだ。

変身

「ねぇ、私って変わったでしょう
自分でも、変わったなと思うもの
もう、以前の私じゃないの
物の見方考え方から行動まで
何より、意識が変わったわ
不思議でしょう
なぜだか知りたい?
それはね………」

ううん。
あなたは何も変わってやしない。
何ひとつ。
それを今のあなたの言葉で証明して見せてくれている。

人って、哀しいくらい変わらない。

タケウマ

悔しい!
悔しい!
悔しい!

竹馬が乗れない。

子供の頃、外で遊ばない子だったのでやったことなくて、以前から一回はやってみたかった。
それで、今日、自治会恒例のそうめん流しの後の竹細工で竹馬を作ってもらったので子供らが遊ぶのに混じってやったのだ。
まあ、もう身体も大きいし、かたいし、動きも鈍いわけだから、今更できなくて当然で、不安定さの怖さを体験すればいいかという、ほんのお遊びのつもりだったのだけど………ヤバい、マジになってしまった。
そうだった。
私は半端じゃない程の負けず嫌いだったって事を忘れてたよ。
何が腹立つって、たいして難しくもない、出来たからって「へー、それがどうしたの」ぐらい無意味で役にも立たないことが、私に出来ないくらい悔しい事はない。
すっごい練習したよ。
壁にもたれかかって前に出ようとしてへっぴり腰。
ならば、前について足踏みと頑張るも、身動きできす。
半端じゃない程負けん気強い私は、半端じゃない程の鈍くささなのだ。
運動神経0。な割に、無駄に元気というのも結構辛いんだよぉ。
練習、練習、また練習。
人が必死こいてるっつーのに、近所のガキどもは「おばちゃーん、次貸して~」「手伝って~」「ここ持って~」と、無邪気に寄ってくる。
「うるさいんじゃ!今、それどころじゃないってのが見てわからんのか!あっち行けや!」とは、さすがに思っても言えなくて、付き合ってやる大人の私。我ながら偉いよ。(どこがや!)

結局、もうちょっとでコツが掴めそうって所までで終えて帰った。
汗ダクダク。
他の育成会のお母さん方が帰ってから二時間ぐらい頑張ったかな。
安定しやすいからと裸足にまでなったのに、集会所の前の家の偏屈頑固親父さえ見るに見かねて、怪我をしてギブスの足にも関わらず、コーチしてくれたというのに、できなかった。やっと一歩しか行けなかった。
ムチャ悔しい。

絶対出来るようになりたい。
見てろよ。
来年は、私は竹馬乗りの指導員になってやるから。

そのためには、私が乗っても壊れない頑丈な竹馬を手に入れるか作るかしなくちゃな。
そこが何より難しかったりして。

「ありがとう」という呪文

「ありがとう」
「ありがたい」
小林正観さんの影響か、斉藤一人さんのせいか、はたまた、ありがとうおじさんがまだ頑張ってるのか知らないが、今、日本人が言いたい言葉第一位がこれなんじゃないかな。

いいことだよね。
いい言葉。
美しい日本語。

だけど、時々、穢されたような印象を受けることがある。

「~~だから、ありがたい、ありがたい」
「嘘じゃなく、本当にありがたいと思ってるんだよぉ!」
なんて感じで、病気や不運や批判など、通常不快に受け止めて然るべき事に対して、感謝をして見せるというアピールには。

現象には良いも悪いもなくて、一見最悪に見える出来事が、後に思いがけない幸運を引き寄せる事もあり、その逆もありと教えるのが、「人間万事、塞翁が馬」ということわざ。
それはいかなる時も「落ち込むな⇔有頂天になるな」「投げやりになるな⇔油断するな」ってことで、結局は私の座右の銘である「ケ・セラ・セラ──なるようなる」に通じると私は受け止めてたんだけど、そうではない人も多い。

「すべて良い方に行くようになってると信じれば信じるほど、その良い事が現実になる」みたいな意味にとる人が、その狙いに、「ありがとう」を使う時の響きは、なんだかとっても不自然。

感謝は心がするもので、言葉は伝えたい人に向けるもんじゃないの?

