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ここではない何処かへ

その筋では圧倒的有名人であり、ビジネス書のコーナーに著書を並べるF氏によると、次元上昇は2012年ではなく、2008年に始まることになったのだそうだ。
上昇できる人と出来ない人をオーラで見分ける能力者もいるという。
上昇できる人はこんなタイプ、上昇するためにはこうしたらいい、そんなことを宇宙人の声を聞くことができる人から教えてもらって、また本にされていた。

同じような説を説く人、信じている人も多い。
それが前向きな活力になり、環境がよくなるのなら良いことだ。

ただ、皆さん、そんなにも「ここ」が嫌いなんだな、と感じるけど。

今回が最後のチャンスという人と、次は1万3000年後と言う人がいるが、どっちでもいいね。
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あいさつ運動

中学に朝の「あいさつ運動」に行ってきた。
毎週、学年ごとに担当を決めて中学校入り口前の角に並び、通学の子等に声をかける。
長男が入学して以来、毎月お知らせは来ていたが、参加することなく2年が過ぎた。
今年は校外活動委員なので、クラス代表として参加者名を記入するノートを持って行かなければならなくて、サボれない。
こういう役目でもなければ、一度もやることなく卒業だったかもしれないから丁度よかったのかも。

私が立つのは二度目。
今朝の参加者は保護者が12人。
そして今回は、朝練の一環としてサッカー部の部員達も先に来て並んでいた。
曲がり角のすぐにキャプテンが立ち、先頭切って「おはようございます!」と声を出した後に部員達が続くというスタイルができていて、体育会系っぽく、ハキハキと元気がある。
それに続く大人達は、声のトーンも張りもなくて沈んじゃうのが若さの違い。

しばらく並んで挨拶をしているうちに、サッカー部のこの朝練がどんな意義を持つのかがおぼろげながら見えてきたような気がした。
通学してくる人に声をかけるのは、結構難しいものなのだ。
特にこの場所、車が通る広さの四つ角は、遠くから歩いて近づいてくる人、走り過ぎる自転車、バスを降りてゾロゾロ横断歩道を渡る集団、こちらを避けるように道の反対側を行く人、並んでおしゃべりしながら歩くグループ、そんなペースも状態もまちまちの人が通る。
遠すぎず近すぎず、他の人と重ならないよう邪魔しないよう、相手にわかり易く気持ちのよい、「ここぞ!」というポイントとタイミングを計らなければ、声は空回りでプカッと浮いた寂しいものになってしまうだろう。
私はまったくスポーツには関心がなく、サッカーのことも何も知らないのだけれど、チームプレーでは、アイコンタクトが重要だとはよく聞く。
動きの中でボールを誰にパスするかを誤って、用意が出来てない人に回したら大失点に繋がる。
誰に、どのタイミングで、どんなボールを送れば、それを活かすことができるのかは一瞬の判断にかかる。
その訓練にこれは最適だということではないだろうか。

挨拶は出会いの交流であり、ここから始まり全てに繋がる、人と人の関係の最も大切な基本。
呼吸で覚えて身に染み込ませることは試合に活きてくるだろうし、これから先の生活上でも大いに役に立ちそうだ。

挨拶を返してくる子ども達の中にも、「これはスポーツをやっているな」とはっきりわかる子もチラホラ見受けられた。
そういう子は、反応が自然で気持ちよく返ってくる。
良い先生と良い先輩がいるのだろうと透けて見えてくるよう。
特に、動いていても瞬間立ち止まって正対して頭を下げられた時には、嬉しさを感じる。
送ったものが正しく受け止められて、正しく返ってくるのは、こんなに嬉しいものなのかと改めて思うほどに。
ほんの一瞬、一動作であるのに。

私はどうだろうと思うと少々恥ずかしくなってくる。
誰に何をしているのか、どう伝えたいのかを明らかにしているか?と自分に問うと。
中学生に負けてちゃいられない。
自分自身を迷いなくわかり易く表現することを常に心がけていたい。

挨拶はいいものだ。
人はいろいろな事を教えてくれる。

スロースターター

日曜は、長男が始めてのボランティア活動に出かけた。
地域の障害者施設や児童養護施設合同の祭りの手伝いだ。
内申書を少しでも良くしようとしての下心満々の行動だが、それでも人と触れ合う仕事をやってみようと思ってくれたのは嬉しい。
からかいに行こうかと思ったけれど、恥ずかしがって邪魔になってもいけないと我慢して、夕方帰ってきた彼に「どうだった? 疲れた?」と聞いてみたら「あんまり。疲れたら負けだと思ってるから」と、よくわからない返事。
この年の男の子はこんなものか。

これまで何を言ってものんべんだらりと遊んでばかりいた息子だが、ここにきて高校受験に向けて、真面目に勉強をやり始めたらしい。
「俺、これから帰りが少し遅くなるから」と言うから何ごとかと思ったら、自分で勉強しようにもあまりにもわからない事だらけなのでどうにもならずに、自主的に担任の先生に「勉強を教えてください!」と言いに行ったという。
それで放課後補習。個人授業。
そうそう。先生は勉強を教えるのが仕事なんだからしっかり教えてもらえばいい。
ちゃんと学校を使えば、塾なんか不必要なんだよね。
今更遅いかもしれないけれど。(笑)

息子は「三年生になってから、一度も置き勉(教科書を学校の机に入れっぱなしにして持って帰らない)をしていないからね」と胸を張る。
それが当たり前だっての!!!

