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反抗期には反抗させる

小5の娘の同級生の男の子のいる隣家から、よく親子喧嘩の声が聞こえてくる。
両親ともごく普通の人で、一人っ子の子供も見る限りでは大人しい子なのだが、家では激しい言い争いというのが意外な感じがする。
小学校へあがった頃から始まって以来続いているから、ずいぶんと長い反抗期だ。
そして丁度今は親をことごとく批判して力関係を測り直すという「魔の10歳」だからよけい大変になっているのかもしれない。

我が家の男の子達には、その時期にはさほど酷い反抗はなかった。
親のすることにいちいち皮肉や難癖をつけてくるのを「変な奴~」と受け流していたら、いつの間にか終わっていたみたいな。
今度は娘の番で最近相当生意気を言ってくるが、私が対応しなくてもなぜかお兄ちゃん達が応戦するので、楽をさせてもらっている。

うちの子供たちの反抗期が一番酷かった時期は皆、だいたい1.5歳~3歳ぐらいだったように記憶している。
自と他の関係性、希望と現実との折り合い、感情と表現の繋がりを形成する時期の荒れっぷりは、関わる者の神経を逆撫でして試してくるから、親も内面を激しく揺さぶられるもの。
相手は幼児だというのに、私もイライラを募らせ、さんざん大声で怒鳴り散らし、変なところで理不尽な怒りをぶつけたり、時には手を出してしまって自己嫌悪なんてのを繰り返して、ずいぶんと鍛えられたものだった。

遠い昔の事となってしまった今となっては懐かしい。
今だったらもうちょっとマシな叱り方ができるのにとは、すべての親たちが持つ思いに違いない。

そういえば、最もやんちゃな次男が2歳の頃、何かで癇癪をおこして外で大泣きしていたときに、怒鳴り込んできたのがそのお隣だった。
「可哀想じゃないですか!」と言われるので、
「入りなさいと言っても入らないから、泣きたいだけ泣かせてるんです」とそのまんまを説明したところ、
「・・・・とにかく・・・、うるさいので近所中、皆迷惑してます。静かにさせてください」と話が変わったのが可笑しかった。

以後もぜんぜん気にせずに、我が家では泣きたい時は思いきり泣かせて抑えつけもご機嫌取りもしない子育てをしてきたのだが、もしも泣かせないよう子供を静かに静かにさせて育てたらどうなっただろうか。

幼児期まではなんとかなっても、やはり限界があるのかもと、お隣を見て思う。
ぶつかり合う時期というのは、どこかでどうしても一度は必要なもののようだ。

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サプライズの楽しみ

私は掟破りが大好き。
決まり事の裏をかく算段というか、そういうのにワクワクしてしまう。

一応は正攻法で行ってみるが、新しいことというのは大抵反発があるもの。

その費用はどうするのか。誰が動くのか。失敗した時の責任は負いたくない。
そんなこんなで動けない。

説得して人を動かす為の労力を使うぐらいなら、一旦引いて、とっとと一人で形にした方が早い。

そんなわけで一発勝負に出るわけだが、これが結構当たったりする。

「よかったよねー。次からもこうしよう」と言ってもらえるととても嬉しい。

そういう話を夫にしたところ、彼は「それは間違っている」と言う。
皆で決めたことと違う動きを各々がしだしたら収集がつかないことになると。

それぞれが自分で考えた面白いことを自分の責任において動いて持ち寄れたら、どんどん新しい展開になってより楽しめるだろうと思う私と、総意の元での自分の役割を逸脱してはいけないと考える彼。

夫の意見はもっともなようだけど、それじゃあ完全無欠のプランでもない限り新しいことはできない。
リスクのない安全なものの何が面白いものか。

「現に喜んでもらえる結果が出てるからOKじゃないの」と詰め寄ると、「だったら、お前と同じことを他の人ができるか?」と聞き返された。

う、それは・・・
「やればいいじゃない」と思いはするけど、「できる!」とは言い切れない。
なぜだかわからないけれど、私だから許されてるんだよね。
フライングも暴走もはみ出しも。
「そうだろ?」と夫。

なんだかわかったようなよくわからないような。

ま、私はこれでいいと。
でも、他の人に同じことはお勧めはできないよと。
そういうことかな。

とっても得をしてるような。
ただ、やったことは残っても、“誰が”発案して実行したかはすぐに忘れられてしまうもので、そこがちょっと寂しいと私の小ざかしいエゴは感じてしまう。

制限を見る

「こうしたい」と思うのにできない。

難しい。無理。困った事になる。責められる。
時間がとれない。お金がない。家族の理解がない。

やりくりして、無理を押して頑張ったところで、それに見合う物が得られるだろうかとの疑念が情熱を遮って二の足を踏ませる。

これまでの自分の枠を外すチャンスなのか?

それとも、外的な刺激によって自分が変えてもらえるとの依存的期待か?

迷ったら動かないのは原則。
じっと今、自分のいる場所を見る。
静かに内面を探っていく。

高揚感の裏に張り付く恐怖。

「行かなくては、やらなくては変わらない。ダメになる。手遅れになる」
そういうことだ。

やりたいはずのことを、ただやるだけでは報われないと知っているから迷うのだ。

本当の望みは他にある。
邪魔をする枠は、そこに現にあるわけではなく、自分が作っているのだった。

ねらいは何ですか

困っている人がいたんだよね。
あなたはその人の為に役に立ってあげようと動いていて、手伝ってくれる人も現れた。
おかげでうまく問題解決して、とても喜んでもらえたってね。

良かったじゃない。
それでどうしてそんなに怒っているの?

なになに?
最初に動いたあなたじゃなくて、手伝った人が感謝されたから?
手柄を横取りされた?
あの人はいつもそう?