願望達成と自分を演出するツールにしている人たちは群れてるから、気付けない。

そんな無理な感謝の一番マズい所は、本心を抑えつけちゃう事。
腹が立ったら怒る。
辛いなら泣く。
そんな当たり前の感情を、まるで罪悪かのように封じ込めて、ないことにしたって、いつか形を変えて出てくるもんだから。

他人に見せる笑顔を無理してでも作るのは悪いことじゃないけれど、
感謝は、努力して作るもんじゃない。

もちろん、日常のすべてが感謝に満ち溢れているという生き方が最高でも、そうでないなら、そうなってない自分を感じていればいいんじゃないの?
と、私は思うけどね。

何かしてもらったら「ありがとう」は、会ったときの挨拶と並んで、
人間関係の基本中の基本で、当たり前の事。
あんまり気持ち悪い使い方しないで欲しいな。
普通に、自然に、かる~く、大事にね。

痛みに「対処」

会社の同僚が腰痛がひどくて困っている。
彼女は、頭痛・肩こり・生理痛持ちでもあり、バファリンとは大親友。
そんなわけで、普通の人より痛みには耐性があるみたいなのだが、
このところの腰痛にはホトホトまいって、
子どもが寝た夜の11時から温泉に行ったと言うから、よっぽどなのだろう。
しかし、温泉に入っても痛みは軽減しなかったのだが。

「なんで腰痛になるんだろう」と聞かれても、私が答えられるのは、
「同じ姿勢を続けてるからかな?
 それか、体内の循環が悪いと弱った部分に出るんじゃないの」ぐらい。

夫の冬場に悪化する腰痛やギックリ腰について調べた時に得た結論は、
「自分の身体の求めに素直に従うのが吉」。
他人の身体に無責任に、どうしたらこうしたらとは言えない。

すると、横で聞いていた社長の奥さんが、
「腰痛にはサロンパスがよく効くよ」と教えてくれたので、
同僚はパッと明るい顔になり、
「さっそく買って帰ります!」と喜んでいた。

そうなんだよね。
痛みをなんとかしたいんだもの、そういう答えが欲しいよね。

彼女は、自身も子どももよく病院にかかる。
痛みには痛み止め、熱が出たら解熱剤、吐き気は嘔吐止め、
お通じなければ便秘薬、下痢に下痢止め、風邪には抗生物質が当たり前。
だから薬や病院の評判にやたら詳しい。
たぶん、不快な症状を速やかに取り除くのが「いい薬」で、
そういう処置をするのが「いい医者」という基準なのだろう。
具合が悪くても点滴を打って会社に来る。
「治った」と。

慢性的な痛みの原因が、おぼろげながらわかるような気がするけれど、
それは彼女にはわからないというのもわかるから、黙っている。

サロンパス、効くといいね。

水筒と猫

昨日、長女が一泊の野外活動から帰ってきた。
梅雨時期の雨の合間の夜に、なんとかキャンプファイアーもできて、たいまつの用意やフォークダンスの練習も無駄にならずにすんだ。
朝からは土砂降りになったので、残念ながら初めてのオリエンテーリングはできなかったが、まあまた機会はある。
楽しみにしすぎたからか、前日にクラスで三人も急な発熱をした子があり、娘も先生に付き添われて早退していたので体調に不安があったものの、一夜で回復して元気いっぱいに遊べたようで良かった。
夜は、見回りの先生の目を盗んで、声を出さずに派手なジェスチャーで語り合ったり、枕投げしたりと、深夜12時半まで起きていたと言う。
楽しくてなによりだ。

先日、かずこ先生に教えていただいた手作りの虫除けスプレーは、女の子達の間で、とても人気があった。市販の物に含まれるような有害物質など一切入っていない、100%ナチュラルなスプレーは、「いいにおい~」「気持ちいい~」と同じ班の女の子皆が回し使い、そのおかげでキャンプファイアーの火に集まる虫達も寄せ付けず、効果はバッチリだったらしい。娘が嬉しそうに報告してくれた。
こんなに優れものなのに、どうして企業は製品化しないのだろうと、それが不思議だ。いろいろと難しい大人の事情ってやつが絡んでんのかな。