親が口も手も出さずに放ったらかしにしてれば、本人が「さすがにこのままじゃヤバイ」と感じて動き出すもんだ。
子育てってなんて楽々なんだろう。
結果さえ気にしなければ。だけどね。(^_-)-☆,

ひとやまこえた

小学校の祭りが終わった。
いつもの事ながら、何をどうしていいかわからない私がウロウロおたおたしてるうちに、テキパキと動く人が動いて、それなりに上手く事が運んで行ったという感じ。
まあ、成功したから全て良し、かな。
全体イベントも、昨年は落語でスベったけれど、今年の中学生の吹奏楽部の演奏は、低学年もしっかり落ち着いて聞いてくれて、まとまりのある良い雰囲気となっていた。

娘の組のクラスイベントは「おばけやしき」で、私は「リング」の貞子役を割り当てられた。
研究の成果あって、長い髪を振り乱して床を這いずり回る姿が「チョー怖い」と評判。
泣かせたのは3人だが、強がってるやんちゃボウズほどビビッてるのがミエミエで可愛いんだよね。
ウキキキ・・・

PTA活動の主な催しは一応これで済んだので、次は来年度予算案作りと役員決め。
めぼしい候補者を選ばなければならないこれが、なかなか大変で毎年難航する。

来年は学校も自治会関係もすべて役を降りて、のんびり自分の時間を持ちたいと思っているのだけれど、どうなるかなぁ。

闘う男の教育論

   ♪強ければ それで いいんだ~ 力さえ あれば いいんだ~
                  (タイガーマスク みなしごのバラードより)
こんな歌を思い出してしまったのは、ある人の書いた教育論によく似た一文があったから。     

あちこちで大層話題になっている親子のことなど、今更別に何も言うことはないのだが、波にノリノリで怖いものなしの時に出していた本の内容を先日テレビでちょっと紹介していたのが面白かったので、その話。

何が面白かったって、「強く育てる」「守り抜く」を信条としてるかのようで、ちっともそうなっていない所。

うろ覚えなので一言一句正確ではないかもしれないが、たとえば、
『行ったれ、やったれ、どついたれ。我が子の邪魔になるものは取り除くのが親や』
なんてのは、ヨチヨチ歩きの赤ん坊の頃から、足元の石ころはどけて、躓いたり転んだりぶつかったりしないようにしてやっていたかのよう。

『子どもの喧嘩に親が出て何が悪い!?』
虐めを受けたとか暴行されたとかでもなく、ただの子ども同士の喧嘩に「ボクシングをやる大事な身体に怪我でもさせたらどうしてくれるんだ」と学校に怒鳴り込んで行ったと言うのだから、呆れる。

そして、これ。
『強ければええんや。強くなれば、周りの態度が一変するんや』
これが全てを象徴している。
これを根底に据えて、これを信じて、これをバネにしてのし上がって来ての今は、なるべくしてなったと納得できるものだ。

強くなったら一変するようなものは、当然、弱くなった時も一変する。
当たり前。
つくづく人というのは、自分の世界を自分の信じるまま望むままに作っているものなのだなと再認識されられた。

『子どもは親の物だ』『俺の夢を託す』と子どもを羽の下に抱きかかえ、障害物のない、華やかなスポットライトの下に敷かれたレールを走らせて、身の程を知らぬ傍若無人な振る舞いを許す親の、どこが「強く育てる」?どこが「守り抜く」になっている?

ただの過保護なだけじゃないか。
というのが私の見た感じ。

この教育論にしろ、ホリエモンの経営哲学書にしろ、大真面目に書店に並べられていたのだから、大真面目に買った人もいたことだろう。
本に書いてあるから、テレビに出てるからって信じちゃいけないってこと。

こんな思想で、こんな事したら、こうなった。
最近は、そういう物がよく表に現れるようになってきている。
ミートホープしかり、赤福しかり、C型肝炎訴訟しかり。
良い傾向だ。
臭い物には蓋をしたい。猫に鈴は付けたくない。長い物には巻かれろ。
それが安全で、それが楽だからで、これまでは通ってきた。
それが通用せず明るみに出て、反則には、かかわった人全てに責任があるのだと示される事で、学べる人も出るからだ。

本よりよっぽど勉強になる。
だから、誰が風見鶏か、何が集団虐めの図式になってるかなんてのも、この際、よくよく見させてもらっておこうと思う。

風邪休み終り

今回の風邪は腰にきた。

昨日は丸一日休養。
朝、家族を送り出してすぐお風呂。
熱めのお湯に重曹とダマスクローズの精油を2・3滴。
全身浴、半身浴を繰り返し、ゆ~っくりと温まって布団にもぐると、
身体の熱のムラがなくなっていて、いい感じに汗がじわじわ出てくる。
このまま治ってくれることを期待したのだが、そうは問屋が卸さなかった。
夕方、息子らを迎えに行く時間には、症状はより重くなって、
頭、目の奥、鼻の奥、耳の奥、歯の神経から、足腰まで痛くて痛くてたまらない。
鼻は詰まって口で息をするので唇がさがさ。
匂いもわからなくなり、目はウルウル。
それでもなんとか車を出して、買い物もして帰る。
夕食作る気力がないので、出来合いのお弁当。
早めに食べて寝たものの、腰の痛みはさらに酷くなり、眠れない。
仰向けが一番辛いが、横でもうつぶせでも結局痛くてジタバタともがき続けた。

そんな一夜が過ぎ、今日もまだ治ってはいないが、そうそう寝てばかりはいられない。
布団を上げて、掃除、洗濯。
明日の小学校の祭りの準備にとりかかる。
動き出せば動けるものだ。

これを打っている間に、嗅覚が戻ってきた。
よし!行ける!
ガンバレ、私。

遠い夜汽車

こんな山奥で、聞こえるはずのない夜汽車の汽笛を聞く。

乗っているのは遠い昔の私。

暗い窓に映る青ざめてこわばった表情のない顔。

何処へ向かうのかわからない。

暑いのか寒いのかわからない。

お腹がすいているのかどうかわからない。

眠いのか眠くないのかもわからない。

ここは何処なのだろう?

