スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

物を考えるということ

先生と同年代の参加者のS教授はとても素敵な方だった。

しかし、私の第一印象としては、とにかく理屈っぽい、と感じた。
話題や一つ一つの取り組みを分析しては、
「これはこういうことなんだねぇ」と言葉にされるので、
ゴチャゴチャとしちめんどくさい事言う人だなと思っていた。

武禅の基本は正面向かい合い。
ビシッとセンターを合わせるのが第一段階なのに、それがわからない、感じないと言われる。
「感じない人もいるんですか?」と先生に聞くと「絶対にいない」とのこと。
是非感じてみたいと言われるS教授に「こんな感じがするんですよ」とか
「ピタッと合った時、すごく幸福感があります」と説明したが、
「それは、赤ん坊と目を合わせたときに母親が脳内で分泌するホルモンが
 精神にもたらす作用と同じなのではないかと・・・・・」と、行動の前に頭を使われる。
私もよく「いらんこと考えすぎ」と言われるが、この人はその比ではない。
そんなふうに思ったものだ。

しかし、先生と交わされる会話の深さ、若い参加者に語りかける内容、
その表情、優しさ、気遣いなどを見ていくうちに、
それが単なる上っ面の理屈ではないということが見え始めてきた。
何より絶妙なタイミングでの“おとぼけ”がすごく楽しい人なのだ。
冗談とも真面目ともつかないコミカルさでその場の人を
ふんわりとした雰囲気で包みこむのは、やはり人柄の良さあってこそなのだろう。
その後、休憩時間も使っての向かい合いの稽古で正面を合わせることができた彼は、
「ピタッと合わせると僕なんかグダグダになっちゃうから、きっとわざとはずしてたんだろうね」
と言われていたが、その言葉の意味を私が知ったのは、最終日のことだった。

そのセクションでは、中心を合わせて身体に軽く触れて働きかけることによって、
身体の動かない人にでも負担をかけずに介護をすることもできるという実践的応用の稽古をした。
以前も少しやったこともあり、ちょっとはできるつもりでいたのだが
今回なかなかうまくいかなかった。
何もしないよりはマシ。でも、やはり力ずく。
やってるのに出来ない。どうして?どうして?どうやったら?
気分は落ち込み、イライラが募ってくる。
ペアを組んだ女性はダンサーで、若いながらも落ち着いていて、
先生とも一発でピタッと正面を合わせられるほど鋭い人。
それなのに、私はうまくいかない。私と組んだがために相手も出来なくしてしまってる。
そんなふうに煮詰まって、にっちもさっちも行かなくなった時、
S教授が「ちょっとやってみてもいい?」と声をかけてくださった。

S教授のやり方は、私たちと全然違った。
笑顔と声かけで気持ちをほぐして、身体も包み込むように添わせ、
しっとり柔らかく肌に触れる手のひらの心地よいこと。
安心して任せれば、ヒョイと簡単に動かされる。
交代して同じようにしてみたら、大きい身体のなんと軽い!
何より、触れられるときも触れるときも感じる幸せな気持ちに涙が出るほど。
どうして?どうして?何なの?これ?
その後、元のペアに戻ってみれば、先ほどと打って変わって互いに優しい気持ちになっていて、
面白いようにうまくいくではないか。

中心を合わせ、身体を寄り添わせたとき、心の底から湧き出てくるのは、
相手が大切で大切でならないという慈しみ。
どんな立場であろうと、片方が一方的にする側、される側なんて分かれてはいないのだ。
通い合うからできること。

先ほどまで、出来ない自分を責めていた。動いてくれない相手を責めていた。
優しさの欠片もなかったことに二人で気付けた。
それも嬉しい。

そんな私を見て、S教授が「顔が変わったね」と言ってくださった。
「さっきまでの“負け犬”の顔じゃなくなった。きれいになったね。
 いつもそんないい顔をしているといいよ」と。

大きく豊かで感じやすくて、とても深い人だと知る。
考えるべきことをしっかり自分で考えてきたからこその頭の良さ、にじみ出る味わい。

“考える”とはこういうことならば、私は何も考えてなどいなかったのかもしれない。
自分に都合の良い説をでっち上げるための材料集めか、
悩むために悩むといった理論武装ばかりをやってきたんじゃなかったか?
それなら、理屈っぽいのは私の方じゃないか!


と、こんなふうに武禅は、参加者全員が互いに先生、互いに生徒。
沢山のことを教えていただき、感謝の念でいっぱいだ。
スポンサーサイト

若さの特権

武禅からの帰りのバス内で、参加者である一人の青年が話しかけてきた。

「昨夜のあの沈黙、あの場にいた全員に責任があるんですよね。
 僕、何とかしたかったんですけど、何を話していいかわからなくて」

うん。それは私もまったくそう。

「何を言ったらいいんでしょう?」

問われて答えられる位なら、私があの時言っている。

そうは思ったものの、他人のことならよく見えるのが人というもの。
特に若い人に対しては、あれこれ言いたいオバちゃん根性が
疼いて疼いてしかたない。

「何でもいいんだよ。思ったことドンドン言って。
 若いんだから物を知らなくても当然で、
もっとバーンとぶつかって行っても良かったんじゃない?」
なーんて偉そうに。よく言うよ、と内心ツッコミ入れながら。

「例えば、『先生を倒す技を編み出しました!』って挑んで行くとか。
怖いもの知らずが若さの特権。
 有名だから、凄い人だと話しに聞くからって先生と呼んでるけど、
 そんなもんじゃないはず。
 本気で向かって敵わない時、初めてそこで真の尊敬になるんじゃないの?
 世界一を倒して、自分が世界一になる!ぐらいの気概が欲しいよね。
 いっそ『隙ありっ!』って不意打ちでもなんでもしたらどう?」
喋ってるうちに気分はエスカレートしていって、そんな事まで言っちゃった。

真面目な青年だから真面目に受けて、
「ああ、そうか。その発想は僕にはなかった」と感心しきり。
というわけで、次の武禅では、勇気あるチャレンジャーが現れるやも。
一応、「殺されるかもしれないけどねー」とは言ってはおきました。

「僕もぽあんさんのように、
 先生に意見を求められるぐらいになりたいと思っていますっ」
そう彼に言われてキョトンとしてしまった私。
いや、ぜんぜんそういうのじゃなんだけどな。むしろ・・・逆の・・・。