夕方、カウンターの上に、空になった水筒を洗って蓋を開けて乾かしていたら、たれた紐をイタズラ猫を誘ったようだ。
「ガツ!」と音がして振り向くと、床に落ちて転がる水筒を残して、ダッシュで闘争する猫の後姿が見えた。
まーったく、悪いやつめ。(笑)
しばらくして、二階から猫を抱いて降りてきた娘が言った。
「この子、タンコブできてるよ」
あ、直撃してましたか。もぉ、おばか・・・・・・。よしよし。

しゃあないもんは、しゃあないやん

原爆投下を「しょうがない」との発言が波紋を広げている。
こういうのは、どこか、部落や障害者差別の言葉狩りと似ている。
地雷を踏んだ人が、鬼。
寄ってたかって「エンガチョ切った、鍵閉めた」ってなもんだ。

私は、小・中・高と広島市で育ち、特に小学校は爆心地すぐそばの本川小学校だったため、平和教育は徹底的に受けさせられてきた。
それよりもっと幼い頃でも、まだ人の手の入っていない原爆ドームの中で遊んだり、川に下りてグニャグニャに溶けたガラス瓶や、表面があわ立った瓦のかけらを拾ったりもしていたぐらい、普通に身近な事として、“それ”があった。
幾度も資料館に足を運び、語りべの話を聞き、毎年8月6日の朝には黙祷、夕には灯ろう流し。
かつてここに多くの命の営みがあったこと、そしてそれが愚かな人間の手によって消し去られてしまったことを胸に刻んで、忘れてはいけないと思っている一人だ。

それは、歴史を知る人すべてがそうなのだろうと思っていたのだけれど、必ずしもそうではないという事を知ったのは、大人になってからだ。
広島・長崎以外の地域の人にとっては、さほど関心事ではないんだよね。
せいぜい、「辛気臭い」「気持ち悪い」「(ケロイド・原爆症・死のイメージが)怖い」そんなもの。
肉親に被爆者がいる人以外で、仕事関係で動く人を除いて、8月6日と9日に何かするって人が、どれくらいいるだろう? 原爆や終戦の特番をやってたら「何か他に見るものないのぉー?」とチャンネルを変えてる人が大多数ではないだろうか。
映画パールハーバーで単純に感動して、スミソニアン博物館で原爆投下のエノラゲイが英雄として称えられてても特に何の憤りも持たず、アメリカが9.11テロ跡地を「グランド・ゼロ」と呼ぶことを許す人々が、ちょっとした発言に対しては、蜂の巣をつつく騒ぎとは、おかしなものだ。

かく言う私も、東京や大阪の大空襲とか、沖縄戦、その他の地域での大勢の犠牲について関心を寄せているわけではないので、もっと考えろとか、そんなつもりはさらさらない。
むしろ逆で、「過ぎたことは過ぎたことで、今更なんだかんだとあの頃の事をむしかえしたってしょうがないじゃないか」と、本音の部分では皆思ってて、これまでそういう行動してきてたくせに、一部の有識者と言われる人たちの論調のままに、右向け右で反論がひとつも聞こえてこないのはどうしてかな、という事に疑問を感じているだけだ。
本当は何も考えてやしないだろ?

私は原爆被害者についてのある人の発言で、髪の毛が逆立つぐらい腹が立ったことが、かつて一度だけある。
優れた霊能力を持つ自称神人合一の宗教家が広島で言い放った「川沿いに原爆で死んだ霊がウヨウヨして、キモチワルイ。気分が悪い。吐き気でムカムカする。だから本当はここには来たくなかったんだ」という言葉。
「地獄に落ちろ!腐れ外道!」と、その場で叫べなかったのを今でも悔やむ。

霊魂というものがこの世に残ることがもし仮にあったとしても、罪もなく亡くなった方達が、いつまでも、何十年も経ってさえまだ苦しんでいるなんてはずがない。不慮の事故の死なんて、なにも原爆に限らずありふれたことではないか。
それが自分の身に降りかかるかもしれないから、他人事ではないのだ。

ただ、正直なところ、かつての戦争体験や原爆のことをああだこうだと蒸し返しては、論じる人たちに対しては「いつまで言ってるんだ」という不快感を持つことも確かだ。
何十年経っても、「やられた」「傷つけられた」「苦しんだ」「辛かった」なんて被害者を延々続けている人には、そうすることによって何かいいことがあるのかと聞きたい。
誰にどんな謝り方をしてもらって、どれだけの補償を受けて、どれほどの人に気持ちを訴えたら気が済むのか。
何をやったって終わらないのなら、死ぬまで被害を受け続ける被害者でいたいとしか思えない。それは個人の趣味の問題だから、勝手にすればいい。
従軍慰安婦等にしても。