ふーん、そうなんだ。

したかったことは出来たのに、望みは叶わなかったのか。

スロースロースターター

「オレ、来月の28日は家にいないから」
学校から夕方帰ってきた長男の開口一番。

「どっか行くの?」と聞くと、
「ん、ボランティアしに行く」
?いぶかしく思っていると、
「高校に行きたいから頑張ってくるよ」と言う。

クラブ活動もしておらず、悪いことはしていないけれど態度が良いとも決して褒められたことのない彼なりの、これが内申書の評価の上げ方なのだろう。
友人と三人ぐらいで行くらしい。

夏休みもダラダラ過ごして、もうコイツは駄目かと思っていたが、ここにきてやっとエンジンがかかり始めたようだ。

「まあ、頑張っといで」と肩を叩いたが、ふと思い直して
「その頑張りをボランティアよりも勉強に向けようという気はないの?」と聞くと、
「それはない!」とキッパリ。
アハハ、やっぱりね。

それでも「オレ、最近ちょっとは勉強してるよ」と言う。
「宿題もやってるし、少しずつね」と。
そういえば最近、まったく無理と諦めていた数学が、やってみたら意外とわかるようになってきたとか話してたっけ。
「ちょっとじゃなく、えっとしなさいよ」と突っ込むと、
「そんな急に生活を変えたら身体壊す」と小憎らしい言葉が返ってきた。

これから取り組み始めて果たして来春の良い結果に結びつくのかどうか微妙なところだけれど、自分で考えて動き始めた事は決して無駄にはならないはずだ。

これからどう動くのか、情熱を燃やせるものが見つかるのかどうか、楽しみに見せてもらおうと思っている。

なにしろ、親とは、木の上に立って見ると書くぐらいだからね。

渡る世間は鬼だらけ?

それにしても、見事に悪口ばかりだった。
出会う人、見る人、付き合う人、ことごとく自己中心か、変人か、常識ないか、怖いか、ズルいか、心を病んでいるかしている。

凄い。
凄まじい世界があるもんだと思う。

根拠は、何年も前の一言や些細な出来事で形作った印象。
そして、“みんな”の反応。

「ああ、そうなんだ。“あなたは”そう思うんだ」
と聞いたが、多分、私はすぐに忘れるだろう。

悪口

人の悪口を二時間ぐらい聞き続けていた。

出てきた名前は10人ぐらいあったか。

「そうなんだ」と相づちを打っているだけで次から次から話が出てきた。

中には、私が少し親しくしている人もあったので、「あの人は意地悪をするような人じゃないよ。同じような事は私もよくやりがち」と庇うのだけど、相手は意に介さない。

「本当にそうだったんだから!ぽあんさんに見せる顔と私達に見せる顔は違うのよ!」と、自分の人を見る目には絶対の自信を持っているよう。

私は自信がないから、「いい人」か「悪い人」かを断言などできない。

私にわかるのは、その人が“私にとって”好ましい人か、嫌な気持ちにさせる人かだけ。

私に好ましい顔をしている人の、見えない所の嫌な顔の話は、ただ聞くだけでひどく心を重くする。

庇いきれもせず、「言うな!」と怒れもしない八方美人の私は、そんなにも人に嫌われるのが怖いのか。

聞いたという罪悪感が苦しいばかり。

馬鹿だなぁ。。。

もめごと当たり年

またまた育成会の会長から相談を持ちかけられた。

今度は、多額の寄付金をもらえることになったということで。

もらえるものはもらっておけばいいし、それは嬉しいことではないかと思うのだが、少し前に予算の不足分を有志の人から寄付を頂いた件で非難めいたことを言う人がいたため、会長はまた何か言われるのではないかと怯えて、どうしたらいいかを悩んでいる。
同じ所から消防団と老人会にも寄付の申し出があったそうだが、消防は断り、自治会の役員も「受け取るなら来年度の助成金は減額する」と良い顔をしていないというのも悩みの一因。

あちこちに電話をして話を聞いてみると、誰も気分を害している人はいおらず、むしろ「もらっておけば」と気軽な感じ。
助成金削減についても、私の個人的意見だが、ある程度のお金はプールしておきたいという意向を伝えて次の役員会で了承をもらえば通るであろう見通しも立った。
実際のところ、何も困ったことはないわけだ。

これまでさほど波風立たずにやってきていた育成会や自治会が何故だか今年は大荒れ。
あちらこちらで不満が膨れ上がり、火花が散る。

しかしそれらを良く見ていくと、すべて個人的感情だけに根ざしているのがわかってくる。
「『私が』こんな事を言われた!」との傷を武器に、「『あの人だけは』許せない!」と恨みを募らせる。
そこに役目としての自分のあり方の照らし合わせはない。

やられたらやりかえす。
言われたら言い返す。
困ったら困らせてやる。
そんな幼稚な人間と、黙々とやるべき責務を全うし全体を引き上げていこうとする人間とのそれぞれの思いが入り乱れて繰り広げられるミニ社会のドラマ。

なぜこれまで表に出なかったものが今年に限って浮かび上がってくるのか。
とても不思議だが、変わりつつある節目になるのだろうと思う。

とにかく面白い。
人間というものは。

力比べ

「よっしゃ、いっちょ取っ組み合いでもしてみっか!」

食事時に同僚が子供と取っ組み合いになった話をした流れで、皆で力比べとなった。

テーブルの上を片付けて腕相撲。
息子達が父親に挑むがアッサリと倒される。
立ち上がって両手を組み合っての押し合いでも勝てない。

「じゃ、お母さんともやってみよ」と手を出すと、「えーっ、この人最強だから、ヤバイよ」と息子達は戸惑うように笑う。
私は握力はちょっとあるけれど、腕力はからっきしダメで、それは息子達も知っているはずなのに何かおよび腰?

中学生ともなると男の子の力は強い。
特に次男は陸上部で砲丸投げの選手をやるぐらいだから痩せっぽちの割りに筋肉は引き締まって腕力がついてきて、当然私が負けるだろうと思っていたのだが、あにはからんや、腕相撲も組み手も私が勝ちとなった。
「いやー、やっぱお母さんは強いよ」とニヤニヤするこの子らは、どこまで本気?と微妙なところ。

もうそんな、親相手に手加減してくれるような年になったかねぇ。
そう思うと、悔しいような、どこか嬉しいような。

その後、夫とも腕相撲と組み手をやったのだが、それはやはり負かされた。
この人は手加減してくれない。
「子供よりも大人気ないじゃないか!」と怒る私も大人気ないわけだが。

備えあれば憂いあり

あれがダメなら、こちらで行こう。

もしもを考えて備えるココロ。

では、あれがOKなら、こちらをダメにする?

どちらが優先?
どちらが大切?

選び直しても、それがポシャる可能性はある。

いくら何を用意しようと、不安、不安、不安。

すべて思い通りになっても困る、悩む。

何がしたいのだろう?

何を恐れているのだろう?