先生に話したらウケそうな話題が早速一つできた。

白い肉じゃが

かずこ先生の白い肉じゃががとても美味しかったので、さっそく家でもやってみた。

赤い金時ニンジンと、秋の新じゃが入れました。
昆布でダシをとって、酒粕と塩。
ちょっとだけ味噌を入れてコクを出してもいいかな。
そして、バターをひとカケ。
さあ、できた。
071127_2038~0001.jpg


はじめての味に子ども達は不思議そう。
「うん、肉じゃが。だけど違う。でも美味しい!」

笑顔が広がっていく。

教えない教え

「○○って何ですか?」
「どういう意味ですか?」

すぐ聞きたがる、すぐ知りたがる私たち。

「自分で調べろ」
「自分で考えろや」

先生は答えない。

とても不親切。
ちっとも優しくない。

だけど、

これが本当の親切。
本当の優しさ。
人と人との本気の向かい合い。

白い空気

武禅から帰り、ウキウキとした高揚感に浸っていられたのもわずかな間だけだった。
二日経ち、じっくりと思い出しながら一人反省会をしてみれば、
「あの時こうするべきだった」「あの場であれはないよな」
と悔やまれるような場面ばかりがよみがえり、
自分の至らなさに臍を噛む思いで、のたうちまわってしまっている。

私が失敗したり馬鹿をさらして恥をかくのなんて、もう今更どうでもいいが、
それ以上のマズイ事をしてしまっていた。気付くの遅すぎ。

今回はなぜか先生から名指しされる事が多かった。
着いてすぐ、先生の前に皆が集合し歓談している時から、
初参加の若い人たちの話に対して「どうや?」と意見を促され、
会話が途切れる度に「何か言え」とさいさい言われていた。
「何で私ばっかり?」と聞くと、「ガンつけとるからや」とのこと。
せっかく日野先生の近くにいるのだから、見られるものは見たいし、
聞けるものは聞きたいという心情から当然そうなるので、
何も私に限ったことではないと思うのだが。
とにかく、そんな感じで話を振られるたびに、適当な事を喋って切り抜けていた。
しかし、二日目の夜のビールタイム、私は最低最悪の不覚を取ってしまった。

18人の大所帯での行は各セクション共いつもより長引き、
スケジュールがすべて時間をオーバーして進行するため、
夜、皆がお風呂に入り終わって「さあ!」という時には既に深夜12時を回っていて、
疲れもあるのか、一日目の夜から皆、おとなし目。
前回の夜は、サービス精神旺盛な大阪人中心となって大いに盛り上がり、
皆、おなかが痛くなるほど笑い転げたものだったが、
今回は静かで重い沈黙が場を支配するという、まったく違ったものだった。
口火を切る者がいない。
なんとか誰かが喋ってドッと笑いが起こったとしても発展しない。続かない。
会話が途切れてふと訪れる沈黙をフランスでは「天使が横切った」と言うそうだが、
天使というよりシラケ鳥が18人の間を右往左往飛びまくりだ。
先生は前日の椿三十朗のプレミアム試写会からトンボ帰りされており、
つまらなそうな顔で眠気と闘っておられるのが見て取れた。
その夜は静かなままで3時で終わり、
二日目の夜も雰囲気は変わり映えしないまま時間が流れた。
先生の周りに若者が集っているのに、誰も何も言わない。
そこで、少し離れた別のテーブルで見ていた私に先生が、
「おい、お前、何か言え」と声をかけられたのだ。
「何かって・・・ええっと・・・あー、思い浮かばない。私、世界が狭いから、
 頭の中、家庭と町内会とPTAの事ぐらいしかないです。困った。えーと、うーんと」
頭を絞っても絞っても何も出てこない。
そこで「誰か何かないですか?」と他の人に振っても、誰も答えない。
「面白い話題、用意してませんでした。
 この次にはネタ帳作って100個ぐらい用意しときますぅ」
と返事をするしかない、さえない私。
後で思い返すと、この時のこの応え方が悔やまれてならない。

「やれ!」と言われた事に「できません」なんて、最低だ。

何でもいいから話せばよかったのだ。
1回目の武禅から帰って次に先生に質問する100の質問を考えたのじゃなかったのか?
だけど10個ぐらい書き出して「なんじゃこれ?」と捨てたのは、
アイドルにインタビューみたいなくだらない内容しか出てこなかったから。
質問することが思い浮かばなければ、それをそのまま話せばよかった。
後からなら、この情報は面白かったかな、なんてのは湧いてくるものだが、
その場で何も出てこないならしかない。適当にでっち上げでも作ればよかったものを。
例えば「地球が四角いって証拠を見つけましてね」でも、
「宇宙人に誘拐されたことがあるんですよ」でも、
「核爆弾のスイッチが私の脳内に埋め込まれてるんです」でも、
そんなトンデモ話の方が、広がりやすい、突っ込みが入れやすい。
頭が回らないなら得意の不幸自慢で自爆したって、本当に何でもいい。
どうせ馬鹿なんだから、とことん馬鹿になりきればいいものを、
なーにを格好つけて小利口なふりをしてんだか。

武禅は禅なのに、禅問答で「これ如何に?」と問われて
「さあ?」と答えるようなことをしてしまってたなんて。

行く前に書いた「タメと尊敬」にあるように、
学びに行って学ばないほど無駄なことはないのに、まるまるそのままをしてしまった。
また、それが場に求められていた役目だったのに。
先生と皆の大切な時間を浪費するなんて、取り返しのつかない大失態。
それを思うと、もったいなくてもったいなくて、悔やまれてならない。

用意ができてなかった。覚悟がなかった。迷いを入れてしまった。
情けない・・・。

さて、そこでどうするか。と頭を切り替える。

100のネタを仕入れると言ったのだから、必ず準備しておこう。
そして、天使もシラケ鳥も絶対に入れない。
重い沈黙は私の責任だから、私がなんとかすると覚悟を決める。
次の武禅では、ピエロになりきってみせる。

飲み会が終わって片付けている時、私は台所との段差に滑ってこけてしまった。
それはもう、見事にスッテンコロリン。
グラスを持っていて、それを庇って咄嗟に丸まったのが幸いして、
後頭部も打たずノーダメージ。
それを見ていた先生曰く、
「それやそれ!それをさっきやれば良かったんや。誰も見てない所でやってもコケ損やろ」
はい。まさに仰る通りです。

おもろければ何でもあり。
それも「武」のココロ、かな?