時折、民家の窓明かりが見える。
暖かい黄色の灯火の下の子どもは笑っているのだろうか。

食卓を囲み、お風呂に入り、少しだけテレビ。「早く寝なさい」と言われて敷かれた布団の上ででんぐり返り。
遊びで興奮して兄弟喧嘩。
叱られて、それでも寝床でひそひそ話してるうちに夢の国。
明日も明後日も同じ暮らしが保証された毎日。

そんな子どももいるのに、私に与えられたのは冷たく硬い夜汽車のシート。

誰もそばにいない方が安心できる。
怒らせずにすむ。
殴られなくてすむ。
怖くない。
ずっとこのまま一人にして。

そうできないなら、私を“あそこ”へ!

そうして私は今、黄色い灯火の下にいる。

遠い遠い、聞こえるはずのない夜汽車の音が今も聞こえる。

風邪をひいた

周囲に風邪ひきが多いなと思っていたら、とうとう私もひいてしまった。

ここ三日ぐらい、なんだかおかしかった。
やたらウズウズして落ち着かず、現実と無関係に感情がかきたてられ妄想がめぐったり、急に眠気に襲われて白日夢みたいな物を見たり、エネルギーが変な偏りをする時特有の痺れ感があったりと。
また鬱期に入ったかなと思っていたら、体に出た。
朝起きたら喉が痛くて、鼻がつまっていた。
寒気と咳も少し。

鬱は心の、風邪は体の排毒期間。
幸い明日は会社が休み。
1日で治さなければ。
明後日は、小学校の祭りの準備で忙しいから。
熱が上がりきらない体質なので、ガンガンに熱いお風呂に浸かって大汗かいて、ピュアウォーターをがぶ飲みしては、ミカンとバナナとリンゴと柿を食べまくる。
それでなんとかなるでしょう。

でもその前に、一番大事なのは、なんと言っても睡眠。
今日は早く寝よう。

おやすみなさい。

取り返しのつかない人生

「人生で一度失敗したら、もうやり直せない。努力しても、報われるとは限らない」
高校生の多くがそんな悲観的な考えを持っていると、高校生新聞社の調べで分かったという。

原因について、格差社会を大きく扱いすぎるマスコミの影響とか、進路指導のやり方の問題、不安な社会情勢のせいなどいろいろ言われているが、果たしてそうだろうか。

いつも思うが、こういった子どもを対象とした統計調査をする場合、なぜ同時に大人にも調査をして比較をしないのだろう。
とはいうものの、大人は狡猾で正直な答えを書くとは限らないから、参考にはならないかもしれないのだが。

周囲を見回せば、どこもかしこも失敗を恐れる大人ばかりだ。
若者が一度失敗をしたらやり直せないと考える理由は、失敗をしたことがないからだろう。
大人が先手先手を打ち、失敗をさせてもらっていない。
もしちょっとでも失敗すれば怒られ責められ“取り返しの付かない”事を思い知らされる。
望まれる成果が出ない努力は無駄で報われないという経験を摘む。
そうして作った理想の良い子に楽観的・情熱的であれとは、無理が過ぎようというものだ。

誰かが何かをすればすぐに叩かれるこのご時世。
政治家が、タレントが、スポーツ選手が、何をやったからどうした、何を言ったからこうした、けしからん、困った、嘆かわしい、そんな話題ばかり毎日毎日。
日常も同じく、他人のあら探しをしては噂話に花が咲く光景はどこでも見られる。
応援してても、失敗一つで手のひら返しが当たり前。

失敗を恐れる人は、他人の失敗を許さない。
さりとて、本音では他人の成功も面白くない。
何より一番イヤなのが、自分と近い立場の人が失敗を恐れずチャレンジして成功すること。
それだけはどうしても阻止しなければと、あの手この手で邪魔をしては引き摺り下ろす。
「おとなしくここにいろ!」と。

本当に、人生が何度失敗してもやり直せると教えたいなら、どんどん失敗させることだ。
どんな無茶でも、馬鹿なことでもやらせてみればいい。
挑んで打ちのめされて倒れて、ズタボロに傷ついたとしても、案外、歩けるし笑えるものだと知るだろう。
やりたいことをやるだけで、それがそのまま報いなのだと。

人は体験から学んでいる。
情報よりも、感じたものに動かされる。
そう見るほうが自然じゃないか?

