ぽあん歩庵

ねずみ男

鳥取のゲゲゲの鬼太郎ロードの大掃除が一昨日あったそうで、来年の干支にちなんで、ねずみ男も掃除に参加したとニュースでやっていた。
「他のブロンズ像には目もくれず、自分の像だけを丹念に磨いていました」には笑った。
ねずみ男らしくて。

そういえば、少し前にビジネス書のコーナーで「ねずみ男に学ぶ処世術」みたいな本を見つけた。
ただのお笑い系かと思って手にとってみたが、なかなかの内容で面白かった。
彼の移り身の早さ、こだわりのなさ、行動力、頭の回転、場を読む力、流れに便乗し、有力者に上手く取り入り、使われると見せかけて騙して一人勝ちを狙う狡猾さ。
なのにたまに見せる情の部分。特に女子供に弱いあたり、つい「いい奴じゃん」と思わされたり。
仲間を持たず、善悪基準も持たず、ポリシーといえば、生き残る事のみ。しかも最も有利な条件で。
無責任で平気で他人を裏切るが、自分だけはトコトンかわいいという姿勢に忠実で迷いがないから、どこでなにをしても生きられるし、落ちても落ちても這い上がってくるバイタリティが尽きる事はない。
昨日の敵とも今日は笑って付き合えるし、どれだけ世話になった人でも余計なしがらみに縛られず切り捨てる事ができるのは、ある意味、爽やかでかっこいいとも言える。

もし酒を飲むなら、鬼太郎やオヤジなんかより、彼との方がよっぽど楽しそうだ。
弱さも狡さも醜さもすべてさらけ出し、傷のえぐりあいさえ遊びのうちで、「人間なんて、人生なんてそんなもんよ」と笑い飛ばして、明日の力にできそうじゃない。

なろうとしたら簡単になれそうで、生半可なことではなれない超人だから、妖怪なんだろうね。

2007年12月31日 体感・心感の日々 トラックバック:1 コメント:0

カスピ海ヨーグルトが市販できなかった理由

古本屋でカスピ海ヨーグルトの本を見かけたので手に取り、パラパラと斜め読みした。
由来や効果など、はっきり言って興味ない。美味しくて体が喜べばOKだから。
味付けや食べ方の工夫も教えられるより、自分でいろいろ試したいからパス。
「ん?」と目が留まったのが、「カスピ海ヨーグルトはなぜ市販されないか」という項目。
どうやら、メーカーで製造して一般に販売されるのは無理とされていたようだ。
市販する認可を受けるには、容器が完全に密封されていないとマズイのだが、生きたカスピ海ヨーグルトだと発酵によるガスが発生して膨張してしまうからというのが、その理由という。
確かに家で作る際にも、呼吸するので密封はしないようにしている。
出来あがってからは、ふたを閉めて冷蔵庫で冷やして発酵が進み過ぎないようにするが。
グリコの「独自の製法と衛生管理」というのは、ここらへんをクリアする苦心だったのだろう。
普通のヨーグルトと混ぜてカスピ海ヨーグルトの割合を減らしつつも味を保つための。
おかげさまで、どんどん増殖中。
入っている分量が少なかったとは思えないほどしっかりできるから、よほど元気な菌だったようだ。

グリコさん、ありがとう。
今度、キャラメル買うから許して。

2007年12月30日 手作りの暮らし トラックバック:0 コメント:0

予防の医学

周辺でちらほらと風邪をひいている人が出ている。
休みに入る前には学校では毎日二人ぐらいは欠席があったという。
この冬ははインフルエンザが猛威をふるうだろうとか、今回のタイプは性質が悪いという情報は早くから流れていた。
あの病院にはもう何人の患者が来たと、そんな噂が広まるのは早い。

インフルエンザを予防するためのワクチン接種は、最近では冬の恒例行事というか、風物詩のようになっていて、「もう受けた?」「まだなのよ」「効き目が出るのに時間がかかるから心配でね」「それにしても高くつくわね」なんて会話が、「こんにちは、ごきげんよう」とセットで交わされている。

例に漏れず私もそういう場に立ち会ったりするのだけれど、仲間に入ることができないでいる。

「受けてない」と言うと、「早くしないと、今年は流行るよ」と忠告され、「受けない」と言うと、「どうして?かかるとひどいよ」と心配されるので、あいまいな笑みを浮かべたまま「そうね」と口をつぐんでいる。

医者でも研究者でもないない私が、受けたって効果ないなんて証明できはしないから。
薬物を体内に取り込むことでの益と害を比較できるほどの知識もないし。

だけど、医者でも研究者でもない他の人たちは、いや、もしかしたら医者や研究者の人たちだって、本当にどれだけの効果があるのかとか、後にどんな影響が出るのか出ないのかの確証を得ているものなのだろうか?
お年よりは予防接種を受けていない割合が高いから、重症化する率も高いという説に疑問を持たない人たちだからどうだか、というのが私の印象。

45年、インフルエンザワクチンの接種を一度も受けたことのない私がインフルエンザにかかったのは子供の頃に2回だけ。3日寝込んで一週間で治った。
かかったらかかったでしょうがないで来たけれど、意外とかからないものだ。

年をとって体が弱ってしまったら、こじらせてあっさり死んでしまうのもいい。
いや、むしろそれがいいんじゃないか。てなことも思う。


かく言う私も一度だけ、子供たちに予防接種を受けさせたことがある。
香港で鳥インフルエンザが発生した年に。
あわてて全員に受けさせたはいいけれど、後にまだ鳥インフルエンザのワクチンはできてはおらず効果なしと知って余計に不安になったものだ。
典型的なアホである。


【参考】
インタビュー どうする!インフルエンザ
インフルエンザワクチンに関する質問主意書
厚生省?予防接種問題検討小委員会での大阪日赤小児科医師、山本秀彦さんの意見陳述の要旨
インフルエンザ予防接種批判
???などなど他多数、今ざっと検索したところで。

2007年12月29日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

カスピ海ヨーグルト

何年か前にネットで仲良くなった人からカスピ海ヨーグルトの種をもらって、作っていたことがある。
牛乳を入れて放っておけばどんどん増えるので面白い上に、もっちりとなめらかな味も気に入って二年間、毎朝家族で食べていた。
最初は雑菌が入らないように衛生にとても気をつけていたが、そのうちおざなりになってきてもしっかり元気に生き続けてくれていた。
しかしそれも、やがて味に飽きてやめてしまった。

先日、北野大さんの講演会で久々に聞き、知り合いが今も続けているという話をしたこともあり、もう一度食べてみたいと思っていたところ、スーパーでこういう商品を見つけた。
半額

グリコの「おいしいカスピ海」。賞味期限せまって、うれしい半額。
買ってきたものの、本当にカスピ海ヨーグルトの菌で作っているのかは半信半疑。
食べてみると、確かにそれっぽい匂いとねばりはあるが、普通のヨーグルトのツンとした匂いと酸味が半々といった感じだったからだ。
もしかしたら、それらしい味に加工して作っているということも考えられる。
もし本当にカスピ海ヨーグルトなら、増やせるはずだが、裏にはこんな注意書きが。
注意書

「グリコオリジナルのレシピと製法、衛生管理で作っていますので、ご家庭で作られる際のタネ菌としてはご利用できません。」ですと。
ますます怪しい。
ということで、作ってみることに。
容器を熱湯消毒して、タネとなるヨーグルトを1/5ほど入れ、牛乳を注ぎしっかり混ぜる。
夏なら室温で放置だが、冬は温度が足りないので、発泡スチロールのお風呂に容器ごと浸けて発酵を促す。
保温

12時間置いたところで見てみると、固まってる。これは望み持てるかも。
発酵

更に6時間。出来たものは、確かにカスピ海ヨーグルト。新生児のウンチの匂いがその証拠。
・・・と言ったら食欲なくす人多いかな。(笑)でも、本当にそうなんだもの。
とろ〜りとイイ感じでしょ。
ヨーグルト

確かにグリコの製品には、カスピ海ヨーグルトが生きたまま入っていたことが、これで証明できたということになる。
しかし、ヨーグルトは変質しやすいものだから、安全に万全を期するなら家庭で作るのは避けておいたほうが無難でしょう。
私はいいの。お腹痛くなってもグリコのせいにはしないからね。自己責任、自己責任。

今はもう5代目。
段々と普通のヨーグルトの風味が抜けてカスピ海ヨーグルト100%に近づいていく味を楽しんでいる。

2007年12月27日 手作りの暮らし トラックバック:0 コメント:2

失望

望みがあるから失ったのだとしたら、それはどんなものだったのだろう。
自分を益して欲しいという欲望か。
それとも、相手を自分が使いたいという野望か。

自分の思い描いた「この人はこんな人であろう」が違っていたのは誰の責任なのか。
「そんな人とは思わなかった」のは本当に相手のせいだろうか。
「裏切られた」とする、どんな契約もそこにはなかったものを。

勝手に期待をし、勝手に失望する。
人には、そんなこともあるだろう。
だが、
それをそのまま相手に非難として向けて憚らないとしたら、潔くはない。
自分の感情、自分の思いが
他人の動向によって左右されてしまうのだと泣き言を言う人間は、
相手にも同じことを望むものなのかもしれないが。