次の武禅の夜は頑張るぞ~~~。
昼の行も頑張れって? 
はぁ、そっちの方は、まあボチボチやってきますわ。
って、何しに行ってんねん。(笑)

おみやげいっぱい



三日間の武禅を終えて、家に帰り着いたのは夜11時前。
今回の参加者は、これまでで最多の18人。
本当にいろんな人がいて、一度もペアを組めなかった人もいるが、
どの人も何かしら教えてくれたり、気付きを与えてくれた。
もっと話したかった。もっと知りたかった。
二泊三日はあまりにも短い。
二度とない、ただ一度きりの出会いに感謝でいっぱいだ。

いつも武禅に向かうとき、自分なりのテーマのようなものを持っていく。
しかし、これまで二回とも、何の役にも立たないゴミを捨てに行ったようなものだった。
それでも性懲りもなく、テーマは決める。
そうでなければ、この半年の意味がない。
今回のテーマは「輪郭をはっきりさせる」。
あやふやさをなくし、何をするのか、何がしたいのかが明確な、
存在感の濃い人間を目指すというもの。
照れや恐れをかなぐり捨てて、裏も表もさらけ出してこそそれができる。
そう考えて、その通りに行動していた“つもり”で、見事玉砕。
計画は大失敗。全てが間違いで、正反対だったとの答えを得た。
これはとても大きな収穫だ。
間違いがわかってはじめて、間違わないことができるのだから。

また、「触れる」ということの入り口にやっと立てたようにも思う。
人に触れる、その嬉しさ、心地よさ、決して知らなかったわけでもないのに、
あえて避けることによって得られていた益は、どうやら手放せない劣等感と同根のよう。
いつもいつも、求めてやっと手に入れたはずの幸福を自らつぶす後ろ向きな私。
それを見た日野先生の「どうしてこいつは・・・」という呆れかえった厳しい顔が、
目に焼きついて離れない。
もう、二度とやっちゃいけない。

その他、まだまだ沢山の“おみやげ”を持って帰っているので、それらも含めて、またおいおい記事にしていく予定でいる。

写真は、かずこ先生からバースデープレゼントとしていただいた、ローズのリネンウォーター。
071126_1930~0001.jpg

先輩のさきこさんからは、冬に嬉しいアイテムを。
071126_1926~0001.jpg

1月のワークショップと、2月のドラムコンサートのチラシももらってきた。
071126_1935~0001.jpg

フレームに入れて壁にかけたらムチャクチャ怖いので、勇気ある人は試して欲しい。
いつでもどこでも日野先生と正面向かい合いだ!!! うわ~~(汗)
  ※チケットの印刷が遅れているそうなので、購入希望の方は、もうしばらくお待ちください。

日野先生からは、最高に面白い真剣に遊べるネタをいただいた。
しばらく頭を騒がしくしている暇はなさそうだ。

第77回武禅一の行の参加者レポートはこちら。
http://www.hino-budo.com/buzen5.html

さあ、武禅!

今日から二泊三日、今年最後の武禅が始まる。

いつもは深夜バスを利用するが、どう頑張っても熊野大社参拝やゆっくり古道散策は無理なのがわかったから、今回から朝出て新幹線で行くことにした。
朝6時に家を出て、すでに大阪から和歌山に向かう特急の中。
いやぁ~、それにしてもすし詰め新幹線はツラいもんがある。
ずっと斜めに立っていたから、すでに筋肉痛。
まぁ、でも、すぐにシャキッとするでしょ。

よっしゃ、がんばるで!!

誰の心を読んでるの?

今週は金曜日が休日なので、印刷屋も休み。
新聞折込の広告の締め切りが通常より一日早まり、郡部扱いの物などは、
月曜に原稿が出て、火曜の朝にはデータ渡しという慌しさだったが、
なんとか全ての仕事が水曜の昼には片付いた。
昨日、早めに上がってきた印刷物を皆で見ていたら、
私が担当した2色分解のものが、いつもより色鮮やかに見えるねという話になった。
印刷屋を変えたせい?
紙にツヤがあるような気もするし?インクの色?片面だから裏映りしないから?
以前の物と見比べたりしながらワイワイやっていると、同僚の一人が
「色がきれい、色がきれいって言ってたら、
 色だけがきれいみたいじゃないですか」と言い出し、
「ぽあんさん、色だけじゃないよ。
 デザインもきれいにできてるからね」と、慰めてくれようとした。
????
私は、そんなガッカリしたような、悲しそうな顔をしてたのだろうか。
パソコン上では2色かけ合わせの配分がよくわからず心配だったので、
思い通りの色に上がってホッとして、どちらかといえば嬉しい気持ちだったのだけど。
ちょっと意外、というより心外だった。

こんな場合、私はいつも負の感情が刺激される。
自分が自分ではないように見られた、と思うと、ひどい抵抗を感じてしまって。
「この人は私をそんな人間だと思ってるのか。違う。わかってない!」
という怒りを持つ。
しかし、「絶対に思われたくない!」と思ってる人物像こそが、
実は本当の自己評価だからそうなるのだが。
だからそこを誰かに暴かれると痛い。だから腹が立つ。
それに気付いてしまったら、誰かを悪者にすることなどできなくなるよね。

人と接する時、あの人はこう感じるだろう、こんな事を考えるだろうと思うのは、
自分ならそうだからに他ならない。
人は、自分の体験、自分の感情、自分の常識を通して他人を量る。
他人を見ても他人も自分も見えないけれど、
他人の言動に反応する自分を観れば自分は観える。
その上で、自分を通して他人が観えることもある。
私の見た他人が私の姿なら、相手の見た私も、その人の姿ということ。

ただ今、感情を自動操縦から手動に移行中。
手綱をしっかり握って乗りこなせば、どんどん自由になっていけるだろうね。

触れる

「触れる」とは、どういうことだろうか?

単に皮膚に触る、手に持つ、掴む、押す、擦る、なぜる、ぶつかる、たたく、
頬擦り、抱擁、接吻も?舐めたりかじったりとか、踏むもあるかな・・・

「物に触れる」と「人に触れる」はどうちがう?

人と触れ合うと言う時は、必ずしもベタベタ触りまくる事を指してはいない。
見詰め合うとか、語りかけるとか、話しをしたり、気持ちを通わすこと全部含めて
「触れ合い」と言う。

物とは、心を通わさないから。
いくら大切にするとしても、物には物としての反応があるだけ。
偶然にも予期していなかった動きが返ったとしても、物が意図した働きではない。

私は物に触れる時と、人に触れる時に違いを感じていただろうか?