いつまで言うとんのや!
しゃあないもんは、しゃあないやん!
なら、どうする?を考えな。
(と、なぜか大阪弁)

他人を責めることは容易いが、自分の生き方を示すのは勇気が要る。
誰が何を言っているか。
それは、どちらの部類に属するのか、そこをよく観ることだ。
もちろん、自分自身に対しても。

いつどこででも、まったく平等に、加害者にも被害者にもなりうる危うさを持つのが人間というものなのだから。

満ちて欠け、欠ければ満つる・・・

気持ちが暗く沈みがちで、何をやってもツイていない時期というのがある。

それを自覚できるのは、そうでない時期もあるからだ。
いつもそうであれば、気が付くことはできない。


気持ちが前向きで明るく、何をやっても順風満帆の時期は、本当に楽しい。
自信がみなぎり、気は大きくなり、アイデアはじゃんじゃん湧くし、行動も素早くなる。
周囲のすべての人が味方をしてくれるように感じるし、次々にジャストタイミングで有り得ないようなシンクロニシティが起きて、もう、この世に怖いものなし状態。
「私って、すごいよなー」と思う。
「これが“本当の私”なんだ」と思う。

逆に落ち込み期は、自信はないし、不安でいっぱい。焦れば焦るほど空回りで、動けなくなる。
周囲のすべての人に嫌われてる、馬鹿にされてると感じるし、一つのドジが次々と連鎖的に失敗につながり、まさに不運の無限スパイラル状態。
「どうして私はこんなんなの?」と思う。
「こんなの“本当の私”じゃない」と思う。

極端に現したが、たいていの人がこんな運気の波の間を、上がったり下がったりと揺られているのではないだろうか。

運気上昇期が心地良いから、それが続くことを願うし、そうじゃなくなった時は、そこにどうにかして戻りたいと願う。
その願望が、うまく行く自分を“本当の私”、うまく行かない自分を“本当じゃない私”とラベル付けして分けているだけで、どちらも“私”に違いはないというのに。

満ちて欠け 欠ければ満つる 月のごと

満月も、欠けた月も、新月も、何も変わらず月は月。
見え方で、あれは「良い」とか「悪い」とか、好き勝手に言う人がいたとしても、それで自分を変えはしない。

ひと時も止まることなく様々に変化する心もそんなもの。
浮き立つ心、沈みこむ心、そのどちらも同じ“私”なら、一方を好んで、他方を疎んじることなどできはしない。
ゆったりと流れに任せて、今を存分に感じきっていこう。
プロフィール

ぽあん

Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

★★応援しています!★★
最近の記事
武道なリンク

日野武道研究所


武禅一の行

ほぼ毎日更新
(ぜひブックマークに!)
移転しています
日野晃の
さむらいなこころ


YouTube
[SRS伝説の武道家 達人 日野晃]

YouTube
[コンサートに向けて(ドラム)]

YouTube
[2005年のfeel&connect]
9日間のワークショップを10分で紹介
http://jp.youtube.com/watch?v=hA37h1-nYPc
http://jp.youtube.com/watch?v=ADoNbkOJFjc

クイズ紳助くん 2007年2月19日
「なにわ突撃隊 こころを鍛えろ!武道研究家に学ぶ!!」
オープニング映像有



やもりこ先生のブログ
峠より

八幡 謙介さんのブログ
ギター教室講師のブログ

香月章伽さんのHP
香月ダンスファミリー

館兄さんのブログ
ボディーアーキテクト公式サイト

北村成美さんのHP
なにわのコリオグラファー“しげやん”

たてまるさんのブログ
たてまるの日記

やましろ整体さんのブログ
女整体師の 出張めがね日記

怪談師夜魔猫GINさんのブログ
オカルト酒場の片隅で

星が見える名言集100
カテゴリー
最近のコメント
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
RSSフィード
最近のトラックバック
ブログ内検索
全記事表示リンク

全ての記事を表示する