「なんだ所詮こんなもんだったのか」
「かいかぶっていた」「見る目がなかった」と思ったなら、
黙って速やかにそこを離れればいいではないか。
自分の思い通りでないことがあったからといって、誰も困りはしないのだ。

言いたい、伝えたい、正したいという心根にあるものは何か。
他人がその人自身として自由であることを許せないのはなぜか。

「この人とはこんな人」と勝手に決め、勝手に裏切られ、
「そんなはずは!」と勝手に怒る。
それは誰のせいなのか。

他人に自分の望むようであれと願う人は、
人にも運命にも裏切られ続けることだろう。

2007年12月26日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

年賀状の試練

クリスマスとお正月は大好きだけれど、12月は嫌い。
なぜなら年賀状作りの季節だから。
毎年、胃をキリキリさせている。
買ってきたはがきで済ませられるといいのだけれど、
素材集からカットをとってきて作ったのをプリンターで出力してもいいんだけど、
気がすまない。
どうしても、ミョーなこだわりがあるんだなー。
自分が好き好んで苦しんでるんだから仕方ないけど、年賀状作りは嫌いなんだよ。
それでも、毎晩コツコツとイラストを描いて、家族の写真も撮って、と、
昨日のうちにプリントに出せるはずだったんだけど・・・・・・、パソコンがご機嫌斜め。
あきらめて、今日の朝から取りかかって、「さあ、できた!」というところでフリーズ。
もう、朝から何回目か数え切れないぐらい。
でも小まめに保存してるしと気を取り直して再起動したものの、あれれ?
データが、うそ、どうしよう、壊れてて開かない。
だ・け・ど、
こんなこともあろうかと、実はフラッシュメモリにバックアップもとっておいた賢い私。
それなのに、ああ、それなのに、これもエラーで開かないじゃないか!
小まめな保存が裏目に出るとは・・・。私の何日かの苦労は水の泡。悲しい。。。
が、悲しんでる場合じゃない。時間がないんだ。
夫のパソコン立ち上げて、使える写真をぶち込んで、仕事モードにシフトチェンジ。
チャカチャカやって、2時間かからず一丁あがり!
ネットで送信できたのが、締め切り1時間前。完了〜〜〜。パチパチパチ。
はぁ〜、くたびれた〜。
とっととパソコンを買い換えておけばよかったな。
それに、やることは一気にバッとやっつけとかないとね。
つくづく無駄が多い。

よし!
私の来年の目標決まり。
「無駄をなくす」にしよう。

2007年12月26日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

仕事納め

先週末で仕事納めだったものが、社長がどうしてもということで私だけ24日は出社ということになった。
休日ではあるし、取引先もどこもひと段落して終わったつもりでいるので、電話をしても仕事は出ない。よしんば出たとしても、印刷会社も折込センターも休みに入るので対応はできないのだが、社長は社員が動いているというだけで安心するらしい。
どうせ暇だからいいけれど。
しかし、不況の折、経費削減のため、私が通勤で使う車を置いている駐車場を会社の車を置いているスペースと共に解約することになったのは困った。
車を夫の会社に置いて自転車で通うか、夫と共に出て電車とバスで帰るか。いずれにしても考えなければならなくなった。
仕事はないまま昼で終えて、町に出るため電車に乗っていると、同僚から電話が入る。
「今日、何か変わったことあった?」と聞かれ、「別になにも」と答える。
「え・・・そう?」
何か不思議そう。
聞けば、今会社から電話が入って言われるには「今日はぽあんさんが出たから、明日は○○さんが出られないか」と問われたとか。
25日はどうしても外せない用事があるから出られないとは一ヶ月も前から聞いていたのだが、なぜ?という感じだ。
彼女は仕事が早いからか、何かと社長から用事を言いつけられ、以前は社員3人で持ち回りでやっていた仕事も全部背負い込まされ一番働いているのだが、どこまでも無理を言われてしまう。
その疲れとストレスがたまっていたのか、電話口で怒り始めた。
「なんで?何を考えてるの?嫌がらせなんでしょう!?」
私に聞かれても、社長の気持ちはわからないので何とも言えない。
駐車場の件を話し、「どうするか考えなきゃ」と言うと、「どういう意味で?」と問われた。
「そんな思いまでして、会社に尽くす必要あるの?」と。ああ、そういう“考え”ね。

社長はその昔、会社を潰していて、その原因が10人ぐらいいた社員が皆で示し合わせていっせいに辞めたため仕事が回らなくなったからだと聞いたことがある。
以来、極度の人間不信になって、社員間が仲良くするのを嫌うので、社内で会話がしにくいのだとか。
昔の事情は知らないが、あっても不思議はないような気がしてしまう。
事があったから人間不信になったというより、人間不信だから事が起きてしまうんじゃないかなと。
今年一年だけで首にした社員は3人。皆、罵倒してやめさせているし、一人とは裁判ざたにもなっている。
人とのトラブル、金銭のトラブルが続く人というのは、そういう趣味なのだろう。

来年は年明け早々から荒れるかな?
どうであっても、一つ一つ淡々とこなしていけばいいだけだけどね。

25日は急遽広告の差し替えが入ったということで、昼から私が出て対処した。

2007年12月25日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

メリークリスマス

休みにせっかく広島市に出て来たのだから、「椿三十郎」を観るいい機会になったと街中に出たが、時間が合わなかったため、予定変更。サンタクロースの買い物に切り替えた。
姑から預かったお金で図書券を買い、お母さんサンタは何を買おうかとほうぼうの店を覗いてみるが、どれもピンとこない。
娘たちは一応は欲しい物を口にしていたが、本当に欲しいわけでもない物を適当に言ってるだけなので、買ってやってもすぐに飽きるのは目に見えている。息子たちに聞けばゲームと答えるに決まっているから最初から「プレゼントはなし」と言ってある。
「本当にどうしてもどうしてもこれが欲しい、これじゃなくちゃ嫌だ」という程に熱望するものがないというのは、生ぬるい幸福という名の不幸かもしれないなと思いつつ、実用的で役に立つものでありながら、子供たちがパッと顔を輝かすような“何か”がないかと探す私もまた同じ。
結局、新しい寝巻きと肌触りの良いひざ掛けという、なにもクリスマスでなくてもいいじゃないかという物をそれぞれに買い、帰宅した。
今年はクリスマスケーキのデコレーションを家ですることにしていたので、夕方遅く家に帰り着いてからはてんてこ舞い。
オードブルなどをスーパーで買って簡単に済ませようと思っていたが、出来合いのものは値段が高い割りに美味しそうには見えない。冷めた揚げ物ばかりじゃあね。
それでやっぱり作ることに。ああ大変。
ケーキ作りは子供たちに任せる。
ケーキ作り

「そうじゃないだろ!」「やめて、せっかくキレイにしたのに」「お前センスが悪いんだよ」「かせ!」
喧嘩しながら文句言い合いながら、ワーワーと騒いでいるのを尻目に、私は料理に専念。
さあ、できた。
クリスマスディナー

それで、ケーキは? と振り向くと、おお、これは・・・。
クリスマスケーキ

まあ、立派なもんよね。見栄えはちょっと悪いけど。
遅めのクリスマスディナーで、料理をおなかいっぱいに食べた後で更にケーキ。
さすがの私も、二段ケーキの上の段の1/6を食べてギブアップをしたというのに、子供たちときたら、下の段を4人で分けてペロリと平らげるってどう?
味は、買ったスポンジケーキはモサモサしていたし、彩りにと使ったイチゴチョコと抹茶チョコが合わなくて、あまり美味しいとは思えなかったのだが、子供たちは「楽しかった」と満足そう。
来年は、スポンジから家で焼いてみようかな。

さてと、サンタはもうひと仕事。
メリークリスマス。


2007年12月24日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

思い出せない

何年か前に自分が言った事、した事が、なぜそうしたのかわからない。
思い出せない。
私は何を考えてた?
どうしたかった?
まったくわからない。

あれれ?

