物を考えるということ
先生と同年代の参加者のS教授はとても素敵な方だった。
しかし、私の第一印象としては、とにかく理屈っぽい、と感じた。
話題や一つ一つの取り組みを分析しては、
「これはこういうことなんだねぇ」と言葉にされるので、
ゴチャゴチャとしちめんどくさい事言う人だなと思っていた。
武禅の基本は正面向かい合い。
ビシッとセンターを合わせるのが第一段階なのに、それがわからない、感じないと言われる。
「感じない人もいるんですか?」と先生に聞くと「絶対にいない」とのこと。
是非感じてみたいと言われるS教授に「こんな感じがするんですよ」とか
「ピタッと合った時、すごく幸福感があります」と説明したが、
「それは、赤ん坊と目を合わせたときに母親が脳内で分泌するホルモンが
精神にもたらす作用と同じなのではないかと・・・・・」と、行動の前に頭を使われる。
私もよく「いらんこと考えすぎ」と言われるが、この人はその比ではない。
そんなふうに思ったものだ。
しかし、先生と交わされる会話の深さ、若い参加者に語りかける内容、
その表情、優しさ、気遣いなどを見ていくうちに、
それが単なる上っ面の理屈ではないということが見え始めてきた。
何より絶妙なタイミングでの“おとぼけ”がすごく楽しい人なのだ。
冗談とも真面目ともつかないコミカルさでその場の人を
ふんわりとした雰囲気で包みこむのは、やはり人柄の良さあってこそなのだろう。
その後、休憩時間も使っての向かい合いの稽古で正面を合わせることができた彼は、
「ピタッと合わせると僕なんかグダグダになっちゃうから、きっとわざとはずしてたんだろうね」
と言われていたが、その言葉の意味を私が知ったのは、最終日のことだった。
そのセクションでは、中心を合わせて身体に軽く触れて働きかけることによって、
身体の動かない人にでも負担をかけずに介護をすることもできるという実践的応用の稽古をした。
以前も少しやったこともあり、ちょっとはできるつもりでいたのだが
今回なかなかうまくいかなかった。
何もしないよりはマシ。でも、やはり力ずく。
やってるのに出来ない。どうして?どうして?どうやったら?
気分は落ち込み、イライラが募ってくる。
ペアを組んだ女性はダンサーで、若いながらも落ち着いていて、
先生とも一発でピタッと正面を合わせられるほど鋭い人。
それなのに、私はうまくいかない。私と組んだがために相手も出来なくしてしまってる。
そんなふうに煮詰まって、にっちもさっちも行かなくなった時、
S教授が「ちょっとやってみてもいい?」と声をかけてくださった。
S教授のやり方は、私たちと全然違った。
笑顔と声かけで気持ちをほぐして、身体も包み込むように添わせ、
しっとり柔らかく肌に触れる手のひらの心地よいこと。
安心して任せれば、ヒョイと簡単に動かされる。
交代して同じようにしてみたら、大きい身体のなんと軽い!
何より、触れられるときも触れるときも感じる幸せな気持ちに涙が出るほど。
どうして?どうして?何なの?これ?
その後、元のペアに戻ってみれば、先ほどと打って変わって互いに優しい気持ちになっていて、
面白いようにうまくいくではないか。
中心を合わせ、身体を寄り添わせたとき、心の底から湧き出てくるのは、
相手が大切で大切でならないという慈しみ。
どんな立場であろうと、片方が一方的にする側、される側なんて分かれてはいないのだ。
通い合うからできること。
先ほどまで、出来ない自分を責めていた。動いてくれない相手を責めていた。
優しさの欠片もなかったことに二人で気付けた。
それも嬉しい。
そんな私を見て、S教授が「顔が変わったね」と言ってくださった。
「さっきまでの“負け犬”の顔じゃなくなった。きれいになったね。
いつもそんないい顔をしているといいよ」と。
大きく豊かで感じやすくて、とても深い人だと知る。
考えるべきことをしっかり自分で考えてきたからこその頭の良さ、にじみ出る味わい。
“考える”とはこういうことならば、私は何も考えてなどいなかったのかもしれない。
自分に都合の良い説をでっち上げるための材料集めか、
悩むために悩むといった理論武装ばかりをやってきたんじゃなかったか?
それなら、理屈っぽいのは私の方じゃないか!