私は実は、人に触れるのが苦手。
人が、、、あまり好きではない。というか、、、嫌い。
とても怖い。
その点、物はいい。
こちらをどうも思わないんだから。
失敗しても笑わない。
嘲ったり、理不尽な怒りをぶつけてきたり、睨んだり、意地悪をしたりしない。
人は何をするかわからない。だから怖い。

しかし、「怖い、怖い」と逃げ回っていたのでは、この社会では生きていけない。
では、どうするか。
怖さを感じなくすればいい。
どうやって?
「人」を「物」として見ればいいのだ。
物を扱うように、人を扱う。
こうすれば喜ぶ。こうすれば感情を揺さぶれる。こうすれば思い通りに動かせる。
そんな手練手管を駆使して、他人の中の自分を形作ってきた。
そんな気がする。

それは上手くいったように思ってた。
けれどそれなら、この寂しさは何なのか。

人を物として見るとき、人は自らも物として扱ってしまうのかもしれない。
条件が揃えば幸せになるはずだと追いかけ、集めて、飾り立て、
人々の、周囲の条件反応ロボット達の賞賛を満足のバロメーターとする。

自分の心はどこにある?
自分の幸せとは?



私は人に触れることができない。
それは武禅で嫌というほど思い知らされた。
私の手は、相手の違和感。
私はいやらしい企みを持って相手に罠を仕掛ける「キモチワルイ」人。
いい人のふりをする。
相手を好きなふりをする。
困ったふり、弱いふりで優越感をくすぐろうとする。
傷ついたふりで罪悪感を持たせる。
時には強いふり、賢いふりで頼られたがってみたり。
そんな、これまで染み付いた“癖”が、
私の手に、表情に、声に、動作にすべて表れているのだと、突きつけてこられる。
真剣に向かい合う人には、すべてお見通しなのだ。

どう頑張っても相手を変えられない。
隠せない。騙せない。
“私”への否定!否定!否定!
「ここにいません」「私を見ていません」「向き合ってくれてません」「届きません」

ここにいないなら、私はどこにいるのだろう?
私は何をしているのだろう?

わからない。

“私”には、私はいない。

私は、物。
私の声は、雑音。
ワタシハ、ジドウソウジュウろぼっと。

「寂しい」と感じる一番辛くて嫌で捨てたかった部分だけが、唯一の人間らしさだったとは。

私は、私の身体を取り戻したい。
私の声を取り戻したい。
人間として生きて、人間に触れたい。

あなたに、触れたい。


ジンジャーエール

「ジンジャーエール」と叫んだ声が「死んじゃえ!」に聞こえたなんてドラマがある。

笑い話ではなく、人間の耳とは、それほどまでにいい加減なものなのだ。

事実、同じ言葉を同じように耳にしたとしても、ある人には機嫌を損ねたイヤミを言っているように聞こえ、別の人にはウイットに富んだサバサバした話し方に聞こえたなんて事はある。
同じ体験をしているはずだが、相手への印象や抱いた感情はまったく違う。

同じ場所にいても、生きてる世界は人それぞれ。
主観が人にとっての現実を作ってる。

明るい世界、暗い世界、優しい世界、意地悪な世界、爽やかな世界、依存型の世界。

どんな世界を生きている?
どんな世界に生きてみたい?

他の誰かが作っているんじゃないんだよ。

タメと尊敬

「こいつは俺を『先生』と呼ぶが、本当は尊敬なんかしてやしない。
 こいつにとって俺はタメなんや。同じだと思ってる。
 敬語を使っているとかは関係ない。わかるやろ?」
武禅の皆の前で日野先生が言われた。

“こいつ”と言われたのは、20代前半の若い女性。
演劇をやっており、武道塾にも通っている割としっかりした印象の娘さんだ。

「どや?」と、彼女の隣にいた私に先生が聞かれたが鈍感なのでピンとこず、
「ええっと・・・そう・・・なんですかねぇ・・・」と口ごもる。

彼女の何が“タメ”なのだろうか?十分礼を持って接しているように見えるけど?
尊敬しているしていないはどんなところに表れて来るのだろうか?
私は先生をタメと思ってないし、尊敬しているけれど、先生が言われる意味がわからないでいて、本当にそうなっているのだろうか?
これもまた“つもり”なだけで、失礼なことをしてばかりなんじゃないだろうか?
そういったことが頭をかけめぐり、背中にドッと汗が吹き出る。

しかし、当の女性はそこを掘り下げることなく、サラリと他の話題へ。
戸惑いつつ先生の方を振り返ると、「話をしろ」と合図をされるので、そのまま皆の注目を浴びながら雑談をすることになり、ますます大汗をかく羽目になってしまった。
他愛のない話をする背中に先生の視線が痛いほど。

これってやっぱり私に何かわかれって事なんだろうな。でもわかんないし、と焦る焦る。
「ちょっと、先生、怖いんですけどぉー」と言いつつ、ほとんど涙目。

面白いもので、そんな状態の私の会話でも、傍から見ている分にはスムーズには見えるようで、そう言ってくれる人もいた。
この年ともなれば、そつなく流す受け答えはできるけれど、それがいいとも限らない。
真剣に人と向かい合うという意味においては。

わからないことをわからないままにしてしまった事。
辛く感じるであろう部分をかばってしまった事。
伝えようとされた物を受け取りに行かなかった事。
それらがモヤモヤと後を引く。

学びに行っているのに学ばないほどの無駄はない。
そこにきっと“先生”への接し方と“タメ”としての扱いの大きな違いがある。

私は今、何をしているのか。
向かい合う人は、自分にとってどういう人なのか。
それは常に明確に持っていなくてはならない。

ふっくらツヤツヤ カニの穴

炊飯器が壊れたので、最近は、ご飯を圧力鍋で炊いている。

やってみると、火加減などは意外と簡単。
このところ、安売りの玄米30キロ入りを食べていたので、炊飯器で炊くより柔らかくなり良かったと思ったのだが、夫はそれでも固いと言う。
栄養があるし、よく噛んで食べるのは顎や脳の為にも良いのだと力説するも、結局噛まずに飲み込めば消化に悪く栄養も吸収されないと反論され、それもそうかと納得。
昔通っていた精米所の移転先が不明でもあるし、大量の米を運んで右往左往するのも大変なので、いっそのこと、家庭用の精米機を“価格.com”で比較検討の上、購入することにした。
買ったのはツインバードの家庭用コンパクト精米器「精米御膳」。
中に玄米を入れたら、5部つき、7部つき、白米を選んでスイッチポン。
数分で精米され、米とぬかに分かれる。
白米だと大事な部分がそぎ落とされてしまうので、5部づき程度にしてみたが、十分粘りのある柔らかいご飯になり、甘みも増したよう。
この美味しさなら夫から文句は出ない。
ただ、取り除かれたぬかを見てみると、胚芽が結構な量混じっているのでもったいない。
価格.comのクチコミ掲示板に寄せられていた意見に、ふるいにかけて取り出して研ぎ終わった米に混ぜたとあったので参考にさせてもらった。
残ったぬかは糠漬けに使えるので、今後はわざわざ糠を買わなくても良いのが嬉しい。
こんなふうにいつの間にか、ご飯炊きが食事作りの上で結構なウエイトを占めるようになってしまったのだが、それでいながら、適当に研いで適当な水加減で炊飯を機械に任せっきりだった頃と比べてさほど大変でもないのが不思議な感じだ。
むしろ以前より料理にもう一手間かけたくなるような気が。
やはりご飯は元気の源。

それにしても、毎日毎日出るぬかを糠漬けに足し続けるわけにもいかないから、何か良い使い道を探さなければ。
洗顔と拭き掃除と、料理に加えてもいいみたいだけれど。
他に何かないかな?