”やるき”は育つものじゃなく

ブログを書こうと思いはするのだけれど、忙しくてままならずにいる。
今ももう出勤の時間。

そうしてみれば、どんなに忙しくても内容のある日記をほぼ毎日更新されている日野先生はすごい。
ワークショップを終えて深夜まで語り合ってホテルに戻ってから更新とか、海外からも新鮮な驚きを伝えてくれたりもする。

これがやる気の違いだろう。

「やる気だけはあるんだけどね~」なんてのは、やる気のなさの証明にしかならないということだ。

いつか“やる気”が育って“できる”ようになるわけじゃない。
今、やるかやらないか。
結局はそれだけ。

というところで、タイムアップ。。。

運とツキ

面白い実験がある。

まず人を、自分がラッキーだと思っているグループと、運が悪いと感じているグループに分ける。
そして双方に同じ作業をしてもらう。
新聞紙を渡して、全部のページに何枚の写真が載っているかを数えるといった簡単なもの。
その結果、かかった時間に、なんと二つのグループで明らかな大きな差が出たというのだ。

不運な人たちは平均して2分かかったのに対して、ラッキーな人たちは平均して数秒で終えてしまった。

これはどういうことだろう?
運とは、脳の処理能力の差によるものだったのだろうか。
時間の感覚が違う?
ダメ人間は何をやってもトロくてダメ?

実はこれには仕掛けがあった。

紙面の2ページ目に5センチの文字で、
「数えるのをやめなさい。この新聞には43枚の写真が載っています」
と書いてあったのだ。

運は同じ場所に同じだけ転がっている。
要は見つけられるか見つけられないかだけの違い。

それを知っていれば、
「あの人は恵まれてる」「運がいい人はいいよね」なんて言えなくなる。
見つければいいだけだから。

さあ、目の前をよく見てみよう。

「子どものため」の大人の問題



なんやかやといろんな役をやっているので仕事が多いが、やっとひとつ片付いて、ホッ。

今日は午後から、来月開催される地域コミュニティ主催の大人用CAPプログラム講演会の案内ポスターと配布用チラシを印刷するため、小学校のPTA会長と一緒に市民活動センターに行ってきた。
PTA会長は宛職で地域コミュニティの役員もしていて、その手伝いを頼まれたのだ。
資料をもらったのが木曜日で、正味1日で作ってすぐ印刷にかけないと間に合わないときたものだから、メモリ不足のおんぼろパソコンと格闘して焦った焦った。もうクタクタ。

CAPプログラムは、昨年、5年生に虐め問題が持ち上がった際に小学校PTAとして対応できる一つの手段ということで導入し、先月は4・5年生を対象に2回目が実施され、今後も継続していく予定となっているもの。
今回やっと、この地域では始めて、その受け皿となるおとなのためのワークショップが開かれる運びとなった。
保護者だけでなく、できるだけ多くの人たちが参加して理解を深めくれることを願っている。

子ども達が受けた効果や反応がどうなのかとても気になっているのだが、どうもはっきりしないというのが実際のところ。
トラブルメーカーはあいも変わらずのさばっているし、虐めは隠し方が巧妙になっただけで続いているという話も聞く。
いくら子どもが“ためになる話”を聞いてきても、家庭や社会が信じられなければ、「安心しろ」「自信を持て」というメッセージはただの理想論なだけで何の意味もないどころか、逆効果にもなりかねない。
勇気を出して助けを求めた時に振り払う事ほど、人を悲しませ傷つけるものはないからだ。

本当は、“大きな声で『NO!』と言わなきゃいけない社会”なんて、間違っていると私は思う。
しかし、現にそうであるのだから「ならばどうする?」を考えたとき、今できることをやるしかない。
今回、地域ぐるみでおとなワークショップにこぎつけた事の意義はそこにある。
さまざまな立場で多くの人が動き考えるのだから、まるっきり無駄ということはないだろうと、それぐらいのものなのだが。

CAPプログラムは子どもに対する暴力防止・人権教育ということになっているが、これはそのまま大人にも当てはまるものだ。
女性や老人などの力の弱い人が虐待や人権侵害される事件は後を絶たないし、ニュースにならない程度のものならどこにでもある。
男性であっても、強い者の上にはさらに強い者が立ち押さえ付けるのだから、そのフラストレーションのはけ口を自分より弱い立場の人間に求める連鎖の図式となる。
結局、その末端である最大の犠牲者が子どもなだけだ。

子どもに、嫌なことはイヤだとはっきり言えと教える大人たちに、それができているだろうか?
自分がやられて嫌なことは他人にしないでいるだろうか?
辛いことを隠したり一人で抱え込まずに、心を開いて話せる信頼できる人がそばにいるだろうか?

子どもの問題とは、そのまま、大人自身の問題だ。

おとなワークショップが、それを気付かせるものになっているのか私は知らないが、そういった点にも着目しながら、受講しようと思っている。

親を行ずる

中3の長男は、ふにゃふにゃして覇気がないというか何というか、
これから先の人生、こんなので本当に大丈夫か?と思うぐらいチャランポラン。
しかし最近は、たまにいっぱしの口をきいて驚かせてくれたりもする。

彼はこのところ反抗期のせいもあってか、父親にとても批判的で、
「お父さんはわけがわからん!」「いい加減にしろ!」「自分勝手すぎる」
などと腹を立てることが多い。
まだ、面と向かっての衝突というわけではなくて、
ぶつくさボヤいてる程度ではあるのだが。

この子が、急に私にこんなことを言ってきた。

「オレ、悪かったと思う。
 今度から、ちゃんとお母さんを守るから。もう、決めたから」

何かと思ったら、先日の夫の大暴れの件で、
息子は息子なりにショックを受け、責任を感じ考えることがあったらしい。
とっさにどういう状況か判断がつかず、動けなかったという事に。

