ぽあん歩庵

無邪気

第77回武禅一の行特別行会のアドバイスが、写真とレポートと共に送付されてきた。
日野先生によるA4の紙にびっちりのアドバイス。
これを武禅の度、一人一人、その人だけに向けた言葉で書いてくださる。
とりわけ今回は過去最高の18人。
武道塾・身体塾の教室を持ち、高校ラグビー部の指導もし、いろんな取材も受け、学園祭・クリスマス等々のドラムのステージをこなし、ラジオ出演もし、雑誌にエッセーを書き、いろんな人から招待された観劇をし、ドラムソロコンサートの準備・宣伝ともちろん練習もとことん打ち込んでという超ハードスケジュールの中、その時間はあるのだろうかと思っていたが、ちゃんと届いた。
真剣向かい合いの為に武禅に参加した人に対して、最後まで丁寧に誠意を持って関わってくださる姿勢には、ただただ頭が下がるばかりだ。

その内容については、やはり今回も厳しいものだった。むしろ回を重ねるごとに厳しさは増すような。
的確すぎてグッサリと突き刺さって痛い痛い。悶死もの。
だが、日常では決してされることのないそういった指摘こそが大切なのだ。

普段私たちは、普通に人と接して普通に会話をし、普通に通じ合っていると思っている。
一つ一つの言葉の意味が本当に届いているかをあまり検証しないまま。
なんとなくそれらしい体裁の言葉を「そうだね、うんうん、わかるわかる」ととりあえず受けとめ、「それってこういうことだよね」と返ってきたものに対してまた、「そうそう」と流すのを摩擦のない円滑な会話としているが、本当に同じものを共有できているかといえば、甚だ怪しい。
相手を知りたい、自分をわかって欲しいという思いのぶつかり合いなしに関係が深まるはずもないのだが、徹底的に突っ込むという、重く疲れることをつい我々は避けがちだ。
それに慣れているから、自分の発する言葉の意味を本当に自分がわかった上で他人に伝える物として使っているのかどうかも考えもしていない。
そこを先生は突いてこられる。
「分かりません」「混乱するばかりです」と。

そしてその他人との向かい合いの姿勢は他のすべてのことに対しても反映されてしまっている。
上手くこなす事をいつの間にか目的としてしまうのだ。何をやっているのかを忘れて。
私は他人と向かい合いたいのではないのか?関係を結びたいのではないのか?
それなのに、何をどうすればそうなるのか、ばかりに囚われて全然違うことをしてしまう。
何をやっているんだ?私は。

そんな私へ先生から一つ目標をいただいた。
「無邪気」
ここを目指すようにと。
赤ちゃんのように。

ものすごく頑張って努力しないと成れないようなものではなく、むしろその反対の、何も持っていない、何も知らない、何もできない素のまんま。
そういえば、先生は雑談の中でも「見抜かれるのが怖いと言うけれど、作っても他人には違和感としてわかってしまうのだから、そのまんまをさらけ出せばええやんか」という話もされていた。
無邪気、無邪気か・・・。
何をどうすればの「はかりごと」を取っ払ったら、どれほど清々しく気持ち良い毎日となるだろう。
赤ちゃんは何がしたいか間違えるなんてないのだから。
そこを目指す。必ずなる。

2008年01月04日 日野先生と武禅 トラックバック:1 コメント:0












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2008年01月06日 ?????