もみじ谷

宮島のもみじ谷に、秋の色を見に行った。
P1030722.jpg


P1030726.jpg

当たり年は、谷一面が一斉に鮮やかな紅の深い重なりに染まるが、今日は、緑を残す木、黄色っぽくなった葉、茶でクシャクシャと丸まった枯葉が混じっていた。

P1030729.jpg

廃油石鹸

やはりマルセイユ石鹸は失敗だった。
固まったのを無理やり型に入れたからデコボコな上に、間に仕切りとして差し込んでいた紙パックのオレンジジュース色が石鹸に移っていたのを削り取らなくてはならなくなったりして、形は不ぞろいでボロボロ。
そういえば、小学校時分に好きだった学研の「科学」という雑誌に載っていた、石鹸と油を混ぜた液に印刷物をつけて別の紙に乗せると絵柄が転写できるという実験をやったことがあったなと思い出したが、後の祭り。
ハートチョコの型に入れたものも見事玉砕・・・


それでも石鹸自体の色はきれいで使用感もまずまずなので、そこは満足している。

使用済み食用油がポットに溜まってきたので、今度は廃油石鹸作りに挑戦してみた。
測ってみるとドンピシャ500cc。
苛性ソーダを水で溶かして冷ましながら、油も適温に温める。
ケチケチと何度も使いまわした油の色は立派なこげ茶色。
参考にしたHPにミカンの皮を入れると汚れ落ちが増すとあり、ミカンをほおばりながら皮をフードミルにかけて準備万端。
あとはいつもの石鹸作りと同じ。
材料をボウルに合わせて20分、ひたすら攪拌したら、時々様子を見ながら混ぜ続ける。
最初に作ったオリーブ石鹸のトレースが出るまでに一日半もかかったのが嘘のように、みるみる手ごたえを増してきて、今回は三時間で型入れとなった。
20071115225559.jpg

色は緑茶石鹸に似ているが、油臭さが鼻に付く。
これで食器洗いや洗濯もできる石鹸となるのかどうか、一ヵ月後を楽しみにして待つ。


石鹸作りの参考ページを探していると、「健康によく環境に優しい手作り石鹸」とのフレーズが多い中に、「危険で環境にもよくない “手づくり石鹸”」のページも存在していることを知った。
日本石鹸洗剤工業会
合成洗剤 市民のための環境学ガイド
洗浄・洗剤の科学
何でも手放しで、「コレが良い!」「コレは悪い!」と決め付けるわけにはいかないようだ。

ただ、本当のところ地球にとってはどうだかわからないが、私の手には洗剤より石鹸の方が優しいというのはハッキリしているから、学術的に証明してあるのであろう長い文章が頭に入ってこないのだが。

タイトルから読む

私は本屋が大好きで、だいたい週に2・3回は寄っている。
特に読みたい物がなくても、タイトルを眺めて回るだけで楽しい。
「だらしない人ほどうまくいく」の隣に
「だらしない自分を変える7つのステップ」という本があったりする。
また、「キッパリ!」「スッキリ!」といった頑張る系の本があれば、
その姉妹本に見えて正反対の内容、例えばキチンとしてなくていい、片付けない、
身だしなみは気にしないで、靴のかかとなんか踏んで歩いちゃおうなんて書いてある
「ドップリ!」という本も出ていて、こういうのを見つけるのがたまらなく面白い。
片方に傾いたら、ちゃんと反対側も現れる。
要するにバランスの問題で、どっちでもいいという事だ。

最近目にした、とても気に入った本のタイトルは、
「絶望から立ち直る方法を教えてください」。
それは絶望ではなく、限りない希望に溢れている言葉だと思う。
世の中のどこかに絶望のどん底から脱する方法は必ず有り、
問えば答えてくれる人がいると信じているからこその質問だから。

書店や図書館は、矛盾や逆説に溢れた思想の宝庫。
どこに興味をそそられ、何に反発を覚えるかで自分が見えてくる。

苦労しろ

息子の受験がいよいよ実感を持って迫ってきた。

志望校を決める最後の三者懇談。
近くの公立校一本で出していたので担任の先生に
「本当にこれでいいですか?私立校は一切考えませんか?」と念押しされ、
「はい。交通費や学費を払う余裕がありませんから」と答える。
「では、もし落ちたらどうされますか?」
「本人がどうしても高校に行きたいのであれば、一年浪人です。
 行きたくないなら働いてもらいます。父親は『一回落ちればいい。
 勉強しない奴に学校へ行く資格はない』と言っておりますから」と言うと、
息子が隣で「え、そんな事を・・・」と目を丸くしていた。

近くの公立高校は、定員80人の所、例年50数人しか入学していなかった。
そのため息子は「馬鹿でも入れる」とたかをくくって勉強せずにいたのだが、
来年からはクラスを減らして定員が40人と発表され、大慌てといったところ。
必ず落ちる十数人の中にこの馬鹿息子が入る可能性は極めて高い。
それでも先生は「他にもそういった生徒10人ぐらいで放課後の勉強会を持ち、
 学力を付けて何とか合格ラインまで持っていくつもりでいます」と言ってくださる。
さらに、
「で、それにあたって・・・・・もう時間もあまりありませんし、
 こういったことは本人の自覚が勝負といった所もありますので・・・・
 怪我をさせるようなことはありませんが、
 時には厳しく体に教えないといけないこともあるかもしれません。
 そこの所は了承していただけますでしょうか?」と体罰アリの姿勢是非の確認。
「もちろん!遠慮なくビシバシやってやってください。
 少々の事では壊れない程度には頑丈にできてますから」と即答。
「いや、俺、体弱いッスから・・・あまり・・・」と冷や汗をかく息子。
体罰については、私は肯定派だ。
自分のストレスや感情で、怒りのはけ口として当り散らすのはただの暴力だが、
自制の利く人が相手をちゃんと見ながら必要な罰をもって教える事は、
教育者として当然あっていいと考える。
体当たりの本気でコミュニケーションをとると言ってくれる先生がいる。
嬉しいではないか。