私は返事に困った。
「まあ、大丈夫だよ。ありがとね」と軽く返しはしたけれど。

「守るから」という息子の言葉に対して、
そんなことが言えるほど大きくなったのかと、子どもの成長が少し嬉しくあるけれど、
そんなことを言わせるほどふがいないダメ親に成り下がったのかと、
自分が嘆かわしい気持ちの方が大きい。

親は子どもを守る立場。
子どもに守られるなんて、冗談じゃない。
そんな気遣いなど無用なぐらい、強く強くならなくては。
自分の弱さはイヤというほど知っているからこそ、
せめてそう見える程度には、突っ張りたい。
それが“親をやる”ってこと。

決して、素のままありのままじゃいられない。
つくづく因果なものだ。
だが、私はこの役目が結構気に入っている。

オトコの不思議

なんでオヤジって、昔の写真を見せたがるの?

決まって「これでも若い頃は結構カッコ良かったんじゃ」と自慢げに。

これまで何人のオヤジに、とっておきの一枚を見せられたことか。

いやー、そういう人は確かに自信あるだけあって男前に写っているんだけれど、
返事に困るんだよね。
「カッコよ か っ た ですねー」で嬉しいもんなのかな。
「 今 も カッコいいですよー」って言って誤解されてもアレだし。

う~~~、
苦笑いで「そうですね・・・」で勘弁してヨ。 <(´∀`;)

僕らはみんな生きている

「生かされている私」

最近、この言葉をよく目にし耳にするが、とても気持ちが悪い。
はっきり言って、私は嫌いだ。
この謙虚さを装った傲慢さ。いやらしい企みの臭いがする。

だいたい、何をもってそうだと言うのか。感じるのか。

生きるとは具体的には、食べ、成長し、働き、遊び、産み、育ててという、生まれてから死ぬまでのすべてを包括したもの。
それが何者によってせしめられているとでも?

言葉を置き換えればその不自然さはわかろうというもの。
「食べさせられている」「成長させられている」
「働かされてる」「遊ばされてる」「産ませされてる」「育てさせられている」
それではまるで、したくないことをさせられているかのようではないか。

「生かしていただいている」になると、もっと変。
奴隷が絶対的暴君のご機嫌をとってなんとかかんとか生きながらえている印象を受ける。

「ありがとう、ありがとう」と感謝しまくらなきゃ意地悪されてしまうような、
そんな尻の穴の小さなもんに支配されるなぞ、私はいやだ。

好みはそれぞれだから、それが嬉しい人がいたとて別段かまやしないのだが。

人が自力でできることは小さくて、あらゆるものとの繋がり(他力)によって成り立っているこの世界。

だからこそ、ただ在る事を受け入れ、高らかに自分の意思を示したい。

「私は生きている!」と。

不幸じゃない幸せ

良いこと探しは、悪いこと探しにもなってるって知ってた?

そんな必死にポジティブシンキングしなきゃならない理由が、
きっとどっかにあるんだろうね。


「上見て暮らすな、下見て暮らせ」の頃からの根性は、
まだまだ根深いようで。

トモダチ100人いりません♪

携帯電話の機能では、アドレス登録が500人とか1000人とかできるようになっているが、私にはそこまで要らない。
私が登録してるのは、緊急に電話かメールをする可能性のあるほんの10人程度。
機能のほとんどが無駄だ。

ある人は、限界ぎりぎりまでびっちり詰め込んでて、新しい人が入らないから数ヶ月に一度は整理するのだと言っていた。
それは、機能をフルに使っている例かもしれない。

そういう人たちからすると、私のような使い方は「もったいない」らしい。

「人脈は財産だ」から、「もっと広い交友関係を充実させるよう」にとご忠告くださる人もいる。


私は十分、豊かだと感じているのだけどね。

愛の学び舎

姪っ子の結婚式は、これまで私が出席した式の中でも最高に良い式だった。

牧師様のお話が印象に残っている。
これまで何度も同じようなことは聞いていたはずなのだが、今回は特に心に響いた。

「結婚とは、何でしょう?
 結婚とは、愛を学ぶことです。
 家族となり、一生をかけて相手を愛するとはどういうことかを探すことです。」

「受ける者より、与える者の方が幸いである」

そういった内容の。



愛しているから結婚するのではなく、愛するために結婚する。

そういったことを、ちゃんと考えたことがあっただろうか。

私は何を与えてきた?

自分に問う。
これまでを。これからを。


結婚式っていいもんだ。新しい門出に乾杯!!

誤解は自己責任

「誤解されるのも自己責任」

私が好んでよく使う言葉だ。

他人に向けながら、自分に言い聞かしているところがある。
わかっていながら納得しきれていないから。

「なぜそう思うかな?」
「どうしてわかんないわけ?」
「普通はそう受け取らないよ」
「そんな変に勘ぐるなんてあなたぐらいのもんだ」
「性格悪いから他の人も自分と同じく意地悪に思うんでしょ」

思い通りに伝わらなかったとき、思いもよらない見方をされたとき、
つい、人を責める気持ちが湧き上がってくる。
理解されない悲しさを、理解してくれない人への怒りに転嫁して。

誰が悪いんだ?
誤解する相手が自分を悲しませているのか?
他人に悲しまされる“私”は被害者だと言うのか?

いいや、そうじゃない!