だってその頃は、「昔、私があんな事をしたのは、状況がこうだったから。あの人がどうだから。こんな過去だから」と、全部説明できてたのに。

今、それがどうしてそうだったのかもわからない。
どうでもいい事だもの。

誰に説明してわかってもらおうとしてたんだろうな。
何を納得したかったのか。

わからない。

ボケたかな?(笑)

2007年12月23日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

お口クチュクチュ

♪ あーゆーごーいんとぅ すかーぼろふぇあ
      ぱせり・せーじ・ろーずまりー あん たーいむーー

と口ずさみながら今回作ったのは、マウスウォッシュ。
これも日野武道研究所の洗面所にあった、やもりこ先生お手製の物を真似て。
ウルトラハードな刺激は、「キッツーイ」と言いながら、病みつきになるんだよねー。
あんまり詳しくレシピを聞いていなかったので、ネットを調べて適当に今回用意した材料は、セージ、タイム、ペパーミント、はちみつ、そしてウォッカ。
ハーブ類を煮出して冷ました200mlの液に100mlのウォッカを注ぎ、はちみつを入れてシェイク。
できたのがこちら。
マウスウォッシュ
さっそく使ってみる。
匂いは近い。ミントが足りないのと、シナモンも欲しいような?
味は・・・甘みはいいとして、刺激が弱い。
近くの店にはアルコール度数が40°のズブロッカしか売ってなかったからなぁ。
90°以上のウォッカか泡盛でやらなくちゃいけないみたい。
それでも口の中はさっぱりするし、子供も使うからこれくらいが丁度よかったかも。
そう思って子供たちにすすめてみたが、どうも匂いがダメみたい。
私だけが使うんだったら、火を噴きそうなぐらい濃いのにしちゃうかな。
子供用には改めて、ミント以外のハーブを控えめの物を作ってやろう。
歯の表面がツルッツル。

2007年12月23日 手作りの暮らし トラックバック:0 コメント:0

廃油石鹸の使い心地

廃油石鹸ができた。
紙パックに入れた二日目、かたまり具合を見た私はギョッとした。
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なんだぁ?この表面のオレンジ色のキラキラは。
油が分離?みかんの皮が浮かんできた?どうなっちゃうの?
そんな不安を抱きつつ、さらに4日放置。
オレンジ色のキラキラは、白くなって何かの結晶のよう。
もしや、苛性ソーダが多かった?混ぜ方が少なかった?石鹸として使えるの?
等など思うけれど、どうしようもない。とりあえずカットして、乾燥させる。
そして一ヶ月。
できたのがこちら。
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これ、まさか手が溶けるなんてことないよな。
と心配しつつ、上の白い部分を包丁でこそぎ落とす。
結晶というより、粉化していた。触っても特に刺激はない。
作るときにてんぷら油の臭いがしていたが、出来上がったものは無臭。
うん、これなら台所で使えそう。
濡れたスポンジにこすり付けてワシャワシャともむとなんと豊かな泡立ち。
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食器についた油汚れをこすって流せば、すっきりキュッキュッといい感じ。
手にも優しい。気持ちいい〜。私はすっかり気に入った。

先日、自宅で石鹸を作ったことがある人に、「廃油石鹸を作った」という話をしたところ、
「あれって、ベタベタして汚れも落ちないから二度と作ってないの」と言われて、
どうなることかと思っていたのだが。
ネットで検索して見たページでも、
「固まらなかった」「ドロドロになってよくない」という感想をチラホラ見かけることもある。
うーん、何でだろう。
再利用しすぎて油がくたびれていたから?
私のがきれいに固まって臭いなく成功したのは、
菜種油でなくグレープシードオイルだったから?
わからないけれど、これからいろいろ試してみようと思う。

これからはこの廃油石鹸が我が家の台所の主役になる。
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油を捨てなくていいし、台所洗剤も買わなくて済んで一石二鳥。
いや、手に刺激はないし、残留する界面活性剤が口に入ることもないから、
一石三鳥?四鳥?かな。

2007年12月23日 手作りの暮らし トラックバック:0 コメント:0

理由と事情と言い訳と意味

長男に懇談時での次男の態度と私が叩いた事を話したら、
「あれ?俺の聞いた話と違う」と言う。
「『べつに』の一言でお母さんが叩いたと聞いた。わけがわからんと言っていた」と。
私から話を聞いて、意味がわかったらしい。
そうか、そう言っておったか。
ということは、反省はしていないということだな。
上等だ。
ファイトが湧くね。

2007年12月23日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

久々に手が出た

次男は次男で成績が下がっていた。
私はあまり「勉強しなさい」とか成績のことは言わないが、
一学期の中間では上位だったものが、期末、二学期中間、期末とガタガタ下がり、
今や平均点を下回る程になってるときてれば、
「どうなってるんだ?しっかりしろよ!」とはなる。
テストの点だけではない。
宿題をやっていない、授業中の提出物を出していない、
授業をまじめに聞いていない、居眠りも多いとは、
何やってやがんだろうね、この腐れタコが!
確かに、家であまり勉強をしていなかった。
夜更かしだし、生活や物事への取り組みに雑な所も目に付いた。
それがそのまま学校でも現れているだけといえばそうなんだけど、ひどすぎる。
教科によって成績のバラつきがある点について先生がした
「どうして成績が落ちたんだと思う?」との問いかけに、
「授業の教え方が悪い。面白くないからやりたくなくなる」とぶっきらぼうに答える息子。
背もたれに寄りかかって斜めに机にひじを突いた姿勢で、先生にタメ口。
はぁ〜〜〜? なんだ〜〜〜、コイツ? ムッカ〜〜〜!!!
我が子ながらというか、我が子だからこそ、腹が立つ。
先生は「教え方が悪いと言うけれど、他の人はそう感じていないから
君より成績がいいんだろ。人のせいにしてはいけないね。
面白いからやる、面白くないからやらないというのは、君の年ではまだ早いよ。
今は基礎を身につける時期だから、やるべきことはやらなければ。
今、嫌な事から逃げる癖をつけると、一生、逃げる人生になるよ」と
穏やかに諭してくださるが、息子は「はあ、そんなもんですかね」と投げやりな態度。
目をそむけて不機嫌そうに聞こえるか聞こえないかの声でブツクサと、
「別にいいじゃん、そんなこと」で、私は切れた。
スッパーン!
思わず手が、息子の後ろ頭を叩いてた。
「何、その態度。その口の利き方。それが先生に対する態度?
 人がまじめに話をしているのに、それはないでしょ。きちんとしなさい!」
おちゃらけて適当に受け流すことで、
自分に都合の悪い耳の痛いことを聞かずに済まそうとするそれがもう既に逃げの姿勢。
目上の人への尊敬も何もあったもんじゃない。
息子をこんなふうに育ててしまった自分が、恥ずかしくて申し訳なくてたまらない。
コイツは駄目だ。
私が目を光らせて、押さえ込まなくちゃ、
とんでもないことになってしまうというのがよーくわかった。
一撃が効いたのか、息子はその後、座り方から改め、手はひざに置き、
まっすぐに先生の方を向き目を見て話していた。
もちろん言葉は“ですます調”の丁寧語。
やったらできるんじゃん。
それが当たり前なんだけどね。
まだまだ私も試される。
子供は常に親との力関係を量りつつ、自分のポジションを決めるのだろう。

小さいころからやんちゃだった次男を結構ビシバシと育ててきたが、
最近ではそういうこともなくなって、丸くなってきたといわれていた私。
本当に久々に、何年かぶりに叩いた。
怒るのはパワーがいる。
「まあまあ、しょうがない子ね」と薄ら笑いで小理屈たれて
お茶を濁している方がどれほど楽か。 (本当の意味では楽じゃないんだけど)
家での生活のありようが学校に持ち込まれて大人を舐めるようになったとしたら、
ここは正念場かもしれない。
叩きなおさなければ。
しかし、奴はなかなか手強い。ああ言えば、こう言うの口達者。
けれど負けるわけにはいかない。なんたって、親なのだから。
親が本気で関わらなくてどうする。彼の一生の問題に。

人と真剣に向き合うのは、とても疲れる。
が、それが関係。
私は逃げない。

2007年12月22日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:2

学期末懇談

中学校の三者懇談があり、行ってきた。

いよいよ後がないとなったここに来てやっと勉強を始めた長男は、
今回の成績を見てへこみまくり。
「俺、頑張ったのに、どうして?やった意味ないじゃん。やっても無駄じゃん。
 俺、もう駄目。これ以上無理。高校落ちたら、死ぬから・・・」と、暗い顔。
おうおう、なんと悲観的なこと。
担任の先生と顔を見合わせて笑う。
先生ももう諦めてるけど、最後まで見捨てず指導はしてくださるようなので、
私はもうそれで十分。
「まあ、もう一年頑張って再チャレンジかな。
 一旦働きに出て、どうしても高校行きたくなったら行くって手もあるし」と私。
「一年で駄目なら、もう一年かけて弟君と同級生になってもいいね」と先生。
「いや、それはマズイっすよ。勘弁してほしい・・・」と余計落ち込む息子。
しっかし、なんつー会話。(笑)
どうもしようがなくなった状況で深刻になってもしょうがない。
泣いても笑っても現実は現実。
それなら軽く笑い飛ばして開き直るしかないっしょ。

帰りにも「俺、本当に頑張ってるんだよ」とまだ言う。
「夏休み中、ダラダラと過ごしてきてて頑張ってるってぇ?
 二学期に入っても余裕かましてたくせにさ」と突っ込むと、
「う・・・」と詰まる。
まじめにやり始めたのは本当にここ最近のこと。
そんなにすぐに結果が出るはずもない。
タイムラグがあるのは当然のことで、それでも続けて初めて安定するもの。
やりゃあすぐ成果が上がると期待してたなんて、甘い甘い、大甘のシュガーちゃんだ。
ま、これで内申書は決定。
あとは本番の試験でどこまで行けるかが勝負。
でもまだ舐めてるからなー。
「『試験落ちたら死ぬ』って言うなら、本当に死ぬ気でやってみろ!
 あんたの頑張りなんぞ、頑張ってるうちに入るか。
 誰かが何とかしてくれると思ってたら大間違い。
 あんたが落ちようが私は痛くも痒くもない。お母さんの人生じゃないからね」と言うと、
「わかってるって」とウザったげに応える息子。
わかってる? ホント〜?