人としてイケナイこと

同僚が子供の反抗に手を焼いているのだと言う。
小六で中学受験を控えて苛立っているのか、やけに母親にばかり刃向かって来るらしい。
そして先日は取っ組み合いにまで発展。
成績の良し悪しで叱ったりはしないという彼女が怒るのは、“人としてイケナイこと”をした時。
注意をしても素直に聞かず、あからさまに反抗的態度をとられれば、親として一歩も引けないという姿勢を見せなければならない。
そんな激しい衝突は口だけで済まず、遂につかみかかってきて取っ組み合いに。
お互い怪我はなかったらしいが、彼女は筋肉痛になっていた。

正面きって向き合う親子関係と言えばそうだし、反抗に対しての処し方としては間違いではないと思うが、どうも何かが変に感じて仕方がない。

そもそもの原因となった“人としてイケナイこと”が何なのかは知らないが、親を腕力で抑えようとする事自体がもう、“人としてイケナイこと”じゃないかと思うからか。

どんなに親に腹が立っても、自分は間違ってないと信じていても、また、力で勝てると思うなら尚更、手は出してはいけないはずだ。

親は親、子は子の分がある。

これを冒すのが、人としてイケナイことと言わずして何としよう。

しかし、それはどうやったら子供に教えられるものなのだろう。

方法論ではなさそうな。

親が親をやってる限り、ないはずの事。

突っ走り

私は何でも知りたがり、やってみたがり。
役に立つ立たない、向き不向き、更に言えば自分に関係あるなしに関わらず、好奇心のアンテナに引っかかったらつい手を出してしまう。
いらないものまで集めてしまうし、失敗体験を好んでやってるかのようなこれを「悪い癖」と一応自覚はしているが、それだから楽しいというところもあるから、やめなきゃいけないと思い切れないでいる。

そんな私の落ち着きのなさを、今日、娘に「お母さんは、考える前に動くよね。考えてから動いたら?」と指摘されてしまった。

確かにそうだ。
段取りもへったくれもあったもんじゃない。
理屈は後回しでとりあえずやってみる事は多いから。
むしろ、今の私とはその積み重ねだけで出来てるようなものだ。


だが、私も時に慎重になる事もある。
絶対失敗したくないとの思いが強い時。
その場合は大抵、石橋を叩いて叩いて、叩き壊してきているなと思い当たった。

どんなに頑丈な橋に見えても安心は出来ない。
確かめ確かめ、壊れるまで叩き続ける。
そしてとうとう壊れたら、落胆と安堵のうちに「こんな壊れるような橋は渡らなくて良かった」との結論にいたる。
やらなければ失敗もないわけだから、それで当初の目的は果たしているということだ。
結論は最初から出ているのに回りくどいことをしている。


渡りたい川はどんなに危ない橋でも渡る。
橋がなければ泳いででも渡る。
落ちておぼれて流されても、それはその時のこと。
そんな楽天さと、石橋を叩いて叩いてぶち壊してでも渡らない慎重さは、ひどく整合性を欠いて見えるが、実は相反していないのかもしれない。

やりたいことはやるし、やりたくないことはやらないという意味において。

ならば、やるかやらないかは考える必要はないだろう。
問題は、やり方か。
うーん?
それも困ってから考えようか。

私の気まぐれに付き合わされる周囲には迷惑なことだろうが、それはそちらの困り事として、各々対処してくれ。
ということで。(笑)

おはぎ

お彼岸なので、スーパーにおはぎ売り場ができている。
「おいしそうだな。ちょっと食べたいな」と思うが、一個99円。
六人家族で一人2個として……ダメ、高い。

しかし食べたい。

ならばという事で、これも作ってみる事にした。

すぐ欲しいので、小豆から似るのは省略して粒餡1キロ367円ともち米397円を購入。

もち米に少量の白米を加えて炊いたら、すり鉢で適当に潰して、アンコでくるむ。
量がわからなかったので餡が足りず、途中から中に入れたきな粉餅に変更し、結局出来たのは、大ぼた餅6個と、きな粉餡餅37個。

沢山作って冷凍しておけば、食べたい時に食べたいだけレンジで温めて食べられる。

買ってきたものと違って出来たてのはとても柔らかいというぐらいで、味もとても美味しい。

作ったらこれほど安上がりだとは。

今度は是非とも大鍋で小豆から作りたい。

それでもなお

誠意のない人に誠意なく応えるのが凡人。

誠意のない人には応えないのが賢人。


誠意のない人に、それでもなお誠意をもって応えるのは愚者。
貫けば○人。

今年もまた火垂るの墓

「火垂るの墓」を毎年見ているのに今回もまた見てしまい泣く。
長男は清太と同じ年。一番下のチビは8歳で節子より大きいが丸いほっぺがよく似ていて重なってしまう。

この映画を見ていつも思う。
どうして清太が死んだときに迎えに来たのは節子だけで、父親と母親は出てこないのだろう?
子供を残して死ぬのはさぞ心残りだっただろうに。
もしも霊魂があるのならなんとしてでも子供たちのそばに付いていて、助けてやろうとするものではないのか、と。

原作者の野坂昭如さんは霊魂の存在を一切否定するのだといつかテレビ番組で言われていた。
その根拠は、もし霊が実在するのなら、両親に先立たれた子供の自分が一人で生きていく苦労の中で、たとえ幽霊でもいい、せめて夢に出てくれるだけでもいいとあれほど強く願って一度も現れてくれないなんて事はないはずだから。

「火垂るの墓」は、野坂昭如さん本人の実体験がベースになっている。

どんなに命がけで愛しんでいたとしても思いだけでは腹は膨れず、人間はどうしようもなく非力だ。
子供ならなおさら。
そして、死んでしまった人はまるっきり無力。

かつてどれほど大きな愛があったとしても、死者には何もなせない。

よく身近な親族が亡くなった人に霊能力者が、
「守護霊としてついていてくれますよ。守って手助けしてくれているから、災害を避けられたんです。こんなに良い事が起こったんです」なんて話をするのを聞く事があるが、それでは、災厄に見舞われる人や、不運な人は亡くなった親族の誰にも愛されていないからだとでも言うのだろうか。

野坂昭如さんの、清太と節子の親は子を愛していなかったから呼んでも出てきてくれない?助けてくれない?