そういう言動をした“私”の責任だ。

相手がどんな人間で、どんな状態なのかを見ずに、
「こうであろう」との思い込みで接したその結果が現れただけ。

見せたい自分と見えている自分とが乖離している事に気付かず、
無神経に振舞った、これがそれに相当する答えなのだ。

そんなことは頭ではわかっている。
だから自分に言い聞かす。
誤解される悲しみを繰り返すたびに。

繰り返す原因は、私が私を理解していないから。
私が私を表現できていないから。

ならば、どうするか。

理解すればいいだけだ。
表現すればいいだけだ。

というわけで、一月には岡山ワークショップに行きます♪

ダンサーでもアクターでもないただの主婦の舞台は日常。
こんなずぶの素人は、集まる人の中では最低レベルのはず。
だから学べる事は一番多い。
とても楽しみ。

私は肩こり?

土曜日に姪っ子の結婚式があるので、昨日、髪を切りに行ってきた。
いつも行く店は決まっている。
そこはカットの腕はとても良く気に入っているのだが、気に入らないのはマッサージ。
頭皮のマッサージは問題ないし、シャンプーで首の後ろが圧迫されるのをトントンとほぐされるのもいいのだけれど、肩から背にかけての揉みほぐしは、肩こりをしない私にはくすぐったいだけだから。
特に両手を合わせて強めに叩かれるのは痛いし頭に響くので、腹が立つほど。
気持ちよくないスッキリもしないそれが何かの役に立ってるのかと疑問に思っているのだが、いつも「凝ってますね」「とても硬いですね」と言われてしまうのはどういうことなんだろう?
どうやら私は自覚がないだけで、ものすごい肩凝りが慢性化してたりするらしいのだ。
痛くも重くも変でも不自由でもないんだったら、肩がガチガチだろうとどうでもいいって気はするけれど。

症状ってのは、状態とさほど関係ないものなのかもしれない。
だったら、この部分は一生鈍感でいたいものだと思う。
痛みなんて、感じなきゃないってことだからね。

美人は態度で示そうよ

以前は時々見ていたビューティコロシアム。
見なくなったのは、依頼者の整形したい動機が家族や友人・恋人(と思っていた人)からの酷い言葉だったり、容赦ない虐めからだったりがやたら多くて、つい腹を立ててしまっていたから。
顔立ちやスタイルが変わったぐらいで旨くいく人間関係を出演者の誰もが疑問なく受け入れていることに、「それでいいのか!?」と毎回突っ込み入れまくり。
そんな風に好き好んでわざわざマイナス感情を刺激されることはないよな、と思ってしばらくチャンネルを合わさなかった。

先日、久々に見てみたら、やはり同じ流れではあったけど、以前と違っていたのは、私の視点。
ブスの物語をそれなりに楽しめるようになっていた。

顔ゆえの悲劇をコレでもかとあおる脚色、不幸で暗くなってしまっているように見せる演出を、「おお、なるほど~」なんて感じで。
どんなブスでも、テレビに出るとなればそれなりに服装にも気を使うし、髪も整え、化粧もするはず。
そうでないのは、作ってる証拠なんだから。

Beforeは、うつむき加減、だらしない服装、ノーメイクで影の多い映り、暗く無表情、低い抑揚のない声であまり口を開けずにしゃべる。

Aftoreは、顔を上げて胸を張って足を前後に揃えるモデル立ち、きちんとした服、しっかりメイク顔を全角度から照明が照らし、常に口角上げの表情で明るさを保ったまま、トーン高めの声でハキハキと受け答えする。

容姿よりも、実はこの差が一番大きな変身ポイントと見受けられる。

大手術で見た目がまったく別人に変わった人もいるけれど、それほどでもない人もいる。
だけど「キレイになった」と思わせるのは、キレイな人の態度をとるせいだ。

ブスだからと顔を隠して控えめにすればするほど嫌われる、気味悪がられる、怖がられる。
それはブスゆえにではなく、自意識過剰で不自然な態度が嫌悪感を催させてしまうからではないだろうか。
そういう意味では、整形して自分に自信を持てるようになるのは大切かもしれないが、顔をいじらなくても、立ち居振る舞いとセンスを磨くだけで、もしかしたら事足りるのではという気もしてくる。

近年、整形手術に抵抗がなくなってきて、こういったテレビ番組を見て「私も美人になりたい」と希望する人も多いと聞く。
だけど、整形美人の表情のこわばりを気にする人はあまりいない。
笑みを絶やさない口元を隠すと、能面のように動かない上半分の顔。
そんなのを目にするたびに、何かを得れば、何かが犠牲になるものなのかと感じてしまう。
本人さえ幸せならばいいことだけど。

私は不細工な顔でもメスを入れるのはやはりイヤだし、笑い皺も怒り皺もホクロもシミもタルミも私らしい魅力の一つだと思ってるから整形はしないで、キレイな人の態度だけを参考にさせてもらいたいと思っている。

同じ人の昨日と今日(実際には何ヶ月もだが)との比較で、何が変わったかが一目瞭然となるこの番組は、教材としては結構面白い。
明日がどうなるかはわからないとしても。

夢がない

私には夢がない。
どうしても叶えたいことがないのだ。
なりたい状態はあるが、どうなら成功というものではないので、それは目標と呼べるかどうか。

昔、私がまだ広告代理店で働いていた時、周囲の人たちの夢といえば「いつか独立して自分の会社を持つ!」だった。
私も漠然と「いつかお金がたまって実力がついたらそうしたい」と思っていたのだが、ある日、友人の一言でそれは夢ではなくなった。