本当は私学に通う学費や交通費を捻出できないほど経済が困っているわけではない。
息子がやりたい事があって「どうしてもここに行きたい」と言うのなら、
県外だろうが、何処だろうが、どうにでもしてはやれる。
しかし、勉強が嫌いで、ただ何となく一番楽な方へと流れてもいいやぐらいの
やる気のない人間に出してやるような無駄な金はびた一文もないということだ。
それがまだ息子には理解できていない。
「金がないから苦労するんだろ。だったら俺、バイトして金貯めるよ」
なんて事を真面目に言う。

この、やりたい事ややるべき事の定まらなさ。甘さ。チャランポランないい加減さ。
我が身と重なる部分の多さに、先々、苦労するだろうなとよくわかる。
苦労すればいい。
落ちぶれて泣くのも良し、頑張って足掻いてくたびれ果てるも良し。
「是非こうしたいから応援してくれ!」とはっきり言ってきた時には
協力は惜しまないが、それまで黙って見ているしかない。
子育ては自分育て。
親は親で、子は子でそれぞれ自ら育ちゆく。

自分で決めたことをできるかできないか、やるかやらないか、そこが道の分かれ目。
いつでも。
だから「苦労しろ!」と私は言う。
息子に。
そして、自分に。

視野狭窄

「視野が狭くて思い込みが激しい人」と評されている人なのに、他人をまったく同じように「あの人って、こうよね」と話している。

“あの人”が“こう”なのがよく見える“わたし”は“こう”ではないと思っているからか。

なるほど。
どんなに目が良い人でも、自分で自分の目は見られないものなんだな。

薔薇のエナジィ

夏にお日様と遊びすぎてしまった私の肌はボロボロ。
肌が丈夫だとばかり思い込んで、自分が年を食ってるのをつい忘れている私は、
急に老け込んだように見える鏡の中の自分の顔に愕然。

何?この目の下のシワシワは!消えない!やだっ、シミがめちゃ増えてる!
みかんのように毛穴がボコボコ。もーっ、くすんでるし、たるんでるよーーー。

お手入れもろくにしていなかった私が慌ててあれこれ塗りたくっても、もう遅い。
ダメージは深く刻み込まれてて、取り返しが付かない。

ここは長期戦でいきますか。ね。

ということで、これまで使ってた安い化粧水にグリセリンを入れたものに換わって、保湿成分バッチリのちょっとお高い基礎化粧品を取り揃え、お手入れに勤しんでみた。

が、どうもさほど効果がはっきりしない。
確かに塗ったすぐ後は潤っているのだけれど、長くは続かないし、荒れたりはしないものの、微かな刺激が肌を刺す。
ムズムズ、ピリッと嫌な感じ。肌が嫌っている証拠。
「でも、高かったし・・・まだ始めたばかりだし・・・間違いかもしれないし・・・」
心は残念がる。頭は認めたくない。
さて、どうしよう。

そこで、以前から少し気になっていたローズウォーターを使ってみようと思い立った。
早速ネットでレビューを調べて、一番人気の物を注文。
届いたものをそのまま付ても、どうも保湿性が弱いようですぐに乾く。
ローズヒップオイルとグリセリンを適量混ぜて、アトマイザーに入れ、
乾く間もなくスプレーを続けてみると、肌に違和感なく、しっとりするのが心地よい。

たっぷり吹きかけて眠ったところ、こころなしか一晩で肌がふっくらしたような?
まだわからないけれど、どうも相性はいいみたい。
薔薇の水で、薔薇色の頬を取り戻せるといいなと思っている。

バラの日



夫がバラを買ってきた。

いよいよ私も四捨五入して50歳の誕生日。
「40にして迷わず」とは言うけれど、私はまだまだ迷いっぱなし。
中学生の息子達と精神年齢は大差ないなーと我ながら思うことしばしば。
この調子じゃ、あと5年で「天命を知る」のも無理だろう
自分がいる場所も、何処に向かおうとしてるのかもわからないのに。
その日その日を面白可笑しく生きてられりゃ十分ではあるが。

自分で自分へのプレゼントは、天然100%の薔薇の水。
薔薇の花に囲まれて、薔薇の水を浴びて、薔薇の香りに包まれる。
うーん、最高!
と言いたい所だったのだけど・・・・・
猫が、猫が!
かすみ草をかじって引っ張って、あああああああ、花瓶がー!
床、水びたしだよ~~~。(T△T)
となってしまいましたとさ。

午後の日差し

萩尾望都の「イグアナの娘」の単行本に「午後の日差し」という短編が収録されている。
平凡な主婦が夫との心のすれ違いと、娘への嫉妬、恋のときめきを通して自分の生き方を見つめるという話。

その中で、夫の口にした「夫婦なんて他人だよ、結局」という言葉に傷つく主人公に、ちょっと首をかしげた私。
それは、結婚した当初から時々私が使っている言葉だから。
「他人なんだから違って当たり前」
「他人なんだから言ってもらわなきゃわからない」
「他人なんだから、いつまでも一緒にいるとは限らない」
「縁が切れたら、ハイ、それまでよ」
ちょっとキツイかなと思いながらも、そうはっきり口に出すのは、夫が私が従って当たり前、言わなくてもわかるものと思っているふしがあるから。
男と女ではなくなって、兄妹みたいな、それどころか時には私を母親代わりにしてるかのよう。
「私は子ども達の母親であって、アンタを産んだ覚えはありません」って感じに、たまに釘を刺しておかなければ、何をやっても許してもらえるなんて思われちゃ困る。
それが私にとっての普通だったもんだから、夫に「他人」と言われて傷つく妻には「ンンンン?」だったのだ。

実際に「夫婦は他人」と言われて傷ついた人を私は知っているが、それはちょっと状況が違う。
姑が癌で胃の大半を切除して弱ってしまった舅を介護していた時のこと、体を気遣って酒やタバコを制限している事に、遠方から見舞いに来た小姑達が文句をつけたのだ。
「病人がこんなに欲しがっているのに可哀想なことをする」「ひどい嫁」
「姉弟は血のつながりがあるから気持ちが通じるけれど、嫁は所詮他人だからね」
と言って、舅もそれに頷いたという。
当時、夫の事務所で私が仕事をしていた所に姑が二階から駆け下りて泣きながら「電話帳を見せてちょうだい!」と飛び込んできた。
あまりにも腹が立ったので、電話相談みたいな所にぶちまけたかったらしい。
話を聞いて今度は私が頭に来て、「おばさん達に意見してくる!」と飛び出しかけたところを夫と姑に止められて、私がギャーギャー騒いでいるうちに、姑の気持ちは収まったみたいだけれど。