2007年12月22日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

迷いもまた

今欲しい物。
ふたつ。

パソコンとホームベーカリー。

ノートパソコンのディスプレイが不調の上、せっかく冷却ファンを買ったのに、よく固まって、保存前のデータを失う。パワー不足で映像が長時間見られない。DVDを作ることができない。画像処理にも耐えられない。
こんなにイライラするぐらいなら、いっそ新しいパソコンを!と思うのだけれど、購入ボタンの一押しをためらう。
いいのかな?いいのかな?

会社の同僚から奨められたパン焼き器。夜に材料をセットしておくだけで、朝、焼きたてのパンが食べられて、ぶどうパンやクロワッサン、メロンパンもOK。餅もつけるし、パスタもできるという優れもの。
でも、最安値でも2万5千円近く。長い目でみれば、お得なんだけど・・・。安心代としたら安いもんだけど・・・。続くかどうか。
どうしよう?どうしよう?

迷いに迷って決められなくて、長い夜がふけていく。あちこちの電気屋に何度も足を運んでは、手ぶらで帰ってくる。
どっちでもいいことに時間をとられて、頭を悩ましてと、なんという無駄。
あー、私って馬鹿だ。愚図だ。優柔不断で、それでいて欲深。
ジレンマ、自己嫌悪。

こういうの好きだよね。いつでも、何にしても。
自分で苦しみを作っては、それを楽しむ遊びの一種。

とっとと決めて終わらせる?
それとも続ける?

それもまた迷う。(笑)

2007年12月22日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

正面!!!

お悩み相談受け付けます

ネットを始めたころ、私は主婦のお悩み相談系のサイトによく行っていた。
書き込みとかはせず、もっぱら読むだけだったけれど、ちょっとした他人のプライバシーを覗いて好奇心を満足させ、人生経験豊かそうな人による解決方法に感心し、結構楽しんでたっけ。
その後、つまんない「大きなお世話運動」みたいなものに加担して、もう少しで危ない領域にまで踏み込むところだったのを免れたということもあったけれど、基本的に私はそういった、「困った人」というのが好きだったみたい。
この「困った人」というのもいろんな意味があって、「問題抱えて困ってる人」というのもあれば、「問題起こす困り者」、また「周囲が問題だらけの人」というのもある。
こういうのを見ちゃうと「あらまー、可哀想ねー、なんとかしてあげなくっちゃねー」となるのが常だったのね。

今はぜんぜん見に行かなくなってしまった。
だって面白くないんだもん。どれもこれも似たり寄ったりで。およそどうでもいい。
もちろん当人にとってみれば、辛くて仕方ないってのはわかってるよ。
でも、辛さを味わう必要があるからそうなってるのに手出しは無用だものね。無駄という方が正確か。
アドバイスが役立つ人というのは、そのアドバイスを受けられるに足る人。
頭が整理されていて問題点が明確になっていなければ、「どう動いたらいい」なんて解決策が示せるはずがない。
だいたい悩み相談なんてのは、愚痴と言い訳が大半と思って間違いないわけで、特にネットでというのは99.9%がそうだから。

ネットで興味を失ったのと並行するのかしらないけれど、気づけばリアルでもいつの間にか他人の悩みを聞かなくなっていた。
結構グジャグジャ、いろんな話が舞い込んでたんだけどね。
話を聞かないこともないのだけれど、漠然とした「どうしたらいい?」の問いかけには、「どうでも好きなようにすればいいんじゃないの」ってなスタンスだから、長引かないわけよ。
いや本当に誠実だと思うよ。相手の力を信じての自由と自主性を尊重した応援なんだから。
実際のとこ、それしかできないでしょう。他人には。
あくまで決めるのは自分。
決めない自由、苦しむ自由、悩み続ける自由もあるしね。

思えば、お悩み相談が好きだったころ、私は悩むのも好きだったなと思う。
悩みの中にどっぷりと安住していながら、そこで辛さを紛らわす手段が、もっと辛そうな人を見つけては哀れむって方法だったのかもね。
なんとかしてあげたいって気持ちも、「私のおかげ」でなくちゃ嫌だってところあったような。「勝手に幸せになるのは許さん!」ってな。
もちろんしっかり良い人ぶりっ子で、そんなのおくびにも出してはいなかったけど、人は無意識のうちに違和感を感じ取るものだから、ずいふん無言のプレッシャーを与えてただろうと思う。
他人を利用して、自分の無価値感を癒されたがってたことに気づきもしなかったんだよ。

頼らなくなると、頼られないもんだね。期待しなければ、期待されない。
もちろん、仕事はあるよ。それは責任として。
サクっと、あっさりいきたいな。
まだまだだけど。

2007年12月18日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

椿三十郎の見所は

昼に何気なくテレビをつけたら、椿三十郎のPR番組をやっていた。
一時間半の特番だったのに、残り30分もない。
「しまったー」とあわてて食い入るように画面に見入る。
私はまだ映画を観ておらず、日野先生が指導された動きとラストシーンがどんなものか知らないので、できれば見所などのポイントを押さえておきたいと思っていたのだ。
うっかりボンヤリの私が大切なシーンを見落としなく隅々まで味わいつくすことができるように。
しかし番組はもう終盤。中村玉緒が織田裕二に質問するコーナーで締めくくりのよう。
そこでは殺陣の話題が出た。
織田祐二は当初、カッコいい殺陣ということだったら、自分より絶対に上手く決めてさまにできる人はいるので、そういった人に部分的に代わりにやってもらう方がいいと思っていたそうだ。
しかし、求められているのは「斬りたくないのに斬らなければならない殺陣」。
それならば絶対に自分がやるべきだということで、一切のスタントを立てず全て本人が演じきったという。
以前、森田監督も「人を斬るのも疲れるということを表現した」ということを言っていたのを聞いたこともある。
生身の人間味を出してリアリティを追求するという意味もあるだろうが、どうも、それにも増して武道的な人間と人間との真剣な係わり合いに焦点が当てられている気がする。
生きるか死ぬかのギリギリの命のやり取りほど、人が必死に相手に向かい合うことはないからだ。
殺陣をスピードやテクニックなどの見せ方の演舞としてだけ見て、黒澤作品と比べてどうだとか、三船椿の時にはどうだったとかの批評をしている意見もネット上で時々見かけるが、そういう場合はえてして何を感じたかはすっ飛ばしているものが多いように思う。
もちろんまだ見ていない私が何を言えるわけでもないが。
番組では織田祐二の話にかぶるように、殺陣の練習風景の映像が流れていた。
もしやチラリとでも武道指導に入っている日野先生が映ってはいないかと目を皿のようにして凝視するが、それはなかった。
あちこちの宣伝で「殺陣に力を入れた」「前作とまったく違うラストシーンを見てほしい」と言われたり書かれたりしているのを見聞きするにつけ、そのアイデアを出したのが誰かは語られることはなくても、ちょっと嬉しくなる。
来週あたり、いよいよ観に行く予定。
じっくりと味わいつくそうと思ってる。最後のクレジットまで。

2007年12月17日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

どんぐりのせいくらべ

どんぐりころころ せいくらべ
みんなで競って せいくらべ
だれが一番 大きいか
だれが一番 背が高い
だれが一番 つやがいい
だれが一番 きれいな形
だれが一番 重たいか
だれが一番 だれが一番
俺だ 私よ 僕のほう
わいわい がやがや 大さわぎ
山の秋は 朝から晩まで
みんな競って 大さわぎ

どんぐりころころ せいくらべ
したくなかった どんぐりは
少し離れて 落っこちて
小さな芽を 出したとさ
土に根をはり お日様めざし
ひとり静かに 笑ってる

どんぐりころころ せいくらべ
きのうの自分と せいくらべ

2007年12月16日 未分類 トラックバック:0 コメント:0

比較

北野大さんの講演会の後の分科会での話題の一つに、「褒めることの大切さ」というものもあった。
北野さんが言われていたのは、他者と比較して良い場合に褒めるのではなく、あくまでも本人の過去と比べた場合にどうかを基準にした褒め方が子供を伸ばすのだということ。
前は出来なかったことが出来るようになった、昨日わからなかったことがわかった、それを共に喜び、努力を評価してやるのが励みになる。
グループの一人が「良い話を聞いた。これから活かして行きたいと思う」と言い、皆が相槌を打つ。
そこで、それではと私も「全国統一学力テストでどこの県のどの学校の成績が良かったとか、世界的に見て日本の順位が下がっているから問題であるとか、そういったものの基準は全部他との比較。他の調子の良し悪しで左右されて個人の成長の目安とはいえないから、いい加減な情報で不安を煽られて振り回されないようにしたいですね」と発言してみたところ、なぜか一様に戸惑いの表情。
「うん・・・そ、そうですねぇ・・・」ということで、それ以上この話は続かなかった。

あれ? 何か間違えた? そういうことじゃなかったのね。
私ってば、相変わらずのKYの困ったチャンみたい。(汗)
でも、それだったら、どういう意味なのかな。と、いまだわからないでいる。