「ぽあんちゃんの将来の夢って、独立することでしょ?」と聞かれた時、なぜかムカッとしたのだ。

「そんなものが夢なもんかい!」なんて、あまりに小さく感じられたから。
夢というのはもっともっと大きいもんじゃないのかと。
独立なんて、すぐにでもできる。

そこで、すぐに事務所とする物件を探し、機材を揃え、仕事を回してくれそうな知り合いに声をかけて、準備ができたところで退職。
思い立ってから数ヶ月で実現させてしまった。
当時、周りからは「見通しが甘すぎる」「人生をなめてかかってる」などと散々言われたものだが、バブルという時期が幸いして、そこそこの仕事はできた。

が、それはそこ止まり。
もっと上に行きたいとか、もっと稼ぎたいとまでは思わないのが私の限界。

やりたいことはやってきた。
「どうしてもこの人と結婚したい」「子どもが欲しい」「一戸建てを持ちたい」「幼い頃に憧れた地域に根付いた暮らし」「人付き合いの苦手意識の克服」等など、ちっぽけな願いばかり叶えてきたが、はたと気付いたら、私には夢がなかった。

今の私には、先の楽しみや予定はあっても夢がない。
平凡すぎるほどの小市民的ささやかな幸せ。
これで満足とはね。

果てしなく大きな夢が欲しい。
一生を、情熱のすべてを傾けて取り組みたいと思えるような。
それが私の夢かな。。。

中1の一割が鬱・躁鬱

調査によると、小学校4年生から中学1年の子ども達の鬱もしくは躁鬱の有病率が4.2%にのぼり、中学1年生に限ると、なんと10人に1人があてはまるという。

ひどいもんだと思う。

結果ではなく、その調査方法が。

「学校などの子ども社会に不自然なストレスがかかっている現代への警鐘」と分析する医者もいるけれど、何をもってそう受け取れるのかの根拠としているのか。

初の調査のデータで、過去と比較ができるのか?
なぜ中1まで?
それは、学年が上がるごとに落ち着いていくのか?それともより深刻になっていくのか?
就寝・起床時間、外で遊ぶ時間、テレビ視聴時間と関連性がなかったようだが、ストレスを疑うのなら、なぜ通う学校・地域性・一日の勉強時間・塾通いの頻度・家庭環境・会話時間との関連性は調べなかったのか?

鬱・躁鬱と診断された生徒の親には、症状に応じて専門医への受診が勧められたらしいが、そのへん、どうも空恐ろしく感じる。


以前、「14歳が危ない」と騒がれた時にも思ったが、大人は皆、どうして自分が子どもだった時の気持ちを忘れてしまうのだろう。

安定した子どもなんているわけがない。
不安のない子どもなんているわけがない。
特に中学生ともなると、「人はなぜ生き、そして死ぬのか」なんてことを、一日中考えたりするものだ。
日記に「死」「血」「地獄」「悪魔」「傷」「殺人」「呪」なんて言葉を躍らせた詩なんぞしたためては、ため息をつく。
「大人は汚いよ」「大人になんかなりたくない」なんて遺書めいたものを書いてもみたり、意味なくポケットにナイフをしのばせたり、魔方陣を描いて悪魔を呼び出したりするのが普通だ。

え? 普通じゃない?
私だけ?
あ、それは失礼しました。(汗)

なんにせよ、私はその頃、自分がどんな気持ちだったかをありありと覚えている。
なぜなら、めちゃくちゃ楽しかったからだ。

漫画ばかり読んでいた。描いていた。
歌ばかり歌ってた。ろくろ回して粘土いじりばかりしてた。
週末ごとに美術館めぐり、名画座で映画三昧、本通りの端から端まで何往復もして本探し。
毎日毎日、友人とつまらないことをおしゃべりしまくって、ちょっとした刺激にお腹が痛いぐらい笑い転げてたっけ。

でも、深夜ひとりになると、闇に溶けて消えそうな虚しさに襲われる。

こんな状態、医師が診断するまでもなく、躁鬱の典型だろう。

だが、その精神状態が病んでいるのだろうか?
何を持って健康だとするのだろう?
10人中、9人は問題なく大丈夫と太鼓判を捺せるのか?

私は、子どもの頃から躁鬱で、そういう意味では今もまったく変わっていない。
図太さを身につけ、表面に表さなくなっただけ。
それで何とかなっている。


「心が病気だ」といったい誰が決め付けられるのか。
殺人者が正常か異常かの判定さえ、偉い精神科医が雁首揃えててもはっきりできないのに。

研究は大いに結構だが、その結果についての扱いは、慎重に慎重になされなければならない。
追跡調査や、現在本当に病んでいる大人がどの段階で発症したのか、その原因は?などの統計をとるなどして付き合わせてみなければ、10人に1人の鬱・躁鬱が、どんな意味を持つのか、何とも言えないのではないだろうか。

もしかしたら、問題でもないことを問題にしてるだけ。
そんな可能性だってあるのだから。

タイムマシンがあったなら

昨日、夕方、唐揚げをあげていて、ふと思ったことがある。


広げた新聞紙の上のカラッと揚がったアツアツを、ちょっと味見。
うん、丁度良い味。
適当すぎるほど適当な作り方だけど。
昔は「唐揚げ粉」なんか買っていた。
今は 使わない。
だって美味しくないもんね。