他人なら、何で朝から晩まで身の回りの世話をしてやることがある。
他人なら、何で憎まれてまで相手の体のために注意してやらなきゃならない。
他人なら、何でこんなに心配するものか。
それがどうしてわからない?
寂しくて涙も出てくるだろう。

わからないのが他人。
わかっていてもわかりたくない甘えさえわかってもらって許されたいのが夫婦。
わからないしわかりたくもないものを許すも許さないもなくしょうがないという関係


物語は主人公の心のつぶやきで締めくくる。
「午後の日差しが、やわらかい。
 主人とわたしは他人だけど、いちばん近い他人だわねぇ。」

いくら水を向けても、私の夫は決して「夫婦は他人だ」と言わない。
ズルいなと思う。
どっちが?とも思う。

悩む人

「わたし悩む人、あなた解決する人」
なのか?

誰の悩み? 誰の困り事?

いつまでも被害者面してろ!

人の見る自分の役

他人が見て「この人はこんな人」と思う自分は本当の自分とはもちろん違う。

でも、相手は「こんな人」に対する接し方をしてくるし、応対しているうちにドンドン「こんな人」に近くなってしまう事もある。
それは、囚人と看守を役でやっているうちにエスカレートしてなりきってしまったという実験と同じく。
ということは……
自分が「こうでありたいと思う人」として見てくれる人と接していれば、自然そうなる事も考えられる。

いつも人を貶めて一段下に見ていないと気が済まない人に、何とか気に入られよう、認められようと頑張っても、飴と鞭で一喜一憂を延々繰り返すばかり。

そんな牢獄サッサと出て、やりたい役をやったらいいよね。

何がどうしてどうなるか

少し前に某健康系テレビ番組で外反母趾を取り上げていたことがあった。
若い頃会社勤めでハイヒールを履いていて外反母趾を患った女性が、結婚してからはペタンコの靴しか履いていなかったにも関わらず悪化。度重なる腰痛を軽減するためにと始めたウォーキングや久々に履いたヒールの靴の影響もあいまって、ついには歩けなくなるほどの激痛に見舞われ、足の親指を脱臼までしてしまったというケースを例にあげて。
外反母趾が、一度なると、楽な靴で生活していても進行していくものだとは知らなかった。
番組では、そうならないための方法として、足の体操や中敷の利用など対処療法を紹介していたが、原因がハイヒールにあるとしているのに、決してはっきり「若い頃からハイヒールを履いてはいけない」とは言わないのだった。
身体を害するものとしていつも酒やタバコなどは容赦なく悪者とされるが、ハイヒールは目こぼしされる。
ちょっと不公平な気なような。

↓ネットで見つけた記事。
「ハイヒール=からだの歪み製造機」
もっと言って、もっと言って!
あー、ドタ足、大根足こそが美しさのスタンダードって時代が来ないかな~~。
と、これは、ワタクシゴト。

顔もデカイが、足もデカイよ

元気な足は足指ジャンケンができる。
私はチョキができないとずっと思っていたのだが、実は違ったとつい先日知った。
足指のチョキは、手の指のように日本指だけでハサミを作るのではなく、親指と人差し指以下を前後に離す形だと知って、「なーんだ」と。
    
足指タオルたくし寄せも、床に指を押し付けて第一間接から外に曲げるのもOK。
これができると踏ん張りがきくらしい。
ま、よく歩き回ってたことは確かだから、立派な労働者の足になっている。
もっと元気な足は、親指だけ、小指だけを離すことができるらしいが、私には難しい。
若い頃は足に合う靴がなかなか見つからなくて、きついパンプスを無理に履いても、靴を変形させ、ついにはブチ破ってしまうこの足が悩みの種だった。
しかし、今となっては「よくぞ曲がらず育ってくれた!」とありがたい。
それにしても、先の細いハイヒールはたまらなかった。
指がギューッと締め付けられて血行は悪くて冷たくなるわ、神経が麻痺して感覚がなくなるわ、特に親指の爪の圧迫がそのまま頭に伝わってガンガンと痛くて痛くて、とてもじゃないけど長時間履き続けられるものじゃない。
よく皆、平気で履いているものだと思ったら、そもそもの足の形が違うしあまり歩いていないようで納得した。

高校時代の友人には足の小指の爪がない人がいた。
驚いて何故なのか聞いたら、「女は先の細い靴を履くから普通みんなこうなるのよ」とサラリと言われて更にビックリ。
現代の纏足? 世界残酷物語ですか?
それは普通・・・じゃないと思う。

自縛

やっかい事が持ち上がると姿を消す人。
解決に奔走している人達の場には決して近づかない。
自分の立場をはっきりさせない。
そうして裏で言い訳に一所懸命。
誰も尋ねていないし、責めてもいない事を。

ああ、そうね。
あなたは何も悪くない。

部屋は心の鏡です

男の子達の部屋
071109_1234~0001.jpg


女の子達の部屋
071109_1235~0001.jpg


さて、と。
そろそろ雷を落とさなきゃならないかな。

法則の法則

【引き寄せの法則】
=類は友を呼ぶ 泣きっ顔に蜂  笑う門には福来たる 魚心あれば水心

【原因と結果の法則】
=火のないところに煙は立たない  病は気から   蒔かぬ種は生えぬ

【鏡の法則】
=人の振り見てわが振り直せ  情けは人のためならず  因果応報


昔の人は知っていた。
生活の知恵として、伝わって蓄積されてきたこれらのことを。

しかし今は、外国人の本や、成功法則セミナーで教えてもらうような時代。
たぶんそこでも「そういうこと確かにあるなー、うん、アルアル」と納得して、
「イイコト聞いた~」と満足して、それはそれとして終わるのだろうけれど。
知っている事が、わかっているとは限らないんだよね。


ちなみに、私が好きなことわざは、
 果報は寝て待て
 明日は明日の風が吹く
 終わり良ければすべて良し
お気楽道邁進中!