野坂さんは実際動乱の中を生き抜いてこられたのだから、それをもって守護があったという見方をされる可能性もあるが、もしそうなら、天寿を全うせずに死んだ人達は皆、誰にも愛されず守護をしてももらえなかったということになる。
結果の理由をそこに求めるならば。

そんなわけはない。

愛の深さがどれぐらいであったとしても、霊があろうがなかろうが、運の良し悪しには関係ない。
死ぬときには死ぬ。
見える人には見えるし、見えない人には見えない。
それでいいんじゃなかろうか。

良いことが起こってご先祖様の守護に感謝するのは良さそうだけれど、それは悪いことが起こった時に不安になり取りすがる準備をしているようなもの。
霊の引き立てを受けるために“良い子”でいなければならないのだとしたら、生きている人間とは死んだ人間に支配される、なんとも不自由な身の上だ。

今を形成しているのは生きている人間同士の関係に他ならないはずなのだが。


来年夏に、またまた「火垂るの墓」が実写版映画として公開される予定がある。
以前、テレビドラマでは松嶋菜々子が意地悪なおばさん役を熱演して話題となったが、今度は松田聖子が清太と節子の母親役を演るという。
どんな作品になるのだろう。
希望としては、ラストに清太と節子を迎えに来るようなシーンが欲しい。
「おかえり。よくがんばったね」と。
それだけですべて報われるような気がする。

アニメは完成度高い作品だが、あの終わり方は私には寂し過ぎる・・・・

ジャンキー

「ああ、それ知ってるよ」
「これは、これこれこういう事ね」
即座に判断を下す人。

これまでの経験からの予測で無駄を省こうとして?

それでいて、新鮮な体験を求めて常にアンテナを張り巡らせているんだってね。

昨日会った人との今日の出会いを軽んじる。

なんと勿体無い。

波の元

風もないのに波立つ湖を見て、「不思議!」と、まるで奇跡に遭遇したように感激し、壮大なイメージに浸っている人がいた。
それで幸せなのだから、いいけどね。


この人にとっては、波は風が起こすと決まったものなのだろう。

そうでない場合は、別の外的要因がなければいけないらしい。

水の中で起こっている事や、湧いていたり流れていたりする事、また波が伝わる時間にも思いは及ばない。

目の前の出来事を欲しい答えに結びつけたいんだな。

と、思ってしまう私も同じことをしているわけだが。


ま、いいけどね。

素直を装うそのココロは

「素直に」「自分に正直に」という言葉を好んで使う人がいるが、どういう意味で使っているのだろう。

自由気ままに、自分勝手にわがままに振る舞う事だと考えている人は結構多い。

「自分に正直に生きる」と他人を踏みつけにしておいて、「邪魔をされたくない」「人の犠牲になるのはイヤだ」なんてのはひどい矛盾。

そうして快楽だけをひたすら追い求めるのだが、その快さとは他に優越する事だったり、好かれる事だったりのドップリ依存。

どこが素直?
何が正直?


感じるままに感じ心に素直な人には「私は自分に正直に生きたいから」なんて事情説明は必要ないんだよ。

虐めとの闘い方

以前書いたイジメドラマ「ライフ」についての記事に検索でたどり着く人が多いのか、放映された直後から翌日はアクセス数が伸びるということが続いていた。
そのドラマも最終回。
コメントをくれていた人が期待したような、いじめっ子が追い詰められて反省する(最後まで憎々しかったけれど)というシーンまではあったが、イジメがなくなるというところには至らない、やはり腹立たしい終わり方だった。

集団はフラストレーションのはけ口として常に生贄を求めていて、ターゲットなんか誰でもいいということ。
主人公は今や虐められっ子になってしまったかつて自分を散々いたぶり抜いてくれたイジメっ子に対して、「あなたを許したわけじゃないけど、虐めはもっと許せないから」と言って虐めに加担しないという方法で集団に立ち向かう。
これから先は、この正しさが集団の和を乱すとして攻撃の的になるだろうことは想像に難くない。

虐められ経験のある人からは、自分の経験と重なるという意見の多いこのドラマだが、主人公の行動をどう見ているのだろうか。
虐めを克服し立ち向かう事の具体的なあり方として提示されている姿が自分と重なる、あるいは目指したいと思う人は多いのか、少ないのか。
そこが知りたいところだ。

あるアンケートによると、虐め経験のある人の半数以上が虐められた経験も持つという。
なぜ虐めをするのかとの質問には、「虐めないと自分が仲間はずれにされるから」というものが大多数。

「傷ついた分だけ優しくなれる」「痛みを知ることで他人の痛みもわかるようになる」とはよく聞く言葉だが、実際は、傷ついた分だけもう二度と傷つきたくないと臆病になる、他人の痛みから目をそむけるようになる人は多い。

虐められ経験のある人には、「私もあんな目にあった。気持ちがわかる」と泣いたり悔しがったりのトラウマ追体験をしてるだけでなく、ぜひ、今の自分はどうなのかを考えてみて欲しい。


また、親も子供もほとんどの人が、虐めからは簡単には逃げられないと思っていて、学校に危険を冒して通いながら、虐めっ子や学校側と戦い続けているという話もよく聞くが、そもそも学校へ行くことは義務ではないのを知っているのだろうか。

学校に行かないのが罪悪で、社会の落伍者としての烙印が一生に影を落とすかのように思われているが、どんな目にあっても歯を食いしばって学校に行き、体や心に大きな傷を作って後遺症を残す方がより深刻だ。

行かなきゃいい。
子供が有しているのは「教育を受ける権利」、親が負うのは「教育を受けさせる義務」であって、決して「学校に行く義務」「行かせる義務」ではないのだから。
本当はどこで勉強したってかまわない。