2007年12月16日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

レベル差を口にするとき

学校で他地域での学習風景のビデオを見た小5の娘が、そのしっかりとした活発な意見交換の様に感心して話をしてくれた。
「すごかった」「とても同学年とは思えない」と興奮気味に。
普段の自分たちとは違う取り組みをしている学校の様子を知るのは、刺激になり参考にもできるので良いことだと思いながら聞いていたのだが、そのうちちょっと気になることを言いだした。
「やっぱり都会の学校はいいね。レベルが高くて。こんな田舎はダメ」と。
そこで私は「どうして短いビデオの一場面を見ただけでそう思うの?」と聞いてみた。
すると「だって、すごいしっかりした大人みたいな討論だったんだよ。あんな事、ここの学校では絶対にできない。レベル低いもん。市が全国平均より下の学力なのに、ここはその中でも低いんだから。馬鹿になるよ」と自分の学校への酷評が返ってきた。
娘が見たビデオを私は実際に見ていないし、それが普通の授業風景だったのか、それともシナリオが用意された作り物か、それを子供たちに見せた先生の狙いが何だったかもわからないのだが、その言葉には私は少々引っかかる。
実感から出た考えでないものを、自分の意見として喋っているというあたりに。
確かに、統一学力テストの成績がこの近辺の学校の中でも低い方という事実はある。
危機感を感じて遠くの学習塾まで通わせている家庭もあるし、転校した人もいるとも聞いている。
だが私は娘にそういった話をしたことはなく、彼女自身が問題視しているわけでもないだろうに、一部の大人と同じ口ぶりで自分の学校をこき下ろすとはどういうことなのか。
それがたぶん子供同士の会話の中で聞いてきた他の保護者の意見そのままなのだろうとは容易に想像できる。
学校のレベルが低いために子供に学力がつかないと考えるのも、それを困ったことだとするのも個人の自由なので何とも思わないが、娘がもし自分の意見としたいのなら、ちゃんと自分の頭で考えて欲しいと思う。
田舎だからレベルが低い、学校の方針が悪い、先生の教え方がなってない、周りの子たちのペースが遅いという批判や悲観を何に結び付けているのか。
だから自分のレベルも低くて仕方ない? だけどそれがわかる自分は上のレベル?
どちらにしても、責任逃れでしかない。
考えるべきは、「それならどうする? どうしたい? 何ができる?」だ。
娘に問いかけてみたが、答えは返らなかった。

2007年12月16日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

忘年会

小学校PTAの忘年会だった。
私の今年唯一の忘年会は、7時から始まり、9時半におひらき。
終わりに、ドラムソロコンサートのPRをして、チラシとデモDVDを配ってきた。
遠いから、行く人がいるとは思えないのだけど、どこでどんな巡り合わせがあるかわからないから、種だけは蒔いておこうかと。
武道家のドラムに興味をそそられたのか、DVDを欲しがる人は多くて、持って行った数が足りなくなった。
もっと用意していけば良かった、チラシももっと沢山もらってくるべきだった。
チケットと一緒にドッサリ送ってもらって、配りまくろうかな。
もう、日にちがない。

ただの音楽コンサートではなく、これまで誰も味わったことのない強烈な体験をする場になるんだと伝えたいのは山々なれど、うまく言えそうにない。
変に怪しまれて先入観になってもいけないからね。
なので、あとはDVDの迫力にお任せ。

2007年12月14日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

叱らない?叱れない?

書店でふと目にとまった小学生の子供を持つ母親のための子育て応援雑誌の今月のテーマは、「叱らないママなるには」というもの。
ビニールがかかっていたので中は見ることはできなかったが、表紙に出ている表題がなんとも興味深い。

・子供を叱りそうになったとき、どうしたらいいか
・8つほめて、2つ叱るコミュニケーション術
・子供の気持ち別対応の仕方
・叱らないための言葉みがき
とまあこんな感じで、もう、叱ることが罪悪かのような取り上げ方。

親が子供を叱ることの何がいけない?
親が叱らなくて、いったい誰が叱ってくれる?
そもそも、叱られることなくして、どうまっとうに育つというのか。
そんな完璧にもう出来上がってる存在なのですか?子供って。
と、突っ込みどころが多そうな特集である。
あえて「怒る」ではなく「叱る」と使っているのも何か意味があるのかないのか。

巷では子供を叱れない親が多いとは、最近よく耳にする話だ。
「叱ると可哀想」「子供に嫌われたくない」というのがその理由とか。
そうやって野放図にやりたい放題し放題に育てれば、そのうち当然、外で問題を起こすことになる。
そんな時、親がなんと言うかはだいたい決まっている。
「こんな子なんだから仕方ないでしょう。私だって困っているんです」と、あたかも自分が運悪く生まれつき聞き分けのない子の親に当たってしまった被害者であるかのように、他人の同情と理解を得たがるのだ。
家庭内での常識が社会全般に通用するはずもないという道理が完全に欠落している親に育てられた子供こそ、いい迷惑だろう。

叱るより、叱らなさすぎの弊害の方が多いように見えている昨今、なぜ「叱らないために」なのか。

そもそも、「怒る」にしても「叱る」にしても、莫大なパワーがいる。
できるなら誰だってイライラなんてしたくはない。疲れることなんてやりたいわけがない。
特に子供なんてエネルギーの塊だから、1を投げたら10になって返ってきたりもする。
ギャンギャン泣いて、暴れて、手当たりしだい物を投げるわ壊すわ、汚い言葉を使うし、これ見よがしにひっくり返ったり他人に言いつけたりで親を悪者に仕立て上げる術さえ心得た、ある種、駆け引きの天才みたいなところもある。
並みの神経じゃとてもじゃないけど太刀打ちできない。冷静に余裕を持った接し方なんかどだい無理。
だけど楽をしようと思えばやりようはある。ちょっと我慢して大目に見たり言うことを聞いてやりさえすれば、衝突もせず波風立てずにやり過ごせる。
そうやって叱られもせず、欲しい物は与えられ、好き勝手に振舞っているだけでチヤホヤと褒められる中で、自制心や思いやりが育つものだろうか。
大人が子供の機嫌をとってくれるというコミュニケーションしかない場所で、きちんとした意思疎通の表現力が身につくだろうか。
ルンルンに楽しいだけの子育てなんかあるわけがないのだ。

叱れない親は論外としても、「叱ることが多すぎるのでは」「きつく叱りすぎてしまう」と悩んでいる母親は多分多いことだろう。
子育てに正解はないのだから、「これでいいのだろうか」と試行錯誤をするのは、親としての成長の過程として好ましいし、そのために本や他人の意見を参考にするのももちろんいい。
しかし、今、目の前で相手をしているのは、紛れもなく生きている人間。
実際のこの子を知りもしない、見たこともない人がどうして一番近くにいる母親より頼りになるだろう。
どんな性格のどんな行動をする子でも一律に、8褒めて2叱るという条件に当てはめられるわけもない。
理屈抜きの感情をぶつけるのと、感情抜きの理屈を並べるのと、どちらが本当に大切なものを伝えられるのか。
生きた人間関係を見つめてこそ、この関係においてのみの正解にたどり着くのだ。

「ああしなさい、こうしなさい」「これはしてはダメ」他人は適当に勝手なことを言う。
だが、どんな専門家であろうと、権威ある偉い人であろうと、責任はとってはくれないのだ。
叱るのが辛くて辛くてやめたいのなら、叱らないようにすればいいが、「叱ってはいけないのではないか」という不安は、もしかしたら何か違うかもしれない。
叱りすぎると子供の心に傷を負わせて、取り返しのつかない失敗に結びつくような気がしているとしたら。
それは、どうしてそう思うのか。誰かに教えられたことではないか。どこかで植えつけられた情報ではないか。ちょっとそんな風に疑ってみてもいいかもしれない。
案外、何の根拠もないことを歴然とした事実であるかのように信じこんでいたりしてね。

2007年12月13日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

母の超能力

チビが、見慣れない大きなカンペンケースに入ったマーカーでお絵かきをしながら、「これ、いいでしょ。どこで買ったか〜?」と聞いてきた。
先週、夫の実家にお泊りしていたので、そこらへんで見当を付けて「お祖母ちゃん家の近くの文房具屋!」と答えると、「え〜〜っ、なんでわかったの〜?」と目を丸くする。
「見てたもん。お母さんは、『今、ナナが何をしてるかな〜』と思ったら、どこで何をしてても見えるからね。店で長いことどれにしようかと迷ってたねー」と言うと、「うん。見てたんだ。コワ〜」と首をすくめていた。
本当に見えるわけないとは思っていても、でも、もしかしたらちょっとはそんな事もあるかもしれないとドキドキする気持ちが手に取るようにわかる。
なぜなら、私もそうだったから。

子供たちがもっと小さくて暗い場所を怖がっていた頃、私はいつもこう言って安心させた。
「オバケは恨んでいる人のところにだけ出るんだから。悪いことをしてなかったら大丈夫」
これも昔、夜一人でトイレに行けなかった私に母が言ったこと。