家族とカルトと親と子と

「みんなには悪いように見られているかもしれないけど、
 おれらにはオヤジ、世界一のオヤジやと思ってるから……」
というセリフ一つで、一挙、ヒールからヒーローへと転身するイメージアップに繋がるほど、日本人は“親子の情”には弱いもの。

「子どもにこんな事言われたら親冥利に尽きるだろうなぁ」
と涙ぐんでたお父さんも多いようだ。

しかし、まったく同じ気持ちで同じような事を言っても許されないどころか、逆に怒りをもって糾弾されてしまう場合もある。
血を分けた本当の肉親ではないにしても、寄る辺のない孤独な心を受け止め居場所を与え癒してくれた、いわば育ての親とも言える人に対してであるのに。

宗教は、特にカルトと呼ばれるものは、家族的要素を色濃く持っていると言われる。
絶対的力を持つ怖い教祖は父、優しく理解し導いてくれる幹部は母、頼りになる先輩信者は兄・姉たちといった具合に。
無理解な社会から孤立せざるを得ないのだから、当然、家族の結束は固い。

「ご利益がもらえて自分の得になるのなら信じるけれど、損したり疲れたりするなんてイヤだ」
「信じたいんだけど、他の人が変に思うから辞めちゃお」
というのは、ある種、健全でまっとうとされる一般的“賢さ”だが、カルトに取り込まれた人たちはそこには当てはまらない。
なにしろ、家族なのだから。
世界全部が敵でも、自分だけは守らなければならない。裏切れない。
その気持ちは強いことだろう。
でなければ、居場所を失い、自身の存在自体が無価値化してしまう。

そんな視点で「今でも尊師を信じてますから」と言い続ける信者を見ると哀れだ。
そこに生まれたのではなく、自らの選択であるというのが尚のこと。

実の親子だからいい、擬似親子だからダメというのではない。
どちらにしても、子が一人で生きていけるようにするのが、本当の親の役目。
この親はそう育てているか? この子はそう育っているか?
そういった目で関係性を見た時、それが愛情なのか、それとも依存なのかが浮かび上がってくる。

情報の扱われ方で作られる雰囲気にただ流されて感情を揺らす楽しさに興じるのもいいが、時に立ち止まり、別の角度から眺めてみることも大切ではないかと思う。

匂いの漂うミュージック

車でラジオをつけて、聞くともなしに聞いていた。

スタジオにゲストを呼び、パーソナリティが対話する番組で話をしているのは、聞いたことのないバンドのリーダー。

唐突に司会者が言葉を並べた。
意味ありげな修飾語がくっ付いた名詞、動詞の脈絡のない羅列。

???????

「この歌詞だけ読むと、何を言ってるのかわからないですよねぇ」と続き、
これがこのバンドの曲の歌詞なのか、とわかる。

「でも、これが曲で歌われると、なーんかこう、来るものがあるんですよ」と言われ、
「そうそう、そうでしょう!!」バンドのリーダーは喜ぶ。
彼は言う。
「意味とかじゃなくて、僕はね、匂いみたいなものを感じてもらえればいいかなと思うんだよね」
「匂いねー、あー、ありますねー。ウンウン、わかるなー」
そんな感じで二人はやたら盛り上がっていた。

“わかる人にはわかる”も、当然、いろんなレベルがある。

エアコンに侵入者

夏の終わりごろからエアコンの調子がおかしくなっていた。
冷えたり温まったりはするのだが、風量調節が利かない。
最大風量でゴーッとふき出し続けて、設定温度になってもダウンせず、うるさい。
ホコリの塊みたいなものも出てきたので中を掃除してみたが、どうにも直らないので、本格的冬の前にと電気屋に修理をたのんだ。
点検に来た人が基盤がいかれているようだとのことだったので、部品が入るのを待ち、先日ようやくちゃんと直った。

しかし、その故障の原因にはビックリ。
取り替えた基盤に張り付いていたもの、それは、でっかいムカデ!!!
こいつが入り込んで基盤をショートさせたせいで壊れたのだった。
胴の幅が1cm、長さは切れていたがたぶん、20cm弱ぐらい。
干からびていてその大きさだから、生きていた時はさぞや・・・と思うとゾッとする。
そういえば、年々ムカデの出現数は減ってはきているけれど、今年も大きいのが出たな、と思い出した。
やはり体長20cmぐらいのが、もの凄いスピードで部屋を横切って、たんすの後ろに逃げたことがあった。
やつらは少々叩いたぐらいでは死なないので、熱湯をかけて殺す。
しかし当然のことながら、そのお湯が沸くまでジッとしていてはくれない。
隙間に逃げ込まれないように弱らせておくため、ムカデ用の殺虫剤を噴射したが、これも効かない効かない。
写真はその時の壁にできた殺虫剤のシミ。(9月5日撮影)


ムカデが這っていった跡だけ乾いているから一筋白っぽく見える。
ムカデは対で行動すると言うから片割れがそのうち出てくるかもと思っていたら、こんな所にいたとは。
おかげで修理代、22,000円が飛んで行ってしまったよ・・・シクシク。
それでも、エアコンが直って冬も暖かく過ごせることだし、良かったけれど。

早速、暖房をすると、猫が特等席を見つけてずっと居座っている。


プロフィール

ぽあん

Author:ぽあん
広島在住。
のんびりとやりたい事だけして
暮らしています。
座右の銘は「ケ・セラ・セラ」。

★★応援しています!★★
最近の記事
武道なリンク

日野武道研究所


武禅一の行

ほぼ毎日更新
(ぜひブックマークに!)
移転しています
日野晃の
さむらいなこころ


YouTube
[SRS伝説の武道家 達人 日野晃]

YouTube
[コンサートに向けて(ドラム)]

YouTube
[2005年のfeel&connect]
9日間のワークショップを10分で紹介
http://jp.youtube.com/watch?v=hA37h1-nYPc
http://jp.youtube.com/watch?v=ADoNbkOJFjc

クイズ紳助くん 2007年2月19日
「なにわ突撃隊 こころを鍛えろ!武道研究家に学ぶ!!」
オープニング映像有



やもりこ先生のブログ
峠より

八幡 謙介さんのブログ
ギター教室講師のブログ

香月章伽さんのHP
香月ダンスファミリー

館兄さんのブログ
ボディーアーキテクト公式サイト

北村成美さんのHP
なにわのコリオグラファー“しげやん”

たてまるさんのブログ
たてまるの日記

やましろ整体さんのブログ
女整体師の 出張めがね日記

怪談師夜魔猫GINさんのブログ
オカルト酒場の片隅で

星が見える名言集100
カテゴリー
最近のコメント
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QRコード
RSSフィード
最近のトラックバック
ブログ内検索
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。