それでも「普通と違うと・・・」という部分は重く身動きとり辛いかもしれないが、何が大事かを考えれば、自分で自分を守れる、わが子を守れるという以上のものはないはず。

他を変える為に多大な努力をするぐらいなら、自分が変わるほうがよっぽど簡単。
「馬鹿には付き合ってられません」と見限って、サッサと安全で快適な場所に移動しよう。

進路

長男は中学三年生で、一応受験生。
が、
ここにきてもまったくやる気なしで、毎日ネットとゲームに明け暮れている。
成績は5段階中の1や2がずらりと並ぶ。
特に評価が悪いのが「態度」の項目。
宿題やらない、提出物出さない、発表・質問しないのナイナイ尽くしで、テストの点も悪いのだから、言うことなしの落ちこぼれ劣等生だ。
「何しに学校に行ってるの?」と聞けば、「遊びに」と迷いなく返ってくる。
「授業さえなかったら学校は面白いところ」と平然と言ってのける。
それでは勉強以外何かに打ち込んでるかといえばそうでもなく、クラブは1年の1学期で辞めて以来、「オレには帰る家がある」を全国共通スローガンに持つ帰宅部だし、趣味で触っていたギターも飽きてすぐ放り出してしまって、青春の情熱とは無縁のダラダラ生活を送っている。
美容専門学校へ行ける可能性もなくなって、「もう、近くの公立高校でいいよ」と投げているのだが、「いいよ」と言っても試験はあるのだし、毎年、馬鹿でも入れると甘く見ていた子が何人も落とされているわけで、この調子ではほぼ望み薄の状態だ。

この件について、私と夫の意見は一致している。

「落ちればいい。失敗すればいい。困ればいい」ということで。

痛い目にあってトコトン困ったら、そこから自分で何とかするものだから、親が先回りして「将来困るよ」なんてやる必要はないというのが私達の考え。
息子には、合格すれば学費は出してやるが、落ちたら働いて自活するか生活費を家に入れろと言ってあるし、実際そうするつもりだ。

馬鹿なら馬鹿の生き方をすればいい。


今朝、私の中学時代のトモダチで長男と同い年の不登校の息子を持つ人から電話がかかった。
相変わらず学校に行けないし、最後の体育祭にも出られなかったという。
原因はイジメにあったらしいと聞いていたのだが、それもよくよく関係者に聞いてみると早い段階で先輩が間に入ってくれて解決済みであったということで、本当の理由は不明のまま。
学校に行けないため、高校に普通に通うのは難しく、定時制か通信教育か不登校専門校という選択肢で、今、悩んでいるそうだ。
どうしたいのか本人に希望を聞いてもはっきりしないし、旦那さんは真剣に考えてくれず子供とまともに会話もできないので、彼女一人で抱え込んで奔走しているという状況を、長いこと電話口でただ聞いていた。

本人は確かに辛いだろうけれど、私にしてみればたいした悩みじゃない。
人それぞれだなと思うだけだ。

面白いと感じたのは、彼女と私が同じ「子供に自分の道は自分で選ばせる」という言葉を使ったとしても、その内容はまったく違うものだった所だ。

「親ができるのはレールを敷いてやることだけ。どれを選んで進むのかは子供が決めることだから、しっかりして欲しい」というのが彼女の思い。

私はレールさえ用意してやるつもりもなく、「勝手に行きたいところへ行け。手助け欲しいなら何をどうして欲しいか頼みに来い」というタイプ。

どちらがいいとか悪いとかじゃなく、ただ、違うもんだなと。


彼女は勤めをしていないが、忙しすぎて自分のことで使える時間がまったくないそうだ。働きに出たくても、子供が落ち着かない限り心配で出られないと。

1日のほとんどが自分の時間の私と、そこも大きく違う。

石鹸失敗?

緑茶石鹸が明日解禁なので、今度はマルセイユ石鹸作りに入った。

材料、オリーブオイル500cc、ココナツオイル120cc、パーム油70cc、苛性ソーダ83g、精製水250cc。
苛性ソーダ水溶液を作り、油を温め、ダイソーで525円で買った料理用温度計で今回はきっちり40度に温度をそろえて混ぜ合わせたら、20分間ひたすら攪拌。
後は一時間毎に混ぜればいいだけ。

温度が良かったのか材料の特性かわからないが、早いうちからとろみがついていい感じ。
これはトレースが早く出そうだなと思いはしたが、これまでのが24時間以上経ってやっとだったので、それより少しの時間短縮程度ぐらいに考えていて、とんでもないことになってしまった。

朝起きて、(さあ、これからレッドクレイで今度こそ憧れのマーブル模様を作るぞ)と、ワクワクして石鹸を見に行ったのだが・・・・

カチン。

か、固まってる?

なんとボウルの中で既に石鹸になり始めていた。
しばし呆然。

仕方ないので、型に流し込むのではなく、とりあえずしゃもじで掬っては詰め込んでみる。
(ああ、憧れのマーブル模様がまた遠ざかった~~・・・)

べたべたモッチリしたソレは、とても扱いにくく、中に入っているだろう空気を抜くこともできないので仕上がりが予想もつかない。
せめて、外国のチーズっぽくでもなったら可愛いのだけれど。
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いつもカットをする時にてこずるので、今回は型に入れた際にあらかじめ仕切りを差し込んでおいてみた。
070915_0934~0001.jpg

結果は一ヵ月後。

ちょっとだけ悲しんで忘れられる私

夕食後、子供達とテレビを見ていると、あるスポーツ選手が「母が死んだとき、ちょっと・・・悲しかったですね」と言った。
即座に、ニュアンスが違うのを承知の上で子供達が「ちょっとだけかい!」と突っ込みを入れる。
いつもこんな感じのウチは、なんだか大阪人気質的な気がするのだけれど、\(・_\)それは(/_・)/置いといて、と、
そこで長男が「俺は、もしお母さんが死んだら、本当にちょっとだけ悲しむと思うよ」と言いだした。
「ちょっとだけ悲しんで、すぐに忘れるんじゃないかな」と。

「そういえば、私も親が死んだときは、ちょっと悲しいだけだったな」と思い返していると、息子が「お母さんは自分のお母さんが嫌いだったからでしょ」と言う。
思わず返事に詰まってしまうようなことを、こいつは平気で口にする。
およそ親らしくない酷い親だったって事は話したことがあるからそう思っているのだろうけれど、簡単に割り切れないのが親子の縁ってもので、大嫌いであっても大好きとは矛盾しない機微があるのだが。
それはいくら説明したところでわからないだろうと思うから、ただ「そうね」と頷いておくにとどめる。

治る見込みのない母の介護を一年半続け、あきらめと不安に塗りつぶされた将来を悲観している所で、さらに病状の悪化で絶望の淵へ。
それがあっけなく終わったという安堵と放心が悲しさより勝っていたといった感じだったのだけれど。

思い出しながらつい複雑な表情をしてしまったのだろう。
息子が気にしたのか「俺はお母さんのこと、嫌いじゃないよ」と言うので、可笑しくて笑ってしまった。
そんなこと、誰も心配しやしませんって。