ふと思ったのは、これを食べさせてあげたい人のこと。

あの頃は、忙しくしてたから、手の込んだものを作ってあげたことはなかった。
料理をそんなに知らなかったし、手順や下ごしらえなんかどうでもいいと思ってたっけ。
今なら、あれもこれも作ってあげられるのに。
この唐揚げなんか、近所の中華料理屋より美味しいと喜ぶだろうなと。

もしもタイムマシンがあったとして、1日だけ時間旅行ができるなら、まだ元気な頃の母に会いに行く。
してあげたいこと、言ってあげたいことが色々あるから。

今なら……ね。

コロコロこころ

コロコロと
人の心は変わるもの。

昨日好きでも、今日は嫌い。
愛は一瞬で憎しみに変わる。
絶対に忘れないと誓った思いも時が過ぎれば遠くなる。

まったく、心なんてもんは信用できない。
気持ちを語る言葉など。

信じられるのは、何をする人かだけ。

過去も未来もなく、今、この人が。

他人も、自分も。

金髪少年の今

あれから半年。
20071007233904
今日、やっとバッサリ。
しかし、やってることは変わりないという。

日々に追われる

今、深夜一時半。
やっと、週明けに配布する「PTA便り」の原稿ができたとこ。
明日にも教頭先生とPTA会長にメールで送ってチェックもらったら、火曜日に朝から全校長子の数だけ印刷をする。
金曜の参観に制服のお古を持ってきてもらう呼びかけなのだけれど、それを出すように言われたのが昨夜のPTA運営委員会でだったので時間がなく、どうなるかと思ったけれど、なんとかできた。
小学校PTA執行部の書記の仕事の一つに、校内新聞とは別のお知らせのプリント作りもあるのだが、私はこれが大の苦手。
ごく普通の何でもないプリントを、毎度毎度、七転八倒して作っていることは誰も知らないだろう。
とにかく私は文章力がない上に常識もないので、時候の挨拶も知らなければ、漢字も知らない。要点をまとめて伝えることも不得手で、いつも苦しむ。
それでブログでも書けば少しは文章力が付くだろうかと書き続けているのだけれど、ただ思いつくものを適当に書き散らしているものと、人に読ませることを目的にする文書とはやはり違う。
たぶん、プリント作りの方がよほど勉強になっているのだろうなと、そんな気がする。

いつか日野先生に、文章を思いつくままに単に書きなぐるやり方では上達はしないと言われた事がある。
推敲し、読みやすいか、最適な表現かどうかを客観的に捉えなおすことで磨かれるのだと。
何をしたいのか。
文章を書くのであれば、それは誰に何の目的で書くのかが、明確でなければならない。
その意味では、私のここはただの独り言、日記、気付きのメモにしかなっておらず、読みたい人だけ読んでくれたらいいし、どんな感想を持たれたとしてもオッケーという自己満足でしかないというのが、もう違っているわけだ。
先生の本だけでなく、日記やちょっとしたコメントにいたるまで貫かれた姿勢は、カッコいいし、真似をしたいと思いつつも、今日もボソボソ独り言の私はカッコわるい。

さて、次は委員会の議事録まとめと、学校のまつりのプログラム、準備進行表作り、HP更新、その他もろもろ、早急にやらなければならないものが山積みだ。
今日は自治会役員会に出たが、明晩も会議、明後日は祝日なしで仕事、水曜に育成会役員会、金曜は参観日で夜からPTA執行部会、土曜は姪っ子の結婚式に出席して、夜は自治会運営委員会、日曜町内大掃除の後班会議・・・等々、そんな感じで来月いっぱいまでスケジュールがびっしりとなってしまっている。
来年はすべての役を降りてのんびりしたいと思いつつも、そうもいかなさそうな雰囲気だったりもするわけで、どうなることやら。

まだ胃がムカムカしていても、七転八倒の後はちょっとした達成感で気分はいい。
やってしまえば簡単なものが大変なのは、いつの場合も苦手意識でそう感じるだけ。
いったい、いつになったら自信というものがつくのやら。

心のノイズ

自分で自分の事はわからないと言うけれど、私は他人への違和感よりも、他人と接する時の自分にたまらなく異質な分離感を感じる事が多い。

親しげに話しかけられる。
頼りにされる。
誉められる。
好意的に受け入れられる。

ありがたい事だと思う。
だけど素直に受け取れない。
戸惑う。

私を知りもしない人が作る私に。

そして、私を知らない、知ろうとしない、私自身に。


困っているわけではないのだけれど、申し訳なさでいっぱいになる。

騙してしまって、ごめんなさいね。
と。

季節と猫の目

いじりすぎたせいで、私の顔を見ると耳を倒し首をすくめて足早に逃げるようになった猫が、最近やけに懐く。
今も喉をゴロゴロ鳴らし、擦り寄り、まとわり付いてくる。
ひざに乗る。

寒いんだ。

猫ってそういうやつ。

正しさには反対の反対なのだ

あんまり正しい事ばかり言う人がいると、ウンザリする。
「げろげろぉ~」て感じ。
2ちゃんねる風に言うと、「ぷっ、必死だな」みたいな。
血管切れそうな息苦しさに、茶々入れたくなる。
か、徹底的に反発してバトるか。

という具合に自分が天の邪鬼のくせに、私もよく正しさで人を追い詰めちゃうんだよね。

困った癖。
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Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

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