いつかこの子供たちも同じことをするだろうか。
「ああ今、昔、お母さんに言われたのとまったく同じこと言っちゃってるよ」と思いながら。
今の私のように。

千里眼、テレパシー、霊能力、予知と、たいしたエスパーよね。私も。

2007年12月13日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

今年の書初めにかずこ先生が書かれた文字は「為」という一文字。
5月に日野武道研究所に行ったとき、かずこ先生の日記で見たその書が居間の片隅に貼られていたので何の気なしに眺めていると、日野先生がこう言われた。
「為に人が付くと“偽”になる。『人の為』なんて言うのは偽者や。全部自分のため」

確かに「世の為、人の為」と声高に口にし、アピールしたがる人ほど実は利己的であることは多く、むしろ自分の気持ちに素直な方が、本当の意味で人に喜ばれたり役立つように思う。
純粋に人が喜ぶのが嬉しくて相手の為にを考える人にとっては、その行為自体が自分の快だから、恩をきせたり言い訳をする必要はない。
他人の犠牲になって我慢して苦労して頑張って“見せ”る人というのは、親切を受けた側にも頑張って感謝して喜んで“見せ”なければならないという義務を負わせ、息苦しいものだ。
また、「あなたの喜びが私の喜び」のはずの人が、その「あなた」の悲しみに目もくれずに、「私のせいじゃない。私だって大変なんだ」と自分の都合優先にしたとしたら、それは明らかに偽り。

年末恒例の世相を表す今年の漢字は「偽」。
なんとも不思議なシンクロニシティ。

2007年12月13日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0

母の訓え

北野大さんの講演テーマは著書のタイトルにもなっている「北野家の訓え」だったが、話された内容は家訓ではなく、母親のポリシーがどう子供たちに伝わったかということだった。
男女同権、共同参画、父親も育児に積極的に関わるべきだとは現代では社会的に言われていることだが、やはり子供の小さいうちは「子育ては主に母親の仕事」だとの北野さんの意見には私も賛同する。
動物的な肉感を伴う愛情を注がれることこそが、生き物として未熟な幼児を育むのに絶対的に不可欠なものであり、それが文字通り血肉を分けた実感を有する女という性の持つ特性だからだ。
理知は後でいい。というか、情感の器なくしてそれは役に立たない。
母親が子供の人格形成に及ぼす影響は、個人の一生を左右するほどの重みがあると思われる。

講演で北野さんが話されたお母様からの訓えは、たとえば「実るほど頭をたれる稲穂かな」「自慢高慢馬鹿がする」「一本の酒で城が傾く」といった格言から、「物をもらって悪い気がする人はいない」「人は物が欲しい時にはものをくれない」という人生訓まで、ああ、なるほどなと思わずうなってしまうようなものばかり。
連鎖する貧乏の輪廻の輪から脱するためにと子供への教育に情熱を傾けた様は、是非はさて置き、一人の人間の生き方として「貫いてる!」という感があり魅力的だ。

そういった話を聞いて思うのは、やはり自分の母のこと。
私の母には「訓え」はあっただろうか。あったとしたら、いったいどんなものだっただろうかと考えてみた。
よく口にしていた言葉。
「騙すより騙されるほうがマシ」「上見て暮らすな、下見て暮らせ」「立ってるものは親でも使え」等々・・・・・・ろくでもないものばかり・・・。
しかし、「こうあれ」と導かれたことはすぐには思い浮かばなくても、逆に「こうあってはいけないよ」というものは沢山あったような気がする。
妬みや嫉みは人を醜くするよとか、愛されたがってばかりいると誰も愛してくれないんだよとか、不幸を幸福になれない理由にしてる限り前には進まないよとか、言い訳不平不満愚痴が運を悪くするんだよとか、人を利用しようとすると利用されるんだよとか、酒に飲まれると酷い目にあうよとか、ギャンブル依存はキチガイになるよとか、男の数が増えるにつれレベルは落ちるよとか、働きたくないと思ってるととうとう働けない体になるんだよとかを、体を張り、最後は命を賭けてまで実際に体現して見せてくれたと考えれば。
それも「訓え」のうちだろう。

母には何の「信念」もなかったように思うが、確かに私に伝わり残るものはあった。
「信念」など特に必要ないということか。
いや、そうではない。
「信念」という言葉にこだわれば難しく感じてしまうだけで、人が生きて存在していれば必ず他者に影響を与えないではいられないのだから、その「在り方」そのものが既にメッセージを発しているのだ。
「どんな信念を築くか」などどうでもいい。「どう生きるか」だけ。
それも先の先に吉と出るか凶と出るかを計ることなどできはしないもの。
私の母は、およそ理想の母親像とはかけ離れた親であったが、それでも私は彼女の生きていたことを無駄にはしたくないと思っている。失敗すら活かしたい。
そして私は、そんな想いが子らに繋がれば十分。
・・・・・・というこれも「信念」?(笑)

2007年12月11日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

クリスマスコンサート

日野先生のクリスマスコンサートは大盛況だったようだ。
さきこさんがmixiに感想を書かれていて、行けた人がうらやましくて仕方がない。
クーーーッ。いくら想像たくましくしたって、ぜんぜん思い描けないよー。と。
特に、クリスマスコンサートと翌日の田中さんとのリハーサルを聞き比べできた人は、
すっごい貴重な体験してくれちゃって、コンチクショーイ!!!ってなもんだ。
あーあ、聞きたい。目の当たりにしたい。
早く、早く、と待ち遠しい。
こんな大きな楽しみがあるなんて、この時代に生まれてよかったナ〜と思うよ。ホント。

クリスマスコンサートのもようはこちら。
http://www.hino-budo.com/xmas/07x'mas.htm

2007年12月10日 日野先生と武禅 トラックバック:1 コメント:2

母親代表研修会

県の小・中学校PTA母親代表研修会が福山であり、執行部に動員がかかってたので、講演が北野大さんということで、ミーハーな私が行ってきた。
遠くて場所もわからないためどう行こうかと困っていた所、昨年まで小学校PTA執行部で一緒だった人達が中学PTAから行くので、その車に同乗させてもらえることとなり、ラッキー。
朝7時出発して、9時半の開会にギリギリセーフ。
朝が早かったので、青少年立ち直り支援の事例発表は身近でなく関心がないからか、やたら眠くて眠くてたまらなかった。
しかしやはり北野さんは違う。
喋りが上手く、テンポもいいし、興味のひきつけ方も心得たもので、さすがだなと感心する。
口調は柔らかいもののたけしに似て早口で話は飛びまくるし雑多。
なようでいて実は、ポイントは押さえた系統立てた流れ、という。
最後に頭から終わりまでザーッと一気にこれまでの話をまとめられたのには舌を巻いた。
北野さんは弟のたけしさんが天賦の才のある「一流」で、ご自分を努力型の「人並み」と言われていたけれど、どうしてどうして。
頭の良い人というのはいいものだ。
その後は、昼食をとってバラバラに部屋に分かれての分科会で、グループごとのディスカッション。
PTAでも特に一般ではなく本部に所属する人が多い集まりとなると、やはり雰囲気も活発で、いろいろと他校の興味深い話も聞けて面白いものだった。
私のグループでは、講演を聞いての感想を導入口に話は広がったのだが、一番印象に残り、自分に照らし合わせてどうかと考えたのは、皆、母親としての確固たる「信念」が自分にあるだろうか、という部分だったようだ。
情報に振り回され、他者との比較を基準にするのはマズイとは思ってはいるのだけれど、じゃあ何を?とした時、何もない自分を知る。
そこ止まりで次に行けないというのも、何処も同じかとわかっただけで、結論や解決法には至らないが、そういう話しあい自体が大切なのだ。
ドライブインでおやつを買って車でワイワイと食べながらダベリながら家に帰り着いたのが夕方5時半。
一日は短い。
子供達の顔を見ながらつぶやく。
「信念かぁ」
この子達に私から受けた訓えとして残るものがあるとしたら、何なのだろうか?

2007年12月09日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

捨てたい

なにね、車の話。

ずっと調子悪くて、タンクに穴あいて水が漏れるから、毎朝ヤカンいっぱいの水を入れて出勤してたのだけど、先週金曜の夜、忘年会で飲んだ夫と友人を迎えに行った帰り道で、水温が異常に上昇。
夕方水を入れたばかりだったのに。いよいよダメか?と思いながら運転する。
まだまだ家は遠い上り坂。
メーターはぐんぐん上がり、このままではオーバーヒートして焼けてしまう、煙が出るんじゃないか、と焦る。焦る。
一旦止まって休んで、水温を下げても、スタートしたらすぐに限界。
そのうちなにやら怪しい音。
“プシュ〜〜〜”
ギョッ、な、なに? どうなってんの? もうやだ〜〜。
なのに、どういうわけか水温が急に下がる。
ホッ、なんとかなりそう。
それでもしばらくするとまた水温が上がり始め、メーターがいよいよ振り切れた所で家に到着。
あー、怖かった〜。

しかし、月曜の朝はもっと怖かった。
出勤する夫と私、東京に帰る友人の3人は、タンクに水を入れ、ペットボトル2本に水を入れて車に乗り込んで、出発進行。
その段階で水は漏れててヒーターは既に利かず、凍えるように寒い車内。
少し行くと水温は上がり始め、圧力をかけないように空けたままのタンクからはモウモウと湯気が上がる。
バイパスに乗る前にペットボトルの水を注いだが、10分もたない。
トンネル内でピークになってはお手上げだ。壊れてしまわないよう祈るしかできない。
やたら神経使って忙しいドライブを経て、私は会社にたどり着き、車はそのまま修理工場に入院とあいなった。