そして彼は更に「長く悲しんだって、死んでしまったものは仕方ないんだから、それより気持ち切り替えて次の事を考えたほうがいいじゃん」と“力説”する。

うん。私もそれがいいと思う。

私も「私が急に死んだとしたら、子供達は大丈夫だろうか」なんて心配はぜんぜんしてはいない。
みんな横着で要領悪くて世間知らずで家事もろくにできやしないけれど、困ったら困ったで何とかやっていくだろうと楽観的でいられるのは、私がそうだったから。

私が死んだら私を忘れて先に進むという考えを持っているとは、とても心強いと、むしろ嬉しく感じる。
忘れられても、彼らを産んで育てた私は彼らの中でしっかり生き続けるのだし。

それに、そう簡単に割り切れるもんじゃないって事を知っているからね。(笑)

ガキにおもねる卑屈な大人

どうしてこの国は、ガキが幅を利かせるようになってしまったのだろう。

大人を大人とも思わない態度、目上を目上とも思わない口の利き方が、なんだかもう、当たり前のようになってしまっている。

テレビのバラエティが最も顕著で、何か特技があったり少し頭が良い子がいっぱしの事を言うと、「すごい!」といちいち感心し誉めそやしては頭に乗らせて、馬鹿にされては喜ぶMなタレントがやたら目につく。
自分を謙虚に見せようとするのか何だかしらないが、それがパターンとして定着しているのは、相手の子の事など何も考えてやってはいない無責任さに腹が立つよりも、ウケる視聴者の方が多いという事だろうか?
礼儀知らずの小生意気なガキんちょが勘違いしてそのまま大きくなったらどうするのだろうか。
テレビに出てる子には台本があって演じているだけなのかもしれないが、観ている子供に与える影響まで視野に入れて番組を作っているのかは疑わしい。
きちんとした人なら不快感を持つであろう言動を、親しみの表現、あるいは一目置いてもらえるであろう事を期待してやってしまうような、気持ち悪い子供が増えているのは、世の常識から外れた事にカッコよさや面白さの価値を付けては日常に紛れ込ませるメディアによるところが大きい。

子供が大人を恐れず、憧れず、尊敬しない傾向は、日本中でどんどんひどくなっていくばかり。
将来に期待も夢も持てず無気力な人が増えるのは、そのせいだ。

先日、ある番組で、中年男性が自分の年頃の娘を映画に誘う為の上手なメールの打ち方というのを、娘と近い年齢のコギャル達に教わるという企画をやっていた。
上から物を言うようなのは嫌われる。
詮索するようなのもイヤラシイ。
機嫌を損ねないよう、よい返事がしやすいよう、明るく優しくさりげなくアッサリとした文面をとアドバイスされて、その通りに打ち込む素直なお父さん。
苦労した甲斐あって、日ごろ反抗的な娘が珍しくOKしてくれ、大喜び。

これを見るだけで家庭内の力関係は歴然だ。
話をし難い、話さないからメールという連絡手段を用い、娘の好みの映画を選び、気を使いながらお伺いを立てて、そこまでして一緒に遊びたい父親というのは、ベタついて気持ち悪くないのだろうか。
それぞれの好きな映画を一人で見て楽しめばいいんじゃないのか。
大人がしっかり大人をやらず、機嫌をとっておねだりをする子供役だから、娘の方が「しょうがないな。付き合ってやるか」と重い腰を上げる親の役をしてしまう。
そんなオツキアイは愛情でもなんでもなく、もはや浅い“お友達ごっこ”レベルに成り下がった関係だ。

弱くて物を知らない甘えんぼの親に、しっかり者の子供。
優しいだけで頼りがいなく優柔不断な夫に、理不尽なほど強い妻。
最近はドラマでも本でもそんな話ばかり。

本来、へりくだるべき方が高飛車に出て相手を小馬鹿にするのが、面白く心地よいとはどういう気持ちなのだろう。
抑圧されている子供や妻がそうなのはまだわかるが、大人側、夫側も別に憤慨する様子もなく喜んでいる。
同病相哀れむの共感心理?
「おたくもですかぁ。いや、実はウチもなんですよ。参っちゃいますよね。僕が甲斐性なしだから仕方ないですけど。アハハハ」
とでも言っていそうだ。

責任を負えない駄目さを許されたいかのような。

辛いこと嫌な役目を避ければ、誰かがそれを引っかぶる。
子供が子供らしさを奪われ、妻が妻らしさを奪われた上に他人の分の重荷を背負い込まされては、健やかでいられるはずもない。
苛ついて不安定なのはそのせいだ。元から気が強いのではなく。

そうさせないよう、その人がその人らしくある為には、憎まれようが嫌われようが自分に求められるあり方は通さなければならない。
親は子に甘えてはいけないし、大人は子供にかしずくべきではない。

あるべき姿に戻る。
それが本当の自由であり一番楽であるはずなのだが、そう思えないようにさせる力は強く、回帰はまだまだ遠そうだ。

皆、胸の奥で「これはおかしい」と感じているはずなのだけど。

“もう”と“まだ”と、そしてその他

コップに水が半分。

「もうこれだけしかない」と思うか、
「まだこんなにある」と思うか。

その捉え方によって気の持ちよう、現実の見え方が全く違うという話は、心理学や自己啓発ではお馴染み。

ある物をどう捉えるか。
それは、なにが正しいのか、気が楽になる為の考え方はどうかを学習し、実践する方法論だ。
単に。

「コップが小さいな」
と思ったっていい。

「おかわり」をしたっていい。

そんな風には、誰からも何からも教えてはもらえない。

作られた安全なモノサシに盲従してるうちは、自分の選択肢はないも等しい。

おいしい生活教育

人間は幼児期に食べたものによって味覚が形成されるので、インスタントやジャンクフードで済ませず、極力良い素材を使って手作りの家庭の味をしっかりと覚えさせる必要があると言われている。
慣れたものを「おいしい」と感じる傾向は一生ものであり、現代の若者に味覚障害が多いのは、忙しい母親が安易に与えるレトルト食品やスナック菓子、また、子供の好みに合わせるばかりの偏って種類に乏しい食生活によるものだとされる。