と、こんなふうに武禅は、参加者全員が互いに先生、互いに生徒。
沢山のことを教えていただき、感謝の念でいっぱいだ。
しかし、私の第一印象としては、とにかく理屈っぽい、と感じた。
話題や一つ一つの取り組みを分析しては、
「これはこういうことなんだねぇ」と言葉にされるので、
ゴチャゴチャとしちめんどくさい事言う人だなと思っていた。
武禅の基本は正面向かい合い。
ビシッとセンターを合わせるのが第一段階なのに、それがわからない、感じないと言われる。
「感じない人もいるんですか?」と先生に聞くと「絶対にいない」とのこと。
是非感じてみたいと言われるS教授に「こんな感じがするんですよ」とか
「ピタッと合った時、すごく幸福感があります」と説明したが、
「それは、赤ん坊と目を合わせたときに母親が脳内で分泌するホルモンが
精神にもたらす作用と同じなのではないかと・・・・・」と、行動の前に頭を使われる。
私もよく「いらんこと考えすぎ」と言われるが、この人はその比ではない。
そんなふうに思ったものだ。
しかし、先生と交わされる会話の深さ、若い参加者に語りかける内容、
その表情、優しさ、気遣いなどを見ていくうちに、
それが単なる上っ面の理屈ではないということが見え始めてきた。
何より絶妙なタイミングでの“おとぼけ”がすごく楽しい人なのだ。
冗談とも真面目ともつかないコミカルさでその場の人を
ふんわりとした雰囲気で包みこむのは、やはり人柄の良さあってこそなのだろう。
その後、休憩時間も使っての向かい合いの稽古で正面を合わせることができた彼は、
「ピタッと合わせると僕なんかグダグダになっちゃうから、きっとわざとはずしてたんだろうね」
と言われていたが、その言葉の意味を私が知ったのは、最終日のことだった。
そのセクションでは、中心を合わせて身体に軽く触れて働きかけることによって、
身体の動かない人にでも負担をかけずに介護をすることもできるという実践的応用の稽古をした。
以前も少しやったこともあり、ちょっとはできるつもりでいたのだが
今回なかなかうまくいかなかった。
何もしないよりはマシ。でも、やはり力ずく。
やってるのに出来ない。どうして?どうして?どうやったら?
気分は落ち込み、イライラが募ってくる。
ペアを組んだ女性はダンサーで、若いながらも落ち着いていて、
先生とも一発でピタッと正面を合わせられるほど鋭い人。
それなのに、私はうまくいかない。私と組んだがために相手も出来なくしてしまってる。
そんなふうに煮詰まって、にっちもさっちも行かなくなった時、
S教授が「ちょっとやってみてもいい?」と声をかけてくださった。
S教授のやり方は、私たちと全然違った。
笑顔と声かけで気持ちをほぐして、身体も包み込むように添わせ、
しっとり柔らかく肌に触れる手のひらの心地よいこと。
安心して任せれば、ヒョイと簡単に動かされる。
交代して同じようにしてみたら、大きい身体のなんと軽い!
何より、触れられるときも触れるときも感じる幸せな気持ちに涙が出るほど。
どうして?どうして?何なの?これ?
その後、元のペアに戻ってみれば、先ほどと打って変わって互いに優しい気持ちになっていて、
面白いようにうまくいくではないか。
中心を合わせ、身体を寄り添わせたとき、心の底から湧き出てくるのは、
相手が大切で大切でならないという慈しみ。
どんな立場であろうと、片方が一方的にする側、される側なんて分かれてはいないのだ。
通い合うからできること。
先ほどまで、出来ない自分を責めていた。動いてくれない相手を責めていた。
優しさの欠片もなかったことに二人で気付けた。
それも嬉しい。
そんな私を見て、S教授が「顔が変わったね」と言ってくださった。
「さっきまでの“負け犬”の顔じゃなくなった。きれいになったね。
いつもそんないい顔をしているといいよ」と。
大きく豊かで感じやすくて、とても深い人だと知る。
考えるべきことをしっかり自分で考えてきたからこその頭の良さ、にじみ出る味わい。
“考える”とはこういうことならば、私は何も考えてなどいなかったのかもしれない。
自分に都合の良い説をでっち上げるための材料集めか、
悩むために悩むといった理論武装ばかりをやってきたんじゃなかったか?
それなら、理屈っぽいのは私の方じゃないか!
と、こんなふうに武禅は、参加者全員が互いに先生、互いに生徒。
沢山のことを教えていただき、感謝の念でいっぱいだ。