「もう寿命なので大金をかけてまで直すのも勿体無い。
 中古の部品が見つからなければオシャカにして、車を探さなければ」
と夫が言うので、
「今度は小さめの丸っこい可愛いのがいい〜。できれば新車!」と希望したが、
「あんたはどうせすぐブツケて凸凹にするくせに」と却下。シクシク。
6人以上乗れないと困るから、駄目なのわかってるけどね。

昨夜、あっさり部品が見つかって修理ができてきてしまったと連絡入って、ちとガッカリ。
今日、借りてた会社の車を返して、直った愛車を連れ帰った。
どっちにしてももうすぐお別れだけど、それまで可愛がってやろう。

2007年12月07日 私と私につながるものたち トラックバック:1 コメント:0

なぜ、今

大好きな優しい夫、可愛く健康な子ども達、一戸建ての家、静かな暮らし。
ずっと欲しかったものを全て手に入れたのに、
わけのわからない寂しさと不安が付きまとうのはなぜだろうかとずっと苦しかった。

満たされなくて。

あれがあればこれがあれば、
あの人の心を掴むことさえできれば、子どもさえ生まれれば、
仕事さえ軌道に乗れば、安住できる家さえあれば、
思い描いた理想の家庭で幸せになれると、すべて思い通りに叶えてきたはずなのに。

寂しい。

なぜ?

何が足りない?

好きなことをしていない?
では、私の好きなことは?やりたいことは?
手当たり次第にやってはみても、上っ面だけひととおりで飽きてしまう。
続かない。どうでもいい。
あれじゃなかった。これじゃなかった。
たまに何かに夢中になれば、ヒリヒリと追い立てられる焦燥感に疲れ果てるばかり。

寂しい。

寂しい。

寂しい。

「あなたは、わけのわからない寂しさを感じることはない?
 私はいつも寂しい」
ある時、夫に聞いた。
「何で寂しいの? 俺はないな。その気持ちはわからない。
 けど、どうにかしてやりたいとは思う。どうしたらいいんだろうな」
夫はそう言い、肩を抱いてくれたのだけど。

夫と心の距離が離れた今、もっと寂しさを感じてもいいはずなのに、
どうしてだろう、それがない。

誰もいない。

ひとり。

それが楽しい。

なぜ、夫はそうであってはならないと言うのだろう。

寂しさなど感じたことがなかった人が、なぜ、私を縛り付けようとする?

私はどこにも行かないのに。
ずっと傍にいるのに。
何も変わらないのに。
何が怖いのだろう?

なぜ、今?

2007年12月07日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:2

駄々っ子

ああ、そうだ。
たぶん夫に言わせれば、私がこういうブログに自分の意見を書くのも「他人に認められたいがため」だし、有名でもない私なんかのページを見に来る人、コメントをつける人は下心がある人、それに返事を返すのは、ケツを振って誘惑する浮気女の所業って事になるんでしょうよ。

面白くないものは、とにかく面白くない。
それだけ。
その面白くないことをそれでもどうしても続ける私を彼は「駄々っ子のようにわがまま」と言うんですけど、そう?

2007年12月07日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:3

本当の私とは

「お前は変わってしまった。前はこうじゃなかった。
 もっと謙虚で素直で可愛かった。今は変に自信をつけて嫌な奴だ」
ちょっと前に夫に言われた言葉。
夫は昔の私が好きだったのであって、今の私は嫌いなのだそう。
彼は私のブログも読まない。
4年ぐらい前、ブログデビューをした私がアドレスを教えた時に、
「あれは本当のお前じゃない。なんでそう面倒な事を考えるのか。お前はもっと明るく優しいのに、その良さが全然出ていない。もう読む気がしない」と言い、以来彼は二度と私のブログを開かない。
私のハンドルネームも知らないだろう。

彼が不機嫌なのは、私が彼の好きな私ではないから。
私に「俺の好きなお前であれ」と要求し続けている。
さもないと嫌い。
さもないと優しく出来ない。
と、そういうこと。

知り合いのいない田舎に引っ越してきてから数年間、子どもも小さかった事もあり、私は自営の仕事は続けていたものの、ほとんど人付き合いのない引きこもりのような生活をしていた。
人に会わず気を使わないでいられるのは、本来内向的な私の性格からすると快適でとても楽。
テレビと本さえあれば特に困らない。
着物を縫ったり、編み物したり、子どもに手作りおもちゃも沢山作った。
そして夫が帰ってきたら、夫の仕事の話を聞き、テレビの情報や幼稚園であったことなど話して長い夕食をとるのが常だった。
一人の友人もおらず、一日中誰とも口をきかなくても平気な私に彼はよく言ってたものだ。
「もっと外に出たほうがいい。
 苦手だと避けずに、いろんな人と接して世界を広げるべきだ」と。

なのに今、学校PTA役員や自治会役員をし、多くの人と接し、お世話をする私に「やりすぎだ」と言う。
「そこまでやることはないだろう。のめりこみ過ぎだ」と。
役員としての仕事なのだから、引き受けたからはと、責任を果たしているだけなのだが。

「受けるからだ。断れよ」と言われたって、何も望んでやってるわけじゃない。
アミダくじで当たったり、持ち回りだったり、一度はやらなければならないと決まっていたりするだけで。
それを「断れ」なんて無茶だ。
なのにええカッコしい?
自分の力を見せ付けるために利用しているだと?
なんだそれ? アホか。
やる時は精一杯を尽くすから頼まれ事も増えるけれど、それも含めての役じゃないか。

子どもが通う学校、家族が住んでる町をどうして「関係ない」と言えるのか。
外には適当にやってるふりだけする人間が、家庭の中ではしっかり向き合うなんて事できるわけないじゃないか。
少なくとも、私はそこまで器用じゃない。

他の人はそうしている?
何処の誰だよ。連れてきてみろよ。その人のことどれだけ知っているの?何をやって、何をやらなかったか言ってみろ。その人の家庭の中まで詳しいのか?その人の旦那は何と言っている?子どもはどう感じてる?周囲はどう評価してる?絶対的正しさの基準って何だ?
そんなに他の「普通の人」がいいのなら、その「普通の人」と結婚すれば良かったんだ。

「もっと家の中を大事にしろ。もっと子ども達を見てやれ。子どもが嫌がっているのがわからんのか。子ども達が寂しがっているじゃないか」
だと?
ベタベタと傍について見守り手をかけ口を出されないと何も出来ない子なんていやしないんだよ。
子どもをダシにすんな。


困っている人がいたら相手が誰でも手助けするのが当たり前だった人。
全体を考えて自分の役目に徹する視野の広い人。
朗らかでおおらかで落ち着いて優しかった「あの人」はどこへ行ってしまったのか。
「こんな人」とは思わなかった。
以前から本性はこうで、私には見えなかっただけなのか。
それとも、彼は変わってしまったのか。

そんな考えが頭をよぎったが、彼とまったく同じ事をしてると気付いて笑ってしまった。
目の前の「この人」に、自分の作った「あの人」の像を重ねて責めてちゃいけないね。
「過去のあの人」「あの状態でのあの人」なんて何処にもいない。
人は日々生まれ変わっていて、例えば今の自分だって昨日の自分とは違うのだから。
今がすべてで、「この人」も今見えるこの姿、この動きで全部そのまま。
自分がそうであるように。

本当の私とは、ここにいる私以外有り得ない。
それはわかって欲しいと思う。好きになれとは言わないが。
わからないなら、わからない彼が本当の彼ということで、それも仕方ないけどね。


2007年12月06日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:13

女の価値

夫はまだ私が不倫をしていると疑っている。
それは彼の中では“確信”なのだと。
しかも相手は一人ではなく、怪しい人は数人いるらしい。
はぁっ?、だ。

「誰よ。もしかして○○さん? □□□さん? △△さん?」
名前を挙げてみたが「うん、そうかもしれん」としか言わない。
「そうかもしれん」とはどういう事?
はっきりしない。
それはそうだ。
証拠などどこにもないのだから。
いや、事実がないのだから証拠の出ようがない。
それで疑われたんじゃ、たまったもんじゃない。

若い彼の事も、誤解ではなく実際にあった事にされている。
「見ていればわかる」のだと。
何を見たのか。何がわかったのだか。
証拠は?
今は近づいてこないのが証拠だと言う。(酷いこと言ったのは誰だよ)
自治会長に注意されたのも証拠。(私がお願いしたからね)
私が庇うのも証拠。(だって彼は何も悪くない)
私が夫より彼を頼りにしたのが証拠。(車の不調をプロに相談しただけ)
遊びに行ったのが証拠。(子ども達も一緒にだよ)
メールをしたのが証拠。(娘に返事を書かせてたし、全部見られて平気)
ブログを読んだのが証拠。(「関係ない人のブログをなぜ読む?」と言われてもねぇ)

バッカじゃないの?