私は、そうだと頷く反面、本当にそうだろうか?との疑いも実は持っている。

私の母は料理下手で面倒くさがりの偏食家だった。
作れるレパートリーは数えるほど。野菜は嫌いなのであまり食べない。
ダシをとったことはなく、味付けはいつも人工調味料。
酒飲みでヘビースモーカーなので味付けは濃い。
スーパーで買ってきた惣菜がパックのまま食卓に乗る。
週に何度かはカップ麺。
そんな食事を変だとも思わず育ってきた。

しかし私は病気一つしたこともないし、グルメではないものの、美味しい物は美味しく感じられていると思っている。

私が味に目覚めたのは、母の葬式の時だったのではないかと思う。
手伝ってくれてた当時の町内会の婦人たちが作った吸い物を飲んで、その味に私は驚いた。
「家庭でこんな味が出せるのか!
 他所の人はみんな普通に毎食こんな美味しいものを食べていたのか!」と。
「チクショー、だまされてたー!」といった感じ。
昆布でダシをとっただけの、えのき茸が入ったシンプルな汁だったのだが。

それから後、結婚して料理を覚えるにしたがって驚きの連続だった。
ハンバーグ、餃子、ロールキャベツ、茶碗蒸し、コロッケ等など、「こんなに美味しかったの?」と、そのたびに。
たまに出来合いのおかずを買うこともあるが、やはり買った物は不味い。
それが私にとっての「おふくろの味」のはずなのだけれど。

そういった経験があるからか、私の食の子育ては、相当おおらかだった。
「人工添加物を使わない薄味で栄養バランスに気をつけたメニューじゃないとダメ!」
「食事量はこれだけ食べないと足りない!」「食べ過ぎると肥満になる!」
なんて気にしたことは一切なく、大人と同じものを(食べやすくはしてやったが)、欲しいだけ、一緒においしく食べればいいやなんて、適当すぎるほど適当な。

幼少期に作られた味の好みというものはあっても、それは絶対的ではなく、後の経験によって育ててもいけるもの。
そう思っていれば、「ここで失敗したら台無し」なんて強迫的にキリキリしないものだ。
それが本当に正しいかどうかわからないし、もしかしたら私は自分で気がついていないだけで立派な味覚音痴なのかもしれないが、困っていないのだからそれでいい。

親が塩辛いものや甘いものを徹底してセーブし遠ざけていた子供が、その反動でお菓子を大食いしてしまうようになったなどとはよく聞く話。
親が健康オタクの子供ほどアレルギーや喘息が多いというのも、小児科医の間では常識となっている。
それは目の前の子供より、情報や知識に重きを置いた結果ではないだろうか。

今、「食育」という言葉をよく耳にする。
確かに「食」は、人間が育っていく上で一番大事な部分だ。
しかし、“子供の為”に食のあり方を考えなければならないとする方針には首を傾げざるを得ない。
食が大事なのは、何も子供に限ったことではないはずなのに。

有害なものを排除し、栄養のある美味しいものを与えなければならないとする目的が、どうも理想の子供を作るためと感じられてならない。

「食」も「子供」も、人にとって当たり前に大切なものを「大切にしなさいよ」と上から教えられなければ出来ない社会。

育った家庭の食生活を変とは思わなかった私だが、これはさすがに変だと思う。

いのちみじかし

TVドラマ「生きる」を見た。
昔の黒澤映画の現代版リメイク。

死期が近いことを知った主人公がこれまでの人生で自分が生きていなかったことに気づき、取り戻そうと躍起になる姿。
遊んでなかったから遊ぼうとして、楽しんでなかったから楽しもうとして、仕事をしていなかったから仕事をし、そして死んだ。
通夜の席で会社の人たちが彼の本当の思いはどうだったのかを語り合う場面で、観るものも一緒に考えさせられる。
「それでは自分は生きていると言えるのだろうか?」と。
だが、現実は何も変わらず、また流されるだけの日々が繰り返される・・・
情感に迫ると言うよりも、問題を投げかける作りのドラマだ。

そういえば私も少し前には、「後残りの寿命が三ヶ月とか半年なら何がしたいだろうか?」などとよく考えたものだった。
「残りの時間が限られているとしたら、何がしたいか? 
 どこに行きたいか? 誰に会いたいか?
 日頃は時間が無限にあると思っているけれど、それは決してそうではなく、
 誰もが等しく明日をも知れぬ命なのだから、やりたいことは、いつかではなく、
 今、やらなければ!」みたいな事を。
「時期を待っているなんてできない」などとやたら焦っていた。
自分の過去も現在も全部無駄に感じて、「変えなきゃ、変わらなきゃ、成長しなきゃ、進歩しなきゃ」とヒリつく痛みに追い立てられるように足掻いていたものだった。
それでいて現実は何も少しも変わらなかったのだが。
ドラマを見ながらそんなことを思い出していた。

不思議と今はまったくそれはない。

“やらなきゃいけないこと”のどこが“やりたいこと”なんだろうね?と、自分で自分にひとり突っ込みして笑ってしまうぐらいだ。


映画「かもめ食堂」にこんな会話がある。

「もし明日で世界が滅びるとしたら、何をしたい? 私はおいしいものをたくさん作って、親しい人たちとおしゃべりしながら食べたい」
「ああ・・・、いいなぁ。それ、私も呼んでもらえますか? 絶対に絶対に呼んでくださいよ」

うろおぼえなので、正確じゃないけれどだいたいこんな感じ。

世界の終わりに最高にハッピーな夢を見てあこがれているのだけれど、その会話をしている人達は、実はほぼその通りの日常を過ごしているという所の面白さ。

「生きる」の主人公より、こちらの方が趣味に合う。
だから、明日世界が終わるとしても、余命があと三ヶ月だとしても、私はこの今の生活を続けていそうだ。

人間が生きるとは、ただ呼吸して食べて排泄の生体反応を指すのではないのは当然だが、何か業績を残したり、誰かに感謝されたり、特別な快楽(悟り・安心含む)を味わったりする事とも違うと私は思う。

自分の選択に責任を持ち、運命を引き受ける覚悟がある人なら、どこでどんな生き方をしようと、「生きている気がしない」なんて決して感じることはないだろう。


自分の時間を使う価値

私たちの時間は有限だ。
どんなに長く生きても100年そこそこ。
一日は誰にとっても24時間。
その日々を繰り返しているだけで過ぎ去ってしまう。

だから一瞬一瞬がとても貴重。
どんな気持ちで生きるかが。

自分を悩ませるか、喜ばせるか。

思い通りにならないことを思い通りにしようと苦闘するか、
やりたいことをやりたいようにしてみるか。

今日一日を、我慢して嫌な人と過ごすか、一緒にいて楽しい人といるか。

自分を物として扱う人になんとか好かれようとするか、
温かい人と人間同士の交流を持つか。

他人の高い評価を求めるのか、自分を高めていくか。

それは個々人の趣味の問題。
絶対的な良い悪いは存在しない。

余裕のある人は他人の問題に取り組んであげればいいけれど、
私にはたぶん一生、そんな暇はもてないだろうと思う。

期待と失望

「なぜこの人はわからないんだろう?
 どうして私の気持ちを考えられない?」

怒りの感情はいつもその裏づけを持っている。

「わからせたい」は、自分を思いやって欲しい動機から。
相手に己が仕業を後悔させたいが為に、
悲しみには悲しみを、悔しさには悔しさを思い知らせたくなる。

不機嫌な表情、責め口調、嫌味、物への当り散らし。
なんと遠まわしで幼稚な“あてつけ”。
伝わって当たり前だと、わかってくれて当然だとの期待がそうさせる。

しかしその目算はいつも外れて、思い通りにならない現実ができるだけ。

落胆し、失望し、相手を憎み、自分を責め、
そしてまた「どうすれば・・・」と暗い問いかけを繰り返す。


期待とは、甘えのことだ。
「こうしてくれて当然」は自分ならそうするを基準にして考える主観なだけ。
それが「普通は」「誰もが」に置き換わったところで同じこと。
他人を自分じゃない、一般的じゃない、他の誰かじゃないということで
責める権利が誰にあろうか。

むしろ、人は他人をわからないことが当然。
思うような反応をせよとは、即ち、ロボットとしての扱いなのだが。

誰の何の為に、今自分は行動しているのか?
どうなれば満足で、それは本当に可能なのか?
そんな自分についてのことが、どこかへポーンと飛んでしまって、
頭の中が「あの人は・・・」で占められているのだとしたなら、
そんな自分にしっかり教えてやろう。

「他人は、自分じゃない。
 他人がどう考えるかなんかわからないし、責任もない。
 人は他人を変えられない。
 変えられるのは、自分だけ。」だと。

供養

不心得者の私は、仏壇にお供えはほとんどしない。
たまたま何かもらったとき、たまたた花があるときぐらい。
ご飯を炊いたらお供えしても、ろうそく線香は盆暮れぐらいのもの。
放ったらかし。
お経などあげない。お坊様も呼ばない。
母の命日は、過ぎてから「あー」と思い出す事しばしば。
仏壇に手を合わせても、墓参りに行っても、一応は心で話しかけるけれど、
そこに本当にいるという気はしてないから形式だけという感じ。
そんなこと、私にとってはどうでもいい。
まったくとんでもないブディストだ。

だけど、
おにぎりを握るたび、絹さやのすじを取るたび、土筆のはかまを取るたび、
手綱こんにゃくをするたび、炊き込みご飯を作るたび、つぶ貝を食べるたび、
かぼちゃの中の匂いをかぐたび、そんな何でもないおりにつけ、
母をそばに感じる。

武の道は遠すぎる・・・

テレビに12月公開の織田裕二主演「椿三十郎」のCMが流れた。
思わず「あーっ、これこれ、絶対に見たい!」と叫ぶ。
日野先生が殺陣指導をされているので、
どんな動きになっているかをとても楽しみにしているのだ。

次男が「また日野先生?お母さん、はまりすぎ」と呆れたように言う。
何しろ、暇があれば先生のドラムDVDか、YouTubeの映像を見ているし、
携帯の待ちうけも先生方の写真だったりするから、
彼にしてみれば「どんだけファン? "ジャニオタ”以上じゃん」ということらしい。
夫もどうも「新手の宗教か?」と疑ってるみたいだし。
いえいえ、そんなんじゃありませんから。(笑)

武道をやっていない私が唯一できるのは、動きの映像を見ることだけ。
怪我で体を動かせない人でも、スポーツの映像を見ることによって実際には動かしていない筋肉が動きを覚えることもあると聞いたことがあるので、「しっかり覚えろよ」という感じで。
しかしそれは怠け者の睡眠学習みたいなものだから、ただ面白いから見ていると言った方が本当だが。
もちろん、基本の胸骨の引き上げは常にやっている。

そんな話をしながら、武禅で何をするかも実際にやって見せてみた。

まず正面に向かい合って立ち、トン、と片足を一歩踏み出し胸の中心を合わせたら、目を見たまま自分に引き付けるように誘って・・・「こんにちは!」。

大きな声と空気の変わりように次男が驚いて、「ちょっと、お母さん、その声はヤバイよ」とあわてるのが可笑しい。

その流れの中で、格闘技に興味がある次男は、なぜ日野先生が多人数に押さえ込まれたり持ち上げられたりしている相手を魔法のようにワラワラと倒す事ができるのかを質問してきた。
「それは、、、あ、あれよ。(汗)人の体は相手のちょっとした動きへの反応で次の動きを予測して備えるので、それを逆手に取ってるのよ。
 先生は、体の部分部分を自由自在に動かしたり動かさなかったりできるから、抑えている手に違和感を感じないでいるうちに知らずバランスを崩されてズッコケルって事になるわけ」
と、出来もしないしわかってもいないのに、つい知ったかぶりをして答えてみたのは、息子に、その不思議さにも原理があって、自分のものにできる可能性があると知ってもらいたかったから。

「へーっ」と感心する様に手ごたえ有りかと思い、「もしやってみたいのなら、大阪の教室に見学にでも行く?」と誘ってみたのだが、それはアッサリ断られてしまった。
彼からすると武道は地味に見えるらしく、パンチやキックで攻撃のアクションが大きい、空手とかボクシングの方が好みだと言う。
「武道ってのはスポーツではなく実戦にいかに活かせるかなんだから、本当に強くなりたいんだったら、お勧めなんだけどねー」と言ったところで、理解できないものはしょうがない。

ちぇーっ、せっかく子供をダシに私も一緒に武道塾に通えるかと思ったのになー。
淡い期待のもくろみは、はかなくも消え去ってしまったのだった。

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Author:ぽあん
広島在住。
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座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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