「本当に何かあるんなら話題にするわけないじゃない。
 絶対に気付かせないように隠しきるに決まってるでしょ」と言うと、
「だから、その逆に考えてわざと話すんじゃないか。お前ならそうする」だと。

バッカじゃないの?

彼はこうも言う。
「男にとって女は女なんだから、そういう目で見られるってことだ。
 おばさんだろうが美人じゃなかろうが(ヒド…)、男にとってはそういう対象だ」と。
それはそうだ。
「うん、わかってるよ。女は女ってだけで価値があるってことはね」
「だから!!」
「だから、私はそんな振る舞いはしていません!」キッパリ言い切ったが、
「そうかぁ・・・?」と探るような彼の嫌な目ときたら。

バッカじゃないの?

「じゃあ、聞くけど」と問いかけたのは「なぜ“今”?」ということ。
「ねえ、私は45のどこから見ても立派なおばさんなんだよ。
 20代の頃、30代の頃、あなたはそんな事言わなかったでしょ。
 それなのに、何で今になって?」
これには夫も返事ができなかった。
グッと言葉につまって「そういえば・・・そうだな・・・」と首をひねっていた。

そう。
本当は、私がどうであるからとか、何かをしたから感情を害しているのではないのだ。
ただ「面白くない」。
その責任を他人に押し付けてるだけ。
理由は後付け。
妄想で作り上げたものを認められるのを恐れていながら、意地でも否定されたくない。
どっちにしても許せない。
そんなのどうしてあげようもないでしょう。
一人で苦しみたいだけ苦しんでいなさいなってなっちゃうよね。

「お前がそうなら、俺も疑われることをやるが、妬くなよ」だってさ。
はいはい。どうぞご自由になさってくだい。
「私はあなたみたいに疑って騒ぐようなことはしませんよ。
 しっかり証拠固めをして、裁判かけて白黒はっきりさせます」
「それでいいのか?」とは?何言ってんだか。
「いいも悪いも、心が離れたらお終いでしょう。お願いしたら戻るの?
 あなたは殴れば私の心を取り戻せると思ってたの?
 嫌になったらお終いです」

それでも彼は私を浮気性だと疑ってるし、自分も浮気を疑わせることをするそうだし、また殴るだろうとも言っている。

この「お前を見ていればわかる」と言う人は、いったい私のどこを見てるんだろうね。

バッカだね!

そんな旦那を持ってる私も、ね。

2007年12月06日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

しこりと諍い

先週の週末に夫の旧友が東京から遊びに来ていた。
結婚してから年に1、2回は泊まりに来ている、気心の知れた人だ。
今年も夏以来二回目だが、今回はちょっと家庭の雰囲気が違うのに気付いた事だろう。
日曜の夜、飲みすぎていたこともあって、ついに夫婦喧嘩勃発。
雲行きが怪しくなったところで友人は察知して部屋に退散したが、大きな声は聞こえていたと思う。
3時半ぐらいまで騒いでいたから眠れなかったんじゃないかな。ご近所も。

ずっと仲良しで、毎日毎日飽きもせず何でも話し合っていた会話の多い夫婦だったが、この所あまり口をきかない。
言い合いも多い。

翌日、息子達が私に言う。
「話し合いになってないよ。お父さん、ぜんぜんお母さんに勝ててないもん。
 わけのわからないことばかり言ってムカつかせてるだけじゃん。
 ああいう時、俺たちを呼んでくれていいよ。どうせ暇してるんだから」
暇なら早く寝なさい!と言いたいところだけれど眠れないよね。
一応「今、あんた達がお父さんに歯向かうのは得策じゃないから、お兄ちゃんの進路がはっきりしてから頼むかもね」と答えたものの、連合軍を組んで追い込めたんじゃ夫の立場がないだろうから、それはしないだろう。

夫は私と真っ向勝負するつもりもないのに、私を変えようとちょっかいをかけてくる。
あら捜しをして、そこをつつくという方法で。
全部こじつけだからひっくり返すのは簡単。
ただ、下手にプライドを傷つけないようにの力加減がやっかいだけど。
私もエゴが強いから、たまにはグサリとやりたくなるんだよね。
こんな状態はしばらく続きそう。

面白くなってきた、と思うのは不謹慎かな。
私も相当「ドラマチック好き」だ。

2007年12月06日 私と私につながるものたち トラックバック:0 コメント:0

夫婦って、家庭って

夫婦とは何だろう?
家庭とは何だろう?
最近よく考える。

人は家族の中で育ち、大人になれば気に入った男女が結婚して、新たな家庭を築き、また子どもを育てる。
いろんな形はあるだろうけども、それが当たり前の普通で、普通にいれば、普通であるのはそれほど難しくはないと思っていたのだが。。。

お向かいの奥さんが家を出て行ってしまった。
自ら名乗りをあげて引き受けたはずの子ども会会長の役も放り出して。
参観日に学校で会うと「もう帰らない。子ども会もやめる」と言う。
一人残された旦那さんは「まだわからない。
 会費は払うから、子どもを会の行事に参加させて欲しい」と言っているらしい。
いろいろあるのだろうけれど、脆いものだ。
二人ともが複雑な事情で親の縁に薄く、だからこそ「子どものために」「子どもにだけは」とよく口にされ、実際そうしていたようだったのだが、結局は似たような事になってしまうのか。

もうすぐクリスマス、お正月と家族で過ごすことが多い時期。
夫婦って何だろう?
家族って何だろう?
当たり前の普通って何だろう?
答えは出ない、答えはないとわかっていても、考えてしまう。

2007年12月06日 体感・心感の日々 トラックバック:0 コメント:0

負け犬の癖

武禅に向かう直前、私は前2回の後に写真と共にいただいた先生からのアドバイスを読み返していた。
1回目についての一番最初に書いてあった言葉はこうだ。
「面白いですね。出来たら否定する、自分のイメージ外、あるいは概念外でうまくいけば否定するという性分。」
これが私にはよくわからなかった。
やって上手くいったら、それが何故なのか、上手くいかなかったときとどこが違うのかを明確にしなければ、偶然によって出来る出来ないが左右されるだけで実力にはならないとしての検証のつもりだったから。
「こうすれば、こうなる」
その確信が欲しかった。
だが、ここには大きな間違いが何重にも潜んでいたのだ。

まず、相手との関係を無視していること。
相手はいつでも誰でも同じだと思っている。
だから関係も同じものとして、同じように働きかければ、まったく同じ反応が返ってきて当然と考えてしまっていた。
「あなたに」の「あなた」を規格品で大量生産された製品であるかのようにしか見ていないということ。

そして、上手くいったら、それをそのままコピーすれば通用するとの誤解。
関係とは、その時、その一回限りにしか存在していないのだとわかっていない。
「前がこうだったからその通りにしたのに、今は上手くいかなかった」
当然だ。
前は前、今は今なのだから。

いつでも誰にでもどんな状態でも決まったとおりに人を動かせる「テクニック」。
そんなものを私はまだ求めているらしい。

そして、無意識に繰り返していた酷い癖も今回、明らかになった。

S教授に教えてもらいながら、人に触れ、感じ、気持ちを寄り添わすことによって身体への働きかけを体感できた私だったが、次の瞬間に表現したのは、「できた!」という喜びではなく、「そんなはずは・・・」という戸惑いと抵抗だった。
大きな身体が軽々動いて、「ほら、できた」とニコヤカな彼に私は「本当ですか?力入れてくれたんじゃないですか?」とやってしまい、S教授に「違うよ。僕が一人で身体を起こそうとしても、重くてできないんだから。ほら、これ、ンショ、ンショ、ね。今、君は本当にできたんだよ」と、一所懸命に説明をさせることになってしまった。
それでも私は納得がいかず「でも、一人で起き上がれなくても、少し力を添えられてるからできたってこともあるんじゃ・・・・」と尚もしつこくからんいて、見かねた日野先生に、「なぜ?おかしいで」と注意を受けたのだ。

「出来たと言われているのに、なぜ否定する? 出来るようになりたいんやろ。やって出来たんやろ。それでええやん。なんで出来んように出来んように自分でする? ほんまは出来るようになりたくないんや」

自分が何をやっていたのか、その時初めて気がついた。
これが根深い私の癖なのだと。

繰り返していたんだ。そうと知らずに。
自分を否定して、何を得ようとしていたのか。
変化を恐れるがあまり、何をやってもダメな自分でい続けるのを許されたがっていたとは、なんという甘ったれ。
これこそが劣等感の元なのか。
「あなたは出来る人で、私は出来ない人。差は歴然。どうしても乗り越えられない。だから、私は可哀想がられなければならない。ハンデがあるのだから大目に見られて当然。優遇されて当然。そうしてくれないのなら、あなたは悪い人」
そんな反吐が出そうなくらい大っ嫌いな被害者意識とはとっくに別れたと思っていたのに、まだまだこんなにも親しくオトモダチしてたとは。
そして私が差別主義者であり続けてしまう理由も多分そこに。

「負け犬の顔」とは、ズバリ的を射てる。
痛い、痛い。
だけど、気付けば直せる。
実生活で丁寧に観ていこう。

2007年12月02日 日野先生と武禅 トラックバック:0